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瘋癲北欧日記

第二の人生 つれづれなるままに

ロシアの飛行機

2014年10月09日 | 旅行

10月8日 晴れ時々曇り


皆既月食を見ることができた。
「できた」というには、ふたつの意味がある。ひとつは実際に、自然現象がみられた
こと。帰宅途中、数人が同じ方向を見て写真を撮っていたので、そうか月食かと気
付かされた。


もうひとつは「生きながらえて」という意味だ。




6日、アエロフロート機は暴風雨の中、着陸を強行した。
勇猛果敢というのか、無謀にというのか、機長の自信か経済的理由による強制か。
着陸は11時30分ころだった。その数分前、まだ千葉成田上空は雲が厚く低く、強
風にちぎれて飛んで後方へ流れた。
機内座席に据え付けの画面は、機体前方中継に切り替わったが、地上の景色はほと
んど見えない。
白い雲の塊が綿のように重なって、そこだけ影のように灰色がかって見える。ときお
りのぞく地上の風景は、急流にのぞく川底のように、一瞬にして消える。


そんな中、アエロフロートは機体を左右に揺らせながら時に激しく上下した。
石ころ道を走る地方バスのような揺れが、座席から突き上げてきた。エアポケットに入
ったような、すっと急下降する感覚に襲われた。
機内から小さな悲鳴があちこちから聞こえた。嘔吐する声も聞こえたようだった。


出発前から6日の転向は聞いていた。
よほどひどい台風らしく、着陸地が変更になるかもしれない、あるいはモスクワで一泊
なんてことになったら楽しいだろうな、上空待ちはしんどいだろうし、などといい加減に
考えていた。
気象の問題は千葉、成田上空だけだから、まあ強行するにしたって最後の20分くらい
をやり過ごせばよいのではないか、とも予想した。
本当に烈しければ、管制塔が指示を出すはずだ。こちらは初めてでも、航空会社や管
制塔は何度も経験済みのことで、対処の仕方はきまっているはずだ、とタカをくくる気持
ちもあった。
まさかロシアだって、成田の管制塔の指示を守らぬなんてことはないだろう、と。



当初の到着予定時刻は10時30分ころだった。
日本のニュースでは、ちょうど台風が関東を直撃する時間と重なっていた。
それを避けるためだったのだろうか、モスクワ出発が30分強遅れた。飛行時間9時間
30分が、日本列島に入るあたりでは10時間近くを記録した。意図的に、到着時間を遅
らせているのだろうな、と思った。

気になるのは機内放送だった。
到着間近になれば、到着地の天候などアナウンスされる。
現地から情報によれば、当地は快晴、気温xx度というように。それが、今回はなかった。
機内アナウンスはあったが、「現地の気温は24度」というだけだった。
そのころ、機は日本列島の中央あたりに差し掛かっていた。まだ、気象状態は悪くない。
雲の流れが多少は早いかな、という程度で台風の存在はまったくうかがえなかった。

しかし、機内アナウンスが台風にまったく触れないのは、腑に落ちなかった。よほどひど
い状態なのだろう、だからアナウンスできないのだろうと、思うしかなかった。スチュワー
デスの声が、妙に冷静だったのも、かえって嫌な感じを持たせた。
悪いことは知らしめない、かつてのソビエト体制下の人民操作を思い起こさせた。まあ、
いまだって都合の悪いことは教えない、敵のあくどさをねつ造しているとしかおもえない
ような報道姿勢がある、とくにウクライナ問題など、というようなことが、機内放送から連
想されて気分は良くなかった。

不安はほとんどなかったが、多少の緊張感はあった。
しかし正直に言うと、それは妙に快感を引き起こした。
初めての体験で、どんなふうになるのか、何が起きるのか、期待する気持ちがあった。
未知の取材相手を前にした期待と不安と緊張感、というのに似ていた。



じつは前回か前々回、やはりアエロフロートで同じような体験をした。
そのときは春で強風が吹いていた。事前にはまったく知らないことで、機内の窓から地上
を見ても、視界でとらえることはできない気象状況だった。風の強さは両翼の揺れに感じ
られたが、強度は測りようがなかった。
それが到着寸前、タッチダウン寸前にわかった。機体が一瞬沈み、ふいに浮きあがった。
感覚としては3,4メートルか。地上まで10メートルをきった空中で機が急落下して、ふた
たび機種を持ちあげて滑走路を離れ、上空へ向かった。
操縦などできなくても、これが着陸失敗、というか不能だったのがわかった。突風にあお
られたのは明白だった。
が、二度目の突入で、機は翼を微妙に動かしバランスを取って着陸に成功。パイロットの
腕に感心した。
さすがアエロフロート、国際線にはベテランを使う、軍人上がりのパイロットに違いなく、こ
のてんでは、どの国よりも安心できる。彼らの訓練は西側諸国に比べて厳しいはずだ、と
いう思いがあり、それがこのタッチダウンで実証されたように感じた。


という記憶があって、今回の着陸技術には大きな不安はなかった。
ただ、パイロットに関して言えば、心配したのは自信が過信になっちゃ困る、という一点に
あった。ほかの多くの航空会社とパイロットが、このような気象では無理をしない、というの
を、この程度で着陸できないなんて腕に自信がないか、度胸がないからだ、などとロシア
人が考えないか、ということだ。
ロシアの優等を見せつける、なんて決断したら怖い、と思った。それは勇気でなく蛮勇では
ないか。勇み足が怖いと思った。



しかし、すべてがクリアされた。
機は、この状況では理想的というくらいのタッチダウンをした。揺れはあったが、両翼で風
をうまく受けとめ見事にバランスを取った。
機内は一瞬、静まりかえった。安堵か歓喜か、かみしめて直後、拍手が沸き起こった。以
前は、それが当たり前の儀式だったようだが、いまどきははやらない。しかし、このときは
自然発生的に、拍手の波が機内を駆け抜けた、という気がした。
わたしも拍手した。初めてのことだった。


アエロフロートはサービスがよかった。
SASやフィンランド航空に比べて、自分には食事はずっとましな味がした。
食事中のワインは無料だった。他ではアルコール飲料に関しては持ち込みすら禁止であ
る。知らずに飲んでいて注意されたことがあった。
これは個人の感想だが、スチュワーデスはかつてのように、若くて美しい女性たちばかり
だった。食事をお楽しみください、なんて言われたのは何年振りだろうと、懐かしくなった。
今回の機はエアーバス330だった。座席前のスペースはやや広めで、座席前の画面は
一回り大きくワイドだった。
機内誌は、案外と新しいのが多かった。他社では手あかのついたような、表紙などそりか
えっているような機内誌を置いているところもある。
日本語の週刊誌や新聞が用意されていないのが、まあ不満と言えば不満か。



モスクワのシェレメチボ空港、案内係は親切な応対をした。
じつは座席を連れ合いと並んで取っていたはずなのに、アルファベットが並んでいなか
った。それをチェックしてもらったのだが、これも若くて魅力的な女性が親切にパソコン
を開き大丈夫ですと笑顔を見せた。
食事どきにアルコールの無料サービスはあるのかと聞くと、部署のほかの女性にも聞
きまわって「ワインは出ます」と答えた。これを即答できなかったのは不安だったが、実
際に無料サービスされたので問題はなかった。
タックスフリーで、機内で小瓶のワインを飲んでも大丈夫か、と聞いたらキャッシャーの
若い女性は「気をつけて」と笑顔を見せ、横に立っていた警備員らしきは、ワインの入っ
たビニール袋を小指で破る格好を見せ、ウインクした。
プーチンににた男性にチョコレートのことを聞いたら、丁寧に売り場まで案内し、やはり
懸命に英語を使い、ミルクとブラックの違いを教え、どれが人気かまで教えてくれた。
レストランではウエートレスが愛想よく、懸命に英語を話すそぶりがかわいらしく、チップ
などまったく要求しなかった。
手荷物検査で約ふたり無愛想な、太り気味の中年夫人がいた。これはかつてのソビエト
時代を思わせて、その無愛想すら面白く感じた。


わたしはアエロフロートのファンになった。


クロステル教会

2014年09月02日 | 旅行

9月1日 晴れ


記憶のあるうちにSkokloster kyrka=スコークロステルシルカ=スコークロステル教会)
のことを書いておこう。


8月の後半、一族郎党を率いてスコークロステル城へ行った。
昨年は、時間の関係で教会を見ていなかった。城のことは昨年書いた。今回は、教会
のことを書いておこうと思う。


スコールクロステル教会は、そもそもは1200年ころに立てられたらしいが、いまのよう
な形になったのは1600年代、グスタフ ランゲルという貴族が城を再建するのに合わ
せて、教会を菩提寺にするためだったらしい。


教会は城から100メートルほど離れたところに建っている。


ランゲルは権力志向が強く、よろず蒐集好きな貴族であったという。
城内には、欧州各地から分捕った武器、遠くアジアからも略奪した珍品(なかには日本
の鳥だかフグのはく製もあったのではなかったか)を、それぞれ陳列する部屋がある。


またチェコに侵入した時には、アンチボルドの作品を数点、強奪した。
当時、どれほどの価値があったかは分からないが、いまは彼の作品が城のアトラクショ
ンの一つになっている。



という城主なので、教会もまた一風変わっていた。

まず驚かされたのは内部中央の壁、両側に甲冑が飾られていたことである。それも8体
ずつ、整然と並べられていた。
教会に、こんなものが装飾されているのはみたことがない。



ストックホルムの大教会には、聖ジェームズのドラゴン退治の大きな彫刻がある。
しかし、これはドラゴンをデンマークに見立てて、母国をガードするという意味あいで置か
れている。

スコールクロステル教会では、なぜこんな飾り付けがされているのか。


教会詰めのボランティアの夫人が教えてくれた。
「グスタフ・ランゲルは権勢欲の強い人でした。彼ら一族の武勲を教えるために、これら
の甲冑を飾ったのです」


「これを見てください」
彼女は、教会の奥左手にある小さなパイプオルガンに案内した。
幅1メートルX2メートル。高さ1・5メートルくらいの、この規模の教会にしては、いかにも
小さなオルガンだった。




「これは戦争時に、兵士たちを鼓舞するためにランゲルが、戦場へ運んだオルガンです。
17世紀のもので、後ろに回ってごらんなさい。鍵盤があって舌にはペダルがあるでしょう。
当時のことですから、足でペダルを踏んで演奏したのですよ」
進軍ラッパでなく、進軍オルガンであったのだ。
しかし小さいとはいえ、こんなのを戦場へ持ち運ぶのは、当時のはやりだったのだろうか。

教会のパイプオルガンは正面入り口の上にあった。
「あれも17世紀のものですが、いまでは使えません。直すには莫大な費用がかかってし
まうので」



さらに教会奥の右手、八角形をした10畳ほどの小部屋に連れて行かれた。
部屋の中央にランゲルの墓があった。実物大の石像が横たわり、これは珍しいことではな
いが、天井を囲んで壁から槍が数十本も突き出ている。




これほど武器で、まるで槍ぶすまが石棺をガードするような墓は初めて見た。
「これもランゲルの力を誇示するためにしたと言われています」と夫人が言った。


「後年わかったことですが、教会の地下にランゲル一族の石棺が隠されていました。全部
で24体。いまでも立ち入りは禁止ですが、墓は教会の外からのぞいて見られるようになっ
ています。写真? どうぞお撮りください」



教会は15年かけて再建され、内部はロマネスク、屋根はゴチック様式と、「時間をかけた
ために、こうなったのです」という。


城は、現存するバロック様式の城としては、欧州でも珍しいのだとパンフレットにはある。
ロココ様式の家具も、いくつか残っている。


ランゲルは、当時では珍しく恋愛結婚をした。
権力を誇示するだけのパワーを持ち、各地の名画や珍品を強奪して城に飾り、悦に入って
いた。菩提寺にまで甲冑を飾るなど、かなり奔放な将軍のようだった。


スコールクロステルはストックホルムから車で1時間くらいかかるが、その価値はある。


Drottningholm

2014年07月04日 | 旅行

 7月2日 曇り雨晴れ


じつは、途中まで書いていて、誤ってどこだかに触れて全文ペースト状になった。エンタ
ーキーを押したら、すべて消えてしまった。やる気がうせた。


とりあえず気を取り直して、気力が続くところまですすめてみよう。


仏式庭園からの宮殿


きのう、ドロットニングホルムへ行った。
ドロットニングホルムはストックホルム市郊外にある宮殿。1750年ころに完成した、北
欧バロック様式の3階建て。北欧のベルサイユと呼ばれるらしいが、その規模は比較に
ならない。

とはいえ、メーラレン湖のほとりに優雅な姿を見せ、ドロットニング(女王)のホルム(塁)
という呼び名がふさわしく、美しく響くように思う。


市内の市庁舎前から船で1時間弱、メーラレン湖を遊覧しながら左手に宮殿を見て船着
き場へ到着。沿岸には白亜の石像が5~6体並んで、映画「去年マリエンバードで」とい
うタイトルを、なぜか思い浮かべてしまう。
この光景には、スウェーデンの中の外国、という雰囲気がある。


去年


1980年の半ばあたり、王の家族が市内の王宮から、ここへ移住した。
そのために一部は立ち入りが禁止されるようになった。70年、宮殿の裏手にある船着き
場付近を歩いた。たたずまいがよくて、気に入りの散歩道になったが、そこへはもう入れ
なくなった。


しかしながら、その開放度は恐ろしくなるほどだ。
3階建て宮殿の2階と3階の一部は博物館になっている。壁ひとつではないだろうが、そ
のくらいの至近距離まで王と「交流」する。


マリエンバードで


70年、初めて王宮に行ったときも驚いた。
中庭まで入れて、しかもガイドが「あのあたりに王が住んでいます」と指さした。ガイドの
指先から窓まで、50~60メートルくらいだったのではなかったか。


残念なのは、庭園のリンデンの並木が植え替えられたことだ。

1980年のいつか、たぶん王の移住に合わせたのだろうが、古いリンデンが伐採された。
以前は、太さ1メートル強の巨木が、ざっと500メートルの並木道を作っていた。幹が空
洞になって、人がすっぽり隠れるくらいのリンデンもあった。


その植え替えられたリンデンは、ようやく樹高7~8メートルに育った。しかし、かつての巨
木の並んでいた雄大な風景は、もう自分の目の黒いうちには見ることができない。


建物でいえば、敷地にある宮廷劇場が素晴らしい。

1700年の半ばにつくられた、当時のままの舞台がいまも使われている。舞台装置も何
も古色蒼然としているが、ちゃんと機能している。10枚前後ある書き割り、落雷や嵐など
の擬音効果など、むしろ素朴な手作り感がある。
これは日本のテレビでも何度か紹介されたはずだ。


劇場側面


側面下に一対の獅子像


この劇場で、グスタフ三世が自作の演劇を自演した。
グスタフ三世は文武に勇名をはせた。自国の領土を拡大し、貴族を抑えて強力な王権を
たてる一方、フランスの文化にあこがれ、この国に初のアカデミーを作り、オペラ座を建築
するなど、文化や芸術へ深くコミットした。

1792年、オペラ座で開いた仮面舞踏会、そこで反乱貴族の銃弾を受けて暗殺された。
ビバルディのオペラ「仮面舞踏会」は、このグスタフ三世へのオマージュだという。


オペラ座は再建され、往時の面影を残すのみだが、王が暗殺されたときに着ていたマント、
かぶっていた仮面は、いまでも王宮内の博物館で見ることができる。マントには、銃弾が
貫通した穴があいている。


残る巨木


庭園は大きく分けて二つある。
宮殿に面したのがフランス式の庭園。シンメトリーに植え込みを配し、彫刻で囲まれた噴水
を作っている。横手には自然を生かしたイギリス式庭園が広がっている。


初めて見たときにはフランス式庭園に目を奪われたが、いまではイギリス式庭園のほうが
落ち着いて良いような気がする。


 宮殿近くの駐車場は100台くらいで満車だが、200メートルも離れたところには数百が駐
車できそうなスペースがある。いずれも無料で12時間まで駐車できる。


だが車で来るのはよくない。理由は明日にでも書くことにしよう。きょうは消耗している。


匂い考

2014年06月26日 | 旅行

6月25日 晴れのち曇り
夏至祭


匂いと香りはどう違うのだろうか。
よしあしではないだろう。いい匂いと言うし。自分のイメージでは香りはよく、匂いは悪い
なのだが。


そんなことを思ったのは、きょうが義母のアパートを訪れる最期の日になったからだ。
彼女のアパートは売られて、きょうの夜には新しい持ち主が下見に来る。壁紙や内装の
一部を改装するためである。引っ越しは少し先だが、前の持ちぬしは、きょうで完全にこ
こを手放す。
私たちは義母の残したホールのランプと掃除機、鏡板を、最後の品物として運び出した。


この建物の中に入るとき、いつも独特の匂いを嗅いだ。
悪い匂いではない。香水のような高級な香りではないが、鼻をくすぐる、自分にはよい
匂いである。正確には、懐かしくてうれしい匂い、というべきかもしれない。


現役時代、日本から何度かスウェーデンに訪れて、このアパートを訪問した。
そのときに、必ずこの匂いが迎えてくれるという感じがした。いつでも、この匂いなので
ある。ああ、ストックホルム、スチュースタに戻ってきたな、という気にさせてくれた。
いまでも、3年くらいこのあたりに住んでいても、ここへ来ると、この匂いをかぐと、むか
しのスチュースタに戻ったという懐かしさを覚える。


この匂いを嗅ぐのも、きょうが最後になるかもしれない。




この国のマンション、アパートは通りに面してドアがあり、すぐに細い廊下があって郵便
箱が並んでいて、という具合で、日本のマンションのような庭や広い踊り場を持たない。
日本の一階に当たるのは0階(エレベータの表示は0である)で、このフロアには共同の
洗濯場を設けていることが多い。住民は予約表に時間を記入して使う。むろん、各自が
バスルームに洗濯機を持っているのだが、大きなものや大量に洗濯するときなど、この
共同洗濯場を使うようだ。


で、おそらく、この洗濯場に置かれている洗剤が、この匂いの源ではないかと思う。
確かめてはいない。そのつもりもないのだが、そうとでも考えなければ、いつでもこの匂
いがするはずがないと思うのである。
ここでしか嗅ぐことのできない匂い、それが貴重な気がして、洗剤など確かめたくないと
いう気もある。フロアを掃除する洗剤の匂いではないだろうと思いたい。


匂いの話でいえば、もうひとつ、草を刈った直後の匂い、くさいきれと言うのか、それも
懐かしい匂いである。
これはスチュースタではなく、スウェーデンを思い出す。
アーランダ空港から自動車専用道路E20を降りて、Huddeinge vagenフッディンゲ通り
へ向かう途中、草原のわきを車で通る。毎回と言ってよいくらい、この草原をさしかかる
とき、車窓から草を刈った後の匂いが入り込む。
ああスウェーデンに来たのだな、という気がしたものだ。
そういえば、いまが盛りのハマナス、終わってしまったライラックも、自分にはスウェーデ
ンの匂いという気がする。


ハマナス


生まれた場所ではないが、自分が故郷と思う鹿児島では、五右衛門風呂の匂いが懐か
しい。
杉やヒノキ、あるいはひばだと思うが、近くの山から伐採してきた枯れ枝でふろをたく。枯
れ木の燃える匂いが風呂場にたちこめて、それが数十年も続いているからだろう、匂い
がすっかりしみ込んでいる。
屋敷は十数年前に立て替えて、風呂場はすっかりモダンになった。いまでは帰省しても、
ああ鹿児島に戻ったのだなという匂いは、風呂場では感じられなくなった。


60数年も生きている。匂いのあれこれは、ほかにもあるのだが、とりあえず旅先に限っ
て言えば、アメリカにも懐かしさを覚える匂いがある。
トイレである。屋外に据えられる、移動式の簡易トイレ。その匂いである。
アリゾナのユマキャンプでは、クラブハウスが狭かったせいか、屋外に数個の簡易トイレ
が置かれていた。
むろん水洗ではない。それが、臭いと感じなかった。日本の海辺などに置かれているの
は、鼻が曲がりそうな臭気を漂わせるのが多いが、ユマキャンプのトイレは、案外と清潔
な感じがした。
使用頻度のせいもあるだろうが、最大の原因は消毒液、消臭液だと思う。真っ青な液体
が、溜まり場を覆いつくすようにあふれていた。


いま、たとえば、今日は入らなかったが、ここのゴルフ場にも2か所、移動式簡易トイレが
設置されている。
ここもユマと同じような匂いがする。ユマよりは、こちらの方が劣等ではあるが、まあ我慢
できるレベルにある。
しかし、我慢できるというレベルだから、ユマを懐かしんでトイレに入ろう、などという気は
起こらない。



キャンプと言えば、マウイキャンプでは、香水にまいる選手がいた。
いまは評論家で、落ち着いているが、現役時代はやんちゃな投手が、「困っちゃいますよ。
すごく強い香水付けてる人が多いんだもん・・・」後半は略すが、たしかに外国では昔から
香水が市民権を得ている。
この国でも、強烈な香水のにおいをかがされることが少なくない。
体臭云々はあろうが、フェロモンみたいな感じで、日本人には刺激が強い。若い選手たち
には、鼻の毒だろう。キャンプに家族を同伴させない日本のスタイルは、伝統か文化か知
らないが、合理的ではない。
バカなことをと、当時も今も、香水のにおいをかぐと、日本のことを思う。


プワゾン、かんきつ系オードトワレ、沈丁花、危険水域に入るから、香りの話はこれまでに
しよう。


 


Tyres城

2014年06月07日 | 旅行

6月6日 曇り時々晴れ


気晴らしにドライブをした。
いや、自分はいつでも気晴らしだから、連れ合いのためにというのが正確な言い方に
なるか。彼女は連日、義母のマンション売却準備と老人ホーム訪問で、それほど楽しい
ときを過ごしているとは思えない。きょうは、どちらもオフというので、どこかに行くか、と
なった。


Tyreso(スチューレスー)というところに城がある。案外、美しい公園を擁している、とい
うのを北欧ブログで読んだことがあった。
めずらしく、若い日本人男性のブログで、ときどきのぞくことにしている。タイトルを度忘
れしたが、彼が昨秋、紅葉の時期に訪れてレポートしていた。


 

Tyresには知人も住んでいる。かれも「ええところや」と言っていた。コンピュータの地図
で調べると、ここから30分ちょっとで行けるらしい。昼食後に、ちょうどいい距離ではな
いか。紅茶をペットボトルに詰め、スナックを2種類用意して出かけた。


今回のドライブも前回同様だった。町中は30から40キロだが、ちょいと離れると70キ
ロ、100キロの制限速度。これをすっとばすのだから、30分も走るとかなり遠方まで行
くことになる。



素晴らしいロケーションだった。

城らしい建物と、広い庭園、外海に続く湾曲した入り江、対岸の小高い針葉樹の森。湖
からの風は、やや海水の匂いを運んできた。外海に続いているからに違いない。
湖に沿って、野球場が3つも4つも作れそうな芝生の庭園が広がっている。この日はス
ウェーデンのナショナルデーのせいか、家族連れが数組ピクニックを楽しんでいた。子
どもたちは、広い芝生でのびのびと、嬌声を上げながらボール遊びに興じている。

庭園の中央に大きな樫の木が立っている。
樹齢400から500年はあるのではないか。いい加減な目測で樹高40メートルくらい、
幹の太さは3メートルは楽にありそうだった。公園のランドマークというふうに見えた。



この庭園はイギリス庭園と紹介されていた。何とかいう造園家の設計だという。
イギリス庭園は、本場もそうだが、自分の目には雑然とポンと自然を丸投げにしているよ
うな様子に見えて、造園家など必要なのかしらと思う。コッツホールズのバラ庭園なんて、
ただ無造作にバラを植えこんでいるだけじゃないかと、見えてならない。
しかし、17,8世紀には英国の貴族たちが庭作りに夢中になって、有名な造園家は引く
手あまただったと聞いたことがある。


この城は1640年代、地主のガブリエル某が建てた館を起源にする。その後、2代くらい
持ち主が代わって、改築され、往時のたたずまいを残すように再建され、今日に続いて
いるという。どのあたりかわからなかったが、ルネッサンス様式を残す部分もあるらしい。


むろん城も庭も無料で市民に公開されている。
城の建つ小高い丘の斜面は、見事な芝生のカーブを描いているが、そこでも子どもたち
が遊び転んでいる。
飲食も自由だから、由緒ある史跡も神棚に奉るような扱いはされていない。



ぜいたくだなと思った。
こんなスペースでゆったりと家族でピクニック。日本の都心から車で30分の行楽地の、
祭日の混雑を思えば、この国は何と恵まれていることかと思って、しかし、はたと考えた。

何で、こんなことがこの国でできて、日本ではできないか。

むろん答えは簡単だ。
人口と国土の差である。スウェーデンは45万平方キロにたいして日本は38万平方キロ
弱。なのに人口は日本が10倍以上多いのである。
物理的に、日本では一人あたりの土地が狭い。このような公園をいくつももつのが無理
なのは自明である。

では、何で日本は狭い国土に人口が多いのか。
第二次大戦で数百万の死者を出しながら、中立を守ったスウェーデンに比べて、もとの人
口が多かったとはいえ、あまりにも差がありすぎるのではないか。


その原因は何か。思いめぐらせたとき、降ってきたのが「豊かさの違い」だった。自然の豊
かさが、この違いというか、差につながっているのではなかろうか。




豊かなのは、スウェーデンではなく日本である。

日本は温帯地方に位置して、四季折々の恵みがあり、自然とともに生きて行くことができ
る。この自然のおかげで人も"繁殖”してきたのではないか。貧乏人の子だくさん、ではな
くて、自然の恵みとして子宝を得てきたのではないか。そう思えば、北の果ての国より、人
が多くなるのは当たり前である。


自然に恵まれているから、人は自然と闘い克服する必要がない。たとえあっても北の果て
の国などとは比較にならない。
明治初頭、岩倉具視の欧米視察団が英国を訪問したとき、接待した英国の日本大使が、
使節団に対して同じような指摘をした。英国は国土が貧しく、厳しい自然と戦うために、蒸
気機関を発明したり産業革命を起こすことになった。その点、日本は自然に恵まれている
ので、そのような必要性が少なかった。
スウェーデンは英国以上に厳しい自然を持つ。氷河に圧迫された岩盤の国だから、アル
フレッド・ノーベルがダイナマイトを発明したのである。



自然と共生してきた日本が、いまや自然を食い物にしてしまうような人口増。自然を求め
るために、人込みのイモ洗いを我慢しなければならなくなってしまった、というのが現実で
はないのかしら。
Tyres城の、豊かな自然と、芝生に遊ぶスウェーデンの子供たちを見ると、複雑な気持ちに
とらわれてしまう。
恵まれた不幸、というのがたしかにあるに違いない。