芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

掌説うためいろ エレジー「浜辺の歌」

2015年10月13日 | エッセイ

 為三は一目でその少女に恋をした。東京生まれ、東京育ちの、まだ十六、七歳のあどけなさの残る少女である。彼女の名を倉辻正子といった。同じ東京音楽学校の学生とはいえ、為三は七つも年上である。また為三は生来内気で、口下手だった。口を開けば訥々とし、秋田訛りが抜けなかった。
 正子はピアノ専攻の学生だった。為三は甲種師範科の学生で、ドイツ留学帰りの山田耕筰について作曲を学んでいた。為三とその少女とは、学校の廊下やピアノ室のドア付近で、すれ違うように顔を合わせるだけなのだ。為三はいつも伏し目がちに会釈した。正子も先輩に対して微笑みながら会釈を返すだけである。ろくに話を交わしたこともない。為三は内気で、無口だった。

 成田為三は北秋田郡米内沢町の阿仁川沿いに生まれた。役場勤めの父は、文化や芸術というものを子どもに触れさせたかったのだろう。彼は息子にバイオリンを買い与えた。明治の秋田の田舎町では、たいへんなハイカラと言っていい。父の思い、息子への愛が伝わる挿話である。為三は音楽が好きになった。将来は音楽の仕事に就きたかった。美しい曲を作りたい、世界の名曲をバイオリンやピアノで奏でたい。しかし両親は音楽の道に進むことには猛反対した。
「歌(うだ)っこではお国(ぐに)の役(やぐ)さただねべ!」
 
 生来おとなしく従順な為三は、決して両親に逆らうことなく、秋田師範学校に進み教師になることにした。できれば音楽教育に取り組みたかった。秋田師範を卒業後、彼が勤めた学校は鹿角の毛馬内小学校である。毛馬内は十和田湖に近い小さな小さな山間の町である。
 為三は子どもたちに、熱心に音楽を教えた。他の教科の時間を少し削って、音楽の時間を増やしたのだ。別に算数や国語の授業を音楽の授業に変えたわけではない。算数や国語の授業でも、何かにつけて歌を教えたのだ。例えば数え歌である。例えば唱歌の詞で学ぶ国語である。子どもたちは算数などより、優しい為三先生と大声で歌える授業が楽しかったので人気があった。為三は他の教師や父兄から変わり者と呼ばれた。
「為三せんせえの授業(ずぎょう)だば、うだっこばり多いなやあ」

 毛馬内の裕福な地主の息子に大里健治という為三より五歳年下の少年がいた。大の音楽好きで小学校によく為三を訪ねてきた。音楽の話(東京から取り寄せたばかりの新しいレコードの話とか音楽雑誌の話とか)をしに来るのである。為三も彼の家に蓄音器を聴きに立ち寄った。為三は年下の少年に心を許した。
「音楽はいい…心ば豊(ゆだ)がにしてくれる。うまぐ言葉さならねこども、音楽だば言えっぺしな」
 そして自分は本当は音楽の道に進みたかったのだと、その熱い思いを語り続けた。すると、この年下の少年は為三を励ましはじめたのだ。
「んだば東京音楽学校さ受げでみだらいいべさ。先生は才能でぢっと(いっぱい)あるさげ鹿角じゃいだまし(もったいない)。大丈夫だア、やってみればええサ! オラ請げ合うど、勇気(ぎ)出さい!」
 健治は為三の前で大人びて、まるで彼が先輩のようであった。こうして年下の少年に励まされ続けた為三は教師を辞め、音楽の道に進むこと決意をした。
 為三は東京音楽学校を受験し入学した。大正三年、二十一歳だった。

 大正五年、意を決した為三は、倉辻正子に手書きの楽譜を郵送した。楽譜には「いとしの正子にささぐ」と書かれた一枚の便箋が添えられていた。あまりに短いラブレターである。しかしその溢れる想いは楽譜にこめられていた。
 曲名は「はまべ」とあり、成田為三作曲、林古渓作詞と記されていた。為三に林古渓の詞が載った雑誌「音楽」を示し、曲を試作するように勧めたのは、先輩で師でもあった牛山充である。牛山は「音楽」を編集し、後に音楽とバレエ評論の先駆をなした男である。
 為三は正子を想って曲を書いた。実は林古渓も、恋情を込めてこの詩を書いていたのである。

     あした浜辺を さまよへば
     昔のことぞ しのばるる
     風の音よ 雲のさまよ
     よする波も かいの色も

     ゆうべ浜辺を もとおれば
     昔の人ぞ しのばるる
     寄する波よ かへす波よ
     月の色も 星のかげも             

 正子はその曲を弾いてみた。美しい曲である。弾きながら歌ってみた。美しい歌である。繰り返し繰り返し弾き、歌ってみた。…正子は胸が苦しくなった。
 彼女は筆をとり、
「成田為三様 私のやうな者に、これほどまでに美しい曲をお贈り頂きまして誠に有り難く存じます。心震えるやうな勿体ないやうな気持ちでいつぱいでございます。そして本当に申し訳ないやうな気持ちでいつぱいでございます。私には既に決まつた人がおります。この美しい曲に込められました貴男様の想ひを、私は受けとめることができません。」…
 と返事をしたため、楽譜とともに封筒に入れて送り返した。こうして、無口で内気な為三が、恋情を込めて作った曲は、エレジーになってしまったのである。
 その後も為三と正子は学校ですれ違うように出会った。為三は伏し目がちに会釈をし、正子も伏し目がちに会釈を返した。話を交わすこともない。

 為三はその手書きの楽譜「はまべ」を、「敬する健治様」という手紙を添えて、鹿角の大里健治に郵送した。大里はその曲の美しさに感動した。
「これはすごいべさ。やっぱす為三先生は立派な音楽家になるべさあ。これはすごい曲だべさ」…
 健治はその感動をそのまま手紙にしたため為三に送った。これは素晴らしい曲です、名曲です、本当に名曲です、帰省の折には、是非鹿角で演奏会をやって欲しい、鹿角の全住民を集めます、と。しかし、それはなかなか実現しなかった。鹿角にはピアノがない。為三も多忙になった。「はまべ」もいっこうに世に出なかった。
 
 東京音楽学校を卒業した為三は、義務教生として佐賀師範学校に務めた。しかしどうしても中央で音楽活動をしたかった。いろいろな人たちに出会える、自らを高める刺激も多い。
 こうして為三は上京し、赤坂小学校で訓導となった。その頃から知人の紹介で、童話作家の鈴木三重吉との交流が始まり、為三は童謡の世界に入っていったのである。
 為三は北原白秋の「赤い鳥小鳥」に曲を付けた。それは高い評価を受けた。さらに西条八十の「かなりや」や、白秋の「雨」に曲を付け、作曲家としての地位を確立した。「雨」は中山晋平も曲を付けている。ちなみに為三の「雨」は暗さがなく、とてもいい曲である。晋平の「雨」は美しく、淋しい。人口に膾炙し現在も歌われているのは、晋平が作曲したものである。
 為三は人に勧められて、「はまべ」をセノオ音楽出版から竹久夢二の挿絵入りで「浜辺の歌」として発表した。この曲名は妹尾幸陽が付けたものかも知れない。林古渓の詩の三番、四番は牛山が勝手に入れ替えて書き直したため、古渓が詩にこめた慕情の意味が通らなくなってしまったらしい。古渓は親友の牛山に特に抗議はしなかったようである。今度も古渓は詩の題名を変えられてしまったのである。
 「浜辺の歌」は、大里健治が期待したようには全国に知られていくことがなかった。しかしこの歌は女学校などで細々と歌われていった。
 
 倉辻正子は声楽家で後に東京芸術大学の教授となった矢田部勁吉の夫人となった。
 為三は大正十一年にドイツに留学した。元来秋田の男は酒に強い。しかし為三は欧州の酒ですっかり体調を崩してしまった。十五年に帰国し、その春に人の勧めもあって鈴木文子と結婚した。彼はそれを期に酒を断った。

 翌年、大里健治が毛馬内に温泉旅館「油屋」を開業した。健治は為三に油屋で演奏会を開いて欲しいと言った。そのためにピアノも用意すると言った。そして必ず「浜辺の歌」を演奏して欲しいとリクエストも出した。
「ずっと前がらの健治さんどの約束だもなア。わがった、やるべさ、是非やるべ」
 為三は快諾した。健治は当時の金で千数百円も出して、東京からピアノを購入した。その金で家が二、三軒建つ時代だった。むろん鹿角に入った第一号のピアノである。
 演奏会当日、油屋旅館は老若男女で溢れた。為三はクラシックの名曲から滝廉太郎、師の山田耕筰の曲まで次々に弾いた。為三は曲間に訥々と、短く分かりやすい解説をした。聴衆は初めて聴くピアノの音に心を震わした。
 為三自作の童謡「雨」「赤い鳥小鳥」「カナリア」では子どもたちも歌い、大人たちも照れながらそれに和した。そして「浜辺の歌」が演奏されると健治は感極まり、会場の老若男女も感動に涙した。いつもは青白い為三の顔も紅潮し、しきりに瞬きをした。演奏会は大成功だった。えがったなあ。
 このピアノは今も「あぶらや旅館」の応接間にある。また大里健治の息子は、為三の師である山田耕筰に因み耕筰と名付けられた。為三が名付け親かも知れない。

 その後「浜辺の歌」は知る人ぞ知る名曲として、演奏され歌われていった。この曲が全国的に有名になったのは戦後のことである。成田為三はそれを知らない。為三は終戦の年の秋に亡くなった。戦災で為三の楽譜のほとんどを失った文子夫人に、健治は為三手書きの楽譜「はまべ」を贈った。
 「浜辺の歌」が恋情を秘めた曲であったことが明かされたのは、つい数年前のことなのである。
「成田為三さんにはお気の毒なことでしたが、しかたありませんでした。『浜辺の歌』は恋の歌なのよ。あなたも、その想いを込めてお歌いなさい」
 矢田部正子の養子で声楽家の鈴木義弘氏は、義母から聞いた話をそう明かした。浜名湖の老人ホーム「エデンの園」で余生を送っていた成田文子もすでに亡く、その昔の秘話に差し障りのある人は、もう誰もいなくなったからである。
                                

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