いろいろ書きたいネタがありますが、どんより重たいものばかりで、書く意欲が沸きません。意欲っていうか、手に余るというか。
んで、前回のエントリーの続きでお茶をにごすことにします。
劇場が好きだと書きました。博物館や美術館よりも劇場。
劇場といえば連想される「小泉劇場」のせいで、「バカな大衆でございます」と開き直って公言してるようだと、後から少し思ったのですが、時すでに遅し。
...っていうか、そういったことを危惧しながらも楽しんでしまう性癖が自身にあるのは認めなきゃ。
つまり、劇場において、「おもしろおかしく、分かりやすく」が、博物館や美術館よりも顕著に感じられるというのは、観客として考えるに、疑いなき感覚です。
理由は、何といっても動画(音声含む)であるということに尽きるでしょう。
視点を移して、作る側としても考えてみます。
劇場で行われるものとして、芝居を例にすると、役者が重要ではありますが、演出家や舞台監督も相応の働きをします。むしろ役者を生かすも殺すも、芝居を成功させるも失敗させるも、演出家や舞台監督の手腕にかかっていると言えなくもない。
一方、博物館や美術館において対応する人材はというと、演出家・舞台監督に対してキュレーター(学芸員)だと思いますが、展覧会における彼らの影響力というのはどの程度あるのでしょうか。
作家の名前はとても重要だと思います。フェルメール、レンブラントなど有名人だと人が集まるし、そうでなければ集まらない。
日本の文化レベルの低さを嘆くのは簡単ですが、キュレーターとしては、いかに有名で人気のある作家の作品を呼んでくるかというところに手腕の大部分は発揮されているという気がします。
しかし、誰をどう呼び寄せるかというところに、キュレーターの意思がどれほど関わっているのかは不透明です。
芸術家やアーチィストとしては、外目からは、孤高としている姿を思い描きがちですが、現実暮らしていくためには、ある程度有名な方でも日々自らのプレゼンテーションを行う必要があると思います。
あるいは、そういうの(日々プレゼンテーション)が苦手なヒトは、パトロンなり、パトロン的キュレーターを見つけようとする必要があると思います。
一方、小劇場でギグするような劇団やミュージシャンらは、自分たちで勝手に活動の場を広げていく「野生児」のイメージがあります。その深層には、街角で見出されて、一気にメジャーへ駆け上がりたいという即物的&人間的欲求も見え隠れします。
迷惑防止条例で活動が規制されてしまったので、コブクロ的サクセス・ストーリーは今後ありえないかもしれませんが。
あー筆が進まない。最近いつものようにツルツルと書けません。すんごい無理して書いてます。
無理な論の進め方と自認しつつ、次回はこれを「サイエンスコミュニケーション」にガバガバッと当てはめてみます。