空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

桂 文喬師を聞く

2020-07-18 22:40:52 | 日記

五代目桂文枝師匠は、多くのお弟子さんを育てられました。

その中のお一人が、桂 文喬師です。

なぜ落語家になったのか?

大学入学で落研に入部。先輩に連れられた落語会で当時の小文枝師に出会い、

追っかけを始めることになったそうです。

追っかけを長年続けた大学四年の頃、師から子どもさんの家庭教師を依頼されたそうで、無事に合格。

そのお祝いの席で、弟子入りをお願いしたそうです。

 

我らが雀三郎師とも懇意で、さんくす寄席で聞かせていただいたこともあります。

文喬師は、ボランティア活動にも積極的で、私の息子ともお知り合いになりました。

息子から今日の会を知らされて、参加しました。

前半は、講演会。桂 喬美さんは、長い芸歴。

漫才の名前は、「パピヨンズ」のちよみさん。

元ミヤコ蝶々さんのお弟子さんで、若い頃の芸名はミヤ蝶美・蝶子(ミヤちょうみ・ちょうこ)の蝶美さん。

講演の内容は、

《高校卒業後、女優志望でミヤコ蝶々主宰の『蝶々新芸スクール』に2期生として入学。芝居の稽古の一環として漫才を組む。藤本義一に認められ『笑の会』に加わる為にコンビ名を「宮蝶美・蝶子」と名乗る。1980年3月に新花月で劇場初舞台。その後も新花月などで修行。間もなくコンビ名を「ミヤ蝶美・蝶子」とする。

1983年7月 蝶美が破門されてコンビ解散。「芸道と家庭は両立しない」という強固な信念を持つ師匠の蝶々から、蝶美が破門された。結婚はまだ許してもらえた(師匠も黙認し漫才は続けられた)が、「先生、子供できました」と言った時は「芸能界を辞めて家庭に入りなさい」と破門される。》

長い芸歴から、ご自分にあった男女の差別を赤裸々に話されました。

文喬師の講演は、先に書いた先代小文枝師の思い出と、認知症にならないために。

 

休憩後、落語二席。

喬美さんの演目は、先代春蝶師でおなじみの「昭和任侠伝」。

マイクをお使いになったが、要らなかったのでは。

大きな声の上に、マイク。音が大きすぎて、聞きづらかったですね。

でも、ネタが今では新古典かな。懐かしい一席を聞かせていた。

 

文喬師は流石なもんで、三枝作の創作落語を、より素晴らしいものに仕上げてましたね。

さんくす寄席では、古典を聞きましたが、また聞きたくなりました。

都合をつけていきたいものです。

 

今日の会場、大阪府立大学I-siteなんば。

どうして行くか迷いました。

JR大阪まで行って、地下鉄乗り換えが普通ですね。

交通費を安くするためなら、JRのみで行く。

JR難波が、今宮、新今宮さてどれにするか。

JR吹田駅に行ってみると、踏切トラブルで15分ほど遅れてる。

この時点では、今宮から歩くつもりでした。

ようやく来た電車で大阪駅につくと、①関空快速、②大和路快速、③環状線。

①と③の差が、10分もあります。

①関空快速に飛び乗りました。

新今宮駅と会場の地図を見ると、駅の北側からの道を行くと今宮戎、その向こう。

駅の北側は、星野グループのホテル建築中。

交番があったので、今宮戎を聞くと、道沿いに真っ直ぐ。

大きな交差点を渡って、左。この交差点まで行くとスーパー玉出の看板。

今宮戎です。初めて来ました。

少し行くと廣田神社。

左に、南海電車が見えました。地図アプリで会場を探し、無事に到着。

帰りは、玉出で缶チューハイを買い、久宝寺経由で帰りました。

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