「友達の詩」をなんの先入見もなしに聴くならば、男女の間のせつない恋心を歌ったものと思っても違和感はない。しかし、よく歌詞を見ると「胸の痛み…別の傷で隠す」とか「並んで歩くくらいでいい それすら危ういから」とか、たんにプラトニックな片思いの心情だけではない表現が浮かび上がる。「大切な人は友達くらいでいい」という表現には、「友達」の関係でいいんだとか、それでも十分なのだといった心情にまとめてしまうことができないような複雑な想いがこめられている。
「性同一性障害」は生物学的な性と自分がそう思っている自分の性とが一致しない症状を言う。自分が女性として身近な男性を好きになっても、生物学的な性は「男性」なのだから相手からどのように思われるかわからない。好きな相手と手を繋ぐだけでもささやかな幸福を感じると思っても、それすら許されないだろう。相手が許しても周りがどう反応するかわからない。かえって好きな相手を傷つけてしまうかもしれない。
「友達くらいが丁度 いい」という言葉は「強がり」のようにも聞こえるが、そうではないだろう。自分が傷つくことを怖れるより、むしろ好きな相手を傷つけてしまうことがつらい、そんなせつなくやさしい思いがこめられていると解釈すべきであろう。
この関係は、外見的には男性同士の「同性愛」としか見えないし、また、「性同一性障害」が「ゲイ(同性愛者)」とどうちがうのかが周囲にはわからない。
プラトンの「シュポシオン(饗宴)」という書には、人間がいまのようにこの世に生まれ落ちる前にいっしょだった相手が同性だった場合は同性愛になり、片割れが異性だった場合に異性愛になるという寓話が出てくる。プラトンの愛(エロス)では、「同性愛」の方がじつは精神的に高尚なものとして考えられている。プラトンのいた古代ギリシアでは「同性愛」はけっして異端的なものではなかったのである。
さて、「性同一性障害者」がなぜ生物学的な性(セックス)と心理的な性(ジェンダー)が一致しなくなるのか、詳しいことはわかっていない。「女性装」をするゲイ(同性愛者)と「性同一性障害」とはほとんどちがいがわからないほど近いように感じるが、多くの「性同一性障害者」は「ゲイ(同性愛者)」と同じであるとは認めていないようである。
自分の生物学的な性との不一致に対する違和感の深刻度の差が、「性同一性障害」と「ゲイ」との決定的な差であると言えるかもしれない。
最近、欧米社会では「LGBT」(Lは「レズビアン」、Gは「ゲイ」、Bは「バイセクシャル」、Tは「トランスジェンダー」)といわれる性的少数者の社会的な権利を認める動きが加速している。いままで「異常」(アブノーマル)として片付けられていた「異性愛」以外の性的な志向性を性の多様性として認知しようとする動きである。
一方、日本では「性同一性障害」を精神疾患として治療が認められるようになり、性転換手術も施されるようになった。しかし、「性転換者」の戸籍変更は認めないという判決が出ている。「性転換」によって、外見的な性や身体的な性は転換できても、遺伝子や染色体レベルでの変更はできない。トランスジェンダー(性転換者)を社会的にどのように受容するかという問題にはまだ困難な問題が横たわっているのである。
中村中が、自分は男性でも女性でもない、という気持ちが少しはわかる気がする。ほとんどの人はまったく意識せずに、自分は「男である」あるいは「女である」というように認識している。しかし、ほんとうは「男である」「女である」と自認するのはそう簡単なことではないのかもしれない。そのことを「性同一性障害」の人の苦しみが示していると言えるのではないか。
「友達の詩」は、思いを寄せる大切な人を「友達」とよばなければならない、せつない悲しみを表現したものである。「友情」もひとつの「愛」のかたちにはちがいない。しかし、それ以上のきずなを求めたくても求めることができない。なぜなら、その人は自分のことを異性と思ってはいないからだ。(もし、同じように相手も自分を求めているのなら、それは「同性愛」ということである。しかし、そうではないのだ。)この乗り越えられない絶望的な壁の前で苦悩する「性同一性障害者」の複雑な想いが見事に表現されている、記念碑的な一曲と言っていいだろう。
「性同一性障害」は生物学的な性と自分がそう思っている自分の性とが一致しない症状を言う。自分が女性として身近な男性を好きになっても、生物学的な性は「男性」なのだから相手からどのように思われるかわからない。好きな相手と手を繋ぐだけでもささやかな幸福を感じると思っても、それすら許されないだろう。相手が許しても周りがどう反応するかわからない。かえって好きな相手を傷つけてしまうかもしれない。
「友達くらいが丁度 いい」という言葉は「強がり」のようにも聞こえるが、そうではないだろう。自分が傷つくことを怖れるより、むしろ好きな相手を傷つけてしまうことがつらい、そんなせつなくやさしい思いがこめられていると解釈すべきであろう。
この関係は、外見的には男性同士の「同性愛」としか見えないし、また、「性同一性障害」が「ゲイ(同性愛者)」とどうちがうのかが周囲にはわからない。
プラトンの「シュポシオン(饗宴)」という書には、人間がいまのようにこの世に生まれ落ちる前にいっしょだった相手が同性だった場合は同性愛になり、片割れが異性だった場合に異性愛になるという寓話が出てくる。プラトンの愛(エロス)では、「同性愛」の方がじつは精神的に高尚なものとして考えられている。プラトンのいた古代ギリシアでは「同性愛」はけっして異端的なものではなかったのである。
さて、「性同一性障害者」がなぜ生物学的な性(セックス)と心理的な性(ジェンダー)が一致しなくなるのか、詳しいことはわかっていない。「女性装」をするゲイ(同性愛者)と「性同一性障害」とはほとんどちがいがわからないほど近いように感じるが、多くの「性同一性障害者」は「ゲイ(同性愛者)」と同じであるとは認めていないようである。
自分の生物学的な性との不一致に対する違和感の深刻度の差が、「性同一性障害」と「ゲイ」との決定的な差であると言えるかもしれない。
最近、欧米社会では「LGBT」(Lは「レズビアン」、Gは「ゲイ」、Bは「バイセクシャル」、Tは「トランスジェンダー」)といわれる性的少数者の社会的な権利を認める動きが加速している。いままで「異常」(アブノーマル)として片付けられていた「異性愛」以外の性的な志向性を性の多様性として認知しようとする動きである。
一方、日本では「性同一性障害」を精神疾患として治療が認められるようになり、性転換手術も施されるようになった。しかし、「性転換者」の戸籍変更は認めないという判決が出ている。「性転換」によって、外見的な性や身体的な性は転換できても、遺伝子や染色体レベルでの変更はできない。トランスジェンダー(性転換者)を社会的にどのように受容するかという問題にはまだ困難な問題が横たわっているのである。
中村中が、自分は男性でも女性でもない、という気持ちが少しはわかる気がする。ほとんどの人はまったく意識せずに、自分は「男である」あるいは「女である」というように認識している。しかし、ほんとうは「男である」「女である」と自認するのはそう簡単なことではないのかもしれない。そのことを「性同一性障害」の人の苦しみが示していると言えるのではないか。
「友達の詩」は、思いを寄せる大切な人を「友達」とよばなければならない、せつない悲しみを表現したものである。「友情」もひとつの「愛」のかたちにはちがいない。しかし、それ以上のきずなを求めたくても求めることができない。なぜなら、その人は自分のことを異性と思ってはいないからだ。(もし、同じように相手も自分を求めているのなら、それは「同性愛」ということである。しかし、そうではないのだ。)この乗り越えられない絶望的な壁の前で苦悩する「性同一性障害者」の複雑な想いが見事に表現されている、記念碑的な一曲と言っていいだろう。
参議院選挙でもレズビアンの人や性同一性障害が立候補していましたが、いい動きだと思います。そうして世の中が自分とは違う人を理解するということは、別に特別でもない、誰もがしていくべきことだと思います。
生物学上の問題があったりするかもしれませんが、当人が感じること、求めていること以上に実現させたほうがいいものはないと思いますので。
このような人たちへの社会の眼差しが、寛容なものになることを願います。
「丁度いい」って言い切ってしまわなければ、自分の中でそうやってある種の線引きでもしなければ、辛くて辛くてょうがなかったところもあるんじゃないかな。
私は同性愛でも何でも、恋愛は自由でいいと思う。お互いがいいと思ったことなんだから。
同性愛が高尚なモノだとは思わないけれど、それが単なる憧れや逃げなんかではない限り芽生えてしまった想いというのはどうしようもないんだから。
日本人ってすぐ区別したがるところがある気がする。だからいじめとかも多いんじゃ?仲間意識も大事だけど、個性とか言うくらいならもうちょっといろんなことに寛大でいいんじゃないかしらと思う。