浄土真宗本願寺派 堺・圓龍寺の法話が届きました。
《将来の道を決めるのは、おいそれと簡単に決めれるものではない。
今まで学んできた道を捨てて、別の道に転換しようとする場合は、なおさらのことである。
ああでもない、ここでもないと、迷いぬくがいいのである。
最後は自分が決めるが、迷いに迷っている段階においては、先輩知友の意見をきくことも、必要なこと。
今まで学んできたことに恋々とする心や、わずかな
感傷の一片すらものこさない時、こう決めた道はすばらしい大道となって展開する。
言うはやすく行うはむつかしいが、行わねばならない。》
圓龍寺のグループ「直枉会」のカレンダーです。
龍大カレンダーです。
嵯峨光仏縁起 1巻 江戸後期写
嵯峨光仏とは、嵯峨釈迦堂の名で知られる清涼寺(浄土宗/西京区嵯峨)の前身である棲霞寺の本尊として安置された阿弥陀三尊坐像のことである。『菅家文草』(菅原道真の漢詩文集)所収の願文によれば、嵯峨天皇の第12皇子、左人臣源融が発願し、その歿後1年を経た寛平8年(896)、子の源湛と源昇兄弟が完成して「棲霞観」内の一堂に安置したという。この縁起を絵巻物として仕立てたものの写本が本書で、金霞引の美しい料紙に極めて美麗な金泥彩色が施されている。他には宮内庁書陵部所蔵の1本が知られる貴重なものである。
この清涼寺の寺域は源融が父嵯峨天皇の離宮(嵯峨院)の一部を別荘(棲霞観)として賜ったもので、歿後棲霞寺に改められた。寛和3年(987)に宋から帰朝した東大寺の奝然は、愛宕山を中国の五台山になぞらえてこの地に大清涼寺の建立を企てたが果たせず、弟子の盛算が棲霞寺内の釈迦堂に栴檀の釈迦如来像を安置し、勅許を得て「五台山清涼寺」と号し、華厳宗の寺院とした。
棲霞寺釈迦堂に仮寓する形で創建された清涼寺の釈迦如来像は浄土信仰の隆盛とともに三国伝来の栴檀瑞像の名で呼ばれて信仰され、室町中期には融通念仏の大道場となった。法然上人も保元元年(1156)24歳の時に真実の仏法を求めて釈迦堂へ7日問参籠し、そして南都へ遊学された。
3月の雀さんです。明日、朝日生命ホールの独演会を聞きに行きます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます