空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

人間にはしてはいけないことがある

2024-08-14 11:30:19 | 日記
すごく志を持った先生だったのですね。
 

浦沢尚先生(1959年) 人間にはしてはいけないことがある<一枚のものがたり>中村太郎

 1963年春、東京都府中市立府中第四小学校。6年5組の社会科の最終授業で、担任・浦沢尚(ひさし)が教壇に仁王立ちし、グラフ雑誌を開いて見せた。「人間が人間にこういうことをしたことを、あなたたちは忘れないでほしい」

「原爆被害の初公開」と銘打たれた「アサヒグラフ」52年8月6日号。「広島 原爆犠牲都市第一号」と見出しのついたページには、顔や体をひどく焼かれ、ゴザに寝かされた少女の姿があった。
 
「その時の浦沢先生の目と、写真が忘れられません」。村田未知子(73)は、この日をきっかけに被爆者に関心を持ちはじめた。高校生になると、友人と広島、長崎を訪問。31歳で東京の被爆者団体「東友会」の相談員になり、今も理事として会を支える。「浦沢先生の一言がなかったら、私はここにいない。人生の師です」
 
 口癖のように「人間にはしてはいけないことがある」と語っていた浦沢。原爆投下は、究極の「してはいけないこと」だった。
 
 1958~59年、四小の浦沢学級に通い詰めた若いカメラマンがいた。東京写真短大(現東京工芸大)の学生だった中村太郎(40~2023年)。自身も府中一小で教え子だった。中村は7カ月間に約2100枚を撮影。しかし発表することはなく、いつしか記憶の奥にしまいこんだ。それを思い出すのは、40年以上後の2002年、1996年に71歳で没した浦沢の七回忌の場だった。浦沢の妻から「あなたが持っていた方がいい」と、箱に入った密着焼き(コンタクトプリント)を渡された。中村はネガを探してプリント。2009年春、東京のフォトサロンで開いた作品展「浦沢先生と多磨の子供たち」で89枚を展示した。図録の表紙は、浦沢が唯一、カメラ目線で写った一枚にした。
 
 被写体の子供たちを探し、多磨霊園前で石材会社を営む山田忠勝(73)に会った。図録に目を通すなり「あ、これ私です!」。教科書を読む立ち姿を横から写した一枚。奥に浦沢が座っている。「3年4組です。懐かしいなあ」
 
 児童の手を握り「できた、できた」と優しく笑む浦沢。「先生だいすき!」と、浦沢に抱きつく女の子。立たされたのに何だかうれしそうな男女。取っ組み合いのけんか-。写真から、学級の飾らない姿が伝わってくる。浦沢に「君たちのお兄さんだ」と紹介された中村となじみ、誰も撮られていることを意識していなかった。
 
 浦沢はどんな教師だったのか。「子供がいなかったから全員がわが子。人情家で、面倒見がとことんいい先生でした」。よく叱られたという山田は、そう話す。浦沢を慕い、亡くなるまで交流を続けた。だが晩年の闘病中、家に見舞った時は会えなかった。「必ず元気になるから待ってくれ」と、妻を介して伝えられたが、ついに回復はかなわなかった。「約束を守る先生だったけど…」。そう言うと、声を詰まらせた。葬儀は、山田ら教え子が営んだという。
 
 村田が覚えているのは、給食がない頃、昼休みに背広のポケットをぱんぱんに膨らませた浦沢の姿だ。「(弁当がなくて)教室を出て行く子がいたんです。先生はポケットのおにぎりを、その子たちにそっと渡していました」。被写体の一人、村野喜代江(74)は、放課後にいったん帰宅し、幼い妹を背負って学校に戻った。「先生が妹を負ぶってくれて、私が遊ぶんです」。帰りも浦沢が妹をおんぶし、手をつないで駅まで送ってくれたという。自らも教職の道に進んだ村野は「方向付けをしてくれたのは先生です」と話す。
 
 作品展の感想ノート(中村の控え)には、妻の言葉もあった。「子供が上着を引っ張るでしょう、背広がのびちゃって。だから上っ張りを、3枚作りましたよ」
 
 教え子たちが70代になっても命日の墓参を続けるほど、慕われていた浦沢。だが、自身は教師人生を振り返り、妻にこう話していたという。「僕は『やればできるのだ』ということだけしか、教えられなかった」 (敬称略)
 
中村太郎

中村太郎

 一枚の写真の背後には、時に思いもかけないドラマや、忘れることのできない思い出が隠れています。一線で活躍する写真家から市井の人々まで、さまざまな人が印画紙に刻んだ「一枚のものがたり」をひもといていきます。

でした。

 

 

 西 逈さんのコメントです。

人生の教師 (西 逈)

 昔、卒業式に必ず流れたのが「仰げば尊し」。映画「二十四の瞳」のテーマ曲? 親も涙、子も涙。先生も涙、生徒も涙でした。一緒に遊んでくれた、導いてくださった教師の方々に、あらためて感謝を!》

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人生の教師 (西 逈)
2024-08-14 12:14:33
 昔、卒業式に必ず流れたのが「仰げば尊し」。映画「二十四の瞳」のテーマ曲? 親も涙、子も涙。先生も涙、生徒も涙でした。一緒に遊んでくれた、導いてくださった教師の方々に、あらためて感謝を!
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