芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

最初は素人

2016年07月23日 | エッセイ
 私がイベント・広告業界に紛れ込んだ のは実にいい加減なことからである。新聞の求人欄で、あまりない珍しい社名を見かけた。オフィス25時という のである。「委細面談」とある。高田馬場にある手塚治虫の「虫プロ」に近いマンションの一室で、委細面談の直後にそこの社員となった。
 私は芸能人、芸能界についてはほとんど知識がない。最初の仕事は仕事とも呼べぬもので、目の前に山と積み上げられた女性週刊誌を読むことである。およそ一週間ばかりを朝から晩まで、「セブンティーン」「女性自身」「明星」「平凡」「女性セブン」「微笑」など、あくびをこらえることもなく読み、眺めて過ごした。また先輩(私よりずっと年の若い女の子である)の電話の受け答え方や、使用される用語を学んだ。
 次に上司から命じられた仕事は、広告に起用するタレントのリストアップである。クライアント名、商品、ターゲット、予算を告げられ、日本タレント名鑑と、芸能界の電話帳である連合通信社の赤本、青本を手渡された。リストアップが済むと、上司はその中から何人かに印を付け「当たれ」と言う。 
 タレントの所属事務所に電話を入れると、デスクから担当マネージャーへ、さらにCMに関しての担当重役や社長に回され、彼等から矢継ぎ早に質問を受けた。こちらは無論シドロモドロである。その時、事務所にはデスクという担当があることを知った。コンセプトやオール媒体、クールという言葉を初めて 知った。タレント事務所のCM担当専務や社長から、企画書(コンセプト)、絵コンテを持っての来社を求められた。絵コンテなるものの必要も知った。上司に報告すると「そんなものはまだない。とにかく交渉に行ってこい」と命じられた。私は書店に走り、広告用語事典やテレビ用語事典、CM制作や絵コンテ の描き方などの本を求め、その夜それらを参考にしながら、自ら勝手にCMコンセプトとコピーを書き、絵コンテを描き、約束の日時にタレント事務所に持参し た。こうして素人の私が、広告業界と芸能界に足を踏み入れたのである。後に、嫌と言うほどブッキングや、企画書づくりとコンセプトワークに携わることになった。

 私はほどなく舞台イベントの最初の仕事を命じられた。台本を渡され「おまえは下手(しもて)づきだ。本をよく読んでおけ」と言われた。…「シ・モ・テぇ…?」ってなものである。
 全盛期の佐良直美のコンサートである。会場は札幌の厚生年金会館、二千数百人収容の大ホールであった。初めて上手(かみて)と下手を覚えた。大道 具は東宝 舞台で、照明も東宝の人であった。打ち合わせや現場で、初めて聞く用語に戸惑った。バトン、綱元、わらう、鏡前、板付、八百屋、蹴込み、幅木、大黒(おおぐろ)、中割、袖幕(見切幕)、ジョーゼット、ホリ、灯体、ピン、1ベル2ベル、 MC、かげアナ、暗転、F.O、F.I、ルミチューブ、ピアノのピッチ、オケピ、ころがし、おべた、ゲネ(ゲネプロ)、ドレスリハ、地がすり、箱馬、山台、場みり、切り出し、人形脚、しず、一文字、切り文字、なぐり、キャットウォーク等々である。「M2終わって暗転、◯◯を下手にわらって」「笑 え~? アハ、アハハハはァ??」ってなものである。
…こうして素人の私が、舞台や音楽業界に足を踏み入れたのである。その後、嫌というほど進行台本を書き、イベントのマニュアルを制作することになった。
 次のコンサートは宝塚出身のの歌手・堀内美紀のディナーショーで、おぼろげな記憶だが、ところは日光の有名老舗ホテルだったか。
 やがて私は、アイドル歌手、ジャズ、 演歌、クラシック、ロック、フォーク、ボサノバ、シャンソン、伝統音楽、民族音楽等とあらゆるジャンルの音楽イベントに関わることになった。
 最初は誰もが素人だった、という話である。


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