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瘋癲北欧日記

第二の人生 つれづれなるままに

中古車事情

2015年04月29日 | 人々の暮らし

4月28日 晴れ


これを「安物買いの銭失い」というのだろう。
中古で買ったワーゲンのゴルフが、ちょうど1年でデタラメになった。やむを得
ず、今日、急きょ下取りに出して新しい中古車を買った。同じゴルフである。


中古車の売買事情を、自分の例で紹介しよう。
1年前、2003年のゴルフを57万円くらいで買った。友人の紹介してくれた中
古屋で、6万円くらい値引きしてくれた。走行距離は記憶にないが、かなりあっ
たろうと思う。
この価格が、日本の知り合いの修理人によると、べらぼーなのだそうだ。「日
本なら、その半額くらいですよ」と言われた。


まあ、2,3年ももてばいいという心づもりだったので、自分は納得していたが、
これが甘かった。
購入直後にエンジンが奇妙な音をたてはじめ、これは「保証期間1カ月」でカ
バーされた。
しかし、この車大丈夫なのかと疑問を覚えた。




4カ月後にはブレーキが異音をたて始め、パッドだかヂスクだか、4輪すべて
交換して、これはおよそ12万円自己負担となった。この時点で値引
き額を超えたことになる。
疑問から不安が芽生え始める。

年に一度と義務付けられている車検は6カ月後にあった。
じつに簡単なもので、自分で請負工場に運んで検査料は3000円くらい。車
軸のどこかが劣化している、来年あたりは直したほうがよいかも、と言われた。
不安が増幅される。

車検はパスしたが、それから3カ月後、不安は決定的になった。
購入して9カ月後、何とギアが変調をきたしたのである。サードに入れたギア
が走行中、ニュートラに戻ってしまったのだ。
加えて5速にも入らなくなり、110キロ制限速度を4速で走り続ける羽目にな
った。

それいらい、サードに入れた時には、チェンジレバーを手で固定して走らなけ
ればならなくなった。
そのうち、サードにはギアは入らなくなり、2速からサードを飛び越して4速へ
入れなければならなくなった。
ギヤが鳴るようになった。

さらに11ヶ月目には、どこにもギヤが入りにくくなり、加えて走行中に異音を
発するようになった。
そして、ついにギアを入れるには力任せとなり、セカンドでは舗道の人間が振
り返るほど、異音は高く大きくなった。

もう限界である。



購入した中古屋に見せたが、きょうはメカのわかる人間がいない、代車の用
意はない、下取り価格はいろいろチェックしないと決められない、という対応
で話にならない。
1年前に57万円で、よい車だと買わせておいて、しかし当方はその後ブレー
キのディスクを12万円で直し、いまギアの不調を伝えると、買いたたくような
口ぶりには内心、腹が立った。


で、前夜、ネットの中古車情報を調べ、きょう見当をつけたディーラーへ出か
けた。
ゴルフの2011年、オートマチック車が150万円弱で売りに出されていた。
これに惹かれたのである。


そのまでの道のりに難儀した。
午前中は別のディーラーへ、ゴルフ購入の中古屋へ、昼すぎに診療所へ、そ
れから目当てのディーラーへ。
道中、5度ほどギヤが入らなくなり、ハザードランプをつけた。
一番厄介だったのが110キロ制限の自動車道。トコトコ走り、どうにかギヤを合
わせて加速して、やっとの思いでディーラーへ到着した。


いよいよ、オートマへの熱が上がった。
いまのゴルフがミッション不調。マニュアルには嫌気がさし始めているし、自
分は右ひじを痛めて「テニス肘」と診断されている。
この国のクルマは左ハンドルで、ギヤチェンジでは右ひじに負担がかかる。
それもあってオートマに惹かれたのである。



しかし、不安がないでもなかった。
日本車ならオートマは常識だが、この国ではマニュアルが依然、幅をきかせ
ている。ひょっとしたらオートマは、外国製は外れが多いのではないか、とい
う不安もあったのだ。

知人によればトヨタのプリウスがよい、故障もなく燃費もよいという。またスコー
ダをすすめる友人もいた。スコーダはチェコ製だが、ワーゲンと提携している。
マツダとフォードの関係に似ているようだ。

しかし、いずれの車もフロントウインドウが狭く感じられた。
ゴルフの視界の良さ、ドイツ車の安心感、トヨタのトップの感覚、下請けへの問
題など、思いめぐらせればゴルフがよい、と決断した。
安物買いに懲りて、多少は高くたってオートマでいいじゃないかと考えた。



だが目当てのゴルフ・2011年・オートマは買わなかった。

同じ店に2009年のゴルフがあって、こちらは価格も100万円弱。マニュアル
車だが、オートマに比べ50万円も安いというのは財布に優しく、大きく心揺さ
ぶられて、結局、こっちを買うことにした。(続く)


さくらとゴルフ

2015年04月28日 | 人々の暮らし

4月27日 晴れ


VIKSBERGでゴルフをした。今回は、もう3度目になる。
ひとりで回って2ボール打った。前半と後半の2ホールまでは、ほぼ満足のいく
ボールが打てた。不思議なのだが、なぜかまっすぐ飛ぶのである。
ドライバーも5番ウッドも、アイアンも、なぜかわからないがまっすぐに飛ぶ。こん
なのは、初めての経験である。

ところが、3ホール目でつまずいて、4と7も悪く、8ホール目は立ち直って、最終
ホールは不満が残った。後半の6ホールで4個もボールを失くしてしまった。
スウェーデン3度目のラウンド。絶好のスタートを切ったのに、最後にまた逆戻り
かと、不安を抱いてのホールアウトとなった。



ところでゴルフ場への途中、見事な桜が見えた。
樹高5,6メートルで幹がしなやかに腰を折って、これは自分好み。日本風で美し
い。花弁はしかし桃色で、やや小ぶり。何と言う種類なのか不明だが、河津桜を
思わせる色合いと風情に惹かれて、携帯電話のカメラで数枚、写真を撮った。
家主が不在で、無断撮影である。
じつはゴルフ場にもさくらがあるかと期待したのだが期待外れ。秋には紅葉を見
せるコースも、春には桜のサの字もなかった。



ゴルフコースに花といえば、日本が特別なのだろうか。
米国のツアーでも、メジャー大会のコースには、花木の植え込みを見ることがある。
しかし、普通はそれほどでもなさそうだし、とくに配慮しているとは思えない。
そんなことを思うのは、日本で今回、回ったゴルフ場が美しかったからである。
さくらにズオウ、モクレン、ミズキなどがティーの周囲に植えられ、鮮やかな彩りを
見せていた。

とくに驚いたのは藤棚だった。
すべてのホール、ティーのわきに藤棚がしつらえてある。これは花期になったら
たまらなく美しいのではないか。白藤と紫と、ホールによって違うのか、想像する
だけでも楽しかった。
藤の香りただようなかでティーショットなんて、日本でなければ味わえないぜいた
くであると思う。



この国のゴルフコースも決して悪くない。
広くて手入れもよくされて、大自然の中でのプレーを味わえる。それは魅力的な
のだが、日本の花に彩られたコースを知っている者には、点睛を欠くというほど
ではないにしても、楽しみがひとつ足りない気がする。


異国の花見事情

2015年04月27日 | 人々の暮らし

4月26日 晴れ


さびついたブログを再開することにした。
日本からきておよそ1週間。きょうはお誘いを受けてシルバー会の花見に参加した。
LUMA公園に、40名ほどが手作り弁当を持ち寄って、日本風花見となった。




この街で、これだけの日本食が並ぶのを見たのは、初めてだった。
日本の女性群の、工夫と意匠を凝らした、と言いたくなるほどの多彩なメニューと、参
加者を思いやるボリュームには圧倒された。
Sさんのいなりには、刻みショウガをしのばせる手の込んだつくり。Mさんの桜もちデザ
ートは、いったいどうやってつくったのか不思議に思う。

日本でも、このような花見を経験したことはなかった。
弁当を食うことも、つまみに酒という花見もやったが、これだけの規模の宴は異国なら
では、という思いがした。




日本と決定的にちがったのは、アルコール抜きと、さくらの風情である。
この公園のは、ソメイヨシノ風に白っぽく、花弁は密に枝を飾っているのだが、幹が垂
直なのだ。これが何とも味気ない。
アルコールのほうは、赤い液体と褐色の香ばしい、とろりとした感じの液体が、ひそか
に回されてきて、ふたりほどで番外地遊びをした。
それでも、さくらの幹がゆがむほどにはきこしめず、どこかに風穴を思う花見であるの
はやむを得なかった。



じつは前日、連れ合いと、この付近を散歩した。
この街では、この公園の桜がましだと思えるし、近くに4,5メートル幅の細長い運河沿
いの桜並木があって、多少は日本風の花見ができるからである。
きょうも、日本人と宴の後に運河沿いを散歩して、瞬時の日本を共感した。
これはこれで、おつなものである、と思う。
それは、日本の桜には比べるべくもないが、苦し紛れということもなく、宴も含めてエト
ランゼの特権ではないか、とすら考えた。


麻薬大臣

2015年02月16日 | 人々の暮らし

2月15日 晴れのち曇り


きのうは夜からテレビを見続けた。こんなに見続けたのは初めてのこと。
映画「ソロモンの何とか」から、映画「possession」と立て続けに2本見た。possesion
は、たまたまソロモンの直後から始まった映画で、つい観はじめたら気になって最
後まで見てしまった。1時半過ぎなのに、それから1チャンネルにしたら、ABBAの
ベニーに似た人がトーク番組に出ていた。

このトーク番組は何度か見かけたことはある。司会者がノルウェー人で、話題のゲ
ストを何人か呼ぶのだが、番組名も司会者の名前も思い出せない。
が、きのうはベニーが話をしていて映画の一部が紹介され、不気味なシーンが上映
されて、まさかベニーが監督?かと思って見続けたら、主題曲をベニーが作曲してい
たらしい。
何だと、スイッチを切ろうとしたら、エンターテイナーのような若い黒人女性のビデオ
が流れ、それが何と現文化担当大臣の若いころの「職業」と紹介されて、これは気
になって見続けた。



スウェーデンの文化担当大臣は40歳くらいの黒人女性であった。
彼女はいまだにキャピキャピ感が残って、元気いっぱい。面白かったのは就任直後
のぶら下がりインタビューで答えた、若いころの過ち、だった。
当時の映像で紹介されたが、過去の過ちを質問されて彼女は「一度、やったのね」と
答えた。何をとたたみこまれて「マリワナを吸ったのよ」と。どういう気分でしたか?「よ
くわからなかったわ」。この映像のあと、翌日の新聞報道「麻薬患者大臣」というタイ
トルが出て、彼女が笑いながら、「あれは違うのよ」とこう続けた。
「あの後でね、友達から電話が来たのよ。あんた、間違ってるわよ、って。え、なにが?
あたしたちが吸ったのは、マリワナじゃないわよ。あれはね、インドの香水入りタバコ
だったのよ、って」
「だから、味がわからなかったわけですね」
「そうなの」というやり取りが、朗らかに続いた。
大臣就任要請時には、自宅へ電話が来たときに、こうやってねと直立して背筋をぴん
と伸ばし、電話をきっと握りしめ「はいっ」とお辞儀したポーズまで見せた。
虚実はともかく、こういう話をあっけらかんと話す。まあタレント上がりの政治家だから、
といえばそれまでだが、何とかの穴まで見せるようなことまで明かすのには驚いた。
父親はアフリカ・ザンビアの出身だという。




それからノルウェー人のノーベル平和賞選考委員会のメンバーに続いて、さらにドイツ
の若い女性が登場した。
彼女は腸に関する著作を発表して、それがベストセラーになったという。笑顔がかわい
らしく、20歳半ばにしか見えない。腸は脳や神経にも影響を与えるとか、その研究は
端緒についたばかりだとか、腸を引き伸ばすと7キロメートルにもなるという話をした。
面白かったのは日本人の運賃愚スタイルが、理にかなっているという話。あのスタイル
が一番腸に負担をかけないのだそうだ。西欧風便器に座るときでも、膝を曲げて上げ
てやると腸に余計な圧力をかけずに済むからよい、ということだ。


きょう連れ合いに聞いたら、この番組は司会者の名前をとってタイトルにしている。かな
り人気のトーク番組だと言う。
たしかに、司会者は穏やかな人物で、厳しい質問をやさしく問い合わせるという風に聞
き、関心を外さずにゲストの話を引きだす。ゲストの答えから、さらに疑問を広げて話を
深めて行く、というスタイルというか能力のある人物という気がした。




音楽家のベニー、政治家、ノーベル平和賞選考委員、女性研究者。4人のゲストが一
人ずつ席に着き、最後は司会と合わせて5人が質問のやりとりをする。
こういうスタイルのトーク番組は、日本では見たことがない。たぶん視聴率が取れない、
ゲストの出演交渉が面倒、ということで実現しないと思う。

この程度の企画は難しいとは思えない。問題は企画ではなく、テレビ局の視聴者のとら
え方と、じっさい視聴者自身の質の問題のなのだろうと思う。その国の民度にあった政
治家、そしてテレビ局ということかしら。

この日はTさんYさんYさん夫妻と「すし膳」で会食。
このテレビ番組のことを先輩諸氏に聞こうと思ったが、Tさんの独演会に時間をもらうこと
ができなかった。
もっとも、食事の最中に運賃愚スタイルについて、なんてのは場違いであっただろうが。


スウェーデンの葬儀

2015年02月13日 | 人々の暮らし

2月12日 くもり


仏式よりキリスト教の葬儀のほうが、悲しみは深くなるのではないかと思う。
ここでいう悲しみとは、故人を思いやるということである。


なによりも言葉の問題である。
神父が何を言っているのか、聖歌・讃美歌がどういう歌詞なのか。意味がわかる。

仏式では僧侶の読経がメインだが、何を言っているのかわからない。
意味がわからないから、理解して感情を揺るがされることがない。どんなにありがたいこと
を説かれていても、馬の耳に念仏。こちらはバカにでもなったようなものである。
悲しみ、故人を思いやる気持ちなど、どうにも浮かんでこない。浮かびようがない。


キリスト教では神父が故人の話をする。
義母の葬儀で、彼はこんなことを言った。
「愛情や安心感というのは、子どもの頃は母親から受けるものです。それは、学校から帰っ
てきたとき、台所からただよってくるクッキーの匂いです。そして、故人はお菓子作りの達人
でした。亡くなる3日前にも、施設の人たちとお菓子を作りました・・・」
これはきく。
きわめて具体的に、故人の生前の姿が思い浮かぶ。故人の笑顔がたたみかけるように
重なって、お菓子の匂いさえ運ばれてくる。
否が応でも子どもの頃、母親が優しく愛情深かったときのことが思い出される。記憶が鮮
烈によみがえる。
そして彼女はいないのだ。
神父は、そういう故人の愛情から神とのかかわりに言及する。愛情の深さ、重さについて
宗教の世界へ導いていく。
どんなやくざな人間でも身につまされる。胸にこたえる話になる。宗教ビジネスと斜に構え
てみることはできないと思う。



讃美歌も、同じようなものだ。
キリストと神と愛と死を語る。人の原罪を神が担う。神よ、私をお救いください、と願う。神
のみ国は美しく素晴らしい・・・。
仏教の経典とは違って、讃美歌は多少は文語体であっても、とりあえずは理解できる。生
と死を意識して、故人の冥福を祈る気持ちになる。
式は1時間ほどだが、その間中、遺族は故人を強く思い浮かべることになる。
これは悲しくつらい時間になる。
日本の卒園式、卒業式で歌われる曲を思えば、わかりやすいかもしれない。

仏式の読経では、こういう具合にはいかない。
故人の冥福を祈る気持ちはあるけれど、経典の意味からそれが生まれるわけではない。
せいぜいが香の匂い、あるいはお教の響きにしか死を意識することはない。


しかし、一方で、仏式は故人との対面を強いる。
斎場で、いざというとき、棺桶の顔の部分の観音開きをあけて、死に顔を見る。正確には
強いられるわけではないが、最後に一目見てという気持ちが働いて、だいたいの人は死
者に向き合うだろうと思う。
斎場まで随行しない弔問客らは、式後に棺の中へ生花を置くときに、故人の死に顔を拝
顔することになる。

これが、教会の葬儀では、まったく遺族の意思による。
義母の場合は、死に顔どころか棺が運び去られるのにも立ち会わない、見送りはしないと
決めた。
むろん、最後のお別れがしたい、という遺族は棺を開けてみることも可能だ。

教会の葬儀では、献花の時間がある。
式場に置かれた花とは別に、弔問客が一輪の花を持参して、一人ずつ棺の上に置く。この
とき、棺にそっと手を置く人がいる。
それが、この葬儀では、故人との最後のお別れになる。



日本の葬儀場では、使い回しの花輪が飾られるが、生花は式後、棺の中へ置かれる。
教会の葬儀では、献花はすべて生花であったが、これは式終了後は教会の外に置かれ、
枯れるまで放置されるという。


ところで、讃美歌で驚いたのは、知人の葬儀でうたわれたのと、同じ曲があったことだ。
ふつう3曲が選ばれるが、2曲がまったく同じだったのである。249番と279番。
讃美歌を選ぶのは遺族である。
神父が打ち合わせのときに、希望する讃美歌を選んでくださいと言った。知人と同じは奇
遇か、と思って調べてみたら、そういうことではなかった。
葬儀でよく使われる讃美歌は10曲くらいであるらしい。
249番と279番は、その中に含まれていた。