hidamari_neco屋根裏ノォト-Ver.01

web日記 日替わりするは 気分だけ

一期一会

2005-03-12 00:11:00 | つぶやき:もろもろ
先日、ある方の訃報を聞いた。
その人とはたった2度しか会ったことがない。
だからもちろん痛みはない。悲しくもなければ辛くもない。
それだけでも、心の細胞のどっか一部が欠けてなくなった気がする。
完全にもうその人とは会うことができないのだな、ということだけで十分に寂しいのだ。

「あなたは偶然の産物ではない。存在があなたを必要としている。あなたがいないと、存在のなかで何かが失われ、他のだれにもあなたの代わりをつとめることはできない。」
といったのはラジニーシ和尚。
大好きな言葉のひとつだ。

別れなどというのは数えきれないほどしてきたし、その多くは自分の側から切り出してさえいる。
そんな別れ方であっても、その人が生きている限り、いつかまた再会できるかもしれない、という楽観的すぎる希望を私は実は常にどこかに持っている。
たいした根拠もなく、そのときはもしかしたら許しあえているのではないか、なんて信じているのだ。
そうやっていつもいつかいいことが起こると言い聞かせて生きているんだもんね。
でも、死んでしまったらそれはもう決定的に起こり得ないのだ。

また会えるし、という思いのウラには、次の時に埋め合わせをするから今は何をしてもいいや、という甘えもあったりする。今は今だけなのに。
ていねいに、大切に生きましょう。本当に。本当に。

おととい、急な縁で踊りを披露してきた。
昔のように珍しがられて、注目を集めるのがそれほど楽しくはなくなってきた。
それなりにできることが増え、ようやく自由に体が動くようになったのに皮肉であるともいえるけれど、もうあんなことをする時期は終わったのだ、とやっと納得できてきた頃、こうやって細々とチャンスがくるのが不思議であるとともに、ありがたい。

呼んでくれた人はそれこそ一生踊り続けていく人なのかと思っていたのに、「次はもうないかもしれないから」といって写真を撮っていたのがものすごく意外で、心にとまった。
ふと、彼女に会うのは今夜が最後かも、と思った。
そして、私にとっても、こんなふうにきっちり着付けをして踊るのは、ホントのホントに最後になるのかもしれないな、と感じた。

実は今、私の中でこまごまと何かが死んでいる。
例えばどんな、と言われると説明しがたくそれがもどかしい。
人にも目立ってわかるようなものではないからだ。
なにもカタチにならない過程のまま終わってしまうからかもしれない。
でも、確実に何かが終わったり、壊れたり、なくなったりするのに似た寂しさと爽快さと虚無感を同時に感じている。

終わりははじまり。
春は来ている。