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瘋癲北欧日記

第二の人生 つれづれなるままに

ウエストミンスター

2013年12月26日 | 旅行

12月26日 晴れ


ロンドンの2日目。まずビクトリア駅に向かった。ウエストミンスター大聖堂(カテドラ
ル)へ行きたかったからである。この聖堂は観光客がほとんどいない。あまり知られ
ていないタワーがある。
4,5年前、それが気に入って訪れた。今回もまたタワーに上った。


    

聖堂内の売店でチケット2ポンドを買うと、売り子が店の奥の通路に案内する。
店内からは、まったくそれと窺えないドアがある。これがタワー最上階へ向かうエレ
ベーターの扉である。内部は広さ半畳ほどしかない。
売り子が乗り込んでボタンを操作して「また、降りるときにはベルを押してください
ね。迎えにまいります。ベルはエレベーター出入り口の横にありますから」と、優し
い微笑みを浮かべた。


開いた戸口から強風が吹きあげてきた。
タワーの踊り場は100メートル弱の高さにある。50X100センチほどの褶曲した
バルコニーが塔の4か所にあり、ロンドンの東西南が見渡せる。北側は閉まって
いた。ほかに誰もいない。

強い風を受けながらバッキンガム宮殿、セントジェームズパーク、右手に目をやっ
てウエストミンスター寺院と国会議事堂のビクトリアタワー、その間にセントポール
大聖堂の丸屋根が見える。




4,5年前に来た時はエレベータ周りの壁に落書きが目立った。薄汚れていたが、
塗りなおされて清潔な白壁に復元されていた。
眼下にウエストミンスター通り、付属の小学校、円とるの並ぶ伝統的な英国風長
屋の屋根、6階建ての壮麗なチューダー式建築が見える。
バッキンガムの方向に、ガラス窓でおおわれたような巨大な新しいビルが建ってい
る。違和感がある。



10分ほどでベルを2度押した。押してからメモを読むと、ベルは一度だけ押してく
ださい、とあった。店内に響くのでよろしく、と言うような注文が書いてあった。
「読む前にベルを押してしまった」と謝った。「いえ、いいんですよ」と最前の売り子
が、またやさしく微笑んだ。聖堂でアルバイトをしていると言う。こういう子だから、
聖堂も使っているのだろうなと納得する。


「そうだ、チャペルの一つに棺がありますね。ガラスでできて中に人が横たわって
いる。あれは人形ですか?」
「いいえ。本物の死体ですよ。サー・セント・ジョンサウスワースのものです」
エレベータを降りて写真を撮りなおした。



  



このチャペルは死んで罪を購い切れていない人たちのためのものだということが
立て札に書いてあった。それで壁画のキリストと周囲の聖徒たちが、何だかをして
いると書かれていた。
セント・ジョンは罪を犯して牢につながれていたらしい。しかし、それにしては立派
な服装で棺に納められている。いずれ調べてみよう。

聖堂内には身廊の壁に聖書からとった絵が十数枚掲げられ、いくつかチャペルも
あったが、このチャペルは強く記憶に残りそうだ。


黒人のガードにウエストミンスター寺院なら歩いて15分から20分、バスでも行ける
と聞いて、バスに乗った。二階建てである。
一つ目のバス停で降りると、にぎやかな横町が見えた。寄り道することにした。7.8
メートル幅の通りに屋台が並んでいる。写真を撮っていたら、テレビカメラを回して
いるのが見えた。それを写そうと思ったら、逆にインタビューされてしまった。




「今度、使われることになる新札のポンドです。どう思いますか」
持つと薄いプラスチックのような手触り。見れば紙幣の一部に透明な丸窓がついて
いる。
「お金というよりおもちゃ見たいですね」
はたしてオンエアされるのか、どこのテレビ局なのか知らずに答えた。


ウエストミンスター寺院は70年いらい、二度目の訪問になった。前回の4,5年前
は入り口に観光客がひしめいて、並ぶ時間が惜しくて入らなかったが、今回は数
人が並ぶのみ。
シニア料金は2ポンド安い、7ポンドだったか10ポンドだったか。大体1500円前
後で、しかし、たしか70年当時は無料だったはずなのになあ。


前回の訪問時には高い天井のみの記憶しか残らず、ほとんど初めての見学にな
った。案内のイヤホンで日本語の説明を聞いて、こういうのは初めての経験だった
が、なかなかよいと満足した。



気に留ったのは無名戦士の墓と第二次大戦で戦死した空軍兵士の墓である。

ウエストミンスター寺院は歴代王の菩提寺である。そこへ無名の兵士、空軍兵士が
枕を並べている。
この許容度と言うのか、国に対する考え方とらえ方の違いというのか、宗教心の有
無なのか、宗教観の差なのか、歴史認識の隔たりと言うのか、王族の受容と言うの
か民衆の支持というのか、どう考えればよいのか。
日本の天皇陵など、平民との同葬などはもとより、足を踏み入れることさえ恐れ多
いとされている。それが、この国の菩提寺は王の棺桶を間近に見、へたすりゃ足元
に見て歩く。空軍兵士が正確に何人と数えられて同じ場所にまつられている。
それを言えば、スウェーデンの菩提寺も同じ。ストックホルムのリッダー寺院は見
学者を迎え入れている。ただ、ここには兵士などは埋葬されていないと思うが。

ウエストミンスター寺院はまた、ニュートンやダーヴィンら科学者からチョーサーや
ローレンス、バイロンなど多くの詩人や作家の墓を集めた広間もある。俳優ローレ
ンス・オリビエのもあった。シェークスピアは一度、ここに埋葬されまた故郷へ戻さ
れたという話で、像だけが残っていた。


もうひとつ教わったのは1300年ころの壁画である。

詩人の間の隣室、はげかけた壁にフレスコ画のような絵が見えた。4X6メートル大
の二つの絵があった。色はほとんど落ちて、褐色に朽ちた感じではあったが、絵自
体の輪郭は残っていた。
左にキリストらしきと数人の信者らしきの絵。右にキリストが磔刑からはずされた絵。
キリストの足にくぎの跡が生々しく残るのが印象的だった。気になって案内係の中
年女性に聞いた。うれしそうに、こう答えてくれた。

「これは1923に発見されたのです。壁に何か塗られていて、それを削ったらこの絵
が出てきたのです。ええ修正はせず、そのままの姿です。おそらく1300年ころ、ベネ
ディクト派の修道士が描いたものと思われます。フレスコ画ではなくオイルペイントだ
と思いますよ。
当時の人たちの多くは文字を読むことができませんでした。とくにラテン語で書かれ
た聖書の話はむずかしく、一般に人たちにはわからなかった。それで、このような絵
で布教活動をしたのです。右の絵は聖トーマスの一節です。キリストの復活を信じな
かったトーマスが、キリストの胸の傷にふれ、血のりを手にしたとき、神の復活を信じ
た、という話ですが、そうですか知りませんか。聖書のジョン(何とか)の20章をお読
みなさい。神のご加護がありますように」

うーん。


続く。

 


ロンドンへ

2013年12月21日 | 旅行

12月20日 くもり


さすがに疲れた。
3泊4日とはいえ、実質的には2日間と半日のロンドン滞在。駆け足で回って、きょ
うは朝7時過ぎにホテルをチェックアウトして、Gatwick 空港からArlanda空港へ。
66歳の身にはこたえる強行軍だった。


しかし疲れたとはいえ、妙な満足感が残っている。
Victoria駅を出発してGatwickへ向かう車中。これで旅行が終わったと、荷を下ろし
たような気になって、ほっとすると同時に相反する気持ちにとらわれた。

「まあ、やれたじゃないか」と、どこかに高揚感をおぼえたのだ。




旅行前になって、じつは面倒だなという思いがしはじめた。
こんな短期間で、あれこれ回ることができるだろうかと不安が芽生え、しかし、せっ
かくなんだからスケジュールはこなさなきゃ、という義務感が膨らんできて、ほんら
いの、楽しみに行くという目的が凌駕されてしまいそうになった。

「やめりゃよかったかな」と、一時的にそんな気持ちになっていたのである。


しかし、Gatwickへ向かうエクスプレスに乗車、ソファに腰を下ろしたとき、高揚感を
おぼえた。よく動けたじゃないかと、自分をほめたい気になった。
朝の7時47分。定刻通りにNationalRailはVictoraを出発。夜明け前の薄暗がり、
雲ひとつない空に月が浮かんで、それもまた気持ちを明るくした。

最初にロンドンへ渡ったのは1970年のことだ。
それから40数年もたっている。この時間のギャップが、行動力に影響しないはずが
ない、と思っていた。

だが、そのギャップは案外、小さかった。




肉体的には大差があるに違いないが、意識の部分では、達成感という意味では、今
回のほうが満足度が高いような気がする。
年を食って、意識が肉体を凌駕した、といえば恰好つけすぎかもしれないが、そんな
気がしたのだから仕方がない。
それしかないだろうという思いもあるし。


春画を見ようか、で思い立ったロンドン行き。
大英博物館、ナショナルギャラリー、テート・ブリテン、ウエストミンスター聖堂、ウエ
ストミンスター寺院、セントポール大聖堂。夜のトラファルガー広場とピカデリー・サー
カス、ロンドン塔とタワーブリッジ。
美術館はいずれも3時間前後を使った。意外な発見も多く不勉強は情けないと思っ
たが、喜びはそれにまして大きかった。
ナショナルギャラリーには2度も行って、すべて2日と半分でこなしたのだから、この
年の人間にしては満足するしかない。



久しぶりに絵をたんのうして、当初の目的は達成できて、これは計算のうちの楽しみで
はあったが、くわえて「やれたじゃないか」という収穫があった。
これが案外、大きなお土産になった。
棺桶に入る前に、もうひと踏ん張りできそうだと意を強くした。体は疲れているが、この
意識の高揚感は今のうちに記しておきたいと思った。


Malsakers Slott

2013年08月06日 | 旅行

8月5日


きのう友人夫妻を誘ってMalsakers Slott(メールソーケシュスロット=メールソー
ケル城)へドライブした。市内からおよそ1時間ちょっと。メーラレン湖の広がる岬
にあって、水浴びもできるかもしれない。
行く価値はありそうだと前からチェックしていた。



そして、この城にはゴーストがいるのがわかった。
出かける前にネットで調べたら、教会広間に幽霊の写った写真があった。

「古城に幽霊はつきものです。しかし、この城の幽霊は実際に出たことがあるの
です」という案内とともに、幽霊の写真が掲載されていた。半透明でソファに座っ
ている。
「帽子と遺書と杖に気をつけてください」という説明が続き、へーえと見ていたとき
友人から連絡が入って、続きを読まずに出かけた。

どんなふうに見えるのか、こりゃホーンテッドマンションよりおもしろそうだと、少し
ばかり期待した。入館料60クローネ(約900円)はちょっと高いが、幽霊が見られ
るなら、とも思っていた。


また、この城は第二次大戦中、ノルウェーが所有して、警察学校にしたという歴
史もあるらしい。
城自体は大したスケールではなく、この国では並みのクラス。しかし、変わったと
ころがあって、案外、拾いものかもしれない。



期待は裏切られなかった。


城の正面に回って驚いた。城壁がボロボロなのである。かなり崩れはげ落ちて、
こんなに修繕されていないのは珍しい。
それが歴史を感じさせて、こりゃいいというのが第一印象だった。



さらに正面の階段が素晴らしかった。
正面入り口のテラスまで、両側にシンメトリーの階段があって、そのカーブが美
しい。手すりを支える1メートル弱の石柱も、そのふくらみがたおやかというイメ
ージで、何とも言えずうれしくなる。



いままで見てきた城に比べると、この壁と階段だけでもメールサーケル城には
来る価値があったと思う。
さらに内装がよかった。
とくにスッタコ仕上げの天井は、白一色のモノトーンだが、その装飾とデザイン
は豊満な感じを与えた。城壁の崩れを見た後だけに、よけい天井を飾るスタッ
コの浮き彫りが引き立った。



階段踊り場の出窓には、天使らしき顔をした子供のスタッコ像が置いてあって、
これは後日のレイアウトなのに違いないが、そのふくよかな頬と、不気味に見
える目のアンバランスが魅力的だった。


さらに、ノーベルとその親戚がこの城を一時所有していたのを知った。
二階の一部屋にノーベルや第一回ノーベル賞授賞式の写真、メダルなどが展
示されて、そんな説明があった。



一階奥には、ノルウェーの警察学校の実態を教える部屋が複数あった。
「1942年にノルウェーの公使がこの城を購入。警察学校というのは表向きで、
じつは歩兵訓練場として使用した。ナチへの対抗手段で、表向き学校ということ
にしたのです」
隠された軍隊ーーという看板に、こんな説明があった。
そこまでは来てみなければわからなかった。


彼らが訓練で使用したテント、スキー、銃剣類に戦闘服や住居跡、訓練の写真
などが展示されていた。
感銘を受けたのはノルウェーの国旗である。
1X2メートル大で、薄っぺらな生地がところどころほころびている。おそらく当時
使用したに違いない国旗で、ナチに占領された母国を思う兵士の気持ちが伝わ
ってくるような気がした。


別の部屋には、スウェーデン人の支援を教える展示品があった。
当時、スウェーデンは中立国でナチとの戦闘はなかった。しかし中立であるがゆ
えに、国を横断してノルウェーへ進撃するドイツを阻止することもなかった。
これがノルウェーとスウェーデンの間に暗い影を残しているのだが、スウェーデン
もできるだけの支援はしたのですよ、というのを教える部屋だった



中でも「ノルウェーのために、できるだけのことをしていますか」という標語の書か
れたポスターは、子どもの真剣なまなざしを描写して、素朴ながら力強いアピー
ルになったのだろうと想像した。


そして幽霊である。どこにもいないのである。
いるはずの教会広間には、幽霊の座っていたソファはあるものの、幽霊は姿も形
も見えない。そりゃ幽霊なのだから当然と言えば…。
係の若い女性に聞いて、自分の早とちり愚かさを呪った。
「それは見えるわけはありませんわ」と彼女は笑って、「ここに幽霊がいるというの
は、写真に写ったということなんですよ。それが、ほかの城の幽霊伝説とは違うの
ですわ。1900年代に撮られたらしいと聞いています」と、言った。



ソファに座っていたというが


しかしネットでは見られた幽霊写真が、城内には展示されていない。ネッシーのよ
うに、幽霊写真は強力な誘致材料になるはずだが、この城には商売っ気がないの
だろうか。
この日は地元のオペラ歌手、マッツ・カールソンの公演がある。結婚式、会議にも
使ってねと、広告しているんだが。


ところで入館料の60クローネは払わずに済んだ。
受付が不在だった。それもあって、帰りに50クローネ(約750円)冊子を買った。
「ノルウェーの逃亡者」というタイトル。第二次大戦中、ノルウェーからスウェーデン
へ逃げた人たちのことなどが書かれている。
この城で訓練したという記述もあって、興味をそそられたのだ。



しかしまあ、随分といろんなことがあった城だと感心して、帰宅してパンフを読んで、
また驚いた。
正面の階段は、ドロットニングホルムの建設責任者ニコデミウス・テッシンのデザ
インで、スッタコ天井は、やはりドロットニング建設にあたってテッシンに協力したイタ
リア人、カルロ・カルーブなのだという。
なるほど素人が見て感心するのも当然だったのだと、思った。


さらに、この城の修繕に当たっては、ダグ・ハマーショルドの兄弟・ボウも協力した、
とあった。ハマーショルドは第二代国連事務総長を務め、ノーベル平和賞を受賞し
たスウェーデン人である。

自分の中では特殊な位置づけのできる城になった。


コンサートホール

2013年07月22日 | 旅行

7月22日


コンサートホールに追加の情報がある。先日、ノーベル
授賞式の展示会で得たパンフのことを忘れていた。そこ
から少しだけ引用補足しておきたい。



コンサートホール建設にあたって、市は寄付を募り、建
設くじを発売して資金j調達した。資金のメドがたってか
ら、設計のコンペ行われ若き建築家Ivar Tengbom(イー
ヴァル・ テングボム)のプランが採用された。


彼は古代ギリシャの神殿をイメージした。音楽と民主主
義の起源を建築の要素にしたという。それで、コンサート
ホールのファサードに、角柱ながらコリント式の柱を10
本並べ、ホールは開かれた場所としてのアゴラ=広場
のように作りたかった。

のちに建てられたカール・ミレスの彫刻「オルフェ」が、ギ
リシャ風な雰囲気をさらに強めた。
言われてみれば、ファサードはアテネのパルテノン神殿
を思わせる。ミレスの作風も、古代ギリシャのつぼ絵に
よく見る人間の肉体を表現して、なるほど相乗効果を生
んでいるような気がする。



ギリシャ神殿をイメージしたというのが、設計プラン採用
の決め手になったのではないかと思う。
当時、1900年初頭、ストックホルムは経済的に力をつ
けて労働者階級が台頭し、民主主義的な方向へ進みだ
したという。パンフにも、「ストックホルムが町から市へ転
化する時期だった」とある。

政治的には、作家のアウグスト・ストリンドベルイが労働
者の権利意識を強く刺激していた。
彼の誕生日には、自宅マンション前の通りに誕生日を祝
う労働者たちの行列が絶えなかった。そのドロットニング
ガタン88番地にあるマンションは、いまストリンドベルイ
博物館になっている。
そこには、その日にストリンドベルイがバルコニーに出て、
支持者たちの歓声を聞いているような録音テープを流す
部屋がある。


つい横道にそれた。コンサートホールに戻る。


パイプオルガンは1982年に設置された。ステージの後
方上部にある合唱隊ボックスの、さらに上、天井近くま
であるスペースの壁いっぱいに6100本のパイプと69
本のspeaking stopsをもつ、バカでかいパイプオルガンで
ある。パイプの最長が11メートルで、最小が数ミリ。これ
が前回は説明不足だった。


1971年から73年にかけての改修で指導的な役割を
果たしたのは、イーヴァルの息子のアンデッシュAnders
だった。


大した情報ではないかもしれないが、書きとめておかな
いと忘れてしまうと思った。



快晴。友人とトレーハーニンゲの湖を一周。夜は久しぶ
りに日本食、かつ丼。前菜にサーモンと小エビ、茹で卵
とたらこのキャビア、もやしとさやエンドウをニンニクと合
わせた、薄い塩味の野菜炒め。小エビのからを野菜の
端切れ(玉ねぎ、にんじん、セロリ、ネギ、ショウガ)と、ヒ
マワリ油でいためて煮込んで、濾したスープ。これは自
分ひとりしか飲まない。


Kloster

2013年07月14日 | 旅行

7月14日


まだスコークロステル城を続ける。


スコークロステル城の、クロステルという単語が気になっ
ていた。
以前、ストックホルム市内にある、クラーラ教会の縁起を
聞いたとき、最初はクロステルとして建てられた、と教わ
った記憶があったからだ。
クロステルとは修道院のことである。これがスコークロス
テル城と関係があるのかな、と思ったのである。


しかし修道院はスコークロステル城と結び付かない。
欧州の城は、城内にチャペルを持つところがある。ストッ
クホルムの王宮も、内部に壮麗な礼拝堂がある。
先月だったか、そこでスウェーデンのマデレーン王女が
挙式したばかりだ。

しかしスコークロステル城にはチャペルがなかった。スケ
ールの小さな城だから、なくても当然だろうとは思う。だ
からクロステル=修道院という関係もないのだろうな、と
ぼんやり思っていた。



ところが、意外なことが分かった。
クロステルには修道院のほかに、中庭という意味がある
と知った。庭を囲む回廊のことでもあるという。
それどころか、クロステルは、そもそも中庭、回廊のこと
で、そこから転じて修道院という意味になったという。 

修道院の中央には聖堂が作られ、その横には回廊があ
る。廊下に囲まれた中庭がある。
そこは静かなたたずまいが保たれ、手入れがよく行き届
いている。植物などを配したり、泉などをつくって、修道
士たちがくつろいだり、黙考する場所になる。
修道士たちは世間から隔離され、それを自ら進んで選
択したのだが、外出しない彼らにとって中庭は、教会と
は別の世界であったのかもしれない。
そういう中庭、回廊、すなわちクロステルが、そのまま修
道院という意味になったというのである。


正門入り口

そしてクロステルはドイツ語を語源とする。ドイツ語で中
庭、回廊という意味だった。
ここまでくれば、スコークロステル城と修道院、いや中庭
や回廊との関連がみえてくる。

スコークロステル城を建てたのは、ドイツ人の貴族だっ
た。また、廊下に囲まれた中庭が、じつにていねいに作
られていた。

中庭は幾何学的なつくりで、ほぼ正方形だった。500平
方メートルくらいの広さがあり、丸みを帯びた20センチく
らいの石が敷き詰められていた。
中央に井戸か噴水のような、直径1メートルほどの囲い
があって、そこを目指すように庭の四隅と廊下から平板
な1メートル幅の石の道が伸び、中心で交差している。
殺風景ではあるが、当時のこの国の一地方としては、よ
くできていると思った。



入り口の扉から城内に入って、すぐ廊下の先にこの中
庭が目に入る。
この中庭のつくりも印象に強く残っていたので、クロステ
ル=修道院=回廊=中庭=ドイツ語=ドイツの貴族と
いうのがつながった。
これで霧が晴れた。やはりクロステルとスコークロステル
城を結ぶ線はあったのだ。


城の中庭は、修道院が持った中庭・回廊とは意義が違
っていただろうが、手入れの行き届いた世界を形作って
いる、という点では変わりないと思う。


修道院は、すべての快楽を捨て、自らを痛めつけても、
宗教の高みに到達したい、と望む人たち=修道士のた
めに作られた。
同時に、巡礼者を迎える施設が併設され、病や傷病者
を救う病院のような役割を果たした。
また修道士たちはイコン絵画を複製し、バイブルの写本
を作ることで、文化を継承し学問を広める役割も担った。
フレスコ画で名高いフラ・アンジェリコは、フィレンツェの
修道士だった。



荒野で一人、修行を重ねていた3,4世紀から修道院が
作られ、組織的な活動を行うようになって、当初の目的
とはかけ離れるところもあった。権威が生まれ、ときの権
力者と結託する修道士が出現した。

しかし、そうした反動があっても、結果的には文化の伝
播に貢献したのは間違いない。権力者やブルジョワジー
がパトロンになって建築、絵画に遺産を残したように、修
道院が果たした役割は大きかった。


それがいま、寄付行為として残っている。日本ではあま
り聞かないが、米国や欧州の、いやな言い方だが先進
国では、ドネーションが盛んに行われる。


じつは、先日ゴルフをして、またスウェーデン人から石川
遼の名前が出た。
「フクシマの災害に、賞金を寄付したのは立派だ」という
のである。
以前、やはりこの国の若いプロゴルファーが、同じことを
言った。
かれらは、石川遼が今度の英国オープンに出場すると
かしないとか、そういう情報はもっていない。
しかし、ドネーション寄付行為をした、ということは大きな
ニュースだったのだ。
日本なら売名行為という風に見られることが多いかもし
れないが、欧米では素直に受け止められている。善しあ
しはともかく、歴史と宗教観の違いなのかと思う。


スコークロステル城は、この国で最も美しい城だといわ
れている。北欧バロックの代表的な構えを見せ、城内に
は文化的な価値をもつ作品を残している。



カール グスタフ ランゲル


16世紀、ドイツから来た貴族が、スウェーデンの隆盛に
乗って財をなし、この城を建て、それがいま、最も美しい
城として国民の誇りにもなっている。


それを東洋から来た年金生活者が、少しばかり享受して
あれこれ思いを巡らせる。
修道院や宗教や財力とはまったく無縁だが、スコークロ
ステル城が、ついには石川遼のところまで発展してしまっ
た、というわけである。