俳句甲子園が、松山で行われていました。
若い方が母語を大切にしてくれているので、感謝以外にない。
芭蕉・蕪村・一茶・子規は、偉大な方々と思っています。
<コラム 筆洗>正岡子規の『病牀(びょうしょう)六尺』の中にこんな句がある…
正岡子規の『病牀(びょうしょう)六尺』の中にこんな句がある。<風板(ふうばん)引け鉢植の花散る程に>。「風板」とは一種の扇風機らしい
▼脊椎カリエスで身動きできぬ子規には夏の暑さがこたえたのだろう。「風を起(おこ)す機械」を求め、弟子の河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が作った。「我が寝床の上に吊(つ)り呉(く)れたる」。板をひもで引いて風を起こしたのだろう。この2カ月後の1902年9月、子規は息を引き取る
▼<はひおりて病牀の側の御慶(ぎょけい)哉>。察するに1899年には既に床から出るのも難しかったか。新たに確認された子規の未発表句である
▼病牀から<はひおり>とはめでたき新年のあいさつがつらい。その年の元日、東京・根岸の子規庵を訪れる客のために用意した「歳旦帳(さいたんちょう)」に残っていた
▼「アシ(私)は欲ばり」。高浜虚子によると子規はどんなに出来の悪い句でも捨てられず、清書して書き留めていたそうだ。わずかなお金でも無駄にする人間は金持ちにはなれぬ-。句を粗略に扱う者は一流の作者になれないと教えていたが、この句は「歳旦帳」に書いたまま見逃されてきたか
▼未発表句はもう一句。先の句を書き直す前の句で<病牀をすべりおりたる御慶哉>。推敲(すいこう)の跡がこれほどはっきりしているのは珍しいそうだ。比べると、<すべりおりたる>より<はひおりて>の方が病が重く、苦しい。そう書き直さざるを得なかった子規の病状が悲しい。
でした。
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