Nicomachusの園 Ⅱ

2006年度総合倫理演習の問題とコメント 

2007年度総合倫理演習ブログの開設

2007-04-13 00:14:12 | Weblog
2007年度総合倫理演習のブログ「Nicomachusの園 Ⅲ」を新規開設しました。
下記へ移行します。
http://blog.goo.ne.jp/hi-ragi2007

2006年度の授業終了

2007-03-21 19:48:29 | Weblog
今年度の総合倫理の授業は終了しました。
4月から再開します。

THE BLUE HEARTS 「情熱の薔薇」についての解説

2007-02-25 21:24:42 | Weblog
 いきなりブルーハーツとはちがう話題ですが、第49回グラミー賞でディクシー・チックスが最優秀レコード賞など5冠に輝いた、というニュースがありました。


 ディクシー・チックスは、テキサス州出身の女性3人組カントリーバンド。2003年、イラク戦争を批判したとしてカントリーファンから反発を受け、カントリーラジオ局からボイコットされるなどの騒ぎが起きた経緯がある。今回、シングル曲が対象の最優秀レコード賞、作詞作曲者に贈られる最優秀楽曲賞、最優秀アルバム賞と、主要3部門を制した。(2月12日 産経新聞の記事から)

 ことの発端は、イラク戦争開始直前、ロンドンでのコンサートでメンバーのひとり、ナタリー・メインズがブッシュ大統領を批判する発言がイギリスの新聞に載ったからだ。

「「みんな分かってると思うけど」シンガーのナタリー・メインズが言った。「私たちはアメリカの大統領がテキサス出身なのを恥ずかしいと思っているわ」。観客からは歓声が上がった。カントリースター達がこぞって戦争支持の曲をリリースする中でのこの発言はまるでパンクロックだ。」(イギリスの新聞The Guardianに掲載の記事の部分)

 アメリカのカントリー&ウェスタンというのは、日本で言えば「演歌」みたいな音楽ジャンルだから、保守派のリスナーやファンが圧倒的だ。それでなくてもアメリカ中に星条旗が掲げられ、異様な愛国熱にあふれているという状況だった。ディクシー・チックスはメディアから排除され放送禁止にされただけでなく、全米から猛烈なバッシングを受ける。下品な誹謗中傷から命を脅かすような脅迫状までが殺到したという。
 
 そのディクシー・チックスがグラミー賞を受賞するというのは、アメリカの変化を象徴する出来事だと思う。

 ディクシー・チックスは脅迫や中傷にも屈することなく音楽活動を続けて、今回の受賞曲となった「ノット・レデイ・トゥ・メイク・ナイス」(まだ、いい子になんかなれないわ)に自分たちの気持ちを表現している。

 「許す、それもいいわね

忘れる、私にできるかしら

時がくれば傷は癒えると人は言うけれど

その日が来るのをまだ待ってるの

もう疑ってさえいないわ

何もかもわかってしまったの

私は代償を払わされて

今も払い続けている

(中略)

まだ、いい人なんかにはなれない

まだ、引き下がるわけにはいかない

まだ、私は本当に怒っている

まわりくどいことをしてるヒマはないの

元の鞘に戻すには遅すぎる

できたとしてもやらないわ

だって私はまだ怒っているんだから

あなたたちの助言になんか従えないわ

許す、それっていい言葉ね

忘れる、私にはまだできないわ

時がすべてを癒すというけれど

私の痛みはまだ消えはしない」

(この訳詩は町山智浩氏のブログから引用しました。)
(ディクシー・チックスのPV動画はこちら。)

自分たちを魔女狩り裁判にかけられている姿に擬した映像も凄いが、この歌詞の内容もすごい。こんな風に個人の怒りが世界の状況にコミットしているような歌をわたしは知らない。

なぜブルーハーツの解説に長々とこの話題を取り上げたのかというと、イギリスのガーディアン紙がディクシー・チックスのことを「まるでパンクロックだ」と表現していたからである。日本では、ど派手なファッションや過激なパフォーマンスばかりがパンクロックだという印象が強い。しかし、イギリスでは反体制・反権力の政治的な表現をする音楽がパンクなのである。

ブルーハーツにも影響を与えたイギリスのパンクグループの「クラッシュ」の中心メンバー、ジョー・ストラマーはどこかで「パンクはファッションじゃない、アティチュード(態度)だ」というようなことを言っている。そのクラッシュは、イギリスの下層階級やマイノリティの貧困移民層への共感と体制批判の政治的な主張をしていた。このころイギリスでは不況で若者の失業が増え、怒れる若者の声を反映していたのがパンクロックだったのである。

ブルーハーツもたしかに反体制・反権力といったパンクの精神は受け継いでいる。「劣等生でじゅうぶんだ はみだし者でかまわない」(「ロクデナシ」)といった社会から疎外される者の位置に自らを置いて、世間の価値観に反抗する。しかし、ブルーハーツの全盛期、日本経済はバブルの真っ只中にあった。

ブルーハーツの曲には、イギリスのパンクのような直接的で過激な政治的主張は見られない。Mステの「リンダリンダ」の演奏シーンでは、甲本ヒロトが歌いながら舌をペロペロさせたり、上体を激しく揺さぶって飛び跳ねるパフォーマンスが見られるが、過激なパンクグループのライブパフォーマンスとしてはおとなしい方だ。

メジャーデビュー曲「リンダリンダ」では、「ドブネズミ」は美しい、「ドブネズミ」のようにやさしく、と歌う。いきなり世間の価値観をひっくり返して、どうして「ドブネズミ」が美しいのかは語らない。同じことは「情熱の薔薇」の中でも見られる。「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い」とか、「なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべくいっぱい集めよう」と歌う。それはなぜなのか説明はしない。しかし、「そんな気持ち分かるでしょう」というのだ。こういうところに彼らのシニカルで諧謔的なスタンスがよく表れている。

だいたい「ドブネズミ」が美しいとはだれも思わない。そういう当たり前の常識を覆してみせることで見えてくる真実がある。みんなが価値だと思っていることや正しいと思っていることが実はそうでなくて、反対に、無価値であったり、無意味であるようなことが真実であったりする。そういう真実と虚偽の、価値と無価値の転換こそが、ブルーハーツのスタンス、世界観なのだ。

しかし、ブルーハーツが若者のこころをとらえたのは、こういう価値転倒や体制批判的なメッセージではない。

ブルーハーツ初期の名作「人にやさしく」(一説によると、甲本ヒロトが高校生のときに作った曲らしい)で、「人にやさしく してもらえないんだね 僕が言ってやる でっかい声で言ってやる ガンバレって言ってやる」と歌っているように、世間からはみ出し、受け入れられない者への共感と励ましのメッセージが若者のこころをとらえたからだ。世間はバブル景気に浮かれ、ディスコサウンドがはやり、DCブランドやトレンディドラマが流行した。異様な高揚と繁栄の中でも、そういうムードについていけない者も多かったはずである。今で言えば「負け組」、流行に乗り遅れた敗残者のこころをブルーハーツはとらえたからだ。

「死んじまえと罵られて このバカと人に言われて
  うまい具合に世の中と やって行くことも出来ない

  …
 誰かのサイズに合わせて 自分を変えることはない
  自分を殺すことはない ありのままでいいじゃないか」
(「ロクデナシ」作詞 : 真島 昌利)

「誰かのルールはいらない 誰かのモラルはいらない
      学校もジュクもいらない 真実を握りしめたい
       僕等は泣くために 生まれたわけじゃないよ
       僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃないよ」
(「未来は僕等の手の中」作詞 : 真島 昌利)


これはそのまま「負け組」への応援歌である。世の中の流行には乗れない、トレンディドラマともDCブランドとも無縁な、繁栄の中で取り残されている者たちの思いをブルーハーツは代弁している。しかもそのままの自分でいいと肯定してくれるのだ。「ドブネズミ」でも美しいのではない。「ドブネズミ」だから美しい、目には見えない美しさがあるのだ。

たしかにブルーハーツははみだし者や落ちこぼれ、社会から疎外されている者に共感し、それを肯定する。しかし、現実を一方的に否定したり、社会や体制に反抗を呼びかけることはしない。あくまでも世の中の支配的な価値観をシニカルに批評して見せるだけだ。

それは、それぞれの「自己」を肯定しながら、彼らもまた自由を求めて生きる道を探しているからだろうか。

「うまくいかない時 死にたい時もある
世界のまん中で生きてゆくためには 生きるという事に 命をかけてみたい」
(「世界の真ん中」作詞:甲本ヒロト)

だから、ブルーハーツの歌は、はみだし者でも落ちこぼれでも、自由を求めて自分の運命を切りひらこうとする者への応援歌として、多くの若者に熱狂的に支持されたのである。

BUMP OF CHICKEN 「天体観測」についての解説

2006-11-26 13:03:26 | Weblog
BUMP OF CHICKENには、「天体観測」とよく似たシチュエーションの曲「プラネタリウム」というのもある。これらの曲のモチーフやストーリーが作者の実体験に基づくのか、それともたんなるフィクションなのかはわからない。ただ、こうした天体や宇宙への関心が少年期のロマンチシズムを象徴しているという意味で何らかの共通点があると思われる。

インディーズ時代の作品に「アルエ」という曲がある。少女へのプラトニックな恋心を歌った佳作だ。大人の目からはちょっとロマンチックすぎて気恥ずかしくなる詩である。思春期にだれもが通る異性への淡い思いを何のてらいもなく表現している。そういうところが、中高生から熱烈に支持される理由なのかもしれない。

「天体観測」では、その少女と「天体観測」で接近する。そして「君の震える手を 握れなかった痛み」がこの曲の主題になっている。淡い恋心とその挫折がこの曲に通底するテーマなのだと思う。そして「ほうき星」は、まるでメーテルリンクの「青い鳥」のように、探し求めても手が届かない「幸福」の寓意として、この曲では歌われている。

「ほうき星」は天体の中でひときわ輝きを放ち、つかの間の輝きを残し消え去っていく存在である。「"イマ"という ほうき星」は、そういう一瞬の輝き求める自分の理想の姿、生き方の比ゆなのかもしれない。

楽曲「ハルジオン」の方は、「天体観測」のような甘酸っぱい感傷は消えている。しかし、「虹」を作って手が届かなかった少年期の挫折が歌われている。「天体観測」の「ほうき星」が、「ハルジオン」では「虹」にたとえられている。

わたしは、Coccoがビデオの中で子どもたちに語っている、「(大人になっても)持っておこうと思ったら持っておけることがいっぱいあるから。忘れないでおこうと思ったら、忘れないでおけることもいっぱいあるから」というシーンを思い起こす。

BUMPの曲は、Coccoの言う「大人になっても持っておけること」をそのままストレートに作品にしているような気がする。(そこが若者に支持される理由なのかもしれない)
しかし、Coccoの場合は、子どものころの思いを成熟によって社会的な問題への強い関心になって昇華させていった。BUMPの曲にはCoccoのような社会性を持つ面は少ない。それでいいのだろうかという思いは残る。(CoccoとBUMPの差は子ども時代の経験の差なのだとしたら致し方ないかもしれない)

いろいろな挫折を繰り返し、それでも揺るぎなくくじけない「信念」というのは何なのだろう。「生きていく意味を 失くし」「自分の価値を 忘れた」そういう経験を通過して、再び「生きていく意味と また 出会えた」と歌う。この前向きさはいいが、言葉だけが上滑りしているように聞こえてくる。「生きていく意味」とは「虹」を作ることだと言うのかも知れない。しかし、この「虹」とは「希望」や「理想」をたとえているのだが、大人になっても「理想」を追い求め続けることが、揺るぎない「信念」だというのである。(無論、そう直接には歌っていない。そう解釈されるということである)それではあまりに現実離れしていて、寓話的な世界にいつまでもとらわれてしまうことなのではないのか。

BUMPの曲のこの前向きさが、若者を応援し元気を与える理由はわかった。しかし、寓話的な世界にとどまる限り、それはそれ以上でも以下でもないような気がする。


第十六回 BUMP OF CHICKEN 「天体観測」について

2006-11-24 02:28:58 | Weblog
今回は、高校生に人気のロックグループ、BUMP OF CHICKENを取り上げてみたい。
このグループがどうして中高生のカリスマとよばれるほど人気があるのかよくわからない。たしかに大ヒットした「天体観測」などは、ノリのいいテンポと疾走感あふれるギターのリード、どこか感傷的な歌詞も印象的な曲である。しかし、何かを伝えるというメッセージ性は強いとは言えない。
メンバー4人は幼稚園からの幼なじみというのもめずらしいが、グループを組むまでの経歴が見事に一致しない。曲の作詞・作曲をしているボーカルの藤原基央は、高校中退である。ほかは大学中退、高校へ行かず専門学校、大学卒とみんなちがう。それぞれちがう道を歩みながら、おとなになって再会し、ひとつの音楽グループを結成した。こういう来歴もグループの音楽性にどのように反映しているのかわからない。
とりあえず、「天体観測」(歌詞はこちら。PV動画はこちらから。)について、考えてみたい。

「見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
  静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
  明日(アシタ)が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
  "イマ"という ほうき星 君と二人追いかけていた」

「気が付けば いつだって ひたすら何か探している
  幸せの定義とか 悲しみの置き場とか

  生まれたら死ぬまで ずっと探している
  さぁ 始めようか 天体観測 ほうき星を探して」

「見えてるモノを見落として 望遠鏡をまた担いで
  静寂と暗闇の帰り道を 駆け抜けた
  そうして知った痛みが 未だに僕を支えている
  "イマ"という ほうき星 今も一人追いかけている」

こういう何気ない詩なのだが、「ほうき星」「天体観測」「望遠鏡」といった具体的な言葉が何かの比ゆとしての意味やイメージを喚起させる。時間の流れとひとつの物語を形作りながら、作者の人生観のようなものが垣間見える。

たとえば、「天体観測」と同じころの楽曲「ハルジオン」(歌詞は、こちら)には、次のようなフレーズが出てくる。

「生きていく意味を 失くした時
自分の価値を 忘れた時
ほら 見える 揺れる白い花
ただひとつ 思い出せる 折れる事なく 揺れる」

「虹を作ってた 一度 触れてみたかった
大人になったら 鼻で笑い飛ばす 夢と希望
ところが 僕らは 気付かずに 繰り返してる
大人になっても 虹を作っては 手を伸ばす」

「夢なら どこかに 落としてきた
希望と 遙かな距離を置いた
ほら 今も 揺れる白い花
僕は気付かなかった 色も位置も知っていた」

「ほら ここに 揺れる白い花
僕は気付かなかった 忘れられていた名前
僕の中で揺れるなら
折れる事なく揺れる 揺るぎない信念だろう」

こちらの「白い花(ハルジオン)」「虹」も何かの比ゆとして使われている。いや、物語の中の具体的な対象なのだけど、それらをはさんで作者の人生へのひたむきな思いとメッセージが託されている。過去への感傷を忘れず、それをひきずりながら、それでもいまを前向きに進んでいこうというメッセージが多くの若者を共感させるのではないかと思う。

(設問1)「天体観測」の中の「"イマ"という ほうき星」は何を意味しているのか。

(設問2)「ハルジオン」の中の「揺るぎない信念」とはどういうことか。

(設問3)上の両方の曲に共通して「いまを前向きに進んでいこう」というメッセージはどこから感じ取れるのか。

「Believe」とイジメ自殺問題についての解説

2006-11-23 21:45:27 | Weblog
いじめは無条件でアプリオリにいけないことである。いやがらせやシカト(無視)することもいけないことだ。
そんなことはこどもでもわかっている。人が傷つくことを言ったり、冷笑したりすることも悪いことだとみんなわかっている。
なぜなら、「いじめ」という言葉には、道徳的な価値判断(悪ないし否定的な言辞として)がすでに含まれているのだから、これを肯定する人はいない。
こういう絶対的で無条件な判断の理由を説明することはじつは簡単ではない。それと、なぜ「悪」だとわかっていながら、人は平気で「悪」をなすのかという問題にも答えなければならない。

わたしはよく、「シカト」はなぜ(ただ無視する以外に具体的に何もしていないのに)いけないことなのか、「シカト」されるとどうして腹が立ったり、傷ついたりするのか、と生徒に質問する。
(これと同様だが、なぜ「ガンつけられる」(にらまれる)と腹が立つのかという問いも同じだ)
生徒は自分たちの経験から、「シカト」や「ガンつける」行為は、人を不快にし感情を害するからいけないことだと言う。しかし、ここでもなぜ「シカト」されると不快になったり、腹が立ったりするのかの説明がない。腹が立ったり不快になるのはこちら側の主観であって、あちら側(「シカト」する側)の主観がどうあれ、客観的には両者の間には何も具体的な事実は存在しない。(強いて言うならば、相手の自分に対する「悪意」が、「無視」という行為によって伝わるから、それが客観的事実と知られることが、こちらが不快になる原因であるということだろう。)

それでは他人に対して「悪意」を持つことはいけないことだろうか。だれかに好意を持つことが自然な感情であるように、だれかに悪意や悪感情を持つことも自然感情なのではないか。たしかに自然感情を他人との関係に持ち込むことは、人間関係を毀損させる原因になる。しかし、自然感情が悪なのではない。たんに個人的な悪意や悪感情を示すだけなら「イジメ」にはならない。

個人的な悪意や感情が集団の中で一定の共有する感情や意思を形成し、それが特定の個人に向けられるとき、「イジメ」が発生する。たんなる自然感情の延長に過ぎないものが、集団的な感情や意思であるかのように振舞われるからだ。これは小さな権力であり、力の行使である。「イジメ」が悪であるのは、理由は何であれ、集団の中の多数者の力の行使であるからだ。

しかし、多数者による力の行使が「悪」なのではない。この場合、力の源泉になっている悪意の共同性が問題なのだ。

それでは、なぜ、悪意の共同性の側は「悪」であることを知っていながら、これに加担するのか。よくいじめる側だけでなく、いじめられる側にも問題があるといわれる。しかし、このいじめられる側の問題というのは、いじめられる理由があるということであって、悪意の共同性に加担する理由にはならないし、「イジメ」を正当化する理由にもならない。むしろ自分たちの集団的な悪意の発生原因を、対象であるいじめられる側に帰着させることで、悪意を正当化させているのである。

集団の中では多数者の意思は正義であり、多数者による力の行使は(たとえそれが「悪」であっても)正当化される。それはあくまでも集団の中の論理に過ぎないのだが、こうした過剰な集団性を解体しないかぎり、悪意の共同性も「イジメ」もなくならないと思う。

日本の学校制度は、生徒の生活の大部分を学校の場に閉じ込めて支配する体制である。だから、ここでイジメを受け、集団からつまはじきにされると、自分の生きていく居場所がなくなるかのように追い込まれてしまう。こういう学校の閉じられた集団主義を解体しなくては「イジメ自殺」もなくならない。

いじめを受けているのは子どもたちだけではない。「イジメ自殺」が起きた北九州市の小学校の校長が、「イジメ隠し」があったとの報道(教育委員会も会見でそう述べた)によって、追い詰められて自殺した。(ニュース映像はこちら

単位未履修問題でも高校の校長が自殺するという事件があった。こうしたおとな(それも教育者)の自殺は、命はなによりも大切だ、というようないじめられているこどもへ出した文科省の緊急アピールと全く矛盾している。「イジメ」問題が深刻なのは日本の学校制度の矛盾を放置したまま、だれかに責任を負わせて決着を図ろうとしているからだ。

「Believe」の曲の歌詞ではないが、ほんとうに子どもたちが自分の未来を信じられるものになっているのか。そのために大人社会がどういう努力を払っているのか、考えざる得ない。


第十五回 「Believe」とイジメ自殺問題について

2006-11-09 22:02:33 | Weblog
時期が時期なので、今回は「イジメ問題」いや「イジメ自殺」の問題を取り上げます。
いじめを苦にした自殺予告の手紙が伊吹文明文部科学相あてに届いた問題で、東京都教育委員会から、「いじめを許さず、尊い命を守るために」と題する緊急アピールが各校に届きました。


緊急アピール
いじめを許さず、尊い命を守るために

 文部科学大臣への手紙を読みました。
 どんなことがあっても、自らの命を絶ってはいけません。相談する勇気をもってください。必ずだれかが受け止めてくれることを信じてください。
 東京都教育委員会は、区市町村教育委員会や学校と力を合わせて、今、いじめをなくすために全力を挙げています。
 繰り返します。決して、自らの命を絶ってはいけません。

 あなたからの電話を待っています。
 電話番号は、いじめ等問題対策室(03)5320-6888です。

子どもたちへ

 みなさんは、いかなる理由があったとしても、自らの命を絶ってはいけません。辛いこと、苦しいことに耐えられなくなったときは、決して一人だけで解決しようとしてはいけません。
 人間は決して強いものではありませんし、一人で生きられるものではありません。多くの人たちに支えられて成長し生きていくのです。互いに支え合っていくのが人間です。
 困ったときは、家族や周りの人に助けを求めてください。悩みを打ち明けることは、決して恥ずかしいことではありません。あなたが弱いということでもありません。
 みなさんの思いを受け止めることは、わたしたち大人の責任です。大人を頼りにしてください。
 力強く生きてください。素晴らしい人生を送ってください。つらいこと、悲しいこと、苦しいことを乗り越えて素晴らしい人生を送ってください。決して、自らの命を絶ってはいけません。

保護者のみなさんへ

 子どもをよく見つめ、子どもの気持ちに、子どもの思いに寄り添ってください。子どもの声を聞き、子どもが相談できるようにしてください。みなさんの子どもに対する思いを伝えてください。どれほど、子どもたちがかけがえのないものかを伝えてください。子どもに、苦難を乗り越えていく勇気を与えてください。

すべての先生方へ

 子どもたちを見つめてください。今、子どもたちが何を感じ、何を思っているのかを、しっかりとつかんでください。
 そして、いじめられている子どもがいたら全力で守ってください。「わたしたちが、あなたを守り通します。」と、子どもたちに力強く伝えてください。言葉と態度で毅然と示してください。
 みなさん一人ひとりが、いじめは人間として決して許されないことを、子どもたちに、保護者に、身をもって示さなければならないのです。繰り返し、繰り返し、子どもたちに教えなければならないのです。

すべての校長先生方へ

 いじめのない学校を目指してください。いじめは、いつでも、どこでも起こりうるものです。
 すべての教職員が、一丸となって、いじめのない学校づくりを進めてください。保護者の方々、地域の方々の協力を求めてください。
 校長先生が、子どもに直接、語りかけてください。いじめは絶対に許されないことを、そして、どんな理由があろうとも、自らの命を絶ってはならないことを。
 全教職員の先頭に立って、いじめのない学校づくりに邁進してください。

平成18年11月8日
東京都教育委員会教育長 中村正彦


大臣宛に届いたこの自殺予告の手紙が仮に本当だったとしても、(わたしは冗談だと思うし、冗談であってほしいとも思っているけど)いじめの具体的な内容や背景がわからないままに、手紙の対応に右往左往するのはどうかなと思う。しかし、「自殺予告」という時限爆弾でおとな社会がまともにこの「イジメ問題」に取り組まざる得なくなったことは、結果的に有効だったということになるだろうか。

いじめは許さないと口では言えるが、いじめかどうかを判断するのは特に当事者である生徒がそれを否定する場合、そう簡単ではない。仮にいじめられている生徒が先生に訴えても、具体的にいじめの実態がつかめないと手を出せない。いじめの実態がわかっていても、いじめる側がクラスの大多数をしめている場合、下手に介入するとこじれてしまう。だから、いじめられている生徒は先生にも親にもほんとうのことを言わない。

いじめ問題のむずかしさは他にもある。いじめは悪いことだとわかっていても、いじめられる方にも問題があると答えた生徒が半数近くになるという調査もある。つまりいじめる側にもいじめを正当化する理由があるということだ。

いかなる理由があってもいじめはいけない、許されないことだと、きちんと説明してこどもたちを説得できるだろうか。
そして、いじめで苦しんでいるこどもたちに、けっして自殺してはいけないと、きちんと説明できるであろうか。


先日、「Drコトー診療所」というテレビドラマの再放送を見ていた。(2004年にフジテレビで放送された。現在、続編が放送されている)沖縄の離島を背景に、島の診療所に赴任してきた青年医師と島のひとびととの交流を描いたヒューマンドラマである。コトー先生に命を助けられた少年が医者をめざして島を離れ、都会の学校に進学するという話であった。少年を励ますために、島のこどもたちが学校の講堂でおわかれの歌を歌うシーンがあった。そのとき歌われたのが、杉本竜一作詞作曲の「Blieve」である。(NHK「生きもの地球紀行」のエンディングテーマ)

BELIEVE

【作詞・作曲】杉本竜一

1.たとえば君が 傷ついて
  くじけそうに なった時は
  かならずぼくが そばにいて
  ささえてあげるよ その肩を
   世界中の 希望をのせて
   この地球は まわってる
   いま未来の 扉を開けるとき
   悲しみや 苦しみが
   いつの日か 喜びに変わるだろう
   I believe in future
   信じてる

2.もしも誰かが 君のそばで
  泣き出しそうに なった時は
  だまって腕を とりながら
  いっしょに歩いて くれるよね
   世界中の やさしさで
   この地球を つつみたい
   いま素直な 気持ちになれるなら
   憧れや 愛しさが
   大空に はじけて耀(ひか)るだろう
   I believe in future
   信じてる

   今未来の 扉を開けるとき
   I believe in future
   信じてる 


この曲は、小中学校の音楽の教科書にも載っていて、卒業式などによく歌われる人気曲になっているそうだ。こういう歌を知っているこどもはけっしていじめに加担したりしないし、いじめられて死を選ぶようなことはないと信じたい。歌にどれほどの力があるかはわからない。それでも、こういう暗い時勢の重い気持ちを吹き飛ばし、こどもたちに勇気を与えてくれる歌だと思うのだが。

(設問1)いじめはいかなる場合でも許されないと言えるか?

(設問2)いかなる理由があっても自殺はいけないことか?

(設問3)この「Blieve」という曲がメッセージとして伝えようとしていることは何か?

第十四回 Cocco「Heaven's Hell」についての解説

2006-11-05 10:17:34 | Weblog
Coccoについて、実は大ヒットした「強く儚い者たち」くらいしか知らなかった。この曲にしても10年くらい前になるから、そのころは歌詞の意味など考えてもいなかった。
美しいメロディと力強いポップな曲調にどことなく哀愁がただよう歌だと思っていたが、この歌詞がなんとも意味深なのである。
「宝島が見える頃 何も失わずに同じでいられると思う?」「宝島に着いた頃 あなたのお姫様は 誰かと腰を振ってるわ」そして最後に「人は強いものよ そして儚いもの」と歌う。
20歳そこそこの女性の言葉としてはあまりに早熟しすぎている。
これも初期の曲である「Raining」には、「髪がなくて今度は 腕を切ってみた 切れるだけ切った」と思わずギョッとするようなフレーズが出てくる。
(毎日新聞に連載の「想い事」の中に、「近しい人の死を通して学んだこと“死ぬときゃ死ぬ”だから“やりたいように生きる”自傷行為も喫煙も恐れなかった。目に映るもの全てをぶっ壊して。」と書いている。)
彼女ははっきりとは書いていないが、この曲の歌詞は、学校の中で「イジメ」があったことを連想させる。「未来なんて いらないと想ってた 私は無力で 言葉を選べずに 帰り道のにおいだけ 優しかった 生きていける そんな気がしていた」
この曲に限らず、初期の作品は、憎しみや哀しみ、絶望といった情念が噴出している。自分の傷や痛みが曲になって表現されていると言っていいだろう。
もっと言うと、Coccoの初期の詩は、たんなる哀切や悲哀というものではなく、精神の境界性を越えてしみでてくるような危機的な感情だ。
おそらく彼女は、思春期に精神のバランスを崩すような苛酷で絶望的な体験をしたのだと思う。それは失恋なのか両親の離婚なのか「イジメ」なのかははっきりとはわからないが、歌詞の中にそれとなく表現されている。むしろそうした感情や情念を歌に表出することでかろうじて精神のバランスを保っていたのかもしれない。

さて2001年にCoccoは突然、音楽活動を中止する。沖縄に戻って、しばらく海岸でひとりでゴミ拾いをしていたという。そして2003年に「ゴミゼロ大作戦」という啓発イベントを企画するのである。(DVD「Heaven's hell」には、Coccoが自分から学校に出向いて生徒に参加を呼びかけ、沖縄じゅうの学校を回って歩く姿や当日のイベントを成功させるまでの一部始終が記録されている。)
きっかけは幼いころ見たきれいな沖縄の海を取り戻したい、ただそれだけだったのかもしれない。しかし、それだけでないものが彼女を突き動かしていることがわかってくる。ステージで共演するボランティアの生徒たちの前で、彼女は沖縄に住む「アメラジアン」について説明する。それについて、みんなは知るべきであって、知らないことは罪だとまで言う。(「想い事」の中で彼女は、愛した男性がアメラジアンだったこと、沖縄の基地を否定することは、その人の存在を否定することだと思っていたと言っている。そして、そのアメラジアンの彼が沖縄の人たちにひどい仕打ちを受けたとも書いている。)感動的だったのは、子どもたちの前で次のように語る場面だ。「大人になることを怖がらないでほしい。(大人になっても)持っておこうと思ったら持っておけることがいっぱいあるから。忘れないでおこうと思ったら、忘れないでおけることもいっぱいあるから」そう言って15歳からの持ち歌である「Raining」を歌って聞かせる場面である。「髪がなくて今度は 腕を切ってみた」というあの歌である。

「ゴミゼロ大作戦」のイベントを通じて、Coccoはいろいろなメッセージを発信している。愛する沖縄が基地を抱える矛盾、観光のために破壊されていく景観や環境などなど、それを彼女は何とかしたい、自分のできることから変えていきたいと訴える。

だから「Heaven's Hell」の歌詞も、単純に環境保護を訴える歌ではない。出だしからして、ぶっとんでしまう。「今 やっと首に手を掛け やさしい話を手繰ろうと(英語訳では、Now I'm ready to die and I want to look for some sweat stories.)」である。わたし(Cocco)は「死ぬ覚悟ができている」とでも言うのだろうか。

「想い事」の文章に、「私達の美しい島を、“基地の無い沖縄”を見てみたいと 初めて、願った。 じゃあ次は誰が背負うの? 自分の無責任な感情と あまりの無力さに 私は、声を上げて泣いた。 誰か助けてはくれまいか? 夢を見るにもほどがある。 私は馬鹿だ。 ぶっ殺してくれ。」とある。この言葉が歌の冒頭部分に照応しているのなら、(神様!)わたしの想いが間違っているのなら、いつでも「死ぬ覚悟はできています」ということになるのだろうか。もうここには、初期の歌詞に見られたドロドロとした情念や個人的な感情の屈折は見られない。「Heaven's Hell」の歌詞は、Coccoの個人的な情念の言葉が普遍性を持つものに昇華してしまったかのようだ。

「Heaven's Hell」のタイトルは、だから基地やゴミに象徴されるものが「Hell(地獄)」だというのではない。そういうものを産み出している人間の心の地獄を指しているのだろう。沖縄から基地をなくしても、どこか他のところに新たな地獄を作り出すことになる。ではどうしたらいいのか。そうした矛盾に引き裂かれる沖縄の人たちの苦悩もまた地獄なのである。
少女の頃、絶望の淵をさまよったCoccoが、いま、沖縄の痛みを自分の痛みとしてひきうけて歌う。そうすることで自らの個人的な傷を癒すように。それは「大人になっても持っておける」「忘れないでおける」ものを見事に昇華させた姿でもあると思う。そう思って聞くCoccoの歌はより一層美しく感動的ですらある。




第十四回 Cocco「Heaven's Hell」について

2006-10-27 14:04:37 | Weblog
しばらく音楽活動を中止していた沖縄出身のシンガー、Coccoが今年活動を再開した。CDをリリースしたのは5年ぶり、ツアーは6年ぶりになるというが、その間も2003年に「ゴミゼロ大作戦」という啓蒙活動を行っていた。そのライブ映像を見てほしい。(動画はこちら。ただし、「YouTube」なので削除される可能性あり)
この中で歌われている「Heaven's hell」という曲が今回の問題である。Coccoは自分が育った沖縄の海がゴミで汚されていくのに心を痛めて、ひとりでゴミ拾いの活動を始める。それを広げようと考えて沖縄じゅうの学校に働きかけて夏休みの8月15日にイベントを開催することを企画する。そこには沖縄や米軍基地や終戦記念日やらについてのさまざまな思いが込められていたのだが、ここでは詳細は触れない。

毎日新聞の「想い事」というコラムに彼女は次のような文章を書いている。

楽園=Cocco

あまり知られていないが
ジュゴンの見える丘という
美しい場所が沖縄には在る。
実際、ジュゴンを見たという
そんな人には
会ったことがないけれど
それでも私は
歩く力を失くした時
何度かその丘に立って
ジュゴンを待った。

普天間基地の移設に伴い
沿岸だろうと沖合だろうと
その丘の向こうに
ヘリポートが建設されれば
私たちはまた一つ景色を失う。
そもそも度重なる環境破壊や
水質汚濁によって
ジュゴンが帰ってくることなど
もう無いのだろうと
覚悟はできていたはずなのに
最後の細い祈りが
断たれた気がして、泣いた。
私は基地のない沖縄を知らない。
生まれる前から
基地はもうそこに在った。

人生において
あの人と出会っていなければ
私は今、
存在していなかっただろう
という出会いは幾つかある。
その人が、その一人だった。
“愛してる”だけじゃ
届かない世界で
“愛すること”しか知らなかった
あの頃の私に、
あの出会いは絶対だった。
父親の記憶が朧げなその人は
米国軍人と沖縄人との間に
生まれたアメラジアンだった。

沖縄の人は皆、やさしい。
大抵の人は口を揃えてそう言う。
懐が深く、慈悲深い、と。
ところが私はその人の側で
愛する沖縄が容赦無く
彼に過(か)す仕打ちを見てきた。
誤解を恐れずに言うなら
基地の存在を否定することは
彼の存在を否定することだった。
それでも米国軍人による犯罪や
事件は途絶えることが無く、
沖縄が傷付けられ
虐げられてきたことも
紛れも無い事実だ。

“YES”も“NO”も
私は掲げてこなかった。
こんなの戦時中で言うなら
間違いなく非国民だ。
でも、“YES”か“NO”かを
問われることは
残酷だという事を知ってほしい。
返還とは、次の移設の始まりで
基地受入れのバトンリレーは
終らない。
どこかでまた
戦いが始まるだけのことだ。

生まれて初めて
私は、はっきりと願った。
あの出会いを失くすとしても、
あの存在を
否定することになっても。
馬鹿みたいに叫びたかった。
例えばその全てをチャラにして
能天気に鼻歌なんか歌いながら
高い高いあの空の上から
ただ“ILOVEYOU”を
掲げて。
私達の美しい島を、
“基地の無い沖縄”を見てみたいと
初めて、願った。

じゃあ次は誰が背負うの?

自分の無責任な感情と
あまりの無力さに
私は、声を上げて泣いた。

誰か助けてはくれまいか?

夢を見るにもほどがある。
私は馬鹿だ。
ぶっ殺してくれ。

毎日新聞 2006年5月1日 東京朝刊(引用終わり)


沖縄出身の歌手は多いが、このようにストレートに沖縄の現実に向き合い、言葉にしている人はいない。「Heaven's Hell」という曲のタイトルからして実に意味深だ。(直訳すれば「天国の地獄」ということになる)
「ゴミゼロ大作戦」のイベントにもアメラジアンスクールのこどもたちが参加している。彼女が直接学校に出かけてよびかけたからだ。

その「Heaven's Hell」の歌詞であるが、こちらのブログを参照してほしい。

「そうあれは 終末の鐘
ならせ どうせ 聞こえない

あなたが あきらめた海には
そっと 星が降って
私が呼ぶ雨に 濡れても

まだ 歌ってるよ」

「立ち入るな 風の住む丘
虹に架けた 無理な乞い

この空に 犇めく罪を
鳴らせ 落とせ 穴だらけ

例えば その手を振り招き
側にいてほしいと
それでも 大丈夫だなんて

くり返すだけで」

この歌詞の意味は難解だが、上のコラムの文章を参考にCoccoが歌に込めた「想い」を読み解いてみよう。

(設問1)「Heaven's Hell」というタイトルにはどういう意味が込められていると思うか。

(設問2)引用した歌詞の部分はどういう「想い」を伝えようとしたものか。

ケツメイシ「トモダチ」についての解説

2006-10-27 00:33:23 | Weblog
「友だち」とは何か、定義づけるのは簡単なようで案外むずかしい。よく学生時代の友だちとか、中学のときの友だちとか言う。社会に出てから職場の同僚を「友だち」とはふつう言わない。どうやら少年期・青年期に学校という集団で出会う仲間に「友だち」を見出すカギがあるようだ。しかし、社会人になってからでも、「遊び友だち」とか「飲み友達」という言い方はする。学校でなくても、仕事や利害を離れた親しいつきあいは「友だち」と言ってもよさそうである。

会社や職場で日頃親しく接していても「友だち」と言わないのは、仕事上のつきあいや関係はオフィシャルなものであって、プライベートなものでないからである。とりあえずプライベートなものを共有することが「友だち」の条件であるといえる。もう一歩踏み込んで、たんに共有するだけでなくて「共感」することも大切だ。プライベートな面で一緒に行動する仲間であってもお互いに「共感」するものがなければ、「友だち」とは言えないだろう。言い換えれば、友の悲しみが私の悲しみであり、友の怒りが私の怒りでもあるというような関係である。

ケツメイシの「トモダチ」では、「見たままの物を信じた そして笑った」「もどかしい 矛先を そこらに 大人に ぶつけ合い互い教わりながら」「共に流した涙乾いてますか」というようなフレーズにこういう共感がよく表現されていると思う。

だからこそ、何年も経って会っても「友だち」は変わらない同じ気持ちになれるのである。

一緒に語り合い、共感し合った「友だち」も、学校を出て、それぞれ別々の道を進むことになる。自分を支えてくれた「友だち」と別れ、それぞれの道を踏み出すこと、それが「自立」ということではないか。

さて、ここからが問題である。「友だち」はたしかにプライベートな時間を共有し、互いに「共感」しあった仲間である。しかし、どうして互いに共感しあったとか、同じひとつの気持ちになるとかわかるのであろうか。友の悲しみは私の悲しみであるというのはわかるが、「私の悲しみ」が友の悲しみになっているかどうかはわからない。

「友だち」は信頼する存在、信頼できる存在であるかもしれないが、裏切らない存在だと断言できるわけではない。たまたま「友だち」は自分と利害の衝突が起こらなかった、あるいは打算なくつきあえただけかもしれない。その「友だち」がだれに対しても「信頼できる存在」と言えるかどうかは保証できないであろう。むしろ「わたし」にとって「友だち」という「信じられる」存在が必要なのである。「信じられる」存在が必要だから、「友だち」は信頼できる存在で「あらねばならない」のだ。

人が「自立」するためには、他人を信じる気持ちが必要である。他人を信じることができて、はじめて自分が信じられる者になる。(たとえ裏切られたとしても)その最初の信じられる他人というのが「友だち」なのだ。(裏切られるのがいやなら、人を信じなければいいのだ。信じなければ裏切られることはない。しかし、この社会では他人を信じずに生きていくことはむずかしい。他人を信じて、友だちを信じて生きていく方がずっと生き易いのである。)