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Nicomachusの園 Ⅲ

2007年度総合倫理の課題とコメント

第七回 宇多田ヒカルと竹内まりやにおける人生の意味について

2007-06-15 13:22:47 | Weblog
 今回は竹内まりやのニューシングル「人生の扉」と宇多田ヒカルの「Flavor Of Life」について取り上げてみたい。かつてカレッジポップスの女王としてデビューした竹内まりやもはや50歳になり、自分の人生を振り返るように作った曲がこの「人生の扉」である。


人生の扉  作詩・作曲 竹内まりや

  
春が来るたび ひとつ年を重ね
目に映る景色も 少しずつ変わるよ
陽気にはしゃいでいた 幼い日は遠く
きがつけば五十路を 超えた私がいる
信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったら
どんな小さな事も 覚えていたいと 心が言ったよ

 I say it's fun to be 20
You say it's great be 30
and they say it's lovely to be 40
but feel it's nice to be 50

満開の桜や 色づく山の紅葉を
この先いったい何度 みることになるだろう
ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ
ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ

<中略>


 I say it's sad to get weak
You say it's hard to get older
And they say that life has no meaning
But I still believe it's worth living
But I still believe it's worth living

(歌詞の全部はこちらから。映像はこちら

 
 もうひとつはテレビドラマ「花より男子2」の挿入歌として提供された宇多田ヒカルの曲「Flavor Of Life」(「人生の香り」と訳すべきだろうか?生活の香りではないだろう)である。



Flavor Of Life  

作詞・作曲 宇多田ヒカル


「ありがとう」 と君に言われると 何だか切ない
「さようなら」 のあとも解けぬ魔法 淡くほろ苦い
The Flavor Of Life The Flavor Of Life

友達でも恋人でもない中間地点で
収穫の日を夢見てる青いフルーツ
あと一歩が踏み出せないせいで
じれったいのなんのって baby

「ありがとう」 と君に言われると 何だか切ない
「さようなら」 のあとも解けぬ魔法 淡くほろ苦い
The Flavor Of Life The Flavor Of Life

甘いだけの誘い文句 味気のないトーク
そんなものには興味をそそらない
思い通りに行かない時だって
人生捨てたもんじゃないって

<中略>

忘れかけていた人の香りを 突然思い出す頃
降り積もる雪の白さを もっと素直に喜びたいよ

ダイアモンドよりもやわらかくて 温かな未来
手にしたいよ 限りある時間を 君と過ごしたい
「ありがとう」 と君に言われると 何だか切ない
「さようなら」 のあとも解けぬ魔法 淡くほろ苦い
The Flavor Of Life The Flavor Of Life

(歌詞の全部はこちら。PV動画は、こちらから)

この曲は、ドラマのストーリーを前提に作られたものだけれど、宇多田の「人生」に対する考え方が出ている歌詞だと思う。竹内がデビューしたのが宇多田の年齢くらいだと思うから、親子ほどの年齢差ということになる。同じ「人生」について歌った曲として比較してみたいと思った。竹内の曲は自然の流れのようにゆったりとして、音の強弱も抑えられた曲調だが、宇多田の曲(バラード・バージョン)はアップテンポとまではいかないが、高低の音域が広く音の強弱もはっきりしている。こういう対照的な曲であるが、まずはこの二つの曲を聴いて設問に答えてください。


(設問1)「人生の扉」の歌詞で「And they say that life has no meaning  But I still believe it's worth living」とある部分はどういう意味だと思うか。

(設問2)「Flavor Of Life」のタイトルは、なぜ「人生の香り(風味)」なのだと思うか。

(設問3)「人生の扉」の曲の「人生」の意味と「Flavor Of Life」の曲の「人生」の意味のちがいについて説明しなさい。


「負けないで」と愛の都市伝説についての解説

2007-06-15 11:15:27 | Weblog
 歌にリアリティがあるかないかというのは、必ずしも歌い手の実体験に基づいているとか、架空の物語ではないとかの条件によるわけではない。リアリティというのは、歌の世界や言葉がどれだけ真実に迫る表現を獲得したかによるのだと思う。だから、ZARDの実在感の希薄さがそのまま歌のリアリティと関係があるわけではない。

 たとえば、この「負けないで」という楽曲は、「わたし」(歌い手)が「あなた」(聴き手)に語りかける調子で進行するが、その言葉(フレーズ)はあまりにも陳腐すぎてリアリティを感じられない。「どんなに離れてても こころはそばにいるわ」という表現は、かりに作者が心を寄せる特定の男性に対する気持ちであったとしても、こういう風に相手の男性に語りかけるシチュエーションを想像することができない。

 つまりこれはモノローグの表現であって、だれか他者への語りかけを装って自分自身への語りかけになっているのだと思う。唯一リアリティを感じさせる部分は「今宵はわたくしと一緒におどりましょう」という相手の男性のセリフに当たる部分だ。なぜかこの部分だけは、モノローグ調の台詞回しから外れて、相手の言葉遣いがストレートに表現されている。このセリフが作者の体験にあるシーンなのかはわからない。あるいは、フィクションなのかもしれないが、作者のモノローグでないことは浮かび上がってくる部分だ。

 しかし、このモノローグ調こそZARDの歌の世界に聴き手を誘い込む秘密があるように思う。つまり、ZARDの歌は印象的なフレーズ、ここちよい言葉遣いに共感すれば、その歌の世界に感情移入しやすくできているのだ。それこそ、若い「女性ならだれもが思い当たる恋や人生への”揺れる想い”」を歌い手と共有できることが特徴なのである。

 ZARDの世界は、普通のどこにでもいる都会の女性、それもちょっと知的で上品なアッパーミドル(中流階級の上位層)の女性のメンタリティを体現しているように思う。ちょうど「負けないで」や「揺れる想い」がヒットした1993年は、バブル経済が崩壊して景気後退が色濃くなっていく時代である。このバブル崩壊以降の長く続くデフレ不況の90年代後半まで、バブル崩壊によってもっとも痛手を受けた中流階層を激励するかのようにZARDの歌はヒットチャートをかけぬけるのである。

 考えてみると、ZARDの登場したころ「J-POP」という呼び名が一般化した。(こうした呼び名がどこから始まったのかは不明。HMVやタワーレコードといった外資系CDショップの進出とも関係しているようだ)それまで、松任谷由実や井上陽水といった都会派のポップスは「ニューミュージック」と呼ばれていた。日本の大衆歌謡や演歌の衰退とともにJ-POPの呼び名が定着していく。それまで日本の大衆のエートス(情感や心情)を伝えてきた「歌謡曲」や「演歌」がもはや大衆のエートスを表現する主流とはなりえなくなったからである。

 それはちょうど、長期不況によって地方経済が疲弊し、地方の景観が変貌し、全国各地に郊外型の大型商業施設が作られ、地方の中心街が空洞化していくのと軌を一にしている。かつて「歌謡曲」や「演歌」がご当地ソングのような地名や地域性を織り込んだ歌をヒットさせてきたことには理由があった。それは、「中心」に対して「周辺」にあたるものに光をあてることで、中心から疎外され収奪されるものへの情感を大衆のエートスとしてすくい上げてきたのが大衆歌謡であり、演歌だったからだ。

 バブルとその崩壊は日本社会の「周辺」(辺境)を簒奪して消滅させたのではないか。いまの日本社会では都会と地方の文化的な生活的なエートスの落差というものが感じられない。(地方に行っても都会と変わらないコンビニがありファストフード店がある。都会と変わらない画一的な風景が広がっている。)

 J-POPには地名や地域性を示す言葉がほとんど使われない。(あっても都会の中の局所的な地名だ)それに「妻」や「母」といった家族的なものやその具体的な関係が歌われることもほとんどない。(コブクロの「蕾」は例外)都会のエートスを伝えるために「中心」に対する「周辺」は必要ないからだ。ZARDの楽曲はそういう意味でこのJ-POPの要素をすべて備えていると言うことができる。つまり、都会に住むアッパーミドルのエートスを表現し、その人たちが共有できる歌の世界を作り上げてきた。都会のエートスにとっては、共感できる歌の世界があればいいのであって、生身の身体の存在感は必要ないのかもしれない。リアル感が欠如する分、ZARDの歌の世界は聴き手の解釈やイメージにゆだねられる。聴き手がこうありたいと思うような恋や愛のイメージという期待にZARDの歌がこたえればいいのである。

 そういう意味から考えると、ZARD坂井泉水は存在しないという都市伝説はむしろ聴き手側の欲求が反映したものと言えなくもないのである。ZARDがほんとうに不在となってしまった今、新たな都市伝説はどこへ向かうのだろうか。



「Love Is Blind」 愛の現象学についての解説

2007-06-07 22:20:46 | Weblog
ジャニス・イアンは、1966年、わずか15歳のときに「Society's Child」(「社会の子供」)でデビューした。その内容は、黒人の少年と白人の少女の悲恋を歌ったもので、当時の人種差別問題にプロテストする内容が物議をかもした。さらに17歳で結婚するが、まもなく破局し、それを回想した「At Seventeen」(「17歳のころ」)はグラミー賞を受賞する。その翌年(1976年)にリリースされたアルバムに収録されたのが「Love Is Blind」である。

したがって、この曲で歌われている内容は17歳の若すぎる結婚の経験が背景となっているのではないかと思われる。そもそも「Love Is Blind」という慣用表現は、恋愛のまっただ中にいる者は相手の欠点も目に映らず、冷静に相手を客観視できない状態を意味している。しかし、ジャニスの歌は、ひとつの愛が終わり熱愛が冷めた今を歌ったものだ。「SINCE YOU WENT AWAY」(あなたが去ってしまってから)愛は悲しみだけ、明日もない、と歌う。それは「愛は盲目」だからというのだろうか。

愛が終わった今でも「I’VE BEEN BURNING SINCE THE DAY WE MET」(わたしたちが出会ったあの日から わたしは燃え続けている)というのだから、ジャニスの中では愛はまだ完全には終わっていないかのようだ。「IN THE HEAT OF SUMMER PLEASURE
WINTER FADES」(夏の喜びの熱の中で、冬は消え去ってしまう)という、「夏」と「冬」の比喩は、熱愛の中にあった喜びと愛が終わってしまった今との対比だろうか。忘れられない熱愛の思い出の中にひたれば、愛の終わりも色あせてしまうというのかもしれない。

愛は「情け容赦もない」、あなたが私を傷つけ、わたしから去ったいま、「AND I’M SLOWLY DYING  HERE IN YESTERDAY」(そして、わたしはゆっくりと死に向かう。ここで、昨日という日に。)「愛は盲目」であっても、「わたしを傷つけ、わたしから去っていった」という事実は消し去ることはできない。それもまた「愛」なのだということだろう。そして、ひとつの愛の終わりとともに「わたし」も終わりを迎える。本来なら、そこで過去の「わたし」は葬られ、過去の自分と決別することになるのだろうけど、ジャニスは過去と決別することができない。だから、昨日という時の中でゆっくりと死んでいくというのだ。

客観的には終わってしまった愛なのに、過去の思い出の中にいるジャニスには愛は終わっていない。「愛は盲目」だからだ。普通ならば、愛が終わり冷めた後は、相手の欠点も冷静に見つめることができるはずだ。しかし、ジャニスには愛が終わっても冷静に見つめることができない。だから「愛は盲目」なのだと歌うのである。

こういうジャニスの愛のかたちは、いまどきの若い人たちには理解しにくいかもしれない。こんなに未練たらしい、「痛い」愛のかたちはちょっとカッコ悪いと映るかもしれない。(そういう意味からしても、椎名林檎がジャニス・イアンに傾倒して、この「Love Is Blind」をカバーしているのは、かなり意識的な姿勢の現れだとも言える。つまり「痛い」愛ほど「カッコいい」というメタ・メッセージが隠されているのだと思う。)

第五回 椎名林檎もしくはジャニス・イアン「LOVE IS BLIND」の愛の現象学について

2007-05-27 22:37:59 | Weblog
椎名林檎の楽曲については過去にも取り上げましたが、今回は彼女が影響を受けたと言われるジャニス・イアンの曲です。椎名の曲にも「ジャニス」の名前が登場します。中でも「シドと白昼夢」という曲には、「昔 描いた夢で あたしは別の人間で ジャニス・イアンを自らと思い込んでいた 現実には本物が居ると理解っていた」というフレーズが出てきます。ここにはたんに影響を受けたという以上の傾倒ぶりが伝わってきます。(ちなみにタイトルの「シド」とはパンクロックバンド、セックス・ピストルズの伝説のベーシスト、シド・ヴィシャスのことです)

そのジャニス・イアンですが、日本では70年代にテレビドラマ「岸辺のアルバム」の主題歌「Will You Dance?」がヒットし、最近のTVCMにもこの曲が使われ、リバイバルしています。(この「Will You Dance?」をアンジェラ・アキがオリジナルとはかなり異なる日本語訳で歌っています。動画はこちら。)

さて、表題の「Love Is Blind」の歌詞は、ジャニス自身のホームページにあります。

LOVE IS BLIND (Janis Ian)

LOVE IS BLIND
LOVE IS ONLY SORROW
LOVE IS NO TOMORROW
SINCE YOU WENT AWAY
LOVE IS BLIND
HOW WELL I REMEMBER
IN THE HEAT OF SUMMER PLEASURE
WINTER FADES
HOW LONG WILL IT TAKE
BEFORE I CAN’T REMEMBER
MEMORIES I SHOULD FORGET
I’VE BEEN BURNING
SINCE THE DAY WE MET

LOVE IS BLIND
LOVE IS WITHOUT A MERCY
LOVE IS “NOW YOU’VE HURT ME
NOW YOU’VE GONE AWAY”
LOVE IS BLIND
LOVE IS NO HORIZON
AND I’M SLOWLY DYING
HERE IN YESTERDAY

WAKEN TO THE SOUND OF WEEPING
SOMEONE ELSE SHOULD WEEP FOR ME
NOW IT’S OVER
LOVER, LET ME BE

<以下、略>

(歌詞の方は、こちら。椎名林檎の「Love Is Blind」の歌唱シーンはこちら。)

「LOVE IS BLIND」とはそのまま慣用表現の「愛は盲目」ということですが、「Blind」なら(目に見えないようにする)「ブラインド(目隠し)」という意味になります。歌ですからどちらでもいいのかもしれません。歌詞は平易な英語ですから日本語に訳さなくても意味はわかると思います。ちょっとわかりにくいのは「IN THE HEAT OF SUMMER PLEASURE WINTER FADES」という部分です。(直訳すると「夏のよろこびの熱の中で、冬は消え失せていく」)いったいこれは何を言いたいのでしょうか。「愛は盲目」から「悲しみ(ONLY SORROW)」「明日がない(NO TOMORROW)」というように、たたみかけるように繰り返されるフレーズは、まるで「愛の現象学」です。「愛は盲目」であるのは、ふつうは熱愛の最中だからです。しかし、この歌は愛が終わったいま、いかに「愛が盲目」であるかという現象を綴っています。ここが人と違うジャニス・イアンの才覚が現れているところかもしれません。

では、設問を考えてみましょう。

(設問1)「IN THE HEAT OF SUMMER PLEASURE WINTER FADES」の部分は夏と冬とを対比して何を表現していると思うか。

(設問2)「AND I’M SLOWLY DYING HERE IN YESTERDAY」とはどういうことを言っているのか。

(設問3)愛が終わった後も「愛は盲目」であるのはなぜであると思うか。



「思い出だけではつらすぎる」と「思い出」の意味をめぐっての解説

2007-05-25 01:51:27 | Weblog
今週は中間テストで授業がありません。第五回の課題は来週に回します。今回は第四回の解説を載せておきます。


この曲の歌詞が英語からの翻訳のように難解だと思ったのは日本語としては奇妙な表現が多いからである。たとえば、「今すぐに 抱きしめていて」というのは、本来なら「今すぐに 抱きしめて」か「このまま 抱きしめていて」かのどちらかだろう。(英語訳は「Please hold me right now」である)「ありえない窓は 開かない」は「Impossible windows don't open」である。(これなどは英語表現の方が変で、日本語の直訳調になってしまっているが、そもそも日本語の表現の方もふつうではない。)

肝心の「思い出だけではつらすぎる」の部分は、「Kiss old memories goodbye」だから、日本語と英語の表現のニュアンスがあきらかにちがう。(ちょうど中島のセルフカバーの唄が、朗々と力強くいつもの「みゆき節」になっているのに対して、柴咲の方はしっとりと哀愁をたたえた唄になっているに対比される。)もっとも「Kiss~goodbye」はロングマン辞書によると「used when you think it is certain that someone will lose their chance of getting or doing something」とあるから、この場合、(未練を残しながら)「古い記憶(思い出)を捨て去る(あきらめる)」という意味になるだろうか。

さて、この「(古い記憶)思い出」は何なのだろうか。ひとつは、ヒロインの看護師彩佳とコトー先生との間での「思い出」と考えられる。ふたりの間の(まだ親密になる前の)思い出というのが、この歌の背景を考えたなら自然だ。しかし、それではなぜ「思い出」をあきらめ、捨て去るのかわからない。そもそもこの「つらすぎる」と感じるのは、「私」なのかコトー先生なのかもわからない。

歌詞の前半に「めぐり会えるまでの古い出来事など忘れましょう」とある。「さまよった足跡 凍えきった涙」というのも、コトー先生のつらい過去を暗示させる。つまり、この「思い出」とはコトー先生の過去のことだという解釈の方がすっきりする。大学病院を追われて島へ来るまでの「古い記憶」(思い出)にコトー先生はいまだしばられている。(そういうストーリーだ)だから、それをヒロインの「私」は「つらすぎる」と感じている。

もちろんここはヒロインとコトー先生との間の「思い出」であって、ふたりの関係が「思い出」だけで終わってしまうのは「つらすぎる」と歌っているのだという解釈も成り立つ。だから「今すぐ抱きしめていて」とつづくのは自然な流れでもある。この両方の解釈のどちらが正解かはわからない。むしろこの楽曲は両方の解釈をゆるすように作られているといった方がいいかもしれない。

「大切な何もかも」「寒いニセモノ」「本当の鍵」といった表現はあまりにも暗喩的でわかりにくい。「本当の鍵」とは、「私」のこころの扉を開く鍵なのか、それともコトー先生のこころを開く鍵なのか、歌詞からは判断できない。この部分、英語訳では「抱きしめていて」も「(鍵を)持っている」も同じ「hold」であることから、「本当の鍵」とは(ヒロインの)「私」であることを暗示しているように思う。つまり英語訳を忠実にたどれば、「(古い記憶)思い出を投げ捨てて」あなたの未来を開く「本当の鍵」は「私」だということになる。

しかし、そんなことはどこにも明示的に表現されてはいないから、たんにそういう解釈も成り立つというにすぎない。むしろここは、ヒロインの「私」とコトー先生との関係、医師と看護師のふたりの間にある心理的な距離と葛藤を暗喩的な表現で示していると解釈するにとどめておくべきかもしれない。

それにしても、中島みゆきはこういうドラマ性ないしは番組の物語性を下敷きにしてテーマ曲を作るのが実にうまい。(その代表曲が「地上の星」だろう)テレビドラマ「Dr.コトー診療所」の主題歌「銀の龍の背に乗って」も、離島の僻地医療の問題を扱うドラマの内容を表現して、聴く者に勇気と感動を与える曲になっている。そういう意味で、この「思い出だけではつらすぎる」もドラマのストーリーを背景にして、ヒロインの切ない心情、主人公のコトー先生と間での複雑な心情を表現したものであると考えていいだろう。日本語歌詞の難解さも、一義的な解釈をゆるさない複雑な表現も、男女間の関係の心情を表現することの難しさを反映しているのだと思う。