芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

掌説うためいろ 羽衣伝説

2015年10月03日 | エッセイ
    

 その撫で肩の男は浅草寺の前で人力車を降りた。その頃は大提灯の掛かった仁王門(雷門)は、慶応元年に焼失後、まだ再建されていなかった。男は聳える五重塔を左に見て、瓢箪池の公園に向かって歩き始めた。当てずっぽうである。
 
 子供の頃、浅草見物や墨田堤の桜見物には、店の婆やに手を引かれたり、店に出入りの若い衆に連れてきてもらったものだ。人混みの中で、若い衆は肩車をしてくれた。長じて上野の東京音楽学校に勤めはじめてからは、よくひとりでぶらりと遊びに来ていた。
 男は美男とまではいえないが、渋めのなかなかいい男である。いかにも大店の若旦那としての育ちの良さが感じられた。決してお洒落をしているわけではないが、どことなく品位があった。
 男の名を羽衣と言った。それは柔らかく、全く重さを感じさせぬ羽毛の如く軽い天女の衣装で、まるで源氏名の如き響きである。むろんこの名は号である。その名の通り、羽衣は軽く飄然として、慎ましやかな人物だった。育ちの良さか、生来のノンシャランで欲得がなく、何事にも恬淡としていた。それが彼を控えめに見せていた。自分を主張することも嫌いだし、傍目には挫折のように見えても、本人は全く気に病む様子もない男だった。

 武島羽衣は明治五年、日本橋の木綿問屋に生まれた。本名は又次郎である。父は多才な趣味人で、号を持ち和歌や漢詩を嗜むなかなかの教養人であった。羽衣も幼少時から「万葉集」をはじめとする和歌や俳句、漢詩に慣れ親しんできた。八、九歳にして「源氏物語」を読んでいた。
 明治五年といえば、太陽暦が採用された年で、旧武士階級の男たちは未だ頭に髷を結い、腰に刀を差していた頃である。仇討ちが禁止されたのが翌年で、苗字が許されたのが三年後、佩刀禁止は四年後だった。まだ江戸が色濃かった。

 この日羽衣は、自分の詩の替え歌を歌って評判になっている大道演歌師の噂を聞き、好奇心から見に来たのである。伝法院の右手、公園内は行き交う人々でごったがえし、屋台や香具師、大道芸人の周囲は人垣ができ、ますます渋滞を招いているのだった。その中で、一際良く通る女性的な優しい歌声で、何重もの人垣をつくっている男がいた。節回しとテンポ、独特の調子…演歌である。羽衣はこの男だろうと確信した。
 人垣をぬって前に出ると、果たしてその男が名調子で歌っていた。男は長身で撫で肩、宗匠頭巾に袖無し羽織、小口袴のいでたち、立派な鼻髭を生やしていた。優しげで、心地よい魅力的な声である。顔を見て、これは只者ではないと分かった。この男が、あの添田唖蝉坊である。唖蝉坊も明治五年の生まれだから、羽衣と同年である。羽衣は自分の詩を替え歌で歌われることに、何の抵抗も抱いてなかった。ただ、評判の唖蝉坊がどんな男か、興味を抱いて見に来たのである。

 やがて男は口上を述べ始めた。
「さて皆さん、今や世間を賑わす大事件。かの当代随一を謳われた漢詩人・野口寧斎が妹は、妖気漂う絶世の美女という。彼女を娶り寧斎の義弟となった男三郎。いまや薬種店主殺しと数年前の少年殺し、そして義兄・寧斎殺しの疑いで、獄舎に繋がれ何想う。獄舎で流すその涙、その頬照らす月明かり…さても世を驚かしたる猟奇的殺人の真実やいかに…それではお聴きいただきましょう。『夜半の追憶』」
 漢詩人・野口寧斎殺しと、少年を殺して臀部の肉を切り取ってスープにしたとして世間を騒がしていた猟奇殺人事件の犯人・野口男三郎を題材にしたものである。漢詩人で文芸時評や紀行文でも知られた野口寧斎は、不幸にも癩病を患っていた。正岡子規は「文人の最も不幸なる者野口寧斎、次に予」と言った。
 寧斎には曾恵子という妹がいたが、彼女は不吉なほどの絶世の美女と言われた。男三郎はこの野口曾恵子に婿入りして野口姓となったのである。彼は揺るがぬ証拠を挙げられて薬種店主殺人の容疑で逮捕されたが、他にも数年前の少年殺しの疑いと、義兄の寧斎に毒を飲ませて殺した疑いもかかっていた。
 宗匠頭巾の男は歌いだした。羽衣の詩「天然の美(美しき天然)」の替え歌である。節回しは佐世保の海兵団軍楽隊の隊長・田中穂積が作曲したものがそのまま使われていた。
 
   あゝ世は夢か幻か    獄舎にひとり思ひ寝の
   夢より醒めて見廻せば  四辺(あたり)静かに夜は更けて 

   月影淡く窓に射す    あゝこの月の澄む影は
   露いとしげき青山に   静かに眠る兄君の

   その墳墓(おくつき)照らすらん 
   また世を忍び夜を終夜(よもすがら)
   泣き明かす       愛しき妻の袂にも

 詞の内容は男三郎に同情的なものである。羽衣はその詞を聴きながら「ほう」と思った。この替え歌は唖蝉坊の仲間の神門安治という演歌師が歌本の刷物にしたものだが、売れに売れた。
 唖蝉坊はすでに何曲も歌っていたのだろう。「夜半の追憶」を歌い終わると、再び瓦版屋のような口上を入れながら、それまで歌った曲名を繰り返しつつ「歌本」を売った。歌本は黄ばんだような粗末な紙を、何枚か重ねて二つ折りにしたもので、歌詞しか載っていない。唖蝉坊を取り囲んでいた人垣が大きく揺れ動き、いくつもの手が伸びて歌本を買っている。「ほう、売れるものだな」と羽衣は感心した。
 一瞬、唖蝉坊と羽衣の目が合った。羽衣は思わず微笑んだ。唖蝉坊も微笑んだように見えたが、羽衣の気のせいかも知れなかった。明治三十八年の初秋のことである。

    空に囀る鳥の声     峯より落つる滝の音
    大波小波とうとうと   響きを絶えせぬ海の音 
    聞けや人々おもしろき  この天然の音楽を
    しらべ自在にひきたもう 神の御手の尊しや

    春は桜のあやごろも   秋は紅葉のからにしき
    夏は涼しき月の絹    冬はま白き雪の布
    見よや人々美しき    この天然の織物を
    手ぎわ見事に織りたもう 神の御業(たくみ)の尊しや

 「天然の美」は大道演歌師たちの替え歌で世に広く流布し、やがて宣伝の大道楽士(チンドン屋)たちに引き継がれ、さらに曲馬団(サーカス団)には欠かせぬジンタの響きとなっていく。羽衣はそれに対し、何ら関心も抱かなかった。不平も喜びもなく、特に感慨も無かった。

 武島羽衣は、滝廉太郎作曲の「花」の作詞者として知られている。これは後世に残る名曲であろう。当初の原題は「花盛り」といった。廉太郎は組曲「四季」の第一曲としてこの詩を選んだ。ちなみに冬は中村秋香作詞の「雪」で、秋は廉太郎自らが作詞した「月」である。第二曲になる夏のいい詩が見つからず、廉太郎は東京音楽学校の仲間である東くめに作詞を依頼した。くめが作詞したのが「納涼」である。
 廉太郎は羽衣の「花盛り」という題を「花」としたいと羽衣に申し出た。羽衣はいともあっさりと了解した。彼は全くこだわりのない男だったのだ。

    春のうららの隅田川
    のぼりくだりの船人が
    櫂のしづくも花と散る
    ながめを何にたとふべき

    見ずやあけぼの露浴びて
    われにもの言ふ桜木を
    見ずや夕暮れ手をのべて
    われさしまねく青柳を

    錦おりなす長堤に
    くるればのぼるおぼろ月
    げに一刻も千金の
    ながめを何にたとふべき

 墨田堤の桜の季節を歌った羽衣の詩は素晴らしい。その「櫂のしずくも 花と散る」は、「源氏物語」の「胡蝶」の巻、六条院の宴の場面で出てくる歌の「本歌取り」だ、と指摘したのは田辺聖子である。
    
    春の日のうららにさしてゆく舟は棹のしづくも花ぞ散りける
 
  羽衣も田辺聖子も素晴らしい教養である。本歌取りは日本の文芸の伝統なのだ。「花」は中国の漢詩からも本歌取りをしている。蘇軾(そしょく)の「春夜」にある「春宵一刻値千金」である。「げに一刻も千金の」…羽衣の教養は実に素晴らしい。

 羽衣と滝廉太郎が東京音楽学校の教師時代、二人は揃って文部省へ留学を申請した。ところが健康診断で羽衣は落ち、廉太郎だけが合格した。
 廉太郎の留学は、明治三十三年の六月に出発と辞令が出たが、学校も廉太郎も文部省に一年延期を願い出た。学校としては彼の穴を埋める人材が見当たらなかったという事情があり、廉太郎自身も留学前に完成させたい曲や、試したい音楽や作りたい曲が溢れるほどあったからである。
 この延期された一年弱の短い期間に、日本は廉太郎畢生の名曲を得たのである。先ず日本初の組曲「四季」が完成した。羽衣の「花」がそのひとつである。さらに中学唱歌募集の懸賞に応募した「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」の作曲である。そして「お正月」「鯉幟」「桃太郎」などの子ども向けの唱歌で音楽的な試行をした。
 奏楽堂で廉太郎の洋行を祝う壮行会コンサートが開催された。羽衣は特に落ち込んでいなかった。廉太郎の天才を疑う者は誰もいなかった。彼のピアノの師であるケーベルは、留学先のライブツィヒ王立音楽院に紹介状を書いた。
 やがてドイツに渡った廉太郎は早々に病み、帰国を余儀なくされた。そして療養の甲斐無く二十三歳の若さで亡くなってしまった。一方羽衣は飄々と、九十五歳まで長生きした。
 人生とは分からないものである。「神の御手の尊しや」「神の御業の尊しや」と羽衣は詩った。後に羽衣は美文調の詩から和歌に移り、歌人として宮内省のお歌所寄人も務めた。

              

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