話の途中になってしまうけど、、、
小さな頃から、ヒステリックな母の激昂を目の当たりにして生きてきた。
もう、忘れてしまったことの方が多いけど、例えば、小学校から帰ってきてランドセルを指定の位置に置かずに放置して遊んでいた時のこと。
もちろん、言われた通りにしなかった私が悪いが、それでもわたしは自分の部屋に置いて遊びに出かけた。
帰宅すると母は怒り狂い、わたしの髪の毛を掴んで家中引き摺り回し、最終的に
「ランドセルいらないのでしょう」
と言って、マンションのベランダから下に投げた。
家は高層階である。下に誰かいたらどうするんだ?
これって、絶対におかしい。
泣きながらわたしはランドセルを取りに行った。
結構高級なランドセルだったけど、サイドの金具がぐにゃりと曲がってしまい、私は卒業するまでランドセルを見るたびにその日の恐怖を思い出しながら小学校に通った。
それでも、わたしは
いつでも母に好かれたかった。
いろいろな葛藤は自分でたたかい、乗り越えてきたけど、とうとうそのシンプルな想いだけは母が亡くなるまで、叶うことなく続いた。
思えば、軽い言葉で
「すごいねーー」「いいわね」と言った言葉をかけてもらうことはあったけど、一度も母に褒められたことはなかった。
褒めて欲しかった。
がんばったね。偉かったね。上手にできたわね。美味しいね。
母に認めて欲しくて、母の望むことは何でもその通りにする努力をした。
科学クラブに入りなさい。(興味ゼロ)
将来の夢はアナウンサーと言いなさい。(わたしはケーキ屋さんになりたかった)
放送部に入りなさい。
目立たないようにしなさい。
母が嫌いというタイプの子とは遊ばないように気をつけていたし、母が好きという曲を好きになり、母が好きな食べ物をさも好きな食べ物であるかのように振る舞っていた。
自分が全くなかったと思う。自分が何者なのかわかってなかったなと気付いたのはだいぶ大人になってからである。
友達と遊んでいても、母が怒るようなことで怒り、母の価値観が全てと思って生きていた。
と言っても塾通いが忙しく、滅多に友達と遊ぶことはなかったのだけど。
それでもわたしは母にほめられることはなく、ことあるごとにあげあしをとられて、批判される日々だった。
テストは100点が当たり前。高学年になる頃には86点なんて取った日には友達の家でテストを切り刻んで捨てていた。
班長になり、学級委員になり、児童会長を務め、リレーの選手になり、アンカーでゴールテープを切ってもまだわたしは褒めてもらえなかった。
わたしは自己肯定感が低く、よって、今思えばものすごく嫌な小学生だったと思う。
小学生なんて単純で、勉強もスポーツも誰よりもできたから、いじめにこそ合わなかったけど、班で活動することが多かったから友達もたくさんいたけど、私のことを好きな子っていなかったと思う。
わたしは、どこか歪んでいるのだと小学生のときに悩みすぎて人間不信になってしまった。
親がこれだけ否定するのだから、悪いのは私なのだろうと。
小学生の頭では、到底その性格をを、矯正する術もわからず、、、、、
この話は、またいずれ。