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ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

飛田雄一の個人的なブログ、オカリナ、登山、自転車のことなどを書こうかな・・・

コロナ自粛エッセイ(その四)  極私的 南京への旅・ツアコンの記

2020-08-23 09:48:16 | コロナ自粛エッセイ
飛田雄一
飛田雄一
コロナ自粛エッセイ(その四) 
極私的 南京への旅・ツアコンの記

●一

 関空にメンバーが集まった。これからの旅への期待とともに、緊張した雰囲気もただよっている。自己紹介、団長のあいさつ、オリエンテーションなどなど。それなりに打ち解けてくる。そのとき、ツアコンは気づいた。自分のパスポートがない。忘れてきたのだ。今から、家に取りに帰るわけにもいかない。連れ合いにタクシーで持ってきてもらうとしても間に合いそうにない。どうしよう、万事休す、ああ。
 汗をいっぱいかいて、眼がさめた。夢だ。旅の最初のころ、複数回、こんな夢をみた。

●二

 神戸・南京、だいぶ遠いし、どんな関係があるんだ?
 この会は「神戸・南京をむすぶ会」(以降、むすぶ会)。中国名は「神戸南京心連心会」、林美智子さんの命名だ。スタートは一九九七年二月のことだ。
 一九九五年、阪神淡路大震災の年の秋、林伯耀さんと松岡環さんが訪ねてこられた。神戸で、ニューヨークの中国人画家の描いた南京大虐殺の絵の展覧会ができないだろうかという相談だった。私は、もともとはコリア派、それまで中国にあまり縁がなかった。でも、やることになった。
 中国人画家の絵もよかったが、丸木位里・俊夫妻の「南京大虐殺の図」もいっしょに展示することになった。幅八メートル、高さ四メートル、学生センターでの展示は無理だ(当たり前か)。会場は、神戸市立王子ギャラリーに決まった。
 実行委員会ができた。委員長は山口一郎さん、副委員長は、林同春さんと佐治孝典さん。私は事務局長だった。中国人画家の絵もけっこう大きなもので、天井の高い王子ギャラリーでも見栄えのする立派な展覧会となった。このギャラリー、現在は神戸文学館、建築時は関西学院大学のチャペルだった。
 最初から脱線するが、神戸文学館の館長には歴代、神戸新聞のOBがなる。知り合いが館長のときによく行った。話のなかで竹中郁さんの話になった。神戸では有名な(失礼しました)詩人だ。連れ合いが、竹中郁が自画像を描いたぐい飲みを持っているという話になった。文学館にほしいとのことでさしあげた。連れ合いが一九七〇年代、神戸市民同友会主催で河上民雄、竹中郁、君本昌久の何かの記念会で受付を手伝っていて、乾杯用?の一合升に描いてもらったという。一時、文学館にその由来とともに展示されていた。いまも、あるかな?

●三

 南京展覧会は私の企画するイベントとしては規模が大きいもので、費用もかかった。そこは、副委員長の林同春さん、実業人だ。「飛田君〇○銀行の△△さんにお願いしているから広告をもらってきて」という。行った。OKだった。一銀行五〇万円だったように記憶する。びっくりしたが、よかった。
 展覧会は、成功裏に終わった。運営のために集まったボランティアは、高校生も含めて一〇〇名。二〇~三〇名ほどで打ち上げ会をした。その会が盛り上がった。そして、現地南京に行くことになった。
 林同春さんは、二回、南京ツアーに参加されたが、一度はお孫さんといっしょだった。飛田が提案した「中国人被害者支援基金(仮称)」のアイデアに感心してくれたこともある。そのアイデア、日本で一〇〇〇万円の基金を集める、それを中国の銀行に預けて利息分を被害者に支給する。二〇年後?、日本で基金を拠出した人にその時のレートによって返金する。中国が発展して元本が増えていたらそれでいいし、減っていたら仕方なしとする。林さんは「いいね。飛田君、お金のこともわかるのね」と賛同してくれた。が、その後、中国の五~八%という利息が普通の利息になり、中国で預金するメリットがなくなり、基金構想は幻に終わった。私もたくさんだす予定だったのに‥‥。
 この絵画展のボランティアの南京訪問団として、「神戸・南京をむすぶ会」が作られた。展覧会は一九九六年のゴールデンウイークの時期、会の結成は翌年(一九九七年)の二月だ。そしてその夏に訪問することが決まった。一度だけの南京訪問のためだけの会のはずだったが、その旅は最初から面白かった。そして、ずるずるときてしまった。なんと、二〇一九年の訪中で二三回目だ。
 初回の一九九七年、二八名が参加した。南京では八月一五日、「侵華日軍南京大遇難同胞紀念館」(中国では「」「紀念館」という漢字を使う)での追悼式に参加した。またこの年が南京大虐殺(一九三七年)六〇周年ということで、国際シンポジウムも開かれその一部ものぞかせていただいた。私たちの南京での一番の目的は虐殺現場を訪ねるフィールドワークだ。揚子江をのぞむ景勝地の燕子磯(えんしき)にも虐殺記念碑があった。すぐ横を揚子江がながれている。六〇年前のできごとに思いをはせる。対岸までかなりの距離だ、さすが大河だ、と思ったらそれは中洲だった。
 第一回目の南京での苦い思い出、それは中山陵(孫文さんのお墓)でのこと。最年長のTさんのことだ。Tさんは戦前に日本軍の一員として南京に行っている。彼はクリスチャンで、虐殺事件の三、四年後、軍服を着たまま教会を訪ねたという。最初はびっくりされたが、迎えいれてくださったという。
 中山陵についた。さあ行こうとバスを降りた。運転手もいっしょだった。が、Tさんはそのとき居眠りしていたのである。私たちはそのことに、バスにもどるまで気が付かなかったのだ。真夏の晴天の日、運転手が木陰にバスを駐車させてなかったらどうなっていただろうと、冷や汗を流した。
 もうひとつ冷や汗があった。私は中国では事務局長ではなく秘書長(中国語で事務局長はカッコよくないとのこと)でツアコンだ。ツアコンがホテルで財布をなくした。それなりのお金に運転免許証、キャッシュカードも入っている。フィールドワークの時間となって、仕方なく出発した。いろいろ考えると気が気でない。ツアコンとしては、自分のことで団に迷惑をかけられない。不安なままフィールドワークを終えて、夕方ホテルにもどった。もう一度さがした。あった。ロビーのソファーにそのままあった。私の財布は韓国でもらった真っ黒な皮のナツメうなぎのもの。ソファーがまた真っ黒、ロビーの隅で暗かったのだ。うれしかった。不安な一日のフィールドワーク、飛田が何かおかしいと気づいたメンバーはいたかな?

●四

 南京ののち、バスでもう一つの訪問地・淮南(わいなん)に向かった。もちろんみんなはじめてだ。当時、道路もあまり整備されていなかった。建設中の高速道路でも料金をとられた。なんだこれはと思ったが、建設費用との説明をうけた。仕方ないか‥‥。八時間かかった。
 淮南は、パールバック『大地』の舞台だ。バッタの大群にはでくわさなかったが、雄大な景色に圧倒された。地平線までひろがる大豆畑をみて、みんな感動した。日本では絶対みることのできない景色だ。私たちがずっとそれをながめていると、ガイドは、なにがそんなにいいのだという風に、私たちを見ていた。
 淮南は、炭鉱の町でもある。日本軍が侵攻し中国人に重労働をさせた。「万人坑」といわれる墓地も残されている。南京への帰路は、合肥にでてから飛行機だった。なにしろ中国は広い。
 帰国後、報告集会を開いた。その時にまた盛り上がってしまった。来年も行こう、そしてまた行くことになった。

●五

 初めての南京、現地ガイドが戴國偉さんだった。その時は、現地ガイドとして雇われただけだったのだが、その後、戴さんとむすぶ会は切っても切れない関係になった。私たちの旅は、その後ずっと戴さんが現地ガイドをしてくれたから続いたともいえる。
 最近の五、六年は南京の現地ガイドにとどまらず、南京ともう一か所(このもう一か所に人気があって継続している)の事前調査と現地案内もしてくださっている。仕事で日本にくるときには、神戸も訪ねてくれるのである。日本の歴史研究者あるいは裁判準備のための弁護士が訪中するときには、その事前調査・現地案内も引き受けている。
 二〇〇一年、南京・杭州への旅でのことだ。杭州は、南京大虐殺につながる日本軍の上陸地点としてしられている。本多勝一の本でのその場所の写真がでているし、私たちはそこに行きたいと思った。ガイドは戴國偉さんだった。彼は事前調査をしていたが、その場所が特定できていなかった。戴さんは、オートバイタクシー(あるのです)に乗って、私たちのバスを、道ゆく人々にたずねながら先導した。そして、たどりついた。バスの中で大きな感動の拍手が起こった。楽しい思い出だ。
 戴さんからおじさんが日本軍の犠牲になっていたことも数年後に聞いた。また、文化大革命の時期に大変な目にあったことも最近聞いた。私たちにはまだまだ知らないことがたくさんあることを知らされるのである。

●六

 初代団長は、佐藤加恵さん、以前神戸YWCAでも働かれていた。その後福岡YWCAに転勤されたが、そこで丸木さん夫妻の南京大虐殺の図の展覧会をされた。経験者が神戸にいるということを聞いて、展覧会実行委員会に参加していただき、第一回の訪中団の団長も引き受けていただいた。一〇回(二〇〇七年)まで団長をしてくださった(二〇〇四年は徳富幹生さん)。その後、門永秀次さん、そして第一三回(二〇〇九年)から宮内陽子さんに引き継がれている。
 ハプニング、トラブル、いろいろあったフィールドワークだったが、最初のころに印象的だったこと、印象的というよりやはり南京というのは大虐殺の土地だったということを実感したことがある。
 それは、南京記念館の庭でのことだ。最初の一九九七年、中庭の犠牲者の名前が刻まれたモニュメントをすぎて、遺骨陳列館までの道、私たちはそこを普通に歩いていた。二年目(一九九八年)、そこにテントが張られている。聞くと、記念館拡張工事中に遺骨がでてきたという。発掘作業が始まっていた。記念館の場所はもともと沼地で埋葬地であったと聞いていたが、拡張工事で地面を掘りおこすと、実際に遺骨がでてきたのだ。
 遺骨には、番号がつけられている。明らかには母と子という遺骨もある。私たちは、その遺骨が発見された場所を、何もしらずに、前年に歩いていたのだ。知らなかったとはいえ、大きなショックだった。三回目のとき、そこは、遺骨陳列館となっていた。

●七

 私たちの旅が新聞に取り上げられたこともあった。二〇〇六年一二月、朝日新聞にむすぶ会の南京ツアーの記事が掲載された。
 その記事を読んで電話をしてくださったのが松江の上田政子さんだ。日赤の従軍看護婦として、一九四四年、南京へ行ったという。記事を見て興味をもった、来年いっしょに南京に行きたいという。そして、二〇〇七年八月、ごいっしょした。
 上田さんのお話のひとつは、南京赴任後すぐのハイキング。野外で弁当を食べたときのこと、あたりの土を触っていたら人の骨がでてきたという。南京で大きな事件があったことはうすうす聞いていたので、これはその事件の関係の人骨ではないかと思った。その後、長い間、この人骨をみたということは誰にも話さずにきたという。その場所を確かめたいとのことだ。
 現地ガイドの戴國偉さんの事前調査では、それは中華門か光華門ではないかとのこと。この二か所を回った。もちろん六〇年以上経過しており、そのお弁当を広げた場所をみつけることはできなかったが、上田さんとそのあたりを歩いた。
 もう一か所、上田さんは当時勤務した陸軍病院にも行きたいという。中国の公共施設は特別の許可がないと入れないところも多い。現在は東西大学の病院となっている。戴さんが八方手をつくしてくださり、内部を見学することができた。当時の建物がそのまま残っており、上田さんは記憶をたどりながら見学した。そして私たちに当時の話もしてくださった。
 その上田さんが南京訪問のことを「山陰中央新報」(二〇〇七年一二月一二日)に書いた。すると、父がその陸軍病院で亡くなったという方から上田さんに連絡が入った。その方が、父のことを日赤に問い合わせると上田さんを紹介されたという。翌二〇〇八年、その方も南京に同行した。
 上田さんは戦後ハンセン病療養所で働かれ『生かされる日々―らいを病む人びとと共に』(二〇〇九年四月、皓星社)も出されている。そして、長島愛生園の「青い鳥楽団の母」としてもしられている。上田さんが南京記念館で当時のことを語った講演は映像に残されている。撮影・編集は、湯本雅典さん、東京の小学校教師で映像製作に明るい。家業を継ぐために退職し、そのご沖縄、東日本大震災などをテーマにドキュメンタリー作品をつくっている。
 上田さんの南京での講演で、私に強烈な印象を与えたのが戦争末期の日本軍の上官の言動だ。上田さんら看護婦にその上官は、そのうち?戦争に負けて女性は中国人に強姦されることになるのだからと、強姦しようとしたというのである。上田さんは、針でその上官の眼をさして阻止したというのだ。なんということか‥‥。
 その二〇〇七年の旅では武漢も訪問している。そこで武漢気象台が一九三八年五月から四三年一一月までの「気象月表」がなくて困っている、日本で入手してほしいと依頼を受けた。帰国後、日本の気象庁に「行政文書開示請求書」を提出し、その資料を入手することができた。武漢気象台にそれを送ると大変喜ばれた。

●八

 フィールドワークの参加者は多士済々、そのなかのひとりが久保恵三郎さんだ。キリスト教の牧師で、俳優でもある。東映の「二等兵物語」に出演したというが、私はその映画はみたことがない。阪神淡路大震災の年(一九九五年)の夏、久保さんのところに南京から映画出演の依頼がきた。そして撮影に参加した。映画「南京1937」だ。役柄は、松井石根、軍部の制止を振り切って?南京攻略を主張して実行した南京大虐殺の最高責任者だ。戦後、東京の戦犯法廷で、有罪/絞首刑となった人物である。
 その映画が私たちの最初の訪中時(一九九七年八月)に完成した。久保さんはその完成を記念して招待されていた。フィールドワークのバスの中では、いろんなメンバーのいろんな話を聞くが、そこに久保さんの撮影秘話もあった。集団虐殺の場面では人民軍兵士一万名を動員し、大きな窪地でロケが行われた。久保さん扮する松井大将が機関銃射撃開始の合図をだした。その撮影現場での久保さんと映画監督との話だ。「よくこんな好都合なロケ現場ありましたね」という久保さんに、監督が、「この場所は虐殺の現場だったのです」と答えたという。場所は幕府山、私たちが毎年のように訪ねる草鞋峡記念碑の南に広がる山である。その現場近くで、その話を聞いた私たちは大変びっくりし、神妙な気持ちになった。
 その久保さんはその後も私たちの団に何回か参加された。メンバーの中では最高齢で、それなりの?トラブルもあった。上海の高級ホテルで下着のまま鍵をもたずに部屋をでてしまい、仕方なくフロントに行った。そこで事情を説明し、部屋にもどれたという。ツアコンの私はその現場にいなくてよかった。いたら、こんなおじさんしらなーーい、と言っていたかもしれない。
 映画「南京1937」は、すばらしい映画だ。日本でも上映したいと思った。版権、日本語字幕作成等の問題が残っていた。太っ腹?のむすぶ会は、その場で五〇万円の出資を申し出た。そして神戸での上映会も成功し、その出資金も無事回収した。全国的にも成功裏に上映会が行われた。関東で一か所、右翼が上映会を妨害し銀幕(これは死語?)を破るという事件があったのが残念だった。

●九

 二〇〇六年、南京・無錫・石家荘ツアーのとき若桑みどりさんが参加された。ジェンダー論でも著名な美術史学者だ。『戦争とジェンダー―戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』などの著書がある。夜ホテルで有志による「若桑講座」も何回か開かれた。私は、夜の秘書長室での接待外交のため?、参加できなかった。豪快な方で、ズバズバと歯に衣着せぬ発言も健在だった。
 ツアーのなかで、無錫の太湖見学の時間があった。歌手や琴奏者も同乗した観光船に乗った。若桑さんは不機嫌だった。こんなために来たんじゃないなどなど。ツアコンの私は、まあそうおっしゃらずに‥‥と平身低頭。飲み物を注文することになり、それぞれがいろんなものを注文した。
 若桑さん何になさいますか、とツアコン。「コカ・コーラ」。若桑さんの思想と結びつかない?注文品に、みんなあれーーとなった。私もなった。だが、みんなそのジェスチャーは控えめだった。
 ユニークな参加者のことを書くとこれもきりがないが、ほぼ常連の元高校教師、阪上史子さんもそのおひとりだ。阪上さんのスケッチが、報告書をいい雰囲気にしてくださった。二〇一四年の南京・無錫・上海ツアーのとき、杭州金山衛で阪上さんがスケッチしているとき、現地の男性が声をかけてきた。スケッチの話から、彼が地域の歴史を研究する学者で、雑誌も発行していることが分かった。スケッチブックから駒である。その事務所をみんなで訪問して交流した。いい機会をつくってくれたと感謝している。
 中国の若い人たちとも出会っている。二〇一五年、広州珠海でのフィールドワークのとき、熱心に調査している地元の高校生グループと会った。彼ら彼女らは、私たちが探していた日本軍関連の場所を、いっしょにバスに乗り込んで案内もしてくれた。話をしていると学校の先生が熱心な先生のようだ。日本軍の侵略の跡を生徒といっしょに調査しているのだ。戴さんに電話をしてもらった。お会いできなかったが、意気投合した。後日、なんと常徳(二〇一八年)でお会いすることができた。先生の出身が常徳で、ちょうど帰っておられたのである。
 また、石家荘(二〇〇六年)で、シンポジウムに参加していたとき、ある方が、むすぶ会のひとりが開いていた前年の報告集(南京・済南・青島、二〇〇五年)をのぞいていた。そこに写真とともに張樹楓さん(青島市社会科学院)の講演録があった。その張樹楓さんだった。みんな集まってきて、ワイワイとなった。あわてて、報告書を送っていなかったことをお詫びして、その報告書をさしあげた。こんなことがあるのかと、みんなでびっくりした。
 元中学校教師・湯本雅典さんはドキュメンタリー作家でもある。先の上田政子さんの南京での講演ビデオを作ってくれた方だ。何回かツアーに参加され、何本かの作品をつくってくれた。ビデオ映像が残るのはうれしい。南京記念館での、日本の教科書問題に関連しての中国の学生への突撃インタビューは、その映像とともに強烈である。
 ビデオ記録では、元町映画館で始まった池谷薫監督のドキュメンタリー塾の受講生・田中園子さんが参加し(二〇一八年、南京常徳)、その作品を報告集会で上映した。先生がいいのか、生徒がいいのか、なかなかの作品だった。
 ツアーには、「学生枠」での参加というのがある。参加費用が格段に安い。最初のころは無料、最近では五万円プラス保険代だ。大学の卒論で南京大虐殺をテーマで書くという学生がいたり、参加者にどんなおじさんおばさんがいるのだろうかと興味津々?で参加したという学生もいた。応募動機の作文をだすのが条件で、募集は二名だ。四名の応募があって仕方なく四名ともOKとした年もあった。連続の学生枠参加で、そののちは自費参加した殊勝な学生もいた。
 中国での出会いはまだまだ書くことがある。私には、二〇一八年常徳でお会いした若い弁護士・高峰さんが、強烈に印象に残っている。常徳での細菌戦調査の中心メンバーで、フィールドワークの案内もしてくださった。郊外に作った記念碑も、彼が中心になって地元の人々を説得して建設が実現したものだ。またお会いしたいと思っている。

●一〇

 むすぶ会のツアーでは幸いなことに大きな事故がなかった。あれば、即中止となっていたと思う。
 が、小さな事故はあった。そのなかで、ツアコンとしてもっとも緊張したのが、一九九九年、南京・太原・大同・北京コースだ。この年の南京はほんとに猛暑で、三五~四〇度、熱中症の心配ばかりしていた。そして太原に行った。そこには万愛花さんがいる。前年神戸で、日本軍から性暴力を受けて日本で裁判に訴えた万さんの証言集会を開いた。お話を聞いた以上は太原に行かなくてはと、太原ツアーとなった。
 南京から夜行列車で太原へ。太原からバスで黄土高原を走り万愛花さんの待つ進圭社村に向かった。道はガタガタ、バスはぬかるみにはまる。バスから降りて車体を軽くして押したりするが脱出できない。二時間ほど立往生した。トイレはない。しかたない。回りは一面のひまわり畑の、右ブッロクを女性、左ブロックを男性と決めてトイレタイムとなった。
 午後を少しまわって進圭社村につく。万愛花さんの出迎えを受け、そこで話を聞いた。
 当時、万さんは日本軍の陣地に連れ去られ暴行を受けた。死んだと思って捨てられた。が、翌日、村の人がまだ息のある万さんを発見したのである。ヤオトンと言われる斜面に洞穴のようにつくられた家でお話をきいた。
 またバスでデコボコ道を太原までもどり、翌日、バスに丸一日揺られて大同に行った。大同石窟で有名な大同、ここにも中国人労働者の強制労働があり、万人抗があった。フィールドワークののち巨大な石窟を見学していたら、雨が降りだした。気温は下がり一五度、南京との差はなんと二〇度、体がついていかない。体調不良者もでてきた。が、またしても夜行列車で、北京へと進んだ。
 北京では、私たちは到着後、盧溝橋記念館を見学し、夕食は旅の手配をしてくださった、中国国際友誼促進会主催の宴が開かれた。有名な北京ダックもでたが、団員のなかで食したのは、M1女史、鉄の胃袋をもつといわれたM2女史、それに私ぐらいだった。私は、促進会代表の「みなさんお疲れのようですからこのあたりでおひらきにしましょう」の言葉を聞いて、安心して気を失った?。二回の夜行列車、悪路のバス、進圭社村でおいしそうに実っていた生々しい棗(なつめ)を食べたことなど、あまりにもハードすぎたのである。
 促進会は、ずっとむすぶ会ツアーの手配でお世話になった。東北大学留学で日本文学に造詣の深い徐明岳さんに大変お世話になった。
 翌日は飛行機で帰国。が、夜中に四名が病院行きとなった。三名はホテルにもどってきたが、一名は入院となった。さて、困った。全員で帰国できるか‥‥。彼は点滴を打ってもらい、朝、ホテルにもどってきた。そして同じ飛行機に乗った。よかった。
 二三回の旅のなかで、このときほど多くのメンバーが旅行保険のお世話になったことはない。まあ、こんな時のための保険なので、保険会社の人にはたいへん手をわずらわせたが、まあいいだろう。

●一一

 けっきょく旅のトラブルの話が多くなってきたが、南京海南島の時(二〇一一年)にもあった。Iさんは、旅の前に兵庫県から大阪府に引っ越しした。そしてパスポートも新調した。パスポートは都道府県単位で発行されるのだ。(本当は、ではないらしい‥‥)
 常連のIさん、団体リストには古い兵庫県発行のパスポート番号が書いてあった。関空では問題がなかったのに、海南島に向かう南京空港で問題となった。チケット購入のために登録した番号とパスポートの番号が違うと‥‥。ふむ、しかたないと、飛行機会社のカウンターにチケット購入のために走った。時間がない、が、クレジットカードを忘れた。みなのところにもどってカードを持ち、再度、カウンターに向かおうとしたら、電話がかかってきた。海南島ホテルで待つ神戸華聯旅行社の金啓功さんが、インターネットでパスポート番号の変更をしてくれた。チケット購入は不要となった。ビジネスクラスしかなく、けっこう高額なチッケトを買う気持ちになっていたが、買わずに済んだ。よかった。これはツアコン飛田のミスから生じたことで、だれかを恨むことではない。でも、心労だけで実害はなかった。
 海南島は、温帯亜熱帯熱帯とバスで走り、日本侵略当時を知る方の貴重な証言を聞くことができた。私たちの通訳は海南島の方言が分からない。監視のためについて来た?警官に北京語に通訳してもらうという二重通訳もあった。
 神戸華聯旅行社の金さんには、海南島の飛行機手配をお願いし、南京・台湾(二〇一三年)のときにも全行程の飛行機等をセットしてもらった。私は、南京で合流して台湾へと考えていたが、在日中国人は、中国(大陸)から直接行けないとのことで、台湾台北空港での合流となった。在日中国人にこんなこともあるのかと思った。
 台湾では霧社事件の現場も訪問した。映画「セデックバレ」を観ていたので、絶対に行きたかったのだ。帰路は、台湾―上海―関空のコースだった。台湾から上海への飛行機が遅れた。人間はなんとかトランジット(乗り継ぎ)できたが、荷物がダメだった。二日後、自宅に宅急便でとどいた。ラクチンだった。

●一二

 むすぶ会のツアーの毎年の、南京に加えてのもう一か所、これがだんだんとエスカレートしてきた。香港(二〇一二年)へも行った。日本から出直した方が、飛行機代が安くなるのではという話もあったが、そうはいかない。南京から上海、そして上海から香港へ飛んだ。日本軍の香港侵略もすさまじい、現地で多くのことを学んだ。香港でも多くの中国人犠牲者を出している。
 雲南省(二〇一六年)は、ちょうど二〇回目のツアーだった。むすぶ会ツアーがこれで終わりではないかという噂がながれたのと、めったに行くことのできない雲南の戦跡ツアーであるとのことで、三〇名近くの参加者となった。
 メインのひとつが怒江にかかる恵通橋。日中の激戦の地で、日本軍が爆破した橋だ。バスではだめで、ジープでしか行けない。ツアコンの私は鬼となって、五名の選抜メンバーを決めた。行けなかったメンバーからだいぶ恨みをかった。私がその橋に行っていたら、無事に日本に帰ってこれなかったかもしれない‥‥

●一三

 旅の楽しみはなんといっても食事。これも書き出すと最後までいってしまいそうだ。
 初回の淮南のあとの合肥(一九九七年)は、豆腐が有名。朝昼晩、いろんな豆腐をいただいた。また最初のころ、冷えたビールを求めてさまよったこともあった。中国では日本のように冷やしたビールを飲まないようだ。最初のころ、夜中に有志が街の餃子屋さんに繰り出すことがよくあった。が、餃子屋さんはたくさんあっても冷えたビールがなかなかない。中国語を勉強しているメンバーががんばってその旨を伝えるがなかなか伝わらない。並べてもらったビールを触って、これはOKとかいうスタイルだった。その通訳は波戸雅幸さんの担当だった。波戸さんは「チンダピージャオ」と言っていたが、これでよかったのだろうか?
 これも初回だが、帰国の日、上海のバイキング料理店にいった。一メートル半ほどある丸い鉄板があり、客が好みの肉・野菜・調味料をもっていって焼いてもらうのだ。そのとき、小中高生が四、五人いたが、大人気だった。一メートルほどの二本の箸で手際よく炒めて、曲芸のようにお皿を回しながら盛って出してくれるのだ。私もそれが見たくて、何回も材料をもっていって焼いてもらった。飛行機にはちゃんと、間に合った。
 重慶(二〇〇二年)では、揚子江にクルーズ船での夕食会だった。三峡ダムができる前に行かなくてはと重慶に行ったときだ。景色のいいデッキで食事をしてから、階下の中国人乗客と交流しようと私たちは降りていった。佐藤団長を先頭に、いっしょに盆踊りもした。友好的で感動した。が、あとで聞くと当地の外事弁公室が船ごとチャータしたもので、乗客は公務員だったのである。まあいいか‥‥
 青島(二〇〇五年)ではやはりビールだ。工場にあるレストランで食事した。カンパイ!とやったあと、みんな、顔を見合わせた。うまいのである。これまで飲んだビールと違う。みんながそう思った。工場で飲んだ生ビールだったからか? その後、市内で何回かビールを飲んだが、その感動はなかった。
 南京ののち虎頭・虎林(二〇〇九年)に行ったときのこと。帰路、鶏林で地元の外事弁公室の招待で昼食会があった。最初のころは、日本から友好訪中団が来たというと、接待宴がよく開かれた。そんなとき日本では、通訳はほとんど食事をせずに通訳に徹するが、中国ではそうでないようだ。よく食べるのだ。それは、いいことだ。
 鶏林での昼食会、テーブルが大きかった。中央に大皿が並ぶのではない。そうするとテーブルが大きすぎて、手が届かない。表現がむつかしいが、回転ずしのような、ドーナツ型?のターンテーブルがあり、小皿がどんどん回ってくるのだ。人数は四〇名?、すごい。その後、そのような大テーブルをみたことがない。
 初回(一九九七年)、南京で歓迎宴があったとき、大阪のメンバーMさんが、七〇度の老酒でまさにひっくり帰った。朱成山館長(当時)は、ダンスが上手だった。残念ながら私たちのメンバーでお相手できる人はいなかった。カラオケでは少しがんばった。その後、中国では接待宴自粛となり、最近こういうことは、ない。残念だ。

●一四

 旅の後、毎回報告集を作っている。だんだんと分厚くなり、最近は一〇〇頁ほどのものになっている。参加者の感想文(いつも出さない常連がいる、Hさんあなたです)のほかに、かなり詳しい行程表、証言などを収めている。またフィールドワークノートも作っているが、これも年々分厚くなり、最近は一〇〇頁を越えることもある。
 報告書と別にメンバーによる個人の冊子が発行されることもある。私の高校の器械体操の先輩でもある成川順さんは、『南京事件フォト紀行』(二〇一一年一二月)を出版した。阪上史子さんは、二〇一一年の海南島訪問後、『大竹から戦争が見える―海南島と大竹と戦争―』を出し、それが広島の出版社の目にとまり、『大竹から戦争が見える (シリーズ広島地域近現代史)』(二〇一六年三月)が出版された。宮内陽子さんは、毎回詳細なレポートを「報告書」に書いているが、むすぶ会ツアーの総集編ともいえる『日中戦争への旅◎加害の歴史・被害の歴史-南京/海南島/香港/台湾/無錫・上海/広州/雲南/徐州・台児荘/岳陽・廠窖・常徳・長沙/桂林』(二〇一九年一二月、合同出版)を出版した。そして私は、いま、これを書いている‥‥

●一五

 南京での恒例行事のひとつに「孔子廟散策」がある。南京一の繁華街で、観光船が行き交い、夜店がたくさんでる。ここで、私たちはおみやげを買う。学校の教師は、生徒の数だけ小物を買う。雨花石が人気だ。このあたりの揚子江でとれるきれいな石で、安い屋台では両手いっぱい三〇〇円ほどで買うことができる。毎回、丁寧な工程表や証言録を作ってくれる小城智子さんは、生徒の数の絵ハガキを買い、旅行中にせっせとハガキを書いていた。私はアイスクリーム食べながらうろうろしているだけだが、白地の扇子を買った。旗のかわりに「神戸南京心連心会」と書いた扇子を、フィールドワークのときに使っている。傷むと新調して、いまは三代目だ。扇子の骨と白紙を別に売っているのもある。その白紙は書きやすいが、骨に入れるのに骨が折れるので、やめた‥‥
 筆もときどき買う。記念写真用の看板を書くのだ。看板は紙に書くので雨に弱い。最近は二枚書いてもって行くので、一回の雨なら問題はない。南京の記念館に求められて、その看板を一枚差し上げた。記念館に私の毫筆?が一枚保管されている(はずだ)。

●一六、

 私は、むすぶ会ツアーのおかげで中国各地を訪問できた。ツアーは、日本軍が侵略した足跡をたずねるのが目的だ。日本軍は海南島まで行っているのか、行こう、桂林までが行っているのか、行こうと、多くのところに行った。
 個人的には、朝鮮史に興味をもつものとして、中国にある関連史跡も訪ねることができたのが嬉しい。「三一独立運動」(一九一九年)のあと上海に作られた大韓民国臨時政府跡を訪ね、更に臨時政府があった杭州、南京、長沙、広州、重慶を訪問した。
 その臨時政府の金九が命じた事件、尹奉吉の上海・虹口公園での爆弾事件(一九三二年四月二九日)の現場も訪ねた。白川義則と河端貞次が死亡し、重光葵が重症を負った事件である。
 二〇〇四年は、上海・南京・大連・旅順のフィールドワークで、安重根が処刑された旅順監獄を訪ねた。看守も安重根を尊敬し、安はそこで何枚かの書をしたためている。安重根には特別の部屋が用意されていた。
 安が伊藤博文を射殺したハルビン駅にも行った(二〇〇〇年)。事前に友人からハルビン駅構内に銅像があったが、戦後撤去されたとの情報を得ていた。構内で探した。それらしい台座跡が残っていた。ここから伊藤を狙ったのかなどと想像をふくらませた。が、まちがいだった。その像、私は安重根だと思っていたが、伊藤博文だったのだ。友人は伊藤博文のつもりで話し、私は安重根のつもりで聞いていた。思い込みには、気をつけたい。なぜ安重根像が戦後撤去されたのかと思っていたが、伊藤博文像なら当たり前のことだ。ここでもひとしきり、反省した。

●一七

 二〇二〇年、二四回目の旅は、コロナでどうなるか? 実は、二〇〇三年のとき、SARSで訪中を中止して、代わりに二〇〇七年に例年の八月の訪問に加えて、一二月にリニューアルオープンした南京記念館を訪問した。したがって、二三年で二三回の訪中と計算が合っている。
 SARSのとき、「こんなときこそ訪中してくれないと」と中国の友人に言われたことを思い出した。宮内団長はひとりででも「八・一五」に南京へ行くと意気込んでいたが、ダメになった。そのかわり、一二月一三日の中国の国家記念追悼日に訪問したいと思うが、どうなるか分からない。
 七月の終わりに南京の記念館から、訪問のかわりにむすぶ会から五分間のビデオメッセージを送ってほしいと依頼があった。八月某日、学生センターに集まったメンバーはいつものように横幕のもと「祭」の団扇をもって、団長がスピーチした。
 その「祭団扇」、祭という言葉は日本でお祭りのイメージだが、中国では死者を弔うときにのみ使われる追悼の場にはふさわしい言葉とのこと。最初のころ、団扇にむすぶ会の名を入れたものを持参した。現地のテレビ局がその裏の「祭」ばかり映そうとした。後にその意味を知り納得した。以降私たちは南京に「祭団扇」を持参しているのだ。
 神戸から送った映像は、他の国の人々のメッセージとともに、南京記念館のホームページにアップされている。フェイスブックで動画を送ったが、それでは画像が荒い、もとのサイズの画像を記念館に送ってとのこと。中国・日本間のインターネット事情は少し複雑なことがある。ドロップボックスはダメだった。画像は五一〇MB、何とか○○便で送った。便利なもんだ。よかった。
 最初のころ、中国との事前打ち合わせは手紙、ときには国際電話、それがFAXとなって大感激した。そして今は、インターネットだ。手放しで喜んでいいのだろうか?


■あとがき

 コロナがなかなか収束しないので、コロナ自粛エッセイシリーズ「その四」を書いてしまった。
 「極私的」という言葉は、「その一」で書いたベ平連神戸の機関紙でときどき使われていた。それは、一九七四年の映画「極私的エロス・恋歌」(監督:原一男、音楽:加藤登紀子)の影響かもしれないが、今となっては分からない。でも、いいとしよう。「極」端に「私的」という意味は、もちろんない。わたしは極(ごく)・普通なのだ、と思っている。
 最初に書いたように、むすぶ会は、南京絵画展(一九九六年)から始まった。人は、新しいテーマに出会うと、それは思いもかけない方向に進んでいく。むすぶ会の場合は、旅に特化した面もあるが、「その三」の『極私的 「コリア・コリアンをめぐる市民運動」の記録』で書いたように、「神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会」(一九九八年一〇月)にもつながっている。そのきっかけは、むすぶ会主催の勉強会(講師・櫻井秀一、一九九八年三月)だった。
 私は、エッセイその一、二、三をだしてから、当分お休みです、と言った。が、もっと続編という意見もあったので‥‥、気をよくしてまた続編を書いた次第だ。
 二三回も旅をすると、けっこうごちゃごちゃとなってくる。四、五年前だと思っていたら一〇年以上前だったりしている。〇〇の翌年が△△だと思っていたら逆だったというのは茶飯事だ。今回、このエッセイを書いてほとんど?思い出した。旅を追体験することができた、楽しい作業だった。では、また続編をご期待ください?

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