goo blog サービス終了のお知らせ 

瘋癲北欧日記

第二の人生 つれづれなるままに

Sturehov

2014年06月04日 | 旅行

6月3日 曇り時々雨


こんな辺鄙なところにある城に、意外な歴史があって驚いた。
Sturehov Slott (スチューレホフ スロット)= スチューレホフ城のことである。

ストックホルムの南、サーレム州の端にその城はあった。借家からクルマで30分強の
ロケーション。日本の感覚では近場になるかもしれない。しかし借家から、制限速度60
キロと100キロの、ほとんど高速道路と言ってよい道をすっとばすので、距離にすれば
30キロは下らないのではないかと思う。

E4(欧州横断道路)のサーレムというインターチェンジで降りてから、およそ15分。もう
あたりはだだっ広い畑と森、馬がときおり2,3頭の牧場、自然のど真ん中になる。
借家から出て、信号は制限60キロ州道に3か所あっただけ。横断道路や田舎道には
まったくなし。田舎道も片側一車線なのに70キロ。ガードレールはない。行きかう車は
数えるくらいだったが、だいたい制限時速を超えて走っている。
スピード感が日本とは違う。


うだうだしたが、そのくらい距離があっても短時間で着くということ、辺鄙なロケーション
にあるというのを書いておきたかった。
また、南部の名所など紹介するマップにも、このスチューレ城はなかった。
じつは、ゴルフ場の下調べにグーグルマップを使って、その近場に城があるのを見つけ
た。それがスチューレホフで、それならついでに寄ってみようかという程度の片田舎の城
だったのである。



じっさい、訪れてみるといかにも館は小規模だった。
スウェーデンのスロットは城と訳されるが、日本のイメージではせいぜい荘園クラス。城
めぐりはいくつかしたが、中でも、このスチューレホフ・スロットは小ぶりだった。
本館が3階建て、翼館は平屋で左右に二棟。この翼館が16世紀に最初に建てられた。
本館は3人目の持ち主が18世紀に建てたという。グスタフ3世の財務大臣だった。
本館の前庭を挟んで翼館が左右に立ち、前庭を突っ切って200メートルくらい、リンデン
の並木道をまっすぐ歩くと湖に出る。
ここのリンデンは”結びリンデン”という種らしく、幹や太い枝先に異様なほど大きなコブが
ある。ドロットニングホルムのような、優雅なリンデンとは趣が違って、やはり片田舎の城
はこんなものかと思わせた。




本館の裏には広大な庭園があった。
ここにも結びリンデンの並木が、庭園の50メートル幅はあろうかという広い芝生を挟ん
で左右に、およそ200メートルほど続いている。
開放的な庭園ではあるけれど、よく言えばシンプル、ありていに言って広いだけ。意匠
がこらされていないから、広さだけが目立って、それがかえって本館の貧弱を教えるく
らいのものだった。



しかし、この日は雨模様のせいもあってか、訪問者はわたしたちふたりだけ。庭園を独
占して散策を楽しむことができた。持参の折りたたみ椅子を広げて、正門ポーチでコー
ヒータイムを過ごすこともできた。


家に戻ってネットで調べたら、意外なことが分かった。
城の最初の持ち主、スチューレ家は「スチューレの殺人」事件として、歴史に残っていた。
1567年、時のエリック14世によって関係者も含め、一族6人が死刑に処されていたの
である。
エリック14世は、スチューレ一族がクーデターを企てていると疑い、親子含めて5人を投
獄し、1567年、ウプサラで処刑した。王は精神を病んでいて、夜な夜な徘徊するなど奇
行が目立ち、主治医の診察を拒否して、しかもナイフで刺し殺すという暴挙も犯した。
そのような王の手によって、あらぬ嫌疑をかけられて一族が死刑を受け、それが「スチュ
ーレの殺人」事件として、後世に伝えられることになったらしい。


死刑の行われたウプサラの城には、場内に牢獄がもうけられていた。
3年前の夏に訪れ、牢獄の前にロウ細工のさらし首があるのを見た。3つ首くらいが槍で
くくられ、苦悶の表情と血痕も生々しく、精巧な作りで驚いた記憶がある。
処刑場も場内にあって、上階から見下ろせるような作りになっている。幼い子どもたちも、
処刑を面白がって見物したという。子どもたちが処刑を描いた絵も残されていた。
名前は失念したが、何とかいう王女が不審死をとげ、その霊がいまでも薄暗い城内の通
路をさ迷う。それで、風も入らぬのにローソクの火が消える、という話を聞いた。


そういえば、スチューレホフの前庭と裏庭に、妙な彫り物があった。
3メートル程の高さのある植木鉢のような器のわきに、デビルもどきの顔面が彫られてい
た。両方とも、同じ対象物だと思うのだが、表のそれは苦悶の表情を、裏のそれはうすら
笑いを浮かべているように見え、不気味な彫刻だなと思った。それが、まあ偶然というか
無縁なのだろうが、殺人事件と重ねて想像たくましく、余韻を楽しんだ。




「スチューレの殺人」を知って、3年前のウプサラ城を思い出した。
ウプサラとスチューレをつなぐ歴史があった。こんな片田舎の、ちっぽけな城がねえ・・・
ゴルフ場下調べがなければ、こんな城も歴史も知らずじまいだったと、その因縁を楽しむ
ことができた。


 


テートの妖婦人

2014年01月23日 | 旅行

1月23日 晴れ雪


テートブリテンで、もうひとつ驚く発見があった。
これも自分の勉強不足、いい加減のせいなのだが、それで驚くことができたの
だから無知蒙昧も悪いことではないと、これは強弁かもしれないが。

マダムX という絵がある。
5,6年前に縮刷プリントを買って、日本の家の居間に飾っている。
マダムは黒いロングドレスを着て、すっくと立ち、横顔を見せている。貴婦人らし
いのだが、目もとに妖しい光をしのばせ、セクシャルな香りを漂わせている。

黒いドレスの肩ひもはごく細く、滑り落ちなんという風情で、これもまたエロティッ
クな雰囲気。ツンとしましたような、横顔のノーブルな貴婦人が、わずかにのぞか
せる妖気。それに当てられて、ニューヨークまで見に出かけたことがある。
縮刷画は、その時に求めたものだ。



NYの写真が見つからず、ゴーグルから複写


ニューヨークへ行ったのは秋だった。
定年間際、連れ合いを誘って出かけた。目的の一つがメトロポリタン美術館に
あるマダムXを見ることだった。
(ちょうどその時期、同美術館ではフェルメールの特別展を開催していた。かなり
の人気で、場内は混雑していたが、十数点を見ることができた。ゴッホやモネ、モ
ジリアーニなどの常設展は人っ子ひとりいなかったが)

しかしマダムの絵は展示されていなかった。
ガイドには展示部屋が記されているのだが、その部屋が見当たらないのである。
係員に聞くと、何とマダムXは格納部屋にあると言う。収蔵作品が多く、ときに入
れ替えをしなければならず、マダムはちょうど外されていたのだった。

だが、それでも格納部屋で見ることはできると係員は言った。

もう部屋番号などは覚えていないが、常設の一般の展示室の裏手というか、奥に
ある通路の両サイドに透明ガラスで仕切られた場所があり、通路は1メートル強し
かなく、ガラスケースはなるほど格納庫という感じで、これも部屋ということになって
いて、そこへマダムは押し込まれていた。

格納庫は透明ガラスの扉で、絵画は見られるようになっていたが、鉄格子でガード
されていた。作品たちは閉じ込められていると言う風であった。
これでは、普通に探したのでは見つからないはずである。

ずいぶん探したぜ、こんなところにいたのか、と思わず口走ったのを覚えている。


マダムXは、パリで発表された当時スキャンダルを起こした。
ドレスに肩ひもがなく、わいせつで下品だと酷評され、画家のアメリカ人は、肩ひも
を描き加えなければならなかったという。時代もスケールも違うが、ミケランジェロ
のフレスコ画・天地創造と同じようなケースだ。

そういうスキャンダルも興味を引いて、マダムXとの対面は楽しみだった。
号数は知らないが、実物の絵は縦2横1メートル大だった。探しあぐねて、ようやく
30センチの間近で見ることができて、ある種の感激があった。

それにしても、格納庫であれ見ることができる、見せるシステムがあるというのは
素晴らしい配慮だと思った。メトロポリタン以外の美術館で、こういうところはある
のだろうか。
感謝の気持ちも働いて、ついショップでプリントを買ってしまったのだ。


 このマダムXの「亡霊」が、じつはテートブリテンに現れた。画家は失意のまま母
国へ帰ったと記憶していたのだが、違ったようだ。
自分の無知のせいで、その意外に驚くことになった。


 続く


ロンドン3日目

2014年01月23日 | 旅行

1月22日 晴れ


青い空と白い雪。ここへ戻って初めての快晴。午後3時過ぎまで明るい。
朝方、舞い降りた新雪が庭に残って白銀に輝いて、典型的な美しい北欧の冬
景色を見せた。
時差ボケで昨日は午前3時に、今日は5時半に目が覚めた。


ところでもうひと月前になるが、ロンドン紀行3日目のことを書いておこう。
テート・ブリティンからセントポール大聖堂、ナショナルギャラリーからノッテイ
ングヒルゲイト、ホランドパークまで。


テートは館内写真撮影ができた。



テート・ブリテンは初めて訪れた。
ここは英国の美術品が多く、ターナーの作品とムーアの彫刻で有名だという
イメージがあった。どちらの作家も好きではなく、このときまで敬遠していた。
しかし、これは過ちだった。多くの発見があった。

ブレイクとターナーは、それぞれ独立した展示室に飾られていた。

ムーアは今回も無視したが、ターナーはその画風の変遷を知って驚いた。
風景画などかなり具象から始まって、ついにあのような、とらえどころのない淡
い黄色やオフホワイトで光を表現するようになった、光と影を追っていくうちに、
そこへたどりついたというのを知った。
自画像も初めて見たが、澄んだ大きな目が印象的だった。



こんな絵も



こんな時代も


 
いずれもターナー。下2枚は一部

そう知った後で、若い時期の絵を見返すと、夕陽の差す枯れ枝、日暮れの草
原、黄昏時の残照を浴びる雲の流れ、荒波に揺れる帆船など、随所に淡い光
をていねいに拾っているように見える個所がある。
事前に調べるのではなく、この場でその変遷を勉強できた、あるいは感じられ
たというのが、美術館を訪れる醍醐味だと思った。
これは強弁ではない。


ブレイクも代表作はうろおぼえで見知っていたが、テートの豊富な展示作品群
には圧倒された。
特別室は照明を一段と落として薄暗く、保存のためなのだろうが、不気味と言っ
てよい画風が強調されているようだった。


 


 
いずれもブレイク

また彼が詩もよくして、エルサレムという聖歌が準国歌的扱いをされているとい
うのは、全く知らなかった。
神秘主義者で、幻覚を見ることがあったというのも、ここで初めて知った。
テートのあとでセントポール大聖堂を訪れたが、そのクリプトと呼ばれる地下に、
何とブレイクの墓碑があった。これも知らなかった。
自分には驚くべき符号という感じがした。


じつはお目当ての作品は見ることができなかった。
ロセッティーの一部と、ジョン・エバレット・ミレーのオフィーリアである。
いずれも見当たらなかったので、係員に尋ねたら、こういう答えだった。

「ああオフィーリアはね、いまはワシントンで、それからモスクワ、そして日本に
行くんだ。貸し出しているんだよ。君は日本人か。それなら大丈夫だ、たしか来
年の1月25日から東京の美術館に出品されるはずだからね。え、その時は日
本にいないのか。1月19日にストックホルムへ帰るって?そりゃ残念だね、ま
たきてもらうしかないなあ」


腰の曲がり始めた薄い白髪のやせた老人。目をしばたたいて同情してくれた。


続く


私有公園

2013年12月31日 | 旅行

12月30日


承前。日本で続きを。

ホテル前の「公園」に驚いた。
ホテルはGarden view hotel という名前だった。
部屋の窓から見えるGardenは100X50メートルほどの広さがあった。そのgardenに
驚かされたのである。




ロンドン3日目。朝食をとりに食堂に行くと窓の外に騒音が聞こえた。
見れば作業車が木の枝をみじん切りにしている。ヘッドホンをした作業員二人が、2
メートル前後に切られた枝を数本まとめて、車の後部についている80センチほどの
楕円の筒に差し込む。
筒は掘削機につながっていて、枝を木っ端みじんに切り刻んでチップにし、車の荷台
に吹き出している。これが騒音の主だった。



 日本では見たことがなかったので作業員に聞いた。

「これはご覧のとおり、この公園の枝を切り落として、それをこの機械に入れてチップ
にする。こうすれば大量の枝を処理できる。これを焼却所に運んでエネルギーにする。
エコだね。
わたしたちは民間企業だ。この公園は管理者からの依頼で来た。公共の公園などは
公的機関の入札に応募して仕事を請け負うこともありますよ」

通りがかりの、上品そうな中年の夫人が笑顔で話しかけてきた。

「わたしたちがこの公園の木の剪定をお願いしたんですよ。ほらあの木はアッシュです
けど、松やにがいっぱい浮いているでしょう。放っておいたら木がくさってしまいますか
らね。これはミモザよ。きょうは4本手入れしてもらうんです」

彼女は、公園の管理者の一人で「日本では桜の木の下で食事なさるんでしょう?」と言
った。好都合だ、質問してみようと思った。

じつは、この庭園は公園ではなく「私園」であった。
昨日、それを知った。朝食前に散歩しようと出かけたが、公園なのに塀や柵で囲まれ
て門には鉄製の扉で閉ざされ、チェーンをかけて鍵がかかっていた。
中に立て札があり、それにはこう書いてあった。

 「プライベート。カギの所有者にかぎる。ボール遊びは禁止。犬もオーソライズされた犬
のみ。門は閉じておくこと」




驚くと同時に「オレは犬以下か?」と思わず苦笑した。

70年、市内にある庭園で同じような立て札を見た。
この庭はメンバーのみ入園が許される、メンバーの友人でも入園できないと書いてあっ
て、園内にはパイプをふかし、高価そうなコートをまとった紳士が二人、穏やかに話をし
ながら歩いているのが見えた。
さすが階級社会と強く記憶に残った。
しかしこんな普通の公園まで同じなのか、と驚いた。
で彼女に聞くと、こんな答えだった。


 「ええ。この庭はこの付近の住人、そう400名くらいかしら、私たちが共有しているん
です。メンバー以外には入園をお断りしているんですよ。
きょう、こうやって4本の木を処理する費用も、もちろん私たちが負担するのです。時
々手入れしなくてはいけませんからね」

こういう話を、彼女は天気を話題にするようにごく自然に話した。
日本人の感覚でいえば、私でなく日本人と言っていいと思うのだが、こういう「差別」
はあり得ないこと、あってはならないことと感じるのではないか。

しかしこの国では、少なくともこの婦人の話し方は、そのような反応をまったく意に介し
ていないようだった、そんな抵抗や反発があるなど、思いもよらない風であった。
入園制限はたんなる区別ですよ、お金を払ってちゃんと使える人と犬が利用する場所
なのよと、優しく微笑んで差別感覚はまったくない。
メンバーだけというエリート意識や、気取った上から目線はみじんも感じさせない。ごく
ごく普通に、ありのままを説明して屈託がない。
この彼女の話し方に、じつは驚かされたのだ。


門扉には鍵が

 英国は貴族階級と労働者階級が歴然としている、という。
ジョンも、生まれおちた時から労働者階級は差別されると歌っている。
それは、たとえば、こういう「公園」ではなく「私園」という形に表れているのだなと思
い知らされた。
上流階級の諸君は差別など意識していない、いや意識せずに差別する、か。

この国の生い立ちと、歴史を経て今につながる「伝統」が、「区別」と「差別」の境界を
問題なく規定しているのだろう。
しかし靴を踏まれた人間は、その痛みを忘れない。
この上品そうな英国婦人は、私の靴を踏んでいたとは思わなかったにちがいない。

(パソコンの不調で投稿が遅れた)


続く


ナショナルギャラリー

2013年12月28日 | 旅行

12月27日


承前。
ウエストミンスター寺院からビッグベンの横を通ってウエストミンスター橋を
渡り、国会議事堂を対岸に見た。
この場所は前回来たとき息子とドッグを食べた場所だった。夏のシーズン中
ではあったが、この場所は人がほとんどいなくて穴場という感じがした。テム
ズを挟んでハウスオブパーラメント国会議事堂とビッグベンが見渡せる。

今回は冬のその景色を見て、まあほとんど夏と変わりなく、ただ中国人のツ
アー客が数組、入れ替わり立ち替わりやってきては写真を撮りまくっている。
これは前回まったくなかったことだった。



バスでトラファルガースクエアまで、駅にして4つくらい。ものの10分もかか
らずして到着。ナショナルギャラリーはもう指呼の間にある。
午後3時。閉館まで3時間。入り口でオーディオガイドを借りる。1時間のツ
アーになると言う。
日本語のオーディオが説明するのは有名な絵画39点。13世紀から20世
紀までの作品が対象で、パンフレットに、絵画の写真と掲載部屋、番号がふ
ってあり、当該絵画を探して番碁を入力して聞くというシステム。
すべて聞いて「60分ツアー」になるらしい。

十分だ。これを聞いて、そのあとで落ち穂拾いをやればいい、と考えた。
イヤホンで聞きながらというのは、ウエストミンスター寺院でよかったからで、
美術館では初めてのこと。つまらなければ聞かずに飛ばすことができるとい
う。好都合である。


これがオーディオの説明が案外、面白かった。絵の表現についての解説は
ともかく、モチーフの縁起を教えてくれるのは助かった。
自分は絵がよいか悪いかはおくとして、好きか嫌いかはかなりはっきりして
いるので、その価値判断で眺めていれば満足する。
絵自体を評価する鑑賞態度だから縁起などは知らないことが多い。そんな
のは絵に関係ないと無視していたせいもあるが、説明してもらうと案外面白
かった。聞き飛ばしたのは4,5点くらいだった。

13世紀から15世紀は祭壇画、ダビンチの「岩窟の聖母像」ボティッチェリ
の「ビーナスとマルス」ベリリーニの「レオナルド市長」など10点が対象だ
った。

ダビンチはもう1点、「The Burlington House Catoon」という作品があった。
これは木炭で描かれたスケッチような絵で、褐色に変色しているらしく、薄
暗くした特別な部屋にこれ1点だけが陳列されていた。

ボテイッチェリはたしかルネッサンスを批判した何とかいう高僧の影響で、
画風を変えて宗教画を描くようになった。
その変化もここで見られてよかった。変化自体はよいとは思えず、むしろ
不幸であっただろうなどとエラソーな感想を持った。


16世紀はホルバインの、どくろのだまし絵のある絵「Ambassadors」。こ
れは前回訪れた時、どくろを見るためにかがんでいたら、係員にもっと下が
ってくださいと注意された。
ミケランジェロの「The Entombment」、ブロンジーノの「An Allegory with
Venusand Cupid」これは縁起と背景説明が面白かった。
ほかラファエロの聖母像など。


17世紀はクロードの風景画、レンブラントの自画像2点、フェルメールの
「若い女性」。
「若い女性」は驚いたことに、まったく見物人がいなくて、それはたまたま
だろうが、絵の前にロープを渡していなかった。

このギャラリーでは、ちょっとした名画には、掛けられた壁の前、床から
30センチほどの高さに上品なロープを渡している。一応、ガード役なの
だろうが、それがフェルメールには適用されていなかった。
フェルメールはオーディオガイドには入っているので、それなりに評価は
されているはずなのだが、ロープがないということは、たいしたことのない、
ガードする必要のない絵と、ここでは判断されているのである。
日本にこの絵が来たら、おそらくは1時間待ちくらいで人が並ぶのではな
いか、と思うのだが。
フェルメールファンの、古巣のSクンなどは失敬だと怒り出すかもしれない。

ほかにルーベンスの「サムソンとデリラ」など2点、ベラスケスの「ビーナス」
そしてヴァンアイクとカラバッジョ。


18世紀から20世紀は、ターナー、ゲインズボロ、アングレ、マネ、スーラ、
セザンヌの「水浴」、ゴッホの「ひまわり」と続いて、これがオーディオツア
ー最後の作品だった。


ところが、これが3時間では足りなかった。
オーディオを聞くだけでは無論すまなかった。
あちこち引っ掛かって、つまり見知った絵、好きな画家の絵、嫌いでも有
名な絵、単純に気に入った絵など、好きなだけ立ち止まって見入って時
間を気にしなかった。
で、驚いたことに館内アナウンスがあと10分で閉館と告げたとき、まだ
17世紀辺りをうろついていた。


これはいかんと、とりあえずカラヴァッジョだけは見ておこうと、ルーム32
を探したのだが、係員に「タイムアップ」を宣告された。オーディオもすべて
聞き終わっていなかったが、そんなのが考慮されるわけはない。


トラファルガー広場で聖歌を


外に出ると小雨がぱらついていた。
雨の中、合唱隊が電飾のツリーの前でクリスマスソングを歌っていた。こ
のトラファルガー広場で、大晦日のカウントダウンが行われ、祝福のキス
をし合うのをニュースで見た記憶がよみがえった。

コベントガーデンまで歩いて、空腹だったので「Steak & co」という店に入
った。
リブアイステーキをミディアムレアで。ほかにコロナビール2本、マッシュ
ルーム炒め、小エビオイル炒め、デザートに紅茶と英国風プディングで
チップを入れて45ポンド(7500円くらいか)。
小エビはむきエビで最悪だった。ほかはよかった。ステーキは熱した鋳物
厚さ2センチ20X40センチに乗って、音を立てながら出てきてこれはよい
サービスではないかと思った。



続く


ところであすは日本へ行く。
今回は3週間の滞在。3年ぶりの日本の正月。楽しみである。