【過去の方達で、障害を持ちながらも偉業を成遂げられた方の物語です】
塙保己一(はなわほきいち)
■生年 延享3年(1746年)
■没年 文政4年(1821年)
■ゆかりの市町村 児玉町
児玉郡保木野村(児玉町)生まれ。
7歳の時病のため失明、12歳の時に母を亡くします。宝暦10年(1760)15歳で江戸に出て、雨富検校のもとで、音曲やあんま等の修行に入りました。その後、保己一の学問に対する情熱とその才能を見抜いた雨富検校は、保己一を学問の道に進ませ、国学・和歌を萩原宗固に、儒学・漢学を川島貴林、律令を山岡浚明に学ばせました。保己一の学問は、人に読んでもらうのを聞いて覚えるというもので、優れた記憶力の持ち主であった保己一は、一度聞くとすぐに覚えてしまったといわれています。
保己一は、学者としての名声も上がり、天明3年(1783)38歳で検校(旗本と同格)に進みました。寛政5年(1793)、48歳の時に、国学研究の場として和学講談所を創設を幕府に願い出て許され、ここで多くの門弟を育てました。また、水戸藩からの「大日本史」の校正依頼をはじめ数々の資料等の編集事業を行いました。
文政2年(1819)には着手以来41年をかけた「群書類従」正編670巻の刊行を完了し、同4年(1821)2月総検校となりました。
「群書類従」の刊行は、保己一がその生涯をかけて取り組んだ一大事業でした。保己一は、貴重な記録・文学作品等の古典籍が広く活用されることなく各所に放置され散逸していく実態を嘆き、数多くの文献を集めて分類・整理し、670冊の版木本として41年間にわたり刊行し続けました。
「群書類従」をはじめ、保己一が残した数千冊にのぼる書物は、日本文学や日本史等を研究する上で、今なお欠かすことの出来ない貴重な資料となっています。
塙記念館(はなわきねんかん)
http://www.town.kodama.saitama.jp/shoukai/hanawakinenkan.html
塙保己一(はなわほきいち)
■生年 延享3年(1746年)
■没年 文政4年(1821年)
■ゆかりの市町村 児玉町
児玉郡保木野村(児玉町)生まれ。
7歳の時病のため失明、12歳の時に母を亡くします。宝暦10年(1760)15歳で江戸に出て、雨富検校のもとで、音曲やあんま等の修行に入りました。その後、保己一の学問に対する情熱とその才能を見抜いた雨富検校は、保己一を学問の道に進ませ、国学・和歌を萩原宗固に、儒学・漢学を川島貴林、律令を山岡浚明に学ばせました。保己一の学問は、人に読んでもらうのを聞いて覚えるというもので、優れた記憶力の持ち主であった保己一は、一度聞くとすぐに覚えてしまったといわれています。
保己一は、学者としての名声も上がり、天明3年(1783)38歳で検校(旗本と同格)に進みました。寛政5年(1793)、48歳の時に、国学研究の場として和学講談所を創設を幕府に願い出て許され、ここで多くの門弟を育てました。また、水戸藩からの「大日本史」の校正依頼をはじめ数々の資料等の編集事業を行いました。
文政2年(1819)には着手以来41年をかけた「群書類従」正編670巻の刊行を完了し、同4年(1821)2月総検校となりました。
「群書類従」の刊行は、保己一がその生涯をかけて取り組んだ一大事業でした。保己一は、貴重な記録・文学作品等の古典籍が広く活用されることなく各所に放置され散逸していく実態を嘆き、数多くの文献を集めて分類・整理し、670冊の版木本として41年間にわたり刊行し続けました。
「群書類従」をはじめ、保己一が残した数千冊にのぼる書物は、日本文学や日本史等を研究する上で、今なお欠かすことの出来ない貴重な資料となっています。
塙記念館(はなわきねんかん)
http://www.town.kodama.saitama.jp/shoukai/hanawakinenkan.html