今まで見た中で、忘れられない夢って幾つかある。今日はその中から一つ、シェアさせてもらおうと思う。
思い返せば、父が亡くなって1年後ぐらいの小学5年生のころ、毎日のように自分が死ぬ夢を見ていた。それも、どの夢も死ぬところで終わらず、その後も意識があるという内容で、シチュエーションも様々。ある時は結核で療養中だった日本人の少女、ある時は大家族を抱えたアメリカの農夫という具合で、甚だ妙だった。
当時は11歳の子供だし、自分は女の子なのに年齢も性別も違う自分が死ぬ人生を、毎日夢で体験するのだから、かなり混乱し、誰にも相談できず、私は頭がおかしいのではと秘かに悩んでいたりした。
そんなある日のこと。
☆ ☆ ☆
眠りの中でハッと気がつくと、目の前に木星がど~んと輝いていた。すごい存在感。(←私だって図鑑で見て、木星ぐらい知っている。)
大きい。ということはかなり近い距離から見ているのだろう。その後ろには、美しい輪を携えた土星も見通すことができた。
自分の身体はなく、自分の意識だけがそこにあり、真っ暗な宇宙空間に包まれている状態。
(ここはドコ? なんでこんなトコにいるの?)
思わずそう問を発すると、いわゆる男性の神様らしき声が聞こえてきた。
『お前は死んだのだよ。』
(え?!いやだ。どうして?わたし死んだの?わたしお家に帰りたい!)
『それは無理なんだよ。お前は人々の祈りの声に送られ、お線香の煙に運ばれてここまで来たのだ。そうでなければ、こんな遠くまでは来られるものではない。お前が自力で帰ろうと思って帰れる距離ではないのだよ。それは不可能なのだ。』
神様は静かな声で、諭すように話された。
私は、とても嫌だと思ったけれど、仕方なく観念した。だってここは宇宙だよ、自分で帰れるわけないじゃん。
戻るのを断念した途端、私は暗い川のほとりに浮かんでいた。
岸から20メートルぐらいの所。向こう岸まで100メートルもないだろうけど、向こうの様子はもやもやしてよくわからない。夕立の時のように空も真っ暗。川原でしゃがみこんで、ゴロゴロした石を積み上げている人の姿がようやく確認できるくらいの明るさだ。
結構まわりに人は沢山いるようで、木の渡し舟にも山なりになって乗っている人々の影が見える。ざぶざぶと歩いて渡っている人の姿も…。
(はは~ん。これが例の、うわさに聞いていた賽の河原だな。あの世とこの世の境で、これを渡るとホントに死んじゃうんだ。)
渡るのは嫌だなぁと思ったけど、仕方が無い。渡ろっ!と思った瞬間すでに向こう岸に着いていた。
(早っ!!船で渡るんじゃなかったわけ…?)
そう思う私の目の前に、鉄のいかめしい鋲が打たれた、とてつもなく大きな扉がそびえ立っていた。本当に大きい。30メートルくらいあるんじゃかと思うほど。
それがギーっという重々しい音を立てながら、内側から外側へ少しずつ開いていくと、目も開けていられないほどの眩しい光が広がり、私には何も見えなくなってしまった。
圧倒的な光の中にいて、光しか見えないんだけれど、不思議と目は痛くなく開けていられる。そこはどうも大広間のような所で、私の他にも何人かの人がおり、みんな並んで順番を待っているらしい。人の姿はもちろん見わけられないので、はっきりとした状況はわからなかったけど、私も大人しく自分が呼ばれるのを待つことにした。
(きっとこれって、閻魔大王に会うための順番なんだ。わたし、なにを言おうかなぁ…。)
何故だか全然恐れはなかった。ただじっと自分の番が来るのを待っていた。
私の名前が呼ばれたので、閻魔大王とおぼしき方がいらっしゃる辺りに進み出た。依然として光だけしか目には入らないが、声は聞こえる。
『何か、聞きたいことはないか?』
厳かな問に私は、おどおどしながらも
(あのう、わたしのおとうさんが先に来てるはずなんですけど、会えますか?)
と、期待に胸を弾ませて、勢い込んで聞いてみた。すると、
『会うことはできない。』
(へっ!?なんで??)と困惑している私を他所に、そのたった一言で私の番は終わってしまい、何かに押されるようにして、あれよあれよという間に、入ってきたのとは別の扉から外へ出されてしまった。
急に表の世界に出た私がまず目にしたのは、大きな都市の風景だった。青い空のもと、様々な形のビルが立ち並び、往来に沢山の人が行き来している。歩いている人の姿も様々で、芸者さんのような姿の人もいれば、アフリカのマサイ族みたいな人もいるし、普通のスーツ姿のサラリーマンもいる。装束の時代背景も人種も好き勝手に様々な大勢の人たちが、別段不思議そうでもなく、さも当たり前にアスファルトの道路を歩いていた。
(なんだ!死んだってみんな普通に生きてるんじゃン!こうやって大きな街もあってお日さまも照ってて、死んでも同じような世界があるんじゃんッ!)
これは、大変な驚きだった。それまでの夢では死んだ後、みんなに自分が見えないとか、壁を通り抜けちゃうとか、どうしたらあの世にいけるのかなぁとか考えている状態で終わっていたので、こんな別の世界が、当たり前のように存在していることに、ビックリだったのだ。
しばらくあっけに取られて立ち止まっていた後、ふと我にかえり、私は?と自分の姿を見てみると、なんと体格が大人の女性になっている。。ちゃんと身体もあり、メアリーポピンズみたいな服装で長めのスカートをはいている。手には皮の鞄も。
そしてフワリと空に舞上がり、気持ちよく飛んで行くうちに、次第に眼下の風景が、都会の景色からイギリスの田園を思わせる牧場の風景に変わっていった。ちょうど、ハリーポッターが、ホグワーツに戻る時に広がっているような景色と思ってもらえばいい。
だんだんと遠くの緑の丘の上に、ムーミンのお家みたいな形の、丸い塔の上に三角屋根を載せた建物が、数件建っているのが見えてきた。その一つの家に自然に引き寄せられた私は次第に高度を落とし、その玄関前に静かに着地した。石作りの壁、木の扉の玄関を開けると、中で食事の支度のため大きなお鍋をかき混ぜていた女性が、「お帰り」と気持ちよく声をかけてくれた。初めて会う女性だったけど、何故だかよく知っている人だ。他にも3~4人の人々が部屋の中にいて、口々に私に声をかけ、労ってくれた。
「大変だったね。」「疲れたでしょう?」「よく、帰ってきたね。」「がんばったね。」「また会えてうれしいよ。」「すぐご飯だからね。」等々…。そして驚いている私を
「私たちが、あなたの本当の家族だよ。」と温かく抱きしめてくれた。
そのころには私も思い出していた。
(そうだった。この人たちがわたしの本当の家族だった。今までずうっと一緒だった。ちょっとの間、離れてただけだったんだ。たましいの家族。わたしは帰ってきた。やっとお家へ帰ってきたんだ。)
すごくうれしかった。ここで私は幸せに暮らすことができる。
でもその時ふと、現世の母のことが胸によぎった。
(お母さんはきっと、わたしが死んでしまったと思って今も泣いているだろう。わたしは生きているのに。帰ることは出来なくても、死んでなんかいなくて生きてるってことを、なんとかお母さんに知らせててあげたい!わたしは生きている!!)
そういう思いが意外にも突然こみ上げてきて、心の奥底から自然と言葉が口について出てきた。
『おかあさんッ!!』
☆ ☆ ☆
大声で叫んだ次の瞬間、ぱっちりと目を開けて自分の部屋の天井を見ている私がいた。
暫らくは何が起きたのか、よくわからなかった。次第に自分が夢をみていたことがわかった。
(はあ、それにしてもなんて、本当みたいな夢だったのかしら…。芥川龍之介の杜子春みたいだったなぁ。お母さんって叫んだら終わっちゃうなんて。)
などと考えながら、暫らくはボーッとしていたのを覚えている。
なにせ11歳の、まだ頭の柔らかい時のことなので、なあんだ夢だったのかで、その何時間後にはさっさと日常に順応していたのだけれど、何故かその後もその夢の内容は、細部に渡って忘れることはなかった。30年以上経った今でも、まるで昨日のことのように思い出すことができる。それでこうやって書けるんだけど。
それから20年以上過ぎて、精神世界なるものを知るようになってから、私があの頃毎晩のようにみていた夢は、過去生だったのではないかと思うようになった。
そして体外離脱…。その頃夜中にパッと目覚めると、鼻先10センチぐらいのところに天井があったりする体験もしていたので、もしかするとこの夢は、夢ではなく体外離脱だったのでは?と考えるようにもなった。
スピリチャルがブームとまで言われるようになった最近では、こんな話は別段珍しくもないだろうし、生まれ変わりも割りと普通に受け入れられようになったのは有難いことだと思う。この夢をみた当時の私の周りには、この体験を理解してくれる人も認めてくれる人もいなかった。またバカなことを言ってと叱られるのが関の山だった。魂や死後の世界なんて非科学的と全く否定されていた時代だった。そんな中で、どれほど私が不安だったか。自分は気が狂ってるのではないかと、自問し続けた日々。だって毎日のように、この世のものでないものの訪問を受けてたんだから。それも天使とか光系でないものの…。
まあ、愚痴はその辺にして、
そんな中で私がその後もずっと疑問だったのは、何故あの時父に会えなかったかということだった。ここ最近、自分なりに至った結論としては、もしあの時私が父に会っていたら、おそらくこの世に帰っては来なかったであろうということで、それを阻止するために会わせてもらえなかったのだというものだ。多分正解だと思う。
それにしても母の名前を呼ぶことで、この世に帰って来たなんていうと、よっぽど仲良しの母子だったと思われそうだが、事実は真反対。私と母とは前世からの深い因縁で敵対関係にあり、この人生の前半のほとんどを、その関係の修復に使わざるをえなかった経緯がある。だからあの時自分でも、あれほど母のことに心ひかれたことが、驚きでもあったのだ。目覚めた時の新たな発見の一つでもあった。
この私が、母のことを気にするなんて、私の中に、あの母を想う気持ちがあるとは…。こうやって見てみると、実に宇宙は巧妙な手を使っているものだなぁと思う。まさに脱帽。
話は夢の内容に戻るけど、近年といっても10年ぐらい前、〈葉 祥明〉さんの『ひかりの世界』という絵本に出会った時、自分が夢で見た世界と、絵本の中の風景とか世界とかが、たくさんシンクロしていて涙してしまった。その頃はまだ、転生なんて本当にあるのかと、確信がないころだったので、うん、うん、やっぱりそうなんだねと、お墨付きをもらった気がして嬉しかった。
ブログでも今まで、くどいくらい何回か触れているのでお気づきだと思うけれど、『死と再生』は今生の私の、切っても切れないテーマの一つなのだ。だからそれに因んだ体験を、嫌というほど積み上げてきたのだと思っている。まだ今もだけど。
こんな話ばっかりで恐縮でもありますが、これを読んでしまった方、これもなにかのご縁だと思うので、今後ともよろしくお付き合い下さいませ。
思い返せば、父が亡くなって1年後ぐらいの小学5年生のころ、毎日のように自分が死ぬ夢を見ていた。それも、どの夢も死ぬところで終わらず、その後も意識があるという内容で、シチュエーションも様々。ある時は結核で療養中だった日本人の少女、ある時は大家族を抱えたアメリカの農夫という具合で、甚だ妙だった。
当時は11歳の子供だし、自分は女の子なのに年齢も性別も違う自分が死ぬ人生を、毎日夢で体験するのだから、かなり混乱し、誰にも相談できず、私は頭がおかしいのではと秘かに悩んでいたりした。
そんなある日のこと。
☆ ☆ ☆
眠りの中でハッと気がつくと、目の前に木星がど~んと輝いていた。すごい存在感。(←私だって図鑑で見て、木星ぐらい知っている。)
大きい。ということはかなり近い距離から見ているのだろう。その後ろには、美しい輪を携えた土星も見通すことができた。
自分の身体はなく、自分の意識だけがそこにあり、真っ暗な宇宙空間に包まれている状態。
(ここはドコ? なんでこんなトコにいるの?)
思わずそう問を発すると、いわゆる男性の神様らしき声が聞こえてきた。
『お前は死んだのだよ。』
(え?!いやだ。どうして?わたし死んだの?わたしお家に帰りたい!)
『それは無理なんだよ。お前は人々の祈りの声に送られ、お線香の煙に運ばれてここまで来たのだ。そうでなければ、こんな遠くまでは来られるものではない。お前が自力で帰ろうと思って帰れる距離ではないのだよ。それは不可能なのだ。』
神様は静かな声で、諭すように話された。
私は、とても嫌だと思ったけれど、仕方なく観念した。だってここは宇宙だよ、自分で帰れるわけないじゃん。
戻るのを断念した途端、私は暗い川のほとりに浮かんでいた。
岸から20メートルぐらいの所。向こう岸まで100メートルもないだろうけど、向こうの様子はもやもやしてよくわからない。夕立の時のように空も真っ暗。川原でしゃがみこんで、ゴロゴロした石を積み上げている人の姿がようやく確認できるくらいの明るさだ。
結構まわりに人は沢山いるようで、木の渡し舟にも山なりになって乗っている人々の影が見える。ざぶざぶと歩いて渡っている人の姿も…。
(はは~ん。これが例の、うわさに聞いていた賽の河原だな。あの世とこの世の境で、これを渡るとホントに死んじゃうんだ。)
渡るのは嫌だなぁと思ったけど、仕方が無い。渡ろっ!と思った瞬間すでに向こう岸に着いていた。
(早っ!!船で渡るんじゃなかったわけ…?)
そう思う私の目の前に、鉄のいかめしい鋲が打たれた、とてつもなく大きな扉がそびえ立っていた。本当に大きい。30メートルくらいあるんじゃかと思うほど。
それがギーっという重々しい音を立てながら、内側から外側へ少しずつ開いていくと、目も開けていられないほどの眩しい光が広がり、私には何も見えなくなってしまった。
圧倒的な光の中にいて、光しか見えないんだけれど、不思議と目は痛くなく開けていられる。そこはどうも大広間のような所で、私の他にも何人かの人がおり、みんな並んで順番を待っているらしい。人の姿はもちろん見わけられないので、はっきりとした状況はわからなかったけど、私も大人しく自分が呼ばれるのを待つことにした。
(きっとこれって、閻魔大王に会うための順番なんだ。わたし、なにを言おうかなぁ…。)
何故だか全然恐れはなかった。ただじっと自分の番が来るのを待っていた。
私の名前が呼ばれたので、閻魔大王とおぼしき方がいらっしゃる辺りに進み出た。依然として光だけしか目には入らないが、声は聞こえる。
『何か、聞きたいことはないか?』
厳かな問に私は、おどおどしながらも
(あのう、わたしのおとうさんが先に来てるはずなんですけど、会えますか?)
と、期待に胸を弾ませて、勢い込んで聞いてみた。すると、
『会うことはできない。』
(へっ!?なんで??)と困惑している私を他所に、そのたった一言で私の番は終わってしまい、何かに押されるようにして、あれよあれよという間に、入ってきたのとは別の扉から外へ出されてしまった。
急に表の世界に出た私がまず目にしたのは、大きな都市の風景だった。青い空のもと、様々な形のビルが立ち並び、往来に沢山の人が行き来している。歩いている人の姿も様々で、芸者さんのような姿の人もいれば、アフリカのマサイ族みたいな人もいるし、普通のスーツ姿のサラリーマンもいる。装束の時代背景も人種も好き勝手に様々な大勢の人たちが、別段不思議そうでもなく、さも当たり前にアスファルトの道路を歩いていた。
(なんだ!死んだってみんな普通に生きてるんじゃン!こうやって大きな街もあってお日さまも照ってて、死んでも同じような世界があるんじゃんッ!)
これは、大変な驚きだった。それまでの夢では死んだ後、みんなに自分が見えないとか、壁を通り抜けちゃうとか、どうしたらあの世にいけるのかなぁとか考えている状態で終わっていたので、こんな別の世界が、当たり前のように存在していることに、ビックリだったのだ。
しばらくあっけに取られて立ち止まっていた後、ふと我にかえり、私は?と自分の姿を見てみると、なんと体格が大人の女性になっている。。ちゃんと身体もあり、メアリーポピンズみたいな服装で長めのスカートをはいている。手には皮の鞄も。
そしてフワリと空に舞上がり、気持ちよく飛んで行くうちに、次第に眼下の風景が、都会の景色からイギリスの田園を思わせる牧場の風景に変わっていった。ちょうど、ハリーポッターが、ホグワーツに戻る時に広がっているような景色と思ってもらえばいい。
だんだんと遠くの緑の丘の上に、ムーミンのお家みたいな形の、丸い塔の上に三角屋根を載せた建物が、数件建っているのが見えてきた。その一つの家に自然に引き寄せられた私は次第に高度を落とし、その玄関前に静かに着地した。石作りの壁、木の扉の玄関を開けると、中で食事の支度のため大きなお鍋をかき混ぜていた女性が、「お帰り」と気持ちよく声をかけてくれた。初めて会う女性だったけど、何故だかよく知っている人だ。他にも3~4人の人々が部屋の中にいて、口々に私に声をかけ、労ってくれた。
「大変だったね。」「疲れたでしょう?」「よく、帰ってきたね。」「がんばったね。」「また会えてうれしいよ。」「すぐご飯だからね。」等々…。そして驚いている私を
「私たちが、あなたの本当の家族だよ。」と温かく抱きしめてくれた。
そのころには私も思い出していた。
(そうだった。この人たちがわたしの本当の家族だった。今までずうっと一緒だった。ちょっとの間、離れてただけだったんだ。たましいの家族。わたしは帰ってきた。やっとお家へ帰ってきたんだ。)
すごくうれしかった。ここで私は幸せに暮らすことができる。
でもその時ふと、現世の母のことが胸によぎった。
(お母さんはきっと、わたしが死んでしまったと思って今も泣いているだろう。わたしは生きているのに。帰ることは出来なくても、死んでなんかいなくて生きてるってことを、なんとかお母さんに知らせててあげたい!わたしは生きている!!)
そういう思いが意外にも突然こみ上げてきて、心の奥底から自然と言葉が口について出てきた。
『おかあさんッ!!』
☆ ☆ ☆
大声で叫んだ次の瞬間、ぱっちりと目を開けて自分の部屋の天井を見ている私がいた。
暫らくは何が起きたのか、よくわからなかった。次第に自分が夢をみていたことがわかった。
(はあ、それにしてもなんて、本当みたいな夢だったのかしら…。芥川龍之介の杜子春みたいだったなぁ。お母さんって叫んだら終わっちゃうなんて。)
などと考えながら、暫らくはボーッとしていたのを覚えている。
なにせ11歳の、まだ頭の柔らかい時のことなので、なあんだ夢だったのかで、その何時間後にはさっさと日常に順応していたのだけれど、何故かその後もその夢の内容は、細部に渡って忘れることはなかった。30年以上経った今でも、まるで昨日のことのように思い出すことができる。それでこうやって書けるんだけど。
それから20年以上過ぎて、精神世界なるものを知るようになってから、私があの頃毎晩のようにみていた夢は、過去生だったのではないかと思うようになった。
そして体外離脱…。その頃夜中にパッと目覚めると、鼻先10センチぐらいのところに天井があったりする体験もしていたので、もしかするとこの夢は、夢ではなく体外離脱だったのでは?と考えるようにもなった。
スピリチャルがブームとまで言われるようになった最近では、こんな話は別段珍しくもないだろうし、生まれ変わりも割りと普通に受け入れられようになったのは有難いことだと思う。この夢をみた当時の私の周りには、この体験を理解してくれる人も認めてくれる人もいなかった。またバカなことを言ってと叱られるのが関の山だった。魂や死後の世界なんて非科学的と全く否定されていた時代だった。そんな中で、どれほど私が不安だったか。自分は気が狂ってるのではないかと、自問し続けた日々。だって毎日のように、この世のものでないものの訪問を受けてたんだから。それも天使とか光系でないものの…。
まあ、愚痴はその辺にして、
そんな中で私がその後もずっと疑問だったのは、何故あの時父に会えなかったかということだった。ここ最近、自分なりに至った結論としては、もしあの時私が父に会っていたら、おそらくこの世に帰っては来なかったであろうということで、それを阻止するために会わせてもらえなかったのだというものだ。多分正解だと思う。
それにしても母の名前を呼ぶことで、この世に帰って来たなんていうと、よっぽど仲良しの母子だったと思われそうだが、事実は真反対。私と母とは前世からの深い因縁で敵対関係にあり、この人生の前半のほとんどを、その関係の修復に使わざるをえなかった経緯がある。だからあの時自分でも、あれほど母のことに心ひかれたことが、驚きでもあったのだ。目覚めた時の新たな発見の一つでもあった。
この私が、母のことを気にするなんて、私の中に、あの母を想う気持ちがあるとは…。こうやって見てみると、実に宇宙は巧妙な手を使っているものだなぁと思う。まさに脱帽。
話は夢の内容に戻るけど、近年といっても10年ぐらい前、〈葉 祥明〉さんの『ひかりの世界』という絵本に出会った時、自分が夢で見た世界と、絵本の中の風景とか世界とかが、たくさんシンクロしていて涙してしまった。その頃はまだ、転生なんて本当にあるのかと、確信がないころだったので、うん、うん、やっぱりそうなんだねと、お墨付きをもらった気がして嬉しかった。
ブログでも今まで、くどいくらい何回か触れているのでお気づきだと思うけれど、『死と再生』は今生の私の、切っても切れないテーマの一つなのだ。だからそれに因んだ体験を、嫌というほど積み上げてきたのだと思っている。まだ今もだけど。
こんな話ばっかりで恐縮でもありますが、これを読んでしまった方、これもなにかのご縁だと思うので、今後ともよろしくお付き合い下さいませ。