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瘋癲北欧日記

第二の人生 つれづれなるままに

ローマ18 マッシモ宮殿

2015年09月02日 | 旅行

9月1日 雨


セーデルテリィエで初めての雨空。
ホールのスパック、日本ではパテを塗る。
ここは壁紙を剥ぎ、定着剤を塗り、そしてパテをかける。
こんな工程を踏むとは思わなかった。
一番簡単そうだったから、ここからスタートのつもりがとんでもなかった。
すべて古い壁紙の質感が嫌だったからである。
管理人に、いくつかの質問をした。


8月2日 ローマ・マッシモ宮殿からスリ事件そしてアルテンプス宮殿


マッシモ宮殿では「死にゆくニオベの像」と「ヘルマアフロディーテ」が見たかった。

ニオベはギリシャ神話に登場する娘。

ニオベは男女それぞれ7人の子ども、計14人を生んだ。
その多産で、神より自分が上と自慢して女神ロトの怒りを買う。
ロトは息子のアポロンにニオベの7人の娘を、娘アルテミスに7人の息子を射ち殺せと命じた。
ニオベは、背中をアポロンの矢で射抜かれて死にゆく。


まったく知らない話であった。
しかし和辻哲郎が大絶賛する像なので、見たかったのである。

「わたしは裸体彫刻を見てこれほど美しいと思ったことは一度もない」

これはすごそうだ。
紀元前400年ころの作だという。
それほどのものか、という気がしないではなかった。
本の写真で見ると、どうも首の座りが悪い。
首が短いせいか、ちんちくりんな感じがしていた。



目の当たりにして、それは角度のせいだというのがわかった。
本に掲載された角度から見ると、首が寸足らずで格好悪い。
照明の加減も影響しているようだった。
首の下に影ができて、首筋がすっきり見えないのである。



周囲を回って、いろんな角度から見ると、ベストなのは正面より左側から見た場合だった。
それも、やや仰ぎ見るようにしたほうが、しなやかな姿になる。




自分にはこれがベストポジションだと映った。
ひょっとすると、この像は高い台座の上に据えられていたのではないか。


肌合いに関しては、和辻解説のおかげで納得がいった。
ニオベは大理石なのに黄みがかった石膏像のように見える。
大理石像は、普通は研磨されて光沢を放っている。
きのう見たピエタもそうだし、この後に見るヘルマアフロディーテのように、冷たく光っているのだ。
それが、ニオベは細かくノミで刻まれ、しっとりした仕上げになっている。

自分は、きらきらすべすべの大理石像が、ごく普通で美しいと思って見ていた。
こんな風に刻まれて、美しい大理石の裸像もあるのだと、勉強になった。
そして、これは、後に見るアルテンプス宮のヴィーナスで決定的な印象になる。
解説がなければ、気がつかなかったはずである。



しかし、ヘルマアフロディーテは、冷たく滑らかに光って幽玄的であった。
大理石という素材の特性は、こういう裸体像で生きるのだよな、とため息が出た。
やはりこれはこれで素晴らしい。


この両性具有の怪しさは磨かれてこそ。
うっとり夢うつつの横顔から滑らかな背中、くびれたウエストから尻のふっくらした丸み。
こんなもの、どうみたって女である。


ほっそりした二の腕のわき下に、ふくよかな胸の輪郭。
ここまでは、どう見ても女性の裸体である。
それも、とびきりの美女である。




それが反対側に回って、驚愕のペニスである。


うっとりさせられた視線が、しかし、直後に凍りつく。
何だよあの醜いのは。
どうも、自分は古代ギリシャの感覚を持ち合わせないから、ペニスが美しいとは思えない。


ヘルマアフロディ-テ。
これは、ありていに言って美女と野獣、本来的な意味でグロテスク。
しかし極めつけの違和感に、逆に神経が震えて快感を覚えそうな危険。
真っ白な裸体に、極彩色の妖艶をみる感覚。
これはやばい。


たしかルーブルにも、ヘルマアフロディーテの大理石像があった。
同じように寝姿で、美しく磨かれ妖しい輝きを放っていた。
異様な価値観というのか、価値観の異様か。
古代ギリシャから、人は根っこのところで、つながるところがあるのでは、という思いがした。


この後に、有名な円盤投げの裸体像を見たが、こちらはまったく魅力を感じなかった。
危険なところへ差しかかっているのだろうか。


ローマ17 ポンペイ遺跡

2015年08月31日 | 旅行

8月30日 晴れ


窓枠の下塗り。ホールのフィックス塗りと天井掃除は家族。
ホールのフィックス剤は効いていた。時間を置くと、きれいに仕上がっていた。
谷沢さんの言う通りであった。安心した。
夕食はぜいたくなグリルステーキ。


 8月1日 ポンペイ遺跡


紀元前の遺跡。
紀元前というのが、さすがに驚きである。
日本では弥生時代の後期くらいか。
すでに、この地では立派な石造りの別荘群ができ、壁面の彩色も残っている。
この赤色はポンペイ色とかいうのだそうだ。
驚くほどの鮮やかさ。まさか上塗り・・・。




石造りの町並みに、粗雑ではあるが敷き石の大通りがいくつも交差して走っていた。
立派な共同浴場があり、スチームサウナのようなシステムもあったという。
パン屋はかまどが残って、当時の生活を想像させる。
居酒屋は2000年前の現地人が、奥から姿をのぞかせそうな雰囲気。
共同水道が道のところどころにあり、蛇口を人面像が飾っていたりする。


女郎屋もほぼ完璧な形で残っている。
二階建ての一階に、3畳ほどの小部屋が数か所あり、石造りのベッドが壁際に。
ベッドは1メートル幅で長さは1メートル50くらい。




廊下の壁には、セックスの体位を描いたフレスコ画がある。
これは女性の紹介も兼ねていて、客は好みを選ぶことができたという。
2000年前か、と思えば、最古の職業と言われるのも無ベなるかな。
ベスビオスも噴火して仕方ないか、など愚にもつかぬことを思う。


被害者は数千人と言ったか。
焼死か窒息死か、溶岩、灰に埋もれて当時のままの死に姿を残している。
セメント像のように見える。




凝固した灰の中で死体が消滅し、そこへ石膏を注入、復元したという話を聞いた。
断末魔の姿だが、暑さのせいかアバウトな形のせいか、特に感慨はわかなかった。


広場は立派だと思った。
狭い通りを抜けて、サッカー場くらいある空間に出て、開放感を味わった。
公共広場はフォロというらしい。ギリシャではアゴラか。
こういう場所を設けて、市民が集ったかと思えば、政治感覚の日本との違いを感じる。


いちばん感心したのは円形劇場だった。
ギリシャには、多くの円形劇場が残り、現役で使われるところもあると言う。




高校時代、担当教師がギリシャ旅行の話をした。

夕暮れ時、円形劇場で古代の仮面劇を見た。
仮面が微妙な陰影で、生き物のように見えた不思議。
役者たちの声が、円形劇場の階段を駆け上るように、大きく響いて驚いた。

というような話を聞かせていただいた。
いつかは、自分もギリシャで、そんな劇を見てみたいものだと思った。
ポンペイの劇場で拍手の音が響くのを聞いて、そんなことを思いだした。
アテネには行かねば。


何とか門から外に出て、出口に向かう。
溝だか掘り越しに、遺跡の一部がみえる。
2000年という時を考えた。
これはさすがに、気の遠くなるような時間である、と。

いま、このくらいの年になると、300年くらいは、それほど昔という気がしない。
歴史的、というような表現は必要ないように思う。
守備範囲というか、感覚として時間をとらえられる気がするのだ。

若いころは、50年がとてつもなく長く思われた。
過去を振り返っても、未来を見通しても、50年は重い時間であった。
自分には、現実的な時間としては考えられなかった。
しかし、いまはまったく違う。
100年なんてナンボのものか、と思う。


そこへいくと、ここは2000年である。
ポンペイの遺跡は、正真正銘、自分に歴史の重さを教えた。
計り知れないときの流れ、を感じさせた。



外の土産物屋では、レモンが見事だった。
軒先からぶら下げ、店頭にドカンと並べ、いずれも大きく立派であった。
色はやや黄色みが薄く思えたが、それがフレッシュな感じを与えた。


レストランで一部を賞味できた。
酸味が強くなく、すっきりして、これはよい味わいだった。
店内にはギターの流しがテーブルの間を縫って弾き語り、ナポリ民謡を数曲を歌った。
テーブルごとに、1ユーロを支払わねばならなかった。
帰れソレントへ、をうたったので、まあよいかと自分が払った。
犬の餌代と同じか、と思った。



帰路、カメオの土産物屋に寄らされた。
くだらないと思っていたのに、つい買ってしまった。
販売員はナポリに40年在住の日本人女性だった。


ナポリの街は車窓から。
ここがサンレモです。あちらに見えるのが有名な卵城です。
ふーん。
しかし、サンレモの海岸を見た時、さっきの流しの帰れソレントのメロディーが浮かんだ。
それはよかった。


ローマ16 ポンペイへ

2015年08月30日 | 旅行

8月29日 晴れ


ストックホルム南のロッピスであんパン、おにぎり、いなりずしを購入。
中古のゴルフボールとペッグ、その他。
そして、クラース・ヨーラン・ビヤネール氏の著作。
タイトルは、In i lagan イン イ ローガン。laganの aの上には、小さな丸がつく。
「紛争の中で」というような意味。この本については後日。
三人分の借金をMさんひとりがまとめてくれた。


8月1日 ローマからポンペイへ


早朝、集合場所の共和国広場へ。
広場の石畳と中央の噴水が、朝まだ気の中で鈍く光って、じつに美しかった。
しかし石畳は足にこたえる。
ローマでは、一部舗道をのぞいてどこも石畳なのだ。
普請が悪いせいなのか、もともと凹凸があって、石そのものはすり減っていても、靴へは
大きな負担がかかる。
きのうヴァチカンからの帰路、洋服屋でバーゲンの靴を買った。



バスのオプショナルツアーは、やはりよくなかった。
片道3時間半だったか、これに時間を食い過ぎである。
現地・滞在時間が短く、ガイドはイタリア人女性で、自分には融通がきかないように思えた。

見たい場所があっても、いまは工事中で公開されていない、と言われた。
道にそんな看板はなく、あとで地図を見ると、たんにコースの問題ではなかったかと思う。
2時間くらいのツアーで、決められたポイントだけ回ったのだろう。
自由時間はまったくとらなかった。


じつは、同伴者は「番犬のモザイク画」を見たかったのだ。

遺跡の床にある犬の絵。それだけのためにポンペイを訪れたかった、という。

自分は、まあ紀元前の街を見る、それだけでいいだろう、という程度の関心で、同伴者の
意向を尊重した。
犬のために、ボマルツォの怪物公園ツアーを断念して、ポンペイを選択した。

ガイドは、犬を見る時間を作らなかった。
昼飯は2時間、土産物屋には1時間とり、市内はバスで15分ほど回るだけ。
帰路は、カプリ島組を待って1時間近く、バス内で待たせたくせに。

自分たちで来るべきであったと、後悔した。
お手軽ではあったし、日本人ガイド嬢はよく話をしてくれたのだが。


ナポリの港で、ポンペイ遺跡組とカプリ島組は分かれる。
ポンペイ組は5人だけであった。
出発前の待ち時間、後半15分くらいを使って近場の古城へ上がってみた。




カステル・ヌオヴォという。「新しい城」である。
11世紀に建てられ、15世紀に改増築され「新しい」城となったのだろう。
パリのポン・ヌフ新しい橋が、じつは最古の橋というのと同じ。


ここへは無理をしてきてよかった。
市内ツアーで、ここくらいは見学時間を作るだろうと思っていたのに、それがなかった。
よけいな時間と、待ち時間ばかり長くて、は先に書いた。


しかし、中に入る時間はなかった。
城の中央部は吹き抜けになっていて、そこまで行ってみたかったのだが、これには
1000円くらいの入場料がいる。
わずか2,3分のために、それはできなかった。
後でツアーで、という計算もあったが、これも既述の通りかなわなかった。



入場断念してナポリ港へ向かう途中。
浮浪者が日陰に座って空き缶を振った。
横に犬を侍らせている。

この犬に誘惑された。


犬は背中を下に寝ていた。
仰向けに寝て、四肢を力なく空中に上げている。
こんな恰好で寝る犬なんて見たことがない。




やせ加減で、目は閉じて、くたばりそうな姿に見える。

この暑さで、飯も満足に食べさせてもらえず、もたないのだろうか。
顔をよく見ると、昔、小学生のころ飼っていたコロに似ている気がした。
もっとよく見ると、こころなしかまぶたがゆがんで、苦しそうである。


エイヤッと1ユーロを、そっと空き缶に入れた。

150円くらいなのだろうが、こういう行為をしたのは生まれて初めてのことである。
犬に何か食わせてやれよ、という思いである。
しかし、親父はうれしそうに笑った。
こいつ、自分で使いそうだなと思わせたが、やむを得ない。

これを同伴者に伝えたら、こう言われた。
「え? こっちの犬は、みんな仰向けに寝転がっているよ。暑いからでしょ」

すでに、犬には不吉な前兆があった。
 


ローマ15 サンタンジェロから

2015年08月29日 | 旅行

8月28日 晴れ


古い新居の手入れは休み。
ゴルフはハンデ5のスウェー人とプレイした。
からだを柔らかく使って、ランディ・バースみたいだった。


ローマ3日目 


ヴァチカンから歩いてサンタンジェロへ。
サンタンジェロ橋の途中で引き返して、ナボナ広場へ向かい、有名な噴水を見てホテルまで歩いた。
これでたぶん4キロくらいの道のり。
ローマは小さな街だと思う。


サンタンジェロはハドリアヌス帝が建立した墓らしい。
いま内部は美術館か博物館になっているようだが、熱くてバテたこともあって入らなかった。
橋の欄干に、ベルニーニが監督したという天使像が並んでいる。




有名なのは建物最上部に据えられた天使像。
ペスト禍をストップした天使ガブリエルの像で、そこから、サンタンジェロの名前がついたという。


この橋もよかったが、その前に渡った橋もよかった。
ヴィットリオ・エマヌエーレ二世橋というのだそうだ。
この欄干の石像はだれの作か知らないが、力強く美しいと思った。
歩いてテレベ川を渡った、最初の橋でもあった。



橋の欄干と言えば、パリのアレクサンドル二世橋が美しかった。
クレイジーホースを見た後、深夜に照明に浮かんだ彫刻群が美しく見えた。
かなたにエッフェル塔がやはり照明で浮かんで、セーヌの流れを飾ってよい雰囲気だった。


いったいに、ヨーロッパのちょっとした橋は、彫刻や装飾で飾られていて見ごたえがある。
日本では、橋そのもののかたちに意匠が凝らされて趣がある。
日本橋の龍のブロンズ像は例外的ではないかしら。


というようなことが頭に浮かんだ。


ナボナ広場は名前が悪い。
どうしても日本のお菓子を連想してしまう。
ワンちゃんが、国松さんの依頼でCMに出演して、いまだに脳裏にこびりついている。
よろず忘れっぽくなっているのに、何でこんなのが残っているのだろう。



広場には3つの噴水があり、ひとつはベルニーニ作だという。
いずれも、さらっと見ておしまい。
噴水ではバルベニー広場にあるトリトンが一番よいように思う。
これもベルニーニの設計ではなかったかしら。


噴水と言えば、トレビの泉は工事中で水を抜いてあった。
これは興ざめ。
アニタ・エクバーグの甘い生活の、あの場面を水なしで想像するのは苦しかった。


ホテルはトレビの泉から歩いて2,3分。
毎晩のように、狭く混雑した泉近辺を散歩したが、甘い生活には程遠かった。



しかし、よいレストランは見つけてあった。
ローマ到着の日に付近を捜して、賑やかな通りを少し外れた場所。
この日も、夜はそのレストランal GALLiNACCiOに行った。
生ハムメロンがうまかった。
メロンはオレンジ色で、夕張メロンを思い出させた。



デザートは外に出て名物ジェラートを買ったが、期待はずれだった。
4ユーロ、600円くらいか、ずいぶん高かったが、その価値はなかった。
名物にうまいものなし、なのだろうか。


ローマ14 クリスチーナ

2015年08月28日 | 旅行

8月27日 晴れ時々曇り一時雨


壁紙をはがした後のフィックス材をすすめられて購入。
しかし、残り紙が水分吸収して浮き上がる。最悪。
手間とカネの壮大なる無駄になるか。
電話、インターフォン線切断除去。


7月31日 ローマ3日目 ヴァチカンから


スウェーデンのクリスチーナ女王は1626年生まれ。
父グスタフが三十年戦争で戦死。7歳で女王を宣告され、28歳で退位。
ローマへ移住し、法皇と親交を重ね、文化芸術を愛し、独身のまま1689年63歳で死去。
サン・ピエトロ大聖堂に埋葬される。


これは稀有な女王である。

まずは男まさり。

勉学にいそしみ狩猟を好み、女子の装いや遊びには一切無関心。
父の遺言により男として育てられた、とも言われるのだが。
20歳ころまでにはラテン語、フランス語など数カ国の外国語をマスター。
フランスからデカルトを招聘して、哲学の教えを受けた。

ローマでは、ベリリーニら芸術家、また知識人と親交を深め派手な社交生活を送る。
彫像や絵画の芸術品、什器、書籍を蒐集して「アカデミー」を設立する。
終生独身を通して、同性愛者と見られたこともあった。

そして改宗。

28歳の若さで退位を決めたのは、改宗のためである。
30年戦争で、父はプロテスタントのために戦い、勝利に導いた。
スウェーデンが欧州史上最も活躍した戦いであった。
父が戦死し、女王の時代にウエストファリア講和締結に尽力する。

その直後、プロテスタント勝利の立役者の娘が、カトリックへ改宗するのだ。
当時の女王の存在感を思えば、これは大胆を超して無謀とさえいえる行為だったろう。
破天荒な女王であった。


男まさりは、じつは両性具有者フロマアフロディーテであったためらしい。




写真はテルメ美術館マッシモ宮にあるヘルマアフロディーテ。
後ろ姿と、前横から見た上半身。

つい最近、立花隆氏が雑誌で紹介しているのを読んで知った。

数年前に、ヴァチカンの秘密アーカイブが公開された。
そこに「ヘルマアフロディ-テであったクリスチーナ女王」のドキュメントが残っていたという。
「じつは告解を通してローマ法王庁もそれを知っていたらしい」と立花氏が書いていた。
そうか、それであの性格か、と納得した。


改宗の裏にも、このからだの秘密が隠されているかも知れないと思う。

彼女がカトリックへの改宗を決めたのは、9歳のときであったという。
自身の回想録で、こう書いているのだ。
「独身の身分を神への奉仕とみなすことに感動し、この宗教に入りたいと叫んだ」
両性具有というからだであったと知れば、結婚を憎み、こう叫ぶのもわかる気がする。

デカルトの影響も伝えられる。
彼がカトリックの信仰告白したことへの共鳴というのである。
が、それよりからだの問題が大きいのではないかという気がしてならない。


いずれにせよ、女王の改宗はバチカンにとって大いなる"福音”であった。
これ以上はない宣伝広告塔である。
プロテスタントの救い主が一転、ローマカトリックへ帰依するのだ。

ときの法皇アレクサンドル7世が、自らの名をとってクリスチーナ・アレクサンドラと名付けた。
そして63歳で死去すると、ときの法皇クレメンス11世は彼女をサン・ピエトロに埋葬する。
死に顔には薄い銀のマスクがかぶせられた。

女王とはいえ、聖職者ではない、それも女性がここに埋葬されるとは前代未聞。
いまだに、彼女一人だけの特別待遇である。


さらに、法皇は聖堂内に彼女の記念墓碑を建てさせた。
あの大天蓋を作ったベリリーニの弟子に、大理石でレリーフの建立を命じた。
クリスチーナがベルニーニを賛美していたからである。


下の写真は「聖テレジアの法悦」ベルニーニの作品。
サンタマリア デラヴィットーリア教会にある。
これについては、まえにブログで書いた。




しかし、自分が彼女の記念墓碑のことを知ったのは、ローマから帰国直後のことだった。
大聖堂「ピエタ」のすぐ近くにあったのだという。
埋葬されているのは知っていたが、墓碑の存在は・・・。
「ピエタ」はちゃんと見たのになあ。

うかつ、準備不足、無知の情けなさを思い知らされている。