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昆布ロードと敦賀 その6

2021年01月18日 | 敦賀史

 

B)コンブロードの全国制覇

 寛永15年(1638)、加賀藩が城米100石を初めて西廻り航路により大坂へ運漕しました。それまでは敦賀で陸揚げし、琵琶湖を渡って大坂へ運ばれていたものです。
 他の藩も西廻り航路を利用するようになり、松前物の昆布も同様に大坂へ直送されるようになりました。距離的には西廻りの方がずっと長いのですが、途中で荷の積み替えがなくて済み、敦賀・近江の運送業者の質が悪くて荷を抜かれる損失を勘定に入れると、西廻り航路の方が安上がりになったのです。
 コンブロードは敦賀で止まらずに西へ伸び、長崎に至って、瀬戸内海を抜けて大坂に到着するようになりました。
 この頃から、昆布は元揃・三石昆布となり、大坂での利用が増えます。

 寛永17年(1640)に駒ケ岳が噴火し、津波で百余隻の昆布取舟が転覆してほとんどの人が溺死したと記録されており、江戸初期には昆布採取が盛んに行われていたことがうかがえます。その昆布が敦賀・小浜へ、そして大坂へも直接に運ばれるようになったのです。

 松前藩は寛文年間(1661~73)頃に場所請負制を導入し、蝦夷地交易を商人に請け負わせ、交易所(運上屋)を設けて特定の商人が蝦夷地交易を独占しました。とくに近江商人は、若狭や奥羽の商人を押し退けて運上屋となり、交易を独占するだけでなく漁場を開き、漁業を営むほどに身を入れて産物の増加をはかり、蝦夷地の産業に大きく貢献しました。
 大坂で昆布の売買を初めて行ったのは、江州出身の昆布屋伊兵衛で、元禄7年生まれの松前問屋をしていた人物だと言われています。
 刻み昆布は、大坂では享保6年(1721)ごろに、紙裁ち包丁で昆布を細かく切り刻んではじまり、30年後の宝暦年間(1751~64)に京極若狭之助によって鉋カンナ の使用が考えだされ、同時に仕事場や干し場も設けられました。
 宝暦12年(1762)には、大坂の刻昆布業者23人が仲間を組織しています。そして、寛政2年(1790)8月には、大坂昆布商仲間も結成されました。
 元文ゲンブン5年(1740)、松前藩が幕命により昆布を長崎へ移送し、幕府は昆布を輸出品にしようとします。その後、天明8年(1788)幕府が長崎奉行に抜荷ヌケニ の厳禁を命じた頃、薩摩藩は大坂で昆布を買い、琉球に売り、砂糖を大坂に売ることをはじめました。

 北前船キタマエブネの出現は1700年頃と言われています。北前船は蝦夷から北陸、北陸から大坂への昆布の道(コンブロード)を完成しました。
 北前船の呼称は、瀬戸内の人たちがつけたといいます。船の形は、弁財船ベンザイセンを水主カコを少なくして帆走専用船にしたものです。北前型弁財船ともいわれます。北前船は運賃積みではなく、買い積みとして往復とも自分の荷物を積み、寄港地で売買する海のマーケットでした。北陸の米・縄・筵、東北の木材・酒などを大量に積み込んで、蝦夷地で売り払い、その代金で昆布・鰊ニシン ・数の子・粕シメカスなどを買い込んで、日本海沿岸・阪神地方の各港で売り捌きました。
 富山の昆布巻かまぼこの起源は分かりませんが、嘉永年間(1848~54) に女川屋伝右エ門が富山湾のアジ、ニギス、サワラなどの白身の魚と、北前交易で荷揚げされた昆布で昆布巻かまぼこを作り、藩主に献上して喜ばれ、広まったと言われています。



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