芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

晶子、らいてう、智恵子

2016年05月30日 | エッセイ
   


 それにしても日露戦争のナショナリズムに沸騰する時代に、与謝野晶子は、よくもこのような詩を書いたものだ。なんと昂然とした勇気だろう。その詩は弟に対する愛情に溢れ、直裁な真情は胸を揺さぶる。彼女は両親の想いを代弁し、さらに戦地に息子を送り出した全ての母親たち、妻や恋人たちの真情を代弁したのだ。

    君死にたまふことなかれ (旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて)

   あゝをとうとよ、君を泣く、
   君死にたまふことなかれ、
   末に生れし君なれば
   親のなさけはまさりしも、
   親は刃(やいば)をにぎらせて
   人を殺せとをしへしや、
   人を殺して死ねよとて
   二十四までをそだてしや。

   堺(さかひ)の街のあきびとの
   舊家(きうか)をほこるあるじにて
   親の名を繼ぐ君なれば、
   君死にたまふことなかれ、
   旅順の城はほろぶとも、
   ほろびずとても、何事ぞ、
   君は知らじな、あきびとの
   家のおきてに無かりけり。

   君死にたまふことなかれ、
   すめらみことは、戰ひに
   おほみづからは出でまさね、
   かたみに人の血を流し、
   獸(けもの)の道に死ねよとは、
   死ぬるを人のほまれとは、
   大みこゝろの深ければ
   もとよりいかで思(おぼ)されむ。

   あゝをとうとよ、戰ひに
   君死にたまふことなかれ、
   すぎにし秋を父ぎみに
   おくれたまへる母ぎみは、
   なげきの中に、いたましく
   わが子を召され、家を守(も)り、
   安(やす)しと聞ける大御代も
   母のしら髮はまさりぬる。

   暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
   あえかにわかき新妻(にひづま)を、
   君わするるや、思へるや、
   十月(とつき)も添はでわかれたる
   少女ごころを思ひみよ、
   この世ひとりの君ならで
   あゝまた誰をたのむべき、
   君死にたまふことなかれ。

 明治という時代が終わりに近づいていたとき、平塚らいてうが女性たちの文芸誌「青鞜」を出そうとしたところから、新時代が息吹はじめたと言っていい。文芸同人誌の体裁をとったのは、新聞紙法をかわすためであった。思想や時事問題を扱う場合は新聞紙法では保証金を支払わなければならなかつた。文芸同人誌はその適用を受けなかったのである。厳しい検閲も多少はやわらぐ。
 らいてうは八歳年上の与謝野晶子をその家に訪ね、「青鞜」創刊の巻頭を飾る詩を依頼した。与謝野晶子は「そぞろごと」という詩を寄せた。
   
   山の動く日来る。
   かく云へども人われを信ぜじ。
   山は姑(しばら)く眠りしのみ。
   その昔に於て
   山は皆火に燃えて動きしものを。
   されど、そは信ぜずともよし。
   人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
   すべて眠りし女(をなご)今ぞ目覚めて動くなる。
   
   一人称にてのみ物書かばや。
   われは女ぞ。
   一人称にてのみ物書かばや。
   われは。われは。

 宣言は平塚らいてうが書いた。
 あの有名な「原始女性は太陽であった。----青鞜発刊に際して----」である。

   原始、女性は実に太陽であつた。真正の人であった。
   今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような
   蒼白い顔の月である。
   偖(さ)て、ここに青鞜は初声を上げた。
   現代の女性の頭脳と手によって始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。
   女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。
   私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或るものを。
   そして私は少しも恐れない。
   …

「青鞜」の創刊号の表紙の絵を描いたのは長沼智恵子であつた。彼女は後に高村光太郎の妻となり、「智恵子抄」に描かれた。

                                                       

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