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瘋癲北欧日記

第二の人生 つれづれなるままに

ローマ 2

2015年08月10日 | 旅行

8月9日 晴れ


買主の最終チェックをした。
売主が完全にすべて撤去して、この状態で買主に渡す、という区切りの日。
ついでに納屋を見て、さらにじゅうたんなどを干す場所を教わった。
これが屋上にあって、抜群の光景。眼下に街を一望する。中央を貫く水路が見える。
10畳ほどの広さがあり、ここは気持ちがよい。
しょっちゅう来てみようと思う。


ローマ2日目。7月30日。


フィレンツェへ。
早朝、ローマのティルブルティーニ駅から1時間40分くらい。
電車とウフィツィ美術館入場・解説つきのオプショナルツアー。
ツアーは午後から2時間ほど。前後はフリーである。


まずは駅から有名な場所へ。ドームとジョットの鐘楼を見る。

ドームは、じつは大して期待しなかった。
写真では、壁面のくっきりした白黒の縞模様が安っぽく見えたからだ。

しかし実際は違った。
縞模様は色合いの違う大理石を組み合わされている。間近で見ると質感が伝わる。
圧倒的な重量感があった。
ジョットの鐘楼と合わせてゴシックの荘厳さを見せつけられた。




ゴシックの教会は、尖塔の高さを競うイメージが強いが、これは重量感がある。
ドームは正式にはサンタ・マリア・デル・フォラーレ大聖堂というらしい。
日本語では「花の聖母マリア教会」になるのだそうだ。

長い行列を見て、場内に入るのはあきらめた。
ジョットの鐘楼は階段を上って行きたかったが、同行者の体調でやめた。


で、目当てのサンマルコ美術館へ向かった。

ドームからゆっくり歩いて20分くらいだった。
ここはフラ・アンジェリコの「受胎告知」が有名だ。
中学くらいのガキの頃、親父に画を見せてもらって、いつかは実際に見たかった。

へたするとボッティチェリより、フラ・アンジェリコのほうに関心があった。

何だかわからないが惹かれてしまっていた。
スタティックな、清浄な、緊張感をもっているような感じを受けていた。
天使とマリアは柔和な感じがするのに、全体からはそういう印象をもった。
自分には到底入っていけない世界、あるいは異教の畏れに打たれるような感覚があった。


素晴らしかった。
「受胎告知」は予期した以上に大きく、美しかった。
静かな力強さ。張りつめた構成。柔和と緊張の崇高な同居を感じた。



天使は、想像以上に美しかった。
法衣の淡いピンクとひだの流れ具合と陰影。翼の色相とすっきりした形。
へーえ、こんなにきれいだったんだと、色あせていないのかと驚いた。

絵画的にというのか、そんな風に見れば天使の光輪はあり得ない位置に描かれている。
天使なんて実在しないわけだし、いや、修道士アンジェリコには、見えないだけの存在なの
だろうが、この絵のために光輪はこの位置にある、というような意思を感じる。
そう思えば、翼の褶曲は、左ひざのかがめ具合と、天使の前傾姿勢と、3つのベクトルが調
和しているように見える。




マリアの、告知を受ける前かがみの姿勢も、こうでなければならない構図にみえる。
修道士ではなく、画家アンジェリコがいるように思う。
天使の法衣とマリアの衣服も、ともに簡素で宗教画らしくないように感じる。


それは天使とマリアの表情にも窺えるような気がする。
天使の視線は「お覚悟を」という風。
柔和そうでいながら、わずかに厳しさを漂わせる。
祝福するというのではなく、普通の人が普通にお知らせしますよ、という顔じゃないか。
そんな風に見えるだけかもしれないが。




マリアの視線は、はっきりしない。
重大な告知を受けるのに「自覚ない」という風に見える。
庶民的な、しかもおばさん顔に見える。




ルネッサンスというくくりを考えると、なるほどと思う。
構図の遠近感というより、ふたりの表情に人間らしさを見た気がする。
それがまあ時代はルネッサンスへ、ということなのかもしれない。


フラ・アンジェリコは、ほかに
「聖ピエトロの三連祭壇画」



「キリストの十字架降下」
があった。


サンマルコ寺院では、サボナローラに興味があった。
彼の執務室があって、知らずに驚いた。
これは次回にしよう。

 



 


 



 


 


ローマ 1

2015年08月08日 | 旅行

8月7日 晴れ


Yさんとリクスティンでゴルフ。
バックナインはトーマスという男性が一緒になった。


ローマ1日目 7月29日。


早朝7時10分発アーランダのため、Yさんに車で送ってもらって助かる。


ダビンチ空港から相乗りバスでホテルへ。
ここでいきなりイタリア人気質にぶち当たった。
運転手が乗客相手に、市内までおよそ40分間しゃべりっぱなしなのだ。
乗客はオーストラリアから帰省した若いイタリア人カップル。
この男性も負けじと、速射砲のように話す。丁々発止とはこのこと。
運転手は興に乗ってジェスチャーが大きくなる。
片手ハンドルどころではない。両肩をあげて、両方の手のひらを上げてしまう。
停車中に、ではない。走行中にこれを4,5回はやった。


空港からの自動車専用道路、ガードわきには夾竹桃が延々と続く。
さすがに南国。ずいぶん昔、鹿児島空港からの側道に夾竹桃が目立って、親父から
名前を聞いて知った。ということを思い出した。



運転手の顔はどこかで見覚えがある。誰かに似ている。
市内に入って思いだした。
太陽がいっぱいに出演した、殺され役。
ドロンに、大黒様のような陶器で頭部をやられる酔っ払い。
かれに似ていた。


ホテル・アカデミアは、トレビの泉から3,4分。
着いて早速足を伸ばしたが、工事中。泉は枯れて、透明ビニール板で囲われていた。




遅い昼食を近くのレストランでとった。
マルガリータ。モッツアレラと生ハム。水とビール。
これで32ユーロくらい。
高めではあると、のちに知ったが、この店はよかった。
この後、ローマで6度の夕食のうち、4度をここでとった。
一度は店が休み、一度はフィレンツェにでかけたため。


骸骨寺へ向けてベルベレーニ通りを歩いたが、15分過ぎても見当たらない。
青年に聞くとスケルトンが通じず、近場にある別の教会を教えられた。
サンタ・マリア・デ・ラ・ヴィットーリア教会。
違うのだが、この教会にも行きたかったので、これを優先した。

「聖テレジアの法悦」ベルニーニの彫刻。
神の愛・キューピッドに射抜かれた聖女テレジア。




イタリア語ではエクスタシーというのだが、表情は放心状態に見える。
エクスタシー、恍惚というのであれば、後で見るルドヴィーカのほうがすごい。
が、このテレジアも見ておきたかったのでよかった。
残念なのは、礼拝堂の上段に置かれ、距離があってよくみえなかったこと。
アップで撮ったが光量不足、手ぶれでとらえきれなかった。
よこしまな気持ちで見ると、キューピッドの表情がいやらしい。
テレジアの口元のわずかな開きはエクスタシーを思わせるが、うっすら閉じた目は観念
した後の放心状態に見えて仕方ない。
日本語の法悦はうまい訳語なのだと思う。
法衣の袖からだらりと落ちた手の甲は、ちょっと不気味な感じがした。


このあとで目当ての骸骨寺に行った。
広場から延びる道を一つ間違えていたのだった。
案内書によると、お布施という感じの寄付1ユーロくらいとあったが違った。
7ユーロとられた。
骸骨寺は通称。正確にはサンタ・マリア・デ・ラ・インマコアータ・コンツェチオーネ教会と
いうらしい。
骸骨寺は教会の下、階段の途中に入り口があった。
4000体の骸骨。カプチン修道士のものらしい。これが壁に飾られ、ランプにされ、天井
装飾に使われている。
一応はカタコンベということになっているようだが、地下ではないので雰囲気はいまいち。
カプチーノは、このカプチン修道士の茶色法衣から生まれたと言うが、どうか。
あのサドが、これほど感動的なシーンはないと言ったそうだが、これもどうか。
撮影禁止なのでハガキを一枚購入した。


上にある難しい教会は、日本語で聖母マリア処女懐胎教会というらしい。
こちらは無料。そして、ここに見モノがあった。
「無原罪の御宿り」である。




聖母マリアは原罪を持たずに生まれた。
新約聖書のヨハネ黙示録に、太陽を身にまとい月を踏み、12星の冠をかぶるという女性
の記述があって、これが聖母マリアであるという。
ローマで有名なのは、サンタ・マリア・マッジョーレ教会にある、チゴリという画家の作品。
しかし、この教会の祭壇画に使われる「無原罪の御宿り」は、柔らかな色相で美しい。
冠の輝きに違和感があるけれど、チゴリ作よりもマリアの表情が穏やかで美しく思う。


夜はピンチオの丘へ行った。
ポポロ広場から、知らずに遠まわりをして坂道を上った。
丘の広場から手すり越しにローマ市街が見渡せた。
遠くに聖ピエトロ寺院が見えた。




ちょうど日が落ちた直後で、青さの残る空を背景に、ドームの円屋根が照明に浮かんでいた。
ピエトロ寺院はミケランジェロの設計だという。
しかし、ドーム前の回廊や円柱などは、のちにベルニーニらが設計増築した。
そのために円屋根下のドームが、広場からは十分に見えなくなった。
後で、実際に広場から見ると、たしかにドームの見え方は中途半端だった。
このピンチオの丘からは、その全体像を窺うことができる。
ミケランジェロの設計意図が伝わってくる。
というようなことを、和辻哲郎が書いていた。


そういう目で見ると、素人にもちょっぴりわかる気がした。


ローマ予定表

2015年08月06日 | 旅行

8月6日 晴れ


きのうローマから戻った。
1週間の滞在で、フィレンツェとポンペイ、バチカン美術館のオプショナルツアーに
参加。
出発前に、以下のような予定表をつくって、これをもとに行動した。致命的なミスを
犯したが、大半は見ることができた。
これと写真を照会しながら、あとで日記風に書き残すつもり。


ローマ
1 ユリウス荘 美術館 博物館 エトルリア博物館 ヴィラ ユーリア
グロッタ 噴水 バロック庭園 回廊モザイク画
ボルゲーゼの西



2 ボルケーゼ美術館
アーモで予約か、ローマパスの使い方
ベルニーニ
ダフネとアポロ 像
プロセルピナの略奪 



カラヴァッジョ
蛇の聖母
イエスが蛇を踏む、罪から異端へ 宗教改革派の象徴



ティツィアーノ
聖愛と俗愛
白薔薇は聖女の純潔、赤は殉教の血 天上と地上の天使 バラは本来は白 
ヴィーナスの恋人アドニスがイノシシに襲撃、駆けつけたヴィーナスはだしか
ら血、バラが染まる



3 カピトリーノ美術館 コンセルヴァトーリ宮殿
カピトリーノのヴィーナス
台が回るらしい
面は中身を包むのではなく表出するもの
腹部にの起伏と凹凸加減



聖セバスティアヌス
矢は愛の象徴から男性器の象徴へ。男性に愛された守護聖人



4 サンタマリアマッジョーレ大聖堂
最大のマリア聖堂
ベリリーニ父ピエトロ
聖母被昇天
入って右手洗礼堂



側道左ボルケーゾ礼拝堂の天蓋にチゴリの無原罪の御宿り
原罪なく生まれ
新約聖書 ヨハネ黙示録 太陽を身に付き踏み、12星冠 聖母
月は満ち欠け、狩のディアナと月のルナ ローマ同一視 聖母マリア



5 Santa Mariaデラヴィットリーア
コルナロ礼拝堂 祭壇左 
聖テレジアの法悦
 宗教の恍惚
ベルニーニ



6 Santa Mariaインマコアータ コンツェチオーネ 骸骨寺
バルベニーニ広場 蜂の噴水 ヴェネト通り 100メートル
聖母マリア処女懐胎教会 カタコンベ


1620年カプチン修道士 4000体
サド 世界初紹介 これほど感動的な
カプチーノ 茶色修道士



7 アルテンプス宮
ナボーナ広場近くのアルテンプス宮にヴィーナスの誕生



8 テルメ美術館マッシモ宮
ニオべの娘



9 コロッセオ



10 カラカラ浴場



11 ヴァチカン美術館
ユニウスバッススの石棺 エルサレム入城



12 サン・ピエトロ寺院



13 フォロ ロマーナ



14 サンタマリア ソプラ ミネルヴァ教会
ミケランジェロ あがない主キリスト
パンテオンに近い



15 サン・ピエトロインヴィンコリ寺院
ミケランジェロ モーゼ
コロセウムの少し北



16 システィーナ礼拝堂
ミケランジェロ フレスコ画
最後の審判
堂の構造が絵のためにある
天井画の柱による区別 絵の深さ



17 ピンチオの丘
ここから見るサン・ピエトロ寺院の円屋根
堂と屋根のバランス ミケランジェロの設計意図



18 サンタゴスティーの寺院 無料 休みなし
カラヴァッジョ ロレートのマリア
裸足の農民 大勢の集まる聖地を表現


 



 


冬のマリエフレード

2015年02月21日 | 旅行

2月20日 くもり


きのう、グリップスホルム城を見にマリエフレードという街に出かけた。

この城は14世紀にグリップという名士が建て、そこからグリップの名前がついた。その
後、1537年にグスタフ・ワーサ王が要塞として増改築、自らの住居ともした。
グスタフ・ワーサは近隣国との戦いから、スウェーデンの独立を守った王として名高い。
ストックホルム中央駅前の道は、王の名前をとってワーサ通りと名付けられている。

18世紀に入ると、グスタフ三世が城内に宮廷劇場をつくった。舞台を半円形上に囲ん
だ客席はかなり勾配のある階段になっている。70名くらいのキャパシティーではなかっ
たかと記憶する。
グスタフ三世は、ドロットニングホルムの宮廷劇場でも自らの脚本で芝居を上演。そう
いうところから演劇王の異名もある。この国にアカデミーを創始した、文武両道に秀で
た名君であった。
しかし、ストックホルムのオペラ座で主催した仮面舞踏会の最中、反乱貴族の銃弾を
受けて暗殺された。



グリップスホルム城は16世紀の北欧ルネッサンス風。メーラレン湖に映る姿は優雅と
もいえるが、基本的には要塞としての機能が強く、どっしりした感じを受ける。
マリエフレードという、やはり中世からの小さな街の端にあって、その古い街並みととも
に夏には多くの観光客を集めている。
ストックホルム版の江戸みたいな感じが気に入って、スウェーデンに来るたびに、それ
は夏に限ってのことだが訪れていた。


冬に訪れてみたい、と前から思っていた。


気温が5度を超えて、しかも残雪の消えないうちに来ることができた。
メーラレン湖を挟んで、対岸にマリエフレードの教会が建ち、桟橋の手前に裸木が枯
れ枝を伸ばして、湖面に憂愁の美を写していた。
夏は豊かな木立の緑が濃く、冬でなければ見ることのできない風景だった。



マリエフレードの街は、目抜きの大通りを1キロも行かないうちに湖に突き当たる。
大通りといっても道幅は6,7メートルくらいしかない。その石畳を挟んで、16,7世紀
ころに建てられた木造の平屋が軒を並べ、歴史散歩を楽しめるようになっている。

大通りの突き当たりにレストランがあった。
20年くらい前に初めて入って、魚料理がおいしかった。湖に面して艀が伸びて、かな
たに小島が浮かんで見えて、典型的な北欧の景色を眺めながら、素晴らしい体験が
できた。
この店で食事をしてから湖で泳いだ。あの夏は美しく、輝いていたなと思う。




その店が、売りに出ていた。
しばらく機会がなかったので、いつ閉店したのかはわからない。
ずいぶんと傷んでいて、看板の文字も褪せている。湖に面して、私たちの座った窓辺
のあたりも、ペンキがはがれかかっていた。
艀の向こうには冬景色。カモやカモメの大群が、ひしめき合いながら浅瀬に羽を休めて
いる。
時代も景色も変わって、去った時間の軽さが消えて、残り時間を数えるころ合いなのだ
なと、朽ちたレストランの看板を見て思った。




湖から中央にある大広場に戻った。
17世紀にたてられた3階建ての建築が目を引く。
かつては市庁舎として使われたこともあったようだが、いまは図書館になっている。


図書館の受付婦人が、わたしを日本人と知ると愛想が良くなった。
長男が日本の文化に興味を持ち、何度も日本に行っている。孫たちも日本のアニメが
好きで、ミヤザキの中ではトトロが一番で、もう40回近く見たのではないかしら。孫にせ
がまれてね。最近のは見ませんけれど、と言った。
魔女の出るアニメも面白いわね。
あれ、(スウェーデンのゴットランド島にある)ヴィスビーの街を参考にしたのでしょう。背
景をスウェーデンとデンマークの風景からとったのね。素敵でしたわ。



図書館には無料のトイレがある。
この街にも公衆トイレはなく、城の駐車場にあるトイレは、城の見学と同じ5月から9月
15日までしか使わせない。
冬場は喫茶店に入る以外にないかと思っていたが、図書館にあって助かった。
受付婦人の名前を聴きそこなったが、日本人であると言えば、トイレの便宜くらいは図っ
てくれるはずである。


 ところで明日、日本に戻る。およそ2カ月滞在する予定。引っ越しなどあって、今回は長く
なる。日本の魚と甘味、桜が楽しみである。
毎度のことながら、日本にいる間は北欧日記を休むつもり。


マルティン・ベック

2015年01月08日 | 旅行

1月7日 雪


なぜかわからないが、こういうのは気に入っている。いや、もっと上のレベルで、ハイな
気分になるというのに近いかもしれない。
好きな作家の旅の後追い、または作品の舞台に身を置く、ということである。かんたんに
いうと、ミーハー気分に浸る、社会学でいえば同一視、ということになるのだろうか。

「ファンというのは、ファナティックfanaticつまりは狂信的を語源としているので、もともと
マトモではないんです」と、現役時代、牛島秀彦さんから聞いたことがあった。
牛島さんは、たしかいとこが中日の前身/名古屋軍で投手をしていて、スポーツにも関
心の深い英文学の教授であった。それで、よくコメントをいただいたとき、そうおっしゃっ
たのが今でも記憶に強く残っている。
それもあって、自分の場合はどうか、ファナッティックまではいかないが、しかし、それに
近いかもしれないと、自戒の念がわく。
説明不能というのは、どこか狂っているのだろうと思うからである。


きょう、ストックホルムのシルバー会へ行った。友人が入会したいと言うので、彼を紹介
だてら本でも借りようと出かけたのだ。これが、ファナティックと関連する。
会の所在地は、中央駅から地下鉄でおよそ20分。バーガモッセンBagamossenという駅が
最寄り駅になるのだが、このバーガモッセンが引き金になった。



スウェーデンのミステリー作家と言えば、いまどきはスティーグ・ラーションが第一人者。
ミレニアム・ドラゴンタトゥーの女で一躍ベストセラー作家になり、直後に死亡した。彼に
続くのがヘニング・マンケルか。マンケルは、たしかイングマル・ベルイマンの娘を妻に
したはずだが。


しかし、スウェーデン・ミステリーの系譜をたどれば、刑事マルティン・ベックをもって、白
眉としなければならない。
60年代、マイ・シューバルとパール・バールーという夫妻の共著で、世界的な人気を博し
た。日本でも、刑事マルティン・ベックはそのシリーズすべて、たぶん10冊前後が翻訳出
版されたはずだ。自分も数冊は読んでいるが、もう昔のことでほとんど記憶にない。
それが、いま角川文庫で復刻出版されている。一作目が「笑う警官」で、2作目が「ロセア
ンナ」。このロセアンナを、いま読んでいる最中で、ちょうど2日前、マルティン・ベックのア
パートの所在を知った。
それが、バーガモッセンだったのである。記憶には全く残っていなかった。

言っては何だが、この辺りは旧式のアパート群になって、どこかさびれた雰囲気がある。
住民構成も、外国人らが入ってきて、それほど良いロケーションとはいえないらしい。
マルティン・ベックが入居していたのは、もう50年も前になる計算だから、いまより格上で
あったろうが、それでもまあよくて中産階級のアパート。当時としては、この辺りは郊外で、
並み以上の階級なら広い戸建ての家に住んでいたに違いない。


しかし、マルティン・ベックの家庭環境、夫婦関係と人相風体を想像するに、バーガモッ
センは彼にふさわしい住みかだったのだと思う。
実際、きょうバーガモッセンに来て、あたりを改めて見直して、そうか、作家はここにマル
ティン・ベックを住まわせていたのかと、フィクションが身近に現実的に思えてきた。


こういうのが、なぜかしらないが面白い。
どこか狂っているから説明できないが、愉快だと思う。マルティン・ベックあたりで面白い
と思うのだ。これが、もっと好きな作家の後追いとなれば、胸が騒ぐところへ飛ぶ。



たとえば澁澤龍彦のパリ旅行。氏の死後「滞欧日記」のタイトルで、巌谷國士氏が編集し
た本には影響された。パリを再訪したときには数か所、澁澤さんの後をたどった。

シャンティイーの城。
城内の美術館でピエロ・ディ・コシモの「シモネッタ・ヴェスプッチ」、貴婦人の半裸画は、
彼が絶賛していたので、目にしたときは感激した。絵そのものの魅力に加え、澁澤評価
が上塗りされて、よけいに感慨深く鑑賞することになった。
ここにはレプリカだろうが、ポティチェッチェリの2作品が、美術館とは別の、居間らしき
部屋に飾ってあった。
市内では、サン・メリ教会のパフォメット像。
彼も捜すのに苦労したようだが、たしかに教会正面の上部に小さくあって、自分も見つ
けるのに時間がかかった。
いわゆる名所ではなく、そんなところをしきりに見ていたせいか、観光客らしきが集まる
騒ぎになった。何を観ているのか、聞かれる前に退散した。
この教会からサン・ジャック搭を経てクリュニー美術館へ。
ここにある一角獣と婦人のタペストリーは、澁澤日記でなくとも有名で、腹痛を抱えなが
ら見て感激したが、彼とほぼ同じコースを歩いてきた、ということにプラスアルファの楽し
さがあった。


澁澤龍彦が最初にパリを訪れた、このときが70年9月から10月。わたしは同じ年、10月下
旬に初めてパリを訪れた。日時はズレていたが、ほぼ同時期であった。こういうことにも
うれしい気がするのだから、この年になって恥じるしかない。

ルーブルで、彼は「モナリザ」には触れていなかった。わたしは当時、モナリザをガラスケ
ースなしで、わずか1メートルの距離で鑑賞した。しかも、あたりに人影はなく、一人で数
分間、だれにも邪魔されず見ることができた。
飾られてある場所も今と違って、通路に横並びのうちの一枚、という扱いであった。
絵の手前に、美術館ではよくあることだが、太めのしめ縄のようなものが低いポールに掛
けられているだけで、こんなもの外そうと思えば外せるし、絵にじかに手を触れようとすれ
ばそれもできる。
むろん、そんな真似はしない。警戒の厳しくなった今だから、夢想するだけである。



バーガモッセンのシルバー会が、とんでもないところへ行ってしまった。
ついでのついで、でいえば「ミレニアム」の舞台となったのは、ストックホルム市の中心部。
小説がベストセラーになったので、ストックホルム市博物館Stadsmuseumは、館内に主人公
の勤務した事務所を再現し、事件の起きた場所を記した特製地図を土産として売っていた。
事件の跡を追うツアーもあった。
これをミーハーと片づけてよいか?


もうひとつ、ついでにいえば復刻マルティン・ベック シリーズの翻訳者・柳沢由美子氏は、
2年前の暮れにヒコーキで偶然隣席した。当時はアイスランドの作家、名前を失念したが、
彼の翻訳2刷目を抱えていて、たしかマルティン・ベックの翻訳プランも伺っていたような気
がするが、たしかではない。