Graceのスピリチュアル日記

ささやかな日常とスピリチュアルな出来事。その中で得た気づきなどを楽しくシェアする日記。

臓器移植。

2009-07-15 12:48:51 | Weblog
先ごろ、新しい臓器移植法案が衆議院で可決されましたよね。

あれってホントにいいんかぁ?
と思っているのは私だけでしょうか…。

大多数の人は、「まあ、いいんじゃない?!」って感じか、「他人事で興味なし。」
って感じなんでしょうけど、
ほんとにそれでいいのか…。


法案を可決させた議員さんたちは、もちろん人間の霊的側面など、考慮されていないことと思う。
宗教的、あるいは倫理的にどうか?ということは考えたにしてもね。


でも私が知る現実では、人の身体はそれ自体に意志や記憶を持つ。
どの細胞の一つ一つにも、その人の今までの全生涯プラス先祖の記憶も保持されている。

他人の臓器を自分の体に入れるということは、提供者の遺伝的性質や身体的能力、
はては、カルマの部類に入ることまで引き受けることになり、肉体的にも霊的にも2つの人間が融合することになる。
もはや、それ以前の自分では、なくなるのである。

臓器はただの、【有機的部品】ではないのだ。


「そんなことはどうでもいい」と思う人は多いかもしれない。
それで健康になれるなら、それで子供の命が助かるのならば…。


もちろん私も人の子の親なので、自分の子供が難病だったりすれば、何としてでも助けてやりたいと願うだろう。それが人の心情だ。


でも、臓器移植に関しては、どうしても足が止まってしまう…。


臓器移植には必ず提供者がおり、
ということはつまり、心臓病の赤ちゃんが移植を受けて助かるためには、
どこかで、別の赤ちゃんが死ななくてはならないということだ。

不幸にも、亡くなってしまった命の身体を、せめて病で困っている人のために役立てようと言う気持ちは気高い。


だが人間は、我欲から離れることは困難だ。
病気になれば、移植を受けて元気になる日を心待ちにするだろう。
でもそれは裏を返せば、自分が助かるために、他人の死を願うことになりはしないか。

小さな命を助けようと、募金活動など支援をすることは尊いと思うが、
提供者の命の重みは考えたことがあるだろうか、
もしくは自分が、自分の家族が提供者になることを、考えたことがあるだろうか。


もともと病気というものは、偶然になるものではない。

そこには必ずなんらかの意味がある。

まず、それが何なのか、病気が私に何を教えようとしているのか、ということに気づいたりすることなく、
ただそれから逃れられればいいという考えでは、何の根本的解決にもならない。
ましてそこに、意識的でないにせよ、他人の命を奪ってでもという気持ちが加わるのであれば、これは手放しで応援できる話ではない。
所詮きれいごとかもしれないが…。



他に、私が今回の法案で問題だと思うのは、本人が生前、臓器提供を拒否していなければ、
家族の同意でその決定ができるということだ。


肉体を離れても霊的には人は生きている。
自分のからだを提供するのを、嫌がる人もいるだろう。
(まあフツウはそんなの確認しようがないけどね。)


みなさんは、臨死体験というものをご存知だろうか?

数分、もしくは数時間、場合によっては何日もたってから生き返る事例が世の中には幾つかあり、
その間にその人が体験した世界を、生き返ってから語ったものが臨死体験だ。

もちろんそんなことは滅多にあることではないし、
生き返っても何も覚えていない人のほうが圧倒的に多いと聞く。


それはさておき、今回考えていただきたいことは、
死後の世界があるかどうかということではなく、一度死んでも、生き返る人がいるという点だ。

それは心臓死の場合だけのことなのだろうか…。
脳死の場合は生き返る、もしくは回復することはないのだろうか…。


これを言っちゃあお仕舞いかもしれないが、医者の中には、移植手術をしたいばかりに、
提供の決断を急がせる人もいるかもしれない。

特に大学病院などの大きな病院では、研究の目的で人体を扱うことも多い気がする。


(話はそれるが数年前、私の祖母が肝臓ガンになり、いつ死んでもおかしくない状態と診断された時、
その個人病院の医師達は私たち家族に、ある手術をさせろとせまった。
その手術の内容をしつこく聞いてみると、治すためのものではないという。
治る見込みもないのに、無駄な手術をして、これ以上祖母に痛い思いをさせる気はありませんというと、
では明日ににでも退院して下さいと言われた。
自宅で死にたいというのは祖母の意思だったため、そのまま家に連れて帰り、
近くの開業医に毎日診察にきてもらうことにし、3ヵ月後祖母は息を引き取った…。)


医療知識のない、殆どの人にとって、医者の言葉は絶大だ。
医者がもう助からないと言えば、そうだと信じる。
けれどそれは絶対なのだろうか?!

生きることのできた命が失われることは、絶対ないのだろうか?


臨死体験に話を戻せば、ナゼだか生き返った人は、全く健康な体になるという。

(かくいう私の曾祖母は、ある時心臓発作で心肺停止状態になったのだが、電気ショックで蘇生。
すると、なぜだか持病だったリュウマチが、完全治癒。
それから7年ぐらい元気に生きて93歳で亡くなった。)


私は脳死のことはよくわからないため、懸念だらけになってしまう。



ちなみに、私の体験では、肉体と霊体のコードが繋がった(要は死んでいない)状態で霊体が体から抜けると、
両方の感覚を感じることができる。(←誰にでもあてはまるかどうかは、分からない。寝ている間に意識だけが別の領域に飛んでいくのとは、また別の話。)

例えば手なら、4本ある感覚になりどれもリアルだ。
それですごく混乱する。

その状態で肉体に危害(臓器を取り出すなど)を加えられれば、霊体(意識)は痛みを感じるのではないかと思ったりもする。

脳死でコードが完全に切れるのかどうか、私にはわからない。

しばらく時間が経って、肉体が完全に生命を失えばコードも切れると思うけれども…。



もう一つ気になるのは、【臓器売買】の問題だ。

闇の市場はあると思う。
命が助かるのならば、金は惜しまないという人が見込まれる中、これは公にならないビックビジネスになりうる。

大人が、自分が食べていけなくて腎臓を片方売るなんて場合は、ある意味本人の意志でもあり、
相当ひどいことだと思うが、致し方なしの側面もある。


でも今回、子供も、公に臓器移植が認められたため、アメリカのみならず、【日本市場】も広がったことになる。
要は臓器売買ビジネスにとって、大きく需要が見込まれる可能性がでたということだ。

これにより貧しい国の子供たちが、さらわれたり、人でなしの親によって売り飛ばされたりして、
いわゆる人身売買の餌食になり、悲惨な目に合わされたりしないか心配なのである。

【貧しい国の健康な子供】が、【裕福な国の病の子供】のために命を落とすなどということがあってはならないし、
お金で、人の命が量られることなど、あってはならない。


命は尊い。
でも、肉体だけが生命なのではない。


そもそも臓器移植とは
そういう視点もよくよく考えた上で、決めるべき法案だったと思うが、
果たして十分だったのだろうか。


小さな命を救う方に賛成した方が、いいイメージとかいう理由で手をあげた、
なんていう議員がいないことを祈る。

そして何かことが起こったとき、涼しい顔で「これは想定外でした。」ということのないように…。


そしてできれば、この法の制定により、悲劇の起こることのないように、
救われる命は救われて、
みんなが幸せに暮らせますように。

※ 大いなる視点からみれば、なんの間違いも失敗もないんだけど(←例えば、死ぬのは寿命)
 現世的には、やはり、悲劇も実在するのがやっかいです…。







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