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Nicomachusの園 Ⅲ

2007年度総合倫理の課題とコメント

槇原敬之「GREEN DAYS」と「悲しみ」の意味についての解説

2007-11-29 22:23:15 | Weblog
長いアルバムのタイトル「悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。」について、槇原はインタビューで、身近に起こった悲しい出来事が愛犬の死であると語っている。アルバムのタイトルにもなった「悲しみ」の背景が「愛犬の死」であったと聞かされると、ちょっとどうかなあと思う人もいるだろう。(もっとも槇原は「愛犬の死」がわが子を喪ったような衝撃だったと語っている。しかも、その死は槇原自身の行動や判断が原因になっている。)

愛犬であろうが肉親であろうが、愛するかけがえのない対象を喪ったとき、「悲しみ」の感情に襲われるのは自然である。しかし、なぜ愛する対象の死が「悲しみ」の感情を生起させるのか。そもそも「悲しみ」とは何なのか、という問いに答えるのは容易ではない。(槇原の場合、愛犬のいのちを救うことができなかったこと、愛犬に死をもたらした原因は槇原自身にあったことに、自責と後悔の念にかられたであろうことは想像できる。)

しかし、人間が悲しんだり悲嘆に暮れたりすることに何かの意味があるのではないか。こう思い直してみるところに槇原の非凡さがある。
「ひょっとして悲しみというのは愛が残してくれた置き手紙みたいなものじゃないのか、悲しみと喜びは一緒のものなんじゃないかなと思い始めたんです。」「こうして話をしていると思い出して泣けてしまうほど辛いけれど、でもこの感情を知らない方が良かったかというと、そうではない。同じ苦しみに陥っている人の心に寄り添えるし、ほんの少しでも誰かの痛みがわかってあげられる。それはこんなにも大事なことだったんですね。」

仏教用語で「悲しみ」(「悲」)は、生きものの苦しみを救うという意味である。
ウィキペディアの「慈悲」の項の解説に次のような説明がある。

「「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。」

「悲しみ」は、愛する対象を喪って引き起こされる情念や情動のような感情のことではない。同じ生きるものの苦しみを背負った存在として、他者の苦しみを救わずにはいられないという思いが「悲しみ」のほんとうの意味なのである。(槇原のことばがあまりにもこの仏教用語の解釈に似ているので驚いてしまったが、おそらく仏教の考えを理解していて出てきたものだと思う。)

もうひとつインタビューの中で、含蓄のある体験談を語っている。それはテレビでビクトリア滝の美しい虹のシーンを見たあとで、犬の散歩の途中、愛犬がくしゃみをしてしぶきを飛ばした鼻先に、小さな虹が浮かんだのを見た。そして、この体験をこういう風に語る。
「ものの大小ではなく、実は世の中にはそういう何かとても大切なもの、美しいものにあふれているんじゃないかと気がついたから。」

こういう槇原の世界観のようなものを理解して、「GREEN DAYS」の歌詞を見ると、また別な解釈が生まれてくるであろうと思う。

たとえば、最初の「よかった この世界は」の「よかった」は、その前の「それぞれがちゃんと一人で 悩んだと分かった」をうけている。これは「共感」ということのメッセージであろう。怒りや悲しみやいらだちという自己感情にとらわれているときに、他の人を見ると、同じように苦しみ悩んでいることに気づかされた。だから「サイテーだと誤解したままで」終わらずにすんだというのである。

その次の「よかった」も、その前の「そこにはないと決めつけて 見ようともしなかった場所に 大切な宝物があると気づいた」「自分の心に見つけた」をうけている。(これは槇原がインタビューで語った「虹」の体験のことだと思う)このなんでもない身近な日常の世界に「宝物」を見出すこころのあり方に「これからも生きていける気がする」と歌っているのだと思う。

槇原は、「世界に一つだけの花」について、お釈迦様の「天上天下唯我独尊」という言葉だとインタビューで語っている。このころからすでに仏教の影響をうけていることがわかるが、今回のアルバム「悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。」もかなり深く仏教的な世界観が表現されている。それは何か宗教的なメッセージということではなくて、槇原自身の生き方やこころのあり方として確固たるものになっていることを示しているのではないかと思う。

4 コメント

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Unknown (JOS)
2007-11-30 13:29:51
 今改めて、歌詞を見直してみると、誠実や純粋という言葉が頭に浮かびました。
 普段の何気ない生活に価値を見出し、悲しむことで他人への思いやりを育んでいく。
 一見すると、平凡な考えに思えますが、その平凡に見える考えが槇原さんの伝えたいこと、槇原さんの生き方なのかもしれないと思いました。
 そんな生き方を青春と呼んでいるのかもしれないですね。
 
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Unknown (stupid)
2007-11-30 13:37:35
 解説を読んで思ったが、普通に聞いていたら槇原の悲しみの定義はもちろん、仏教的な思想まで読み取るのは不可能だろう。この歌詞は槇原自身が体験したことと照らし合わせて初めて見えてくる。そのときの奥行きの深さはなかなか侮れないものがあるが。
 そうやって考えてみるとかなり個人的なことを歌っているようにも思えるが、そこをぼかしてPOPSらしくしている。少しぼかしすぎてよくわからなくなっているような気もするが。とにかく、仏教的な思想までも含んであっさりとしたPOPSにしているのはやはり槇原の才能だろうと思った。
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Unknown (s/a)
2007-11-30 13:38:35
「身近なものの大切さに気づけ」そう言っている歌のような気がします。邦楽ヒット曲の傾向のひとつというか、そういう歌の多さにそろそろ辟易しているのは私だけでしょうか・・・?大切なことですけどね?
出来る限り謙虚であれと己にも周りにも求める姿は日本人らしいといえばらしいですが。
これだけ言われているにもかかわらず、すぐに受け取る側がそれを忘れてしまうからでしょうかね?
なんだかわかっていることを改めて言われているような。悪く言えば耳たこ状態ですかね。
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Unknown (haniwa)
2007-11-30 13:45:36
愛犬が亡くなった当時は、分を責め続け、それでも戻ってくるものではなかったから、本当に辛かったと思う。
でもそんな中で、辛いのは自分だけじゃないことに気づけた。そんな人たちの心に寄り添えることに気づけた。そうして「これからも生きていける気が」したんじゃないかな。
「サイテーだと誤解したままで」終わらずにすんだのは自分自身のことだったのかも知れない。

仏教の思想は今にも通じるところも多くおもしろいなと感じている。「悲」の意味は初めて知った。もっといろいろ調べていこうと思う。
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