芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

東伍と千秋 ~掌説うためいろ余話~

2016年04月07日 | エッセイ
                                                   


 民俗学者の谷川健一に「独学のすすめ 時代を超えた巨人たち」という著書がある。ですます調で書かれたたいへん読みやすい本だが、その中身は実に圧巻なのだ。彼が取り上げた六人の独学の天才たちが、あまりにも偉大だからである。
 先ずその一人は、南方熊楠である。南方は慶応3年(1867年)生まれで昭和16年(1941年)、日本の敗戦を見ずに没した。おそらくこの慧眼の人には結末が見えていたことだろう。
 次に谷川が取り上げたのが柳田國男である。柳田は明治8年(1875年)生まれである。長命で昭和37年(1962年)に亡くなった。柳田国男は東京帝国大学では農政学を専門として学んだが、民俗学に関しては独学で、その膨大な読書と調査と聞き書きと類い希なる想像力で、自らの学問を樹立したのである。
 三番目に取り上げたのが折口信夫(おりぐちしのぶ)である。柳田國男の著作に影響され民俗学に入った。国文学者、国語学者でもあり、釈超空の号で歌人、詩人としても知られた。柳田國男の弟子として民俗学を考究し、やがて彼の学問は「折口学」とまで呼ばれた。
 四番目が吉田東伍である。吉田は元治元年(1864年)生まれ、大正7年(1918年)に没した。吉田は新潟学校中学部を三年半ばで退学し、学校には通わずに自ら学び、小学校正教員検定を合格し、故郷で小学校訓導となった。歴史学、地理学、天文学、考古学、人類学を独り学び、史学関係の研究誌などへ論文を投稿し続け、その論考によって注目され、やがて学界に認められていった。彼こそはまさに独学の歴史学者、地史学者、地誌学者、地理学者の巨人であったろう。
 吉田東伍は膨大な読書、研究、想像力によって、たったひとりで全七巻の「大日本地名辞書」を書き上げたのである。司馬遼太郎は「街道をゆく」をはじめ、その歴史随筆で何度も吉田東伍と「大日本地名辞書」を取り上げている。まさに恐れ入ったという感じなのだ。
 さて、谷川の取り上げた五人目が中村十作である。中村は慶応3年生まれ、昭和18年(1943年)に没している。中村は東京専門学校を中退後に、宮古島に真珠養殖事業を興そうと渡った。彼は宮古島の島民たちが人頭税に苦しむのを見て、その廃止運動に立ち上がった。彼は琉球の佐倉宗五郎と呼ばれた。
 六人目は笹森儀助である。弘化2年(1845年)に陸奥国弘前町に生まれ、大正4年(1915年)に青森で亡くなっている。彼は探検家として南西諸島や千島列島を踏査し、著書「南嶋探検」は柳田國男らに大きな影響を与えた。笹森は奄美大島の島司や青森市長を務めるなど、政治家でもあり教育者でもあった。

 吉田東伍のことである。彼は明治28年頃から、この壮大な事業にひとりで取り掛かり、13年の月日をかけて千二百万字を書いた。完成したのは明治40年で続編を除いて出版した。
 私は「大日本地名辞書」を直接手にとって全頁に目を通したわけではない。吉田研究者、民俗学者、歴史学者、郷土史家、地理・地誌・地史学者、作家(司馬遼太郎、金達寿など)、随筆家などの著述の中に、その引用の数々を目にしてきたわけである。
 そして彼の、一地名の実に簡潔な論述の中に、その背後に聳え立つ膨大な知識の量と想像力に圧倒され、小気味よい推定と断定に感心してしまうのだ。
 その土地にかつて流れてきた人たちの、住み着いた人たちの、かつて生きてきた人たちの、遠い出自、部族や民族と言語を偲ばせ、かつてあった河川の痕や山谷の形や峠の険しさを偲ばせ、その地に吹く風や、重層した歴史や混在した文化の変遷や堆積を偲ばせる。谷川健一は吉田東伍を「辞書に地霊を吹き込んだ学者」と書いた。そして…

『大日本地名辞書』の最大の特色は強烈なイメージの喚起力である。それを開く読者は、土地の精霊がおもむろに眼をさまし、身を起こし、自分に向かって親しげに話しかけてくるのを感じる。こうしてその土地の輪郭が鮮明に浮かびあがる。つまり吉田東伍はその天凛の才をもって、地名の本質を会得しているのである。地名辞書が明治後半の著作物でありながら、今もってみずみずしい新鮮さを失わない秘訣はそこにあると私は思う。また地名辞書が一個人の手によって完成されたという点も、記述の一貫性という点で大きな利点となっている。
 ひとりの人間の志と気魄と執念がかくも見事に業績として結晶した例を私は知らない。光栄ある辞書よ。  (『増補大日本地名辞書』推薦のことば)
 
 私は三省堂の「コンサイス日本地名事典」をよく眺めるが、あくまでコンサイスであって、その土地に暮らした人々の遠い出自、部族や民族と言語、河川や山谷と歴史文化を偲ばせるほどのものではなく、吉田東伍の簡潔雄勁な論述に遠く及ぶものではない。しかしそれでも十分楽しいのだが。

 吉田は故郷で小学校の教師をしていたが、26歳の時に理由も告げずに妻と子どもを置いたまま、北海道に旅立ったのである。寡黙な男のその行動は今もって謎のままらしい。彼は北の大地を彷徨いながら、既成の学界に縛られぬ大きな構想、自由な想像力を養っていたのかも知れない。
 谷川健一が感動するのも、吉田の自由な、かつ確かな卓見なのである。例えば神奈川県の津久井郡を、吉田は甲州に入れている。歴史的な風土性、文化的関係性から言えば、津久井は甲州なのである。そして現在も甲州・山梨県との関係が深い。南伊予は土佐との関係を重んじ土佐に入れた。伊豆七島は相模の伊豆に入れた。それが地勢的・歴史的関係性だからである。相模や武蔵の地名の由来も明快である。素晴らしいものだ。「大日本地名辞書」の本質は地誌なのである。そして風土、風景が目に浮かぶが如く活写される。
 今どきの不動産開発業者が生み出した「あさひが丘」だの「ゆうひが丘」だのには歴史も文化も意味も無い。また行政が勝手に町村合併で地名を変更し、街の区割りも変更して旧い町名を捨て去る。それは歴史や文化を蔑ろにすることと同じだ。歴史や文化や記憶に対する思想も無く、配慮もない。
「鷹匠町」も「大工町」も「御徒町」も良い地名だ。「秋葉原(あきはばら)」は、何もない原っぱに火伏せの「秋葉(あきば)権現」を勧請し、火事が広がるのを防ぎ願った。だから本来は秋葉権現様のある原「あきばはら」である。
 
 吉田東伍は下宿で座机の前に正座し、こつこつと「大日本地名辞書」を書き続けた。しかし彼の下宿の部屋にはほとんど書籍がなかったらしい。膨大な参考資料を元に書いているかと思いきや、その読書は図書館で行っていたという。それを一読すると記憶したらしい。天才なのである。
 岩倉遣欧使節団に随行し「米欧回覧実記」を書いた久米邦武は、東京帝国大学の歴史学教授であった。明治25年、28歳で読売新聞に入社した吉田が、彼をインタビューに行った際、久米は自分の言いたいことはここに書いてあると、自分の論文から抜粋した資料を吉田に渡した。吉田はそれを一瞥しただけで置いて帰ったという。久米は失望したらしい。しかし翌日の新聞には彼の資料が掲載されており、さらに久米の意見も加えられていた。久米は吉田東伍という男に驚愕した。
 その後、久米は「神道ハ祭天ノ古俗ナリ」という論文で、皇国主義者、右翼などから攻撃され大学を追われた。右翼・皇国主義者の暴力や官権の弾圧を恐れて、誰も久米を擁護する者はなかった。その時ただ一人、吉田東伍が「言論の自由は尊ばれるべきである」という論を書いて久米を擁護したのである。
 現在の政権広報機関として政権批判を許さない「放送の言論弾圧を求める視聴者の会」の異様な広告を出す読売新聞からは、実に考えられないことである。
 明治28年2月に吉田の故郷・大鹿で次男・千秋が生まれた。そのとき彼は日清戦争の従軍記者として軍艦「橋立」に乗船していた。日清戦争は3月に終わった。
 実は東伍の次男・吉田千秋についても書きたいのである。千秋は父と同様に独学でドイツ語やラテン語、ギリシャ語、ロシア語を学び、独学で作曲を学んだ。千秋は自ら作詞、訳詞し、それに曲をつけている。そのうちの一つに「ひつじぐさ」という曲があり、やがてこの曲は京都帝大の端艇部(ボート部)の部歌、寮歌として別の詞で歌われるようになった。「琵琶湖周航の歌」である。
 このことを「掌説うためいろ」の一篇「千秋のひつじぐさ」として、少しずつ書きつつある。
 天才・吉田東伍は大正7年に亡くなったが、その翌年、次男・千秋は24歳で夭折した。私にはこの父子が気になるのである。