芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

北明と靖国神社

2016年02月26日 | エッセイ

 久しぶりに梅原北明について書く。
…北明は地下出版の帝王、エログロナンセンスの帝王と異名を持ち、破天荒で面白可笑しくも凄まじい生涯を送った。彼は家父長制に敵意を剥き出しにし、近代天皇制を終生の敵と見定め、エログロ出版を通じて執拗かつ陽気に天皇制と官憲に闘いを挑んだ。北明については既に二年程前に十数編のエッセイで紹介しているので、その生涯についてはここに繰り返さない。
 さて、梅原北明と靖国神社についてである。

 北明の出版物はたちどころに発禁となり、刑務所入りと罰金の繰り返しだった。また彼は、某陸軍大将の名刺を勝手に印刷して知人に使用させ、憲兵と警察に追われた。その際、北明の逃亡と生活に援助の手を差し伸べたのが、大阪の某有名女学校の校長だった。その女学校の校長が北明の出版物の愛読者で、彼の支持者だったのだ。その良家の娘たちを預かる女学校で、こともあろうにエログロ出版の北明は、英語教師となったのである。北明親子は学校の宿直室に間借りし、ひとまず落ち着いた。
 北明は語学の天才だから、英語教師としては問題なかった。しかし、テストの採点で優劣を付けることを下らぬと考えていた北明は、全員に九十点を付けたらしい。これが父兄の不評と不信を招いた。
 身辺に官権の影が近づきつつあることを察した北明は、再び逐電、逃亡生活に入る。途中、静岡あたりで鍼灸師の看板を掲げたらしいが、ほとんど客はなく、ほどなく東京に舞い戻る。

 やがてどのような伝手を頼ったか、北明は靖国神社に仕事を見つける。彼は妻子と離れ、靖国神社前の日当たりの悪い安下宿に一人住み、毎日社務所に通った。靖国神社の社史編纂事業である。天皇のために死んだ軍人軍属を祀る靖国神社に、天皇制を終生の敵とした北明が入り込むとは、いかにも北明らしい仕儀である。もしかすると宮司が北明の出版物の愛読者だったのかも知れない。おそらく、そうだろう。
 ある日、かつてのエログロ出版の同志で画家の峰岸義一とバッタリ出会った。北明は案外、社史編纂事業が気に入っていたらしい。そして峰岸に「そのうち戦死した兵士たちの銘々伝をつくりたい」と言った。峰岸は北明の「兵士の銘々伝」に本気を感じたと言う。それは未だ日本軍が中国で泥沼に入り込む前である。無論、太平洋戦争は未だ先である。とすれば、靖国神社に祀られていた霊魂は、未だ百二十万柱ぐらいだったであろう。
 北明は、御霊爾簿に記載された名前だけの兵士たちの、一人一人の個人史とその生涯の物語を記そうと思ったのだろう。それはバルザックが、ある地方都市に暮らす全ての人々の、一人一人の物語を書こうと思っていたのに似ている。

 例えば、阿部久司…山形県の山で囲まれた盆地、最上村に生まれた。貧しい農家の六人兄弟姉妹の次男坊である。子供の頃から寡黙だったが、これは吃る癖があったためである。尋常小学校を出ると尾花沢の大工に弟子入りするが、兄弟子とソリが合わず飛び出す。陸軍に志願し、山形酒田連隊で二等兵となる。点呼の際にも吃るため毎日上官に殴られ続け、常に顔の形が変わるほど紫色に腫れ上がっていた。久司にとって軍隊生活は実に辛いものであった。
 やがて彼の部隊は朝鮮の新義州に赴く。程なく彼の部隊は奉天に進み、さらに北大営で敵軍と戦火を交える。その戦闘の第一日目のことである。久司の両目は腫れ上がっていたため物が見えずらかった。彼は敵陣を見るために積み上げた土嚢からほんの少し余計に顔を出したものらしい。瞬間、弾丸が彼の左目を貫通し、彼は声もあげずに後ろにひっくり返った。ほぼ即死である。兵士のひょんと死ぬるや、あゝ兵士の死ぬるや哀れ…。
 北明はこのような一人一人の物語を、一人につき四百字詰め原稿用紙にして二、三十枚も書こうと志したのであったろうか。百二十万人分の一人一人の物語の取材を構想していたのであったろうか。

 その後に北明は、閑古鳥の鳴いていた日劇にマーカスショーを呼び、チャップリンの映画「街の灯」を輸入上映した。こうして日劇を再建し大金を手にすると、台湾に高砂族のドキュメンタリー映画を撮りに出かけ、尾羽打ち枯らして帰国した。そして再びドイツのハーゲンベック・サーカスを招聘して一山当て、数ヶ月後には一文無し戻った。再び尾羽打ち枯らし、彼の愛読者で支持者であった山本五十六の引きで、海軍省内に海外工業情報所を設立して海外技術書の無断翻訳と海賊出版を業とした。
 やがて戦争は拡大し、当然の帰結として敗戦を迎えた。峰岸義一と会った北明は「またやれる時がきたな」と言ったが、自分は二度と立ち上がらなかった。その鬼才を惜しんだ言論界や出版界の誘いを、「私は戦争協力者です。やれ自由だ、やれ民主主義だと、何で今さら出て行けましょう」と突っぱねた。そして、北明が疎開先の小田原で敗戦病と言われた腸チフスで死んだ頃、靖国神社の霊魂は二百四十万柱を軽く超えていたのである。北明は、天皇のせいで死んだ兵士一人一人の銘々伝を、ついに書かずに死んだのである。


(この一文は2006年8月6日に書かれたものである。61年前、広島に原爆が投下された日だ。その3日後の8月9日には長崎に原爆が落とされ、15日になって日本は敗戦の現実を迎えた。わずかな間に何と多くの無辜の民が亡くなり、何と多くの軍人、軍属が命を落としていったことか。…誰のため、誰のせいか?)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿