「はやこま君、一体どうなっているんだ!きちんと説明して下さい」。3年前(2011年)の"あの日3月11日"の午後、奇数月に開催される課・所長会議に出席するため私は名古屋営業所の会議室に居た。会議では2月に山形の客先へ納品した機械設備の検収が上がらない事に対してY社長が厳しく説明を求めていたので、これまでの経緯と実施した対策及び今後の対応策等を説明していた。
その時、私用の携帯電話に着信、妻からだ。午後は会議と知っているにも関わらず、電話をかけてくるとは、「何かあったのか?」と思い、「ちょっとすみません」と断り電話に出る。すると電話からは「妻の悲鳴」と「ガシャガシャ」と物が壊れる様な音が聞こえる。
はやこま 「どうした?」
妻 「すごく大きな地震~○△×※●」 、、よく聞き取れない・・・。
はやこま 「とにかく落ち着いて、家が崩れるかも知れない、庭に出て家から離れる様に」
と電話に向かい大声で叫んだ。
それから約2~3分程経っただろうか、揺れは一旦収まった様で、会話できるようになった。
妻 「今まで経験した事もない大地震だった」、話をしているうちにまた大きな余震があった様だ。
はやこま「会議を中止して今から帰る、大きく揺れたら家から出る様に」と告げ電話を切った。
そんなやり取りを「何事?」と親会社を含めた名古屋営業所全員が私を見ている、会議室に戻るとテレビで「東北~関東で大地震」の速報が流れていた。その直後10階建てビルの最上階にある名古屋営業所も大きくユラ~っと揺れだした。他の会議メンバーは東京や関東の拠点、東北の協力会社へ電話するもつながらない。会議を即中止し、エレベーターは途中で止まる危険があるので階段を使って一旦ビルの外に出た。同居する親会社のSさんも降りてきて、「こんな時は公衆電話が一番通じるで」と一枚のテレホンカードを手渡してくれた。Sさんは当時新入社員だった小生の教育係をしてくれた方で私は鬼軍曹と呼んでいる。軍曹は親会社に転籍した後も何かと小生を気にかけてくれていて、後でこのカードのありがたみを大変思い知った。
名古屋駅に到着すると新幹線が全線でストップしている構内アナウンスが繰り返し流れている。とりあえず、キップを購入し改札前で待機する。自宅が東京のY社長とFさん(東京営業所長)、名古屋営業所長のKさんの3人から「じたばたしても仕方がないので、近くの店で(酒を)飲んで待とう」と誘われるが、「とてもそんな気分にはなれない」と断り、一旦駅舎を出て駅前にある大型液晶ビジョンを見る。液晶ビジョンにはニュースが流れ、津波が町を襲う様子が映し出されていた。仕事やプライベートで一度・二度訪れている町もあった。
改札前と液晶ビジョンの前を行ったり来たりする時間が続く。
岩手県花巻市の協力会社の担当:sadaさんからメール着信、工場敷地が大きく地割れしている写真が添付してあった。「早く家に帰りなよ!」とsadaさんに返信、無事だった様で安心した。
又、問題になっている山形の客先へ向かっている途中の仙台の代理店担当:IT君から電話着信。
IT君「山形市内すごい渋滞で今日は客先へ行けそうもありません」
はやこま「すぐに戻って下さい、特に仙台市内は混乱している様なのでとにかく気を付けて」と告げる、
彼も無事で安心した。
数時間後、「東京方面への列車は運休、大阪方面もホームに停車中のこだま号が本日最後の発車予定」のアナウンスが流れる。どうやらこの時点で「帰宅困難者」になったようだ、宿泊場所を確保するため携帯電話を駆使するも名古屋市内のホテルは満室で全く予約が取れない、どうしよう。JR東海道線が東は浜松まで運転していると知り、出張で何度も訪れている三河安城の宿を検索すると運よく東海道線・安城駅前のホテルを確保できた。Sさんが渡してくれたテレホンカードを使い公衆電話で自宅にTEL、何回目かにつながりホテルの場所と電話番号、「携帯がつながらない場合はホテルに電話してくれ」と告げる。なんとか宿を確保した安堵のせいか、お腹がすいている事に気付き駅構内で「きしめん」1杯を腹に収めた後、東海道線の列車に飛び乗のった。ホテルにチェックインの際、フロント係に「携帯電話がつながりにくいので、自宅からホテルに電話があったら知らせて欲しい」とお願いする、ホテルマンは事情を察知して快諾してくれた。部屋に入り、2台の携帯電話を充電器につないで充電、テレビを点けると東北沿岸部各地の被害の様子が映し出されている、その時見た気仙沼の大火事の映像、今でも脳に焼き付いている。
そして、度々「緊急地震速報」が発令されるたびに胸騒ぎがする、欠陥ボロ住宅の我が家は大丈夫なのだろうか・・・
しばらくするとホテルのフロントマンが電話の知らせにやって来た。「ありがとう」と伝え、館内の公衆電話から自宅へTEL。
妻「停電しているが、ガスと水道は使えるので湯たんぽで暖を取れること、食事はインスタント食品で大丈夫」そして「揺れが収まったあと車のガソリン満タンにしてきた!」とのこと、落ち着いてガソリン満タンにしてきたことに驚いた。余震以外はなんとか大丈夫そう、少し安心した。
帰りの列車を調べると、安城駅から始発電車に乗り豊橋駅で新幹線「ひかり」に乗り換えれば東京駅には最短で午前8時過ぎに到着することが判った。明日、どこまで帰れるか判らないが体力温存のためテレビを点けたまま仮眠を取った。(続く)
大惨事の中、奥さんも落ち着いて、ガソリン満タンなんて良く気が回りましたね、良い奥さんですね
この話は私の奥さんにも話して聞かそうと思います。
何といってもリアリティがあるもんなあ、続編に期待です。
被害状況が全く違う阪神大震災では殆どの者が就寝中でしたからね。
その日山口県は揺れがなかったので、テレビをあまり見ない自分が、地震の事を知ったのは
夜になってからでした、こんなことがあったんですね、大きな地震の経験が、ほとんどないので
今後の参考になります。
滋賀に住んでいる知人がたまたま仙台で震災に遭いました、やはり滋賀に帰るのに相当苦労したみたいです。
動画で実感していました。
また、福島の郡山に住んでいた三男の嫁さんの避難行動で、
ことの切実さを感じていました。
人知を越えた自然の力に、ただただ畏敬の念を禁じ得ません。
改めて、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りします。
我が家の地震に対する備えをお答えする前に山陰地方で大きな地震が起きてしまったようです。でも、ご無事で何よりでした。備えとしてまず一番は家族の身を守る対策を最初に、例えば家具を固定するとか高い場所の荷物を降ろすとか等、こんなところからトライしてはいかがでしょうか。
ガソリンスタンドは自宅から300mくらいと近いのですが、まさか給油に行くとは、後から聞いて驚きました。当時乗っていた車は燃費が悪く、震災直後しばらくガソリンが入手しづらい日が続いたので、この満タン給油は大変助かりました。
阪神大震災の時、早朝に妻の実家から電話があり地震発生を知りました。義父から「こっちは凄い地震やから関東は壊滅してるんやないか?と思って心配で電話したんや」と。その義父も寝てるところにタンスが倒れてきた様ですが、運良く下敷きにならずに難を逃れました。その後、関西在住の社員も多く被災したので会社で応援隊を組織し、食料や水を持って関西に行きました。あれからもう20年近く経つんですね。
滋賀のお友達の方、滋賀に戻るのは相当大変だったと思います。
高速道路、新幹線、空港、全て長期間ストップしてましたので、東北地方でも内陸の山形や秋田、新潟経由で移動されている方がたくさんおりました。
三男さんのお嫁さんも大変な思いをされた様ですね。
震災後の原発事故の影響で福島県の方は地震、津波、に加え放射能への不安を感じながらの生活に大変ご苦労されていると思います。
先日、郡山の知人が原発事故について熱く語っていた内容に少し考えさせられました。