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Nicomachusの園 Ⅲ

2007年度総合倫理の課題とコメント

最終回 Bank Band 「はるまついぶき」と再生のメッセージについて

2008-01-10 10:27:11 | Weblog
来週はセンター入試前日ということで学年行事のために授業なしになりました。それで今回が総合倫理の最終回になります。したがって、今回の問題の解説は省略したいと思います。そのかわり、コメント欄でディスカッションしたいと思います。

もうミスチルを取り上げる機会はないだろうと昨年、言ったのですが、今回は最後ですし、ミスチルの櫻井和寿が参加しているBank Bandの「はるまついぶき」を取り上げます。作詞は櫻井ですが、作曲は小林武史です。(昨年度、この組み合わせにSalyuを加えた「to U」を取り上げています。)じつは、この倫理の授業に「J-POP」の楽曲を素材として使うようになったきっかけは、ミスチルの「名もなき詩」でした。わたしはこの曲に衝撃を受けて、授業で取り上げ、個人的にもミスチルの曲に注目してきました。もう十年以上になりますが、その間、ミスチルの音楽も櫻井の世界観のようなものも変化しています。しかし、その変化はメジャーになるほど商業主義におかされて、つまらない亜流の音楽に堕していくものと違っています。同じことはCoccoにも感じることですが、アーティストとしての音楽性の深化と共にその思想性というものが発展していくというような姿なのです。

J-POPを徹底して論じる能力も余裕もありませんが、気になるアーティストやグループの音楽を通じて伝わってくるメッセージや思想というものを考えてみるのもいいだろうと思うようになりました。何よりもわたし自身が、こういう作業を通じて思いがけない発見や音楽の背景に気づかされたことです。そこに至る過程は楽しくもあり、苦しくもある作業でした。そして、ミスチルを通して、J-POPがたんなる刹那的に消費される音楽商品ではなくて、現在の状況を反映して表現する作品としてとらえることができるようになったと思います。

さて、前置きはこれくらいにして、Bank Bandの「はるまついぶき」に入りましょう。この曲の誕生の詳しい経緯については、Bank Bandの公式サイトを見てください。(こちら)まず、映画「ミッドナイトイーグル」の主題歌の制作を依頼されたことから曲作りが始まり、昨年夏のap bank fes'07のステージが台風で中止になり、たまたま同じ時に新潟で中越沖地震が発生する。フェスの中止で用意していた食糧(カレー)が大量に残っていることを知って、小林たちがそれを新潟の被災地に運んだこと。そして被災地の光景を目の当たりにして、「はるまついぶき」を急遽リリースすることになったそうである。櫻井はメッセージの中でこう言っている。

「雪に覆われた春を待つ息吹のように、再生を待っている人たち、
また、その人たちを遠くから想っている人たちに、
この歌が届いていくことを願ってます。」



作詩:櫻井和寿 作曲:小林武史

目を閉じたまま 眺めている景色 あなたはそこにいて
口をつぐんで 投げかけた言葉 笑って聞いてる

心に佇んでる寂しさ それすら確かな愛の姿と
自分にそう言い聞かせながら 想いを守っている

降り積もる雪に覆われた 春待つ息吹のように
かすかでも光に向かう強さを 抱きしめたい

時の流れが「生きてる意味」に目隠しする理由(わけ)は
プラネタリウムとおんなじ。 暗闇がくれる光を知るため

心に形なんかない 逆を言えば自由自在に 姿を変えていけんだ
暗い海の底に沈んだ日でも 青空を飛んでいる

強い風にタンポポの綿毛が 未来へと運ばれてく
向かい風だろうと翼にして ねぇ 僕らも羽ばたけるかな?

<中略>

降り積もる雪に覆われた 春待つ息吹のように
かすかでも光に向かう強さを抱きしめ いつの日にか
向かい風だろうと翼にして きっと僕らも羽ばたけるはず
暖かな春の空に…

(PV動画はこちらから。歌詞は、こちら

(設問1)「心に形なんかない 逆を言えば自由自在に 姿を変えていけんだ」とはどういうことを意味しているのか。

(設問2)この歌詞の中でメッセージの核心にあたる言葉を取り出し、それはどういうことを意味しているのか説明しなさい。


BUMP OF CHICKEN「花の名」と「花」の意味についての解説

2008-01-10 02:34:26 | Weblog
二学期の最後の授業から一ヶ月も経ってしまったので思い出しながら書いています。みなさんが解釈しているように、この歌は、「あなた」という特別な大切な存在について歌っています。「あなたが花なら 沢山のそれらと 変わりないのかも知れない」という一節にだけ「花」ということばが、それも「あなた」の「たとえ」としてというより、比較のことばとして出てきます。しかし、どうもなぜ「花」でなければいけないのかしっくりきません。まして「花の名」というタイトルが意味深です。そこで、BUMPの曲で花の名をタイトルにしたものを調べてみると、「リリィ」という曲があります。(歌詞は、こちらから)この中でこんな一節があります。

「やっぱり僕は唄うよ もう一度叫び唄うよ
今まで一度も使うことのなかった 言葉を混ぜて
<中略>
こう呼ばせてくれないか 「最初で最後の恋人」
この唄が 部屋のドアを叩きに来たって 胸を張れるから」

この「リリィ」という曲はBUMPの藤原が下積み時代の体験をそのまま歌にしたような内容です。「リリィ」はそこで「最初で最後のヒト」として登場します。

「僕だけに 歌える唄がある あなただけに 聴こえる唄がある」というのは、この「リリィ」の中で出てくる「唄」ということかもしれません。

「リリィ」の曲は、まさに現在進行形での「君」との関係を歌ったものです。しかし、「花の名」には具体的に「リリィ」の名は出てきませんし、この中の「あなた」はどちらかというと過去を回想するような距離があります。その分だけ、楽曲「花の名」は普遍性を獲得しているとも言えます。つまりBUMPの藤原の個人的な体験にある出来事とは無関係に、この曲を聴く者はだれでもそれぞれの個人的な経験に置き換えて解釈を可能にするものとなっているということです。

だから、「花の名」とはそれぞれの人がそれぞれ大切に思う人がいて、そういう特別な存在が人生に生きる意味を与えている、と解釈することができるわけです。

「僕がここに在る事は あなたの在った証拠で
僕がここに置く唄は あなたと置いた証拠で」

「生きる力を借りたから 生きている内に返さなきゃ」

これは「リリィ」の中に表現されているような体験が背景になっているのだと思います。藤原がアーティストとして歌を作り、音楽活動するということの原点がここにあるのだということだと思います。

もちろん、こういう背景を「花の名」の歌詞から推測することもできません。はたして「花の名」とは「リリィ」(Lily 百合の花)のことを意味するのかどうかもわかりません。だから、ここは何か特定の「花の名」が隠されていて、その花の名と特別な人とが結びついているのだと解釈するのがいいかもしれません。そうすればこの楽曲のひろがり、普遍性を感じ取れるものになります。

映画「Always」は昭和30年代の懐かしい光景を再現してヒットしました。古きよき時代へのノスタルジーというのは、たしかに映画の重要な要素にはちがいありません。しかし、この映画のテーマはたんなる懐古趣味ではないでしょう。喪われてしまったのは、よき時代の光景だけではなくて、その中で生きる人々の人情やひとひととの結びつきであろうと思います。(原作の西岸良平の漫画が描くのは登場人物の温かい人柄、何でもない日常でのアカの他人どうしのきずなです)
「皆 会いたい人がいる 皆 待っている人がいる」というのは、映画「Always」の登場人物から出るような言葉ではありません。楽曲「花の名」が映画のシーンに重ね合わせられるとしたら、喪われた過去への思いがリンクしてくるからだと思います。

第十五回 BUMP OF CHICKEN「花の名」と「花」の意味について

2007-11-30 13:19:21 | Weblog
今週で二学期の授業の最後になります。いちおう二学期のまとめとして感想のようなものを書いてください。それで、今回は、簡単な設問にしておきます。(解説は三学期です。)
BUMP OF CHICKEN(以下、「BUMP」)は昨年も取り上げました。(こちら
今回はひさびさの新曲「花の名」ですが、映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の主題歌になっているものです。こういうタイアップ曲は映画の台本や内容と無関係ではないと思いますが、それでも楽曲はBUMPの世界だと思います。


作詩:藤原基央 作曲:藤原基央

簡単な事なのに どうして言えないんだろう
言えない事なのに どうして伝わるんだろう

一緒に見た空を忘れても 一緒にいた事は忘れない

あなたが花なら 沢山のそれらと
変わりないのかも知れない
そこからひとつを 選んだ
僕だけに 歌える唄がある
あなただけに 聴こえる唄がある

僕がここに在る事は あなたの在った証拠で
僕がここに置く唄は あなたと置いた証拠で

生きる力を借りたから 生きている内に返さなきゃ

涙や笑顔を 忘れた時だけ
思い出して下さい
同じ苦しみに 迷った
あなただけに 歌える唄がある
僕だけに 聴こえる唄がある

皆 会いたい人がいる 皆 待っている人がいる
会いたい人がいるのなら それを待っている人がいる
いつでも

<中略>

いつか 涙や笑顔を 忘れた時だけ
思い出して下さい
迷わずひとつを 選んだ
あなただけに 歌える唄がある
僕だけに 聴こえる唄がある
僕だけを 待っている人がいる
あなただけに 会いたい人がいる

(歌詞の全文はこちら。PV動画はこちらから。)

BUMPの曲「ハルジオン」でも花が比喩として使われています。この曲ではタイトルが「花の名」になっています。日本のPOPSには「花」という言葉がタイトルに使われることも多いのが特徴ですし、「サクラ」を歌った曲が多いことはすでに触れています。
映画「ALWAYS」は昭和30年代の高度成長前の懐かしい日本を描いて評判になりました。最近の「昭和ブーム」の一翼を担った作品です。(原作は西岸良平の漫画「三丁目の夕日」)こういう映画のコンセプトに合わせるかのように、BUMPの曲もどこか懐かしいバラード調の静かなメロディです。
さて、設問を考えてください。

(設問1)タイトルがなぜ「花の名」なのだと思うか。

(設問2)映画の予告編のキャッチコピーに「あなたを待っている人が、きっといる」とあり、この曲の歌詞の一部が使われている。この曲のコンセプトと映画とで共通するものがあるとすれば、それは何か。

(設問3)この曲でもっともメッセージ性が強い部分はどこか。また、それはなぜか。

槇原敬之「GREEN DAYS」と「悲しみ」の意味についての解説

2007-11-29 22:23:15 | Weblog
長いアルバムのタイトル「悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。」について、槇原はインタビューで、身近に起こった悲しい出来事が愛犬の死であると語っている。アルバムのタイトルにもなった「悲しみ」の背景が「愛犬の死」であったと聞かされると、ちょっとどうかなあと思う人もいるだろう。(もっとも槇原は「愛犬の死」がわが子を喪ったような衝撃だったと語っている。しかも、その死は槇原自身の行動や判断が原因になっている。)

愛犬であろうが肉親であろうが、愛するかけがえのない対象を喪ったとき、「悲しみ」の感情に襲われるのは自然である。しかし、なぜ愛する対象の死が「悲しみ」の感情を生起させるのか。そもそも「悲しみ」とは何なのか、という問いに答えるのは容易ではない。(槇原の場合、愛犬のいのちを救うことができなかったこと、愛犬に死をもたらした原因は槇原自身にあったことに、自責と後悔の念にかられたであろうことは想像できる。)

しかし、人間が悲しんだり悲嘆に暮れたりすることに何かの意味があるのではないか。こう思い直してみるところに槇原の非凡さがある。
「ひょっとして悲しみというのは愛が残してくれた置き手紙みたいなものじゃないのか、悲しみと喜びは一緒のものなんじゃないかなと思い始めたんです。」「こうして話をしていると思い出して泣けてしまうほど辛いけれど、でもこの感情を知らない方が良かったかというと、そうではない。同じ苦しみに陥っている人の心に寄り添えるし、ほんの少しでも誰かの痛みがわかってあげられる。それはこんなにも大事なことだったんですね。」

仏教用語で「悲しみ」(「悲」)は、生きものの苦しみを救うという意味である。
ウィキペディアの「慈悲」の項の解説に次のような説明がある。

「「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。」

「悲しみ」は、愛する対象を喪って引き起こされる情念や情動のような感情のことではない。同じ生きるものの苦しみを背負った存在として、他者の苦しみを救わずにはいられないという思いが「悲しみ」のほんとうの意味なのである。(槇原のことばがあまりにもこの仏教用語の解釈に似ているので驚いてしまったが、おそらく仏教の考えを理解していて出てきたものだと思う。)

もうひとつインタビューの中で、含蓄のある体験談を語っている。それはテレビでビクトリア滝の美しい虹のシーンを見たあとで、犬の散歩の途中、愛犬がくしゃみをしてしぶきを飛ばした鼻先に、小さな虹が浮かんだのを見た。そして、この体験をこういう風に語る。
「ものの大小ではなく、実は世の中にはそういう何かとても大切なもの、美しいものにあふれているんじゃないかと気がついたから。」

こういう槇原の世界観のようなものを理解して、「GREEN DAYS」の歌詞を見ると、また別な解釈が生まれてくるであろうと思う。

たとえば、最初の「よかった この世界は」の「よかった」は、その前の「それぞれがちゃんと一人で 悩んだと分かった」をうけている。これは「共感」ということのメッセージであろう。怒りや悲しみやいらだちという自己感情にとらわれているときに、他の人を見ると、同じように苦しみ悩んでいることに気づかされた。だから「サイテーだと誤解したままで」終わらずにすんだというのである。

その次の「よかった」も、その前の「そこにはないと決めつけて 見ようともしなかった場所に 大切な宝物があると気づいた」「自分の心に見つけた」をうけている。(これは槇原がインタビューで語った「虹」の体験のことだと思う)このなんでもない身近な日常の世界に「宝物」を見出すこころのあり方に「これからも生きていける気がする」と歌っているのだと思う。

槇原は、「世界に一つだけの花」について、お釈迦様の「天上天下唯我独尊」という言葉だとインタビューで語っている。このころからすでに仏教の影響をうけていることがわかるが、今回のアルバム「悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。」もかなり深く仏教的な世界観が表現されている。それは何か宗教的なメッセージということではなくて、槇原自身の生き方やこころのあり方として確固たるものになっていることを示しているのではないかと思う。

中村中「友達の詩」についての解説

2007-11-15 22:11:38 | Weblog
「友達の詩」をなんの先入見もなしに聴くならば、男女の間のせつない恋心を歌ったものと思っても違和感はない。しかし、よく歌詞を見ると「胸の痛み…別の傷で隠す」とか「並んで歩くくらいでいい  それすら危ういから」とか、たんにプラトニックな片思いの心情だけではない表現が浮かび上がる。「大切な人は友達くらいでいい」という表現には、「友達」の関係でいいんだとか、それでも十分なのだといった心情にまとめてしまうことができないような複雑な想いがこめられている。

「性同一性障害」は生物学的な性と自分がそう思っている自分の性とが一致しない症状を言う。自分が女性として身近な男性を好きになっても、生物学的な性は「男性」なのだから相手からどのように思われるかわからない。好きな相手と手を繋ぐだけでもささやかな幸福を感じると思っても、それすら許されないだろう。相手が許しても周りがどう反応するかわからない。かえって好きな相手を傷つけてしまうかもしれない。

「友達くらいが丁度 いい」という言葉は「強がり」のようにも聞こえるが、そうではないだろう。自分が傷つくことを怖れるより、むしろ好きな相手を傷つけてしまうことがつらい、そんなせつなくやさしい思いがこめられていると解釈すべきであろう。

この関係は、外見的には男性同士の「同性愛」としか見えないし、また、「性同一性障害」が「ゲイ(同性愛者)」とどうちがうのかが周囲にはわからない。

プラトンの「シュポシオン(饗宴)」という書には、人間がいまのようにこの世に生まれ落ちる前にいっしょだった相手が同性だった場合は同性愛になり、片割れが異性だった場合に異性愛になるという寓話が出てくる。プラトンの愛(エロス)では、「同性愛」の方がじつは精神的に高尚なものとして考えられている。プラトンのいた古代ギリシアでは「同性愛」はけっして異端的なものではなかったのである。

さて、「性同一性障害者」がなぜ生物学的な性(セックス)と心理的な性(ジェンダー)が一致しなくなるのか、詳しいことはわかっていない。「女性装」をするゲイ(同性愛者)と「性同一性障害」とはほとんどちがいがわからないほど近いように感じるが、多くの「性同一性障害者」は「ゲイ(同性愛者)」と同じであるとは認めていないようである。

自分の生物学的な性との不一致に対する違和感の深刻度の差が、「性同一性障害」と「ゲイ」との決定的な差であると言えるかもしれない。

最近、欧米社会では「LGBT」(Lは「レズビアン」、Gは「ゲイ」、Bは「バイセクシャル」、Tは「トランスジェンダー」)といわれる性的少数者の社会的な権利を認める動きが加速している。いままで「異常」(アブノーマル)として片付けられていた「異性愛」以外の性的な志向性を性の多様性として認知しようとする動きである。

一方、日本では「性同一性障害」を精神疾患として治療が認められるようになり、性転換手術も施されるようになった。しかし、「性転換者」の戸籍変更は認めないという判決が出ている。「性転換」によって、外見的な性や身体的な性は転換できても、遺伝子や染色体レベルでの変更はできない。トランスジェンダー(性転換者)を社会的にどのように受容するかという問題にはまだ困難な問題が横たわっているのである。

中村中が、自分は男性でも女性でもない、という気持ちが少しはわかる気がする。ほとんどの人はまったく意識せずに、自分は「男である」あるいは「女である」というように認識している。しかし、ほんとうは「男である」「女である」と自認するのはそう簡単なことではないのかもしれない。そのことを「性同一性障害」の人の苦しみが示していると言えるのではないか。

「友達の詩」は、思いを寄せる大切な人を「友達」とよばなければならない、せつない悲しみを表現したものである。「友情」もひとつの「愛」のかたちにはちがいない。しかし、それ以上のきずなを求めたくても求めることができない。なぜなら、その人は自分のことを異性と思ってはいないからだ。(もし、同じように相手も自分を求めているのなら、それは「同性愛」ということである。しかし、そうではないのだ。)この乗り越えられない絶望的な壁の前で苦悩する「性同一性障害者」の複雑な想いが見事に表現されている、記念碑的な一曲と言っていいだろう。