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瘋癲北欧日記

第二の人生 つれづれなるままに

異国

2015年05月05日 | 人々の暮らし

5月4日 曇りのち雨


午前中、近場の島を30分、散歩した。
新緑が日ごとに芽を伸ばしている。気温は相変わらず低い。10度もないが、確
実に春は訪れつつある。新緑がそれを教えている。


この国で、春を知らせる花といえば雪割り草である。
これは花期が長い。こちらに戻った4月半ば、すでに森の中は雪割り草の花畑だ
った。残雪と見まごうばかり、と言うのが大げさでもなく、地表を小さな白い花が覆
い尽くしていた。
それが、いまもなお咲き誇っている。



雪割り草には、日本ではどうなのか知らないが、この国にはルールがある。
青い雪割り草は摘んではいけない、というのである。理由は、それが希少だから
である。ダイヤモンドと一緒である。たしかに、青色の花弁は可憐で、野の美しさ
をおぼえるが、姿かたちは関係ないのだそうだ。

きょうの散歩の道すがらに、青い雪割り草はなかった。
しかし、数日前、別の公園で数本を見つけて、写真を撮ったのでここに残しておこう。



昼すぎにシャーラホルメンというところへ、ドライブだてら行った。
車で30分くらい、イケアの近く、よく訪れるモールがあるのだが、きょうは駅の並び
の商店街をのぞいてみた。


このあたりは、ほとんど異国であった。

妙な表現になるが、スウェーデンの中の外国ということである。
中東アラブの店が軒を並べている。ペルシャじゅうたんの店、アラビア趣味の雑貨
店、シーアのお菓子屋。ここでは、愛想の良いシーア人の青年が、試食品を差し
出した。甘味が強くて買わなかった。

それから「世界の品を集めている」スーパー、アラビア語を掲げる洋品店、アラブの
スーパーが続く。
噴水のある広場では、アラブ人の経営する青物マーケットが店を広げている。



店の中も外も、異国人ばかりという印象である。
大半が褐色の、眉毛の濃い人たちで、白人もいるが、言葉を聞いていると東欧の人
たちが多い。スウェーデン語を聞くことはきわめてまれである。
ここでは、スウェーデン人は完ぺきにマイノリティーである。


シリアの人口の5パーセントがスウェーデンに来ているという。
シリアだけでそうなのだ。これに中東諸国、アフリカ諸国、東欧諸国、アジア諸国と
大挙して外国人が押し寄せている。
日本人である自分が言うのもおかしな話だが、この国は外国人に占拠されている
のではないか、と思う。




自分など、日本の年金で生活し、それでも正直にいえば多少は肩身の狭い思いで
暮らしているのだが、前掲の国々の人たちは堂々と、大手を振って歩いている。
さまざまな補助金を受け、ありていに言って不労所得を得ていながら、この国に来
てやっているのだ、という風に見える。
これが、「異国人による占拠」というイメージを、いっそう強く抱かせるのだ。


70年。私が最初に来た当時のスウェーデンは、もう完全にどこかへ消えた。
春を知らせる、白い雪割り草は、昔のままの姿を見せているのだが。


ほんとの戦争

2015年05月04日 | 人々の暮らし

5月3日 晴れ時々曇り


まだ最高気温でも10度を超えない。東京は28度だというのに、この地の春の
訪れの遅れ、というか冬の長さというべきか、寒さには閉口する。

それでも、この国の人たちにとっては晴れたらバーベキューらしい。まだ、マフラ
ーが恋しいというのに、なかにはTシャツで、肉を焼いている人がいる。
それを目撃したのは、LIDAリーダという公園である。連れ合いの友人夫妻に誘
われて、車で30分くらいの、この公園に散歩にやってきたときのことである。


この公園は、昨冬訪れたとき、雪上車の遭難事故に遭遇した。
湖の氷が割れて、雪上車が一方のタイヤを湖中にとられて、お傾いているのを
見た。これは、当時のブログに書いた。



それいらいのリーダ。
ここ数日続いた悪天候から、久しぶりに青空ののぞく日がやってきて、外出しな
きゃ損というような感じなのである。


きょうは、公園の奥まで足を伸ばした。
一方の出口・駐車場まで森を抜けると、広大な畑の中の一本道になって、北欧
の田園風景を味わうことができた。
これくらいの近場に、こういう場所があると知ったのは収穫だった。



ところで、ユダヤの友人が道すがら、日本の軍隊について聞いてきた。

軍隊はあるのか、徴兵制度はあるのか。中国や北朝鮮の脅威はないのか。
実質的な軍隊はあるが、中国にはかなわないと答えた。中国の人口と軍事費は
莫大で、日本は問題にならないだろう、と。


かれは、67年には軍隊にいた。
イスラエルには徴兵制度がある。軍事訓練はハードだった、だが、それはイスラ
エルにとっては必要なことだったし、意外に楽しい経験だった、と言った。
そして、こう続けた。

「67年、自分は戦闘に参加した。そう、第三次中東戦争だ。相手はエジプトをは
じめ多くの国々だった。イスラエルはちっぽけな国だが、確かな情報を収集して
戦ったんだ」
たとえば、だと、こんな話をした。
「エジプトは彼らの基地に多くの戦闘機を用意していた。しかし、そのうち使用で
きるのは多くはなかったんだ。数だけ揃えて威嚇していた。イスラエルは、正確に
実際に使える戦闘機だけを攻撃して破壊した」
そういう戦い方をしたので、ちっぽけな国でも勝利したのだ、と言いたかったのか
もしれない。


これが自分には生々しい話だった。
戦争の体験者から聞くということが、その中身よりも重く感じられた。


で、あなたは陸軍か、空軍か、どちらに所属していたのか?


そうきいたときに、帰ってきた答えが、さらに重かった。


「どこでなにをしたか、それは言えない」



このひと言が、戦争が現実であるというのを、教えた。本気なんだ、こういうのが
「なまの話」なんだと、なぜか瞬間的に思った。
過剰反応かもしれない。
しかし、「言えない」ことがある、というのが、ずしりと響いたのだ。

体験者の話なら、何度か聞いたことがある。

第二次大戦で、山本五十六がブーゲンビリア上空で撃墜された。そのもようを、そ
のときに掩護機のパイロットをしていた人物から聞いた。
彼は右手首を失い、フック船長のようなカギの義手をしていた。穏やかな人で、歴
戦のパイロットというイメージは全くなかった。


鹿児島・知覧基地で、兵士を見送った「特攻おばさん」からも生々しい話を聞いた。
彼女が見せてくれた往時のアルバムを複写していたら、「あ、その人はとらないで
ね」と言われた。
かれは機体の不調を訴え、何度も帰還した兵士だった。ようするに命を惜しんだ、
敵前逃亡兵で、いまも生存している。公にされたら困る、というのだった。



しかし、ユダヤの友人の「言えない」というひと言は、それらより生々しく響いた。
それは、67年という時期にあるのかもしれない。過去の話ではなく、いまも「継
続する戦争」の話だからではないかと思う。
歴史の中に閉じ込められた戦争ではないのだ。

若い人たちが、そう遠くない将来に「言えないこと」を強いられる、そういう「戦争」
に駆り立てられる日が来るのではないか。
それが議論空論でなく「現実感」をもった。どこかで、本当にやばいぞ、という感覚
をもった。身近な人の死が、自分の「死」を知らしめるような、そういう感覚に似て
いたかもしれない。


お気楽な散歩のはずが、そのときは異空間に飛び込んだような気がした。


彦作村長殿

2015年05月03日 | 人々の暮らし

5月2日 くもり 

4月25日写す


ご無沙汰しています。

相変わらずのグルメ・リポート、精力的な活動範囲に驚きもし、また感服して
おります。魅力の品々にウラヤマシさも半端ではありません。


こちらに戻って雑用に追われ、つい先日から村長のブログを振り返り読み
始めました。

そこで権現堂の花見を拝読、拙者の名前を見出しました。

権現堂は、自分も2,3度、訪れたことがあります。
土手堤の桜並木と、裾の菜の花畑、土手の新緑と三拍子そろって、おまけ
に青空をいただけば、これはもう「日本の春」というしかありませんね。地元
有志の熱意も感じられ、そんなことが村長のブログから思いだされました。
(当時はうなぎ弁当はなかったように記憶していますが)




(彦作村長の「ウマズイ村通信」は、以下のURLで読むことができます)


渓流斎殿と自分と、やや非日常的な事柄を抱えて、それでもさくらは見事に
咲いて散る、ということなのですね。今回、墨田ぼくてい桜をキャンセルした
のが、事情が許さなかったとはいえ、あらためて残念に思いました。

その代わり、今年は思い切って身延山へ久遠寺のしだれ桜を見てまいりま
した。樹齢四〇〇年とか。
もう一日遅れたら、盛りを過ぎたわびしさを味わうところ、しのつく雨の中、か
ろうじて見ごろを楽しむことができました。

触れなば落ちんという風情も感じられ、<WBR>盛りの峠を越した妖艶な美しさに、ま
た格別な趣がありました。

身延山


下山途中、日蓮の霊廟のある寺院の境内に、真っ白な樹高二〇メートルを
超すしだれがあって、これはスギ林の深緑を背景に、幽玄としか言いようの
ないたたずまいを見せていました。


寺の軒先で雨宿りしていたら、受付の坊様に話しかけられ雑談するうちに、献
呈用のお線香をいただいてしまいました。
香りが強く、今回は、これをストックホルムに持ち帰って、ここの簡易仏壇でた
いています。


久遠寺のしだれは、亡父と一度は見たいものだなと話して、<WBR>しかしかなわな
かった花見でした。
<WBR>線香は因縁を感じさせ、望外の供養になったという思いです。

建物左下に寝室窓



じつは簡易仏壇のある寝室の窓から、さくらを見ることができます。

この地でよく見る種類の桜で、花弁が小さく、冬桜のような感じです。色は、ほ
とんど白。雪柳のような香りを巻いて、日本では見たことのない種類です。
樹高も一〇メートル弱あり、今年は枝にびっしり花弁を飾って、これが冬桜と
は大違いで、それは見事なものです。
裏山に咲くレンギョウの黄色が、権現堂桜の菜の花とちょっぴり重なります。





つい長くなりました。さくらの話は尽きることがありませんね。
次は一〇月に戻る予定です。例の温泉で、またゆっくりできたらいいですね。

では奥さまにくれぐれもよろしく、また連絡いたします。

春を迎えて

2015年05月01日 | 人々の暮らし

4月30日 曇りのち晴れ


きょうはValborgmassoaftonヴァルボリスメッソアフトンである。
長ったらしく発音しにくいが、スウェーデンでは、この日に伐採した枯れ木を
燃やし、春の到来を祝うという記念日である。
日本では「ヴァルプルギスの夜」として知られ、由来はウキペディアで知るこ
とができる。


わが借家の近くの広場にも、数日前から枯れ木が集められていた。
湖から10メートルほど離れた、野球のダイヤモンドくらいの広さがある原っ
ぱに、各家庭で伐採された庭木が文字通り枯れ木も山の状態で積み重ねら
れ、それが10メートル弱の高さになっていた。



薪の点火は夜の8時だと聞いていた。
15分過ぎ、家の外に出ると、もう焚火の火の手が高く上がっているのが見
えた。借家はちょっと高台にあるのだ。


広場へ向かう道筋には、車が数珠つなぎで駐車されていた。
この日は祝日前夜。この焚火というか、かがり火を見るのが一大イベントに
なっているようだ。
どこにこんな人間がいたのか、というくらい人が集まっている。
ざっと400人くらいか。




人出を当て込んで、広場の周囲には屋台が4軒並んだ。
いずれも行列ができ、なかでもコットンキャンディーは人気らしく50人ほどの
列になっていた。
屋台どころかメリーゴーラウンドまで、臨時設置されていた。この直径10メー
トルくらいの、ミニミニ・メリーゴーラウンドも人気で、子どもたちが嬌声をあげ
て楽しんでいる。


お祭り騒ぎである。


焚火は盛大で勢いがよく、10メートルのところで熱い。
だが、夜の8時過ぎでも、まだ空は明るい。燃え上がる炎が、空の明るさに溶
けて、思ったより目立たず迫力がない。
暗い夜空を背景にしていたら、紅蓮の火となるところだろうが、この時期の北
欧では9時を過ぎなければ無理である。



しかし、炎には人を浮き立たせる魔力があるようだ。
たき火を囲む顔は笑顔であふれている。子どもたちは、はしゃぎまくっている。
あたりの藪から棒きれを拾ってきて、薪の山に投げ入れる。火の近くまで駆
けよっては逃げかえる。キャッキャと騒がしい。
大人は笑って見守っている。

だれもが笑顔を見せる中で、異色だったのは、化粧の濃い少女たち。
斜に構えて、こんなの子供だましで面白くはないけど、まあ来てみたのさ、と
いう顔つきをしている。
まだ十代に入ったばかりの年ごろ。背伸びしているのがよくわかる。

春を迎えるのは季節ばかりではない、と思う。


 


続・中古車情報

2015年04月30日 | 人々の暮らし

4月29日 晴れ曇り一時雨


新しく買った車でタクシンゲ城へ行った。
庭園内にあるパティオに足を踏み入れたのは初めて。雨と風をしのぐため
だったが、よいたたずまいだった。
こじんまりしていて、日本人にはこれくらいの規模が落ち着くのではないか
と思った。



ところで中古車情報の続きを。


オートマとマニュアル、どちらに試乗したいか、聞かれてマニュアル車を選
んだ。
試乗は連れ合いと私の二人だけ、近場を回っただけで終わり。およ5分間。
日本では、これは新車のケースだが、ディーラーが同乗して説明を受けな
がらもう少し距離を走った記憶があるのだが、この国は勝手が違った。


とまれ、いまのゴルフがひどいので、スムーズにギアが入るだけで満足。車
内もきれいに掃除されて新車風。連れ合いはこれに好感を抱いた。

この09年のゴルフ・マニュアル車には100万円の値がついていた。
自分のガタ車を下取りしてもらうと、いくらになるか。
戻ってから事務室に入って価格交渉に入った。



ディーラーは60歳くらいだと思うが、190センチはある長身。白髪交じりの
褐色の短髪をオールバックにして、イメージは元米大統領のレーガン風。
俳優のだれかに似ているが名前を思い出せない。

白い開襟シャツにツイードのジャケット、ジーンズにブーツ。話しぶりも、そ
のスタイルに呼応して、ややラフ加減、ジョークを交えてタフなアメリカ人を
気取っているように思った。

オレは正直で気のいい男だ、まかせてくれて大丈夫、何でも言ってくれ聞
いてくれ、損はさせないぜ、という匂いを振りまいているようだった。
たぶん、やり手のディーラーなのだろう。

彼は、わたしたちに希望額を促した。逡巡していると、5万円強を引いた額
を書いてよこした。
「ミッションを直さなければいけないし」と言った。

「もし、私たちが直してきたら、いくら値引きするか。修理代は10万円くらい
すると聞いているが」
「その場合は10万円引きくらいだな」
つまり、自分で修理しても、その修理代の半額くらいしか値引きの対象に
ならない、というのである。
考え込んでいると「7万円引き」まで提示額を下げてきた。

どうするか、連れ合いと顔を見合わせ、しばらくして言ってみた。
「90万円くらいにはならないか?」
さらに1万円引きを要求してみた。
「うーん、仲間と相談してみよう。もう一度、あんたの車を見てくる」
レーガンは仲間と部屋を出て行った。

どうなるだろうか。




クローネでいうと、売値は6万9900クローネ(100万円弱)だった。
それを、6万6000クローネに値引く、というのが最初の提示。修理したうえ
でなら、6万3000クローネまで値引きする、と言った。
さらに、6万5000クローネまで値引きすると言ったのを受けて、こちらは6
万4000クローネでどうか、と聞いたわけである。
当初の値段からすると5900クローネ、8万円くらいの値下げになる。


戻ってきたディーラーは、わかった、90万円にしよう、と言った。
その価格で決定、すぐに契約を交わした。



自分の計算では、いまのガタ車は購入時に4万クローネ弱だったので、1万
クローネ(約14万円)で下取りされれば十分だった。修理しても6900クロー
ネ(約10万円)にしかならないなら、現状のまま5900クローネ(8万円強)の
値引きで手を打ったほうがよいと思った。


とにかくギヤの入らない車にはうんざりしていた。
うんざりどころか危険でさえあった。一刻も早く手放して、即、次の車がほしい。
そういう状況で、一気に交渉、契約してしまったのだ。


しかし短時間ではあったが、即決に至るには、それなりの調査はしたつもりで
ある。

購入前夜、ネットで中古のゴルフを調べられるだけ調べた。
この国の中古情報は、過去に何人の保有者がいたか、いつ車検を行ったか、
盗難や事故の有無などに及んでいる。
日本の場合は知らないが、結構な情報量であると思う。

数10台の中古ゴルフの中から、よさそうな4台に絞り、すべてについて車歴
を読んだ。それから3台に絞り、翌日、つまり昨日2か所のディーラーを回っ
て、第一希望のオートマから次善のゴルフを選んだのである。



しかし車には当たり外れがある、と言われる。
新車でさえそうなのだから、中古車なんてどうなるか、予測がつかない。
最初の車は、ネットでは調べもせず、知人の紹介で購入した。そのころはネット
ではいい加減な車が多い、などという話をスウェーデン人から聞いていたから、
紹介のほうがよいと思ったのだ。
しかし、結果はひどかった。

今回はネットで検索して、一応はベストに近い判断をしたと思っている。
だからといって、どこかに不備は出てくるかもしれないが、それはやむを得ない
と思う。



じつはきょう、すでに気付いた不安がある。
140キロ近くになるとハンドルが多少ガタつく感じがすること、走行中の車内音
が騒がしいのではないかということ、である。