闘病記(脳梗塞・脳動脈瘤)

今から11年前の31歳の時に、脳梗塞を発病し、それ以後、3回の脳梗塞と脳動脈瘤を併発。それでも1日も諦めなかった。

2回目の脳梗塞

2007-05-08 13:16:32 | Weblog
1998年  平成10年8月      33歳

それは、悪夢の始まりでした。
朝起きると、身体が全く動かなかったのです。声も出ず、ただベッドの上で妻が起こしに来るのを待つしかなかったのです。
直に、実家の両親に知らされ、父と妻に付き添わられ、救急車で当時通院していた東京女子医大病院に搬送されました。
酸素不足から来る脳死を避ける為、その日からICUに入りました。
次の日の晩、様子を見に来てくれた看護師さんに50音の文字盤を、麻痺していない左手を使って尋ねました。
「ぼ・く・の・か・ら・だ・は・な・お・る・の・で・す・か?」「も・と・ど・お・り・に・し・て・く・だ・さ・い。」
それだけ聞く事で今の僕の心では精一杯でした。
悲しくて辛くて悲しくて悔しくて泣きました。
人目も憚らず泣きました。隣のベッドの男性の患者さんが「うるせえな。」と言わんばかりの表情でカーテンを開け笑って呆れていました。
私はそんな事も構わずに泣きました。
そして、巡回の看護師さんの前でも泣き続けました。
人前で号泣したのはそれが始めての事でした。
その時、その看護師さんは、二時間ほど私が落着くまで、側に黙って付き添っていてくれました。
「大丈夫。先生が必ず治してくれます。安心して眠って下さい。」
後日、ICUから個室に移って車椅子に乗れる様にまで回復した時、妻が押す、車椅子に乗り廊下を歩いていると、その時の看護師さんに出会いました。
私に気付いた彼女は、笑顔で「良かったですね。がんばって下さい。」と
声を掛けてくれました。あの時の彼女の笑顔は、今も目に焼きついています。
私が、東京女子医大病院に入院した日の帰り道、父は車中妻に、たった一言呟いたそうです。「俺が代わってやれないかな・・・。」と。
後からその話を聞いた私は心にグッとくる物がありました。
入院当初、私は、自分自身の手で、命を絶つ事しか考えていませんでした。
(俺は、何の為にあんなに辛い思いをして、仕事をしてきたんだろう。
こうなる為に仕事を頑張ってきたのか?仕事を憶えてきたのだろうか?)
つまり失望感でいっぱいな感じ。人間、自殺をする人は、この様な心境になって人生の先を、自らの手で消すのだろう、と理解できた。
しかし、窓から飛び降りようにも身体は全く動かない。手首を切ろうにも、刃物はない。舌を噛み切ろうにも、噛み切るだけの力がない。
ただ、ベッドに横たわっているだけ。飯を食わせてもらって、小便、うんこをして、後はぼーlっとして、正に生き地獄そのものでした。
色々考えると悔しくて悔しくて悲しくて悲しくてたまらない。
数日後、夜泊まりに来てくれた母に、文字盤を辿って尋ねました。
「お・れ・が・い・な・く・て・み・せ・は・だ・い・じ・ょ・う・ぶ?」
すると、母は、涙を押し殺すように涙声で「大丈夫だから、早く寝な。」と話してくれました。母の涙を見た事は初めてでした。
(気丈な母親が泣いている。辛いのは自分だけではないのだなぁ。)と
その時、自殺しようとしていた自分の愚かさにやっと気がつきました。


  続きは、また明日