本日,表記タイトルの公開講演会が当学部でありました.講師は菊池誠さん(大阪大学サイバーメディアセンター 教授)です.ネット界隈では以前から超有名人らしく,昨年末にはNHKの「視点・論点」に出演されて話題になりました.
午後4時から6時までという中途半端な時間設定だったので前半を聞き逃しました.残念. で,感想ですが,テレビの印象とずいぶん違いましたね.お若かったです...と,こんな感想で申し訳ない.前半を聞いていないので...
いや,ですので,このエントリーは講演の内容をきちんと受けてのものではないとご了承いただければと思います!と重荷を下ろしつつ... 爆弾発言...
会場の,あの「えもいわれぬ」空気感に辟易しました.ワタシだけ?(byだいだひかる)
...これは,おそらくワタシがサイエンスカフェというスタイルに慣れきってしまったからかもしれませんね.まっこれは置いておいて...
「ニセ科学」について考えたいと思います.いや,ワタシはその内容を熟知していないので(前半も聞き逃したし...),科学者として,何故ここまでの対処をしたいのかということについて考えましょう.なぜなら,それは一般市民のほとんどにとっては関心領域外だろうと思うからです.
たとえば気軽な雑談をしているときに血液型性格診断に興じたからって,目くじらを立てるほうがフツーは変なのです.しかし,心理学系のK先生は,学生が少しでもそういった話をすると(普段は優しいのに)めちゃくちゃ怒るそうです...と学生に聞きました.ワタシは「えーっそこまで?」と思ってしまいました.「何故信じてしまうのか」とすごく心配されるそうなんですが,信じていないですよねぇ.朝の情報番組の星占い「今日のランキング」程度ですよねぇ...まぁつまり「イワシのあたま」ですよねぇ.(違うのかしら) (ちなみに余談ですが,ワタシはこの「フツーは」という言い方をして,指導教員によく怒られました...)
...と,ここでハタと気づいて爆弾発言・第二弾.
心理学が「イワシのあたま」程度に考えられがちなことに対する怒り?...まぁ,これならば分かります.
次に,「捏造あるある」事件についても,「だって,あるあるだし」ぐらいに思っていましたが,「見過ごせない人」が多くてびっくりしました.ここでの見えやすい問題点はニセ科学というよりも杜撰な番組作りにあります(これは相対的に杜撰すぎたという話に過ぎませんが).
しかし,そこに含まれる意味は―テレビの影響力が云々という論調も(マスコミの存在意義をかけた方面から)ありますが―科学者による「科学的発言」の影響力や責任を真摯に考える時期に来たということだろうと思います.これはTVでの科学情報番組に限らず,政策会議や審議会において,一科学者の意見が科学界全体の意見として闊歩する状況に対する警鐘だとワタシは認識しています.だからこそ,次のようなパブリックコメントも出たと「期待権的に」考えています.
テレビ番組等における「科学的実験」についての会長談話-「科学者の行動規範について」(声明)付き 2007年1月26日 (PDFファイル)
「期待権的に」とヘンな日本語を使ったのは,折りしものNHK訴訟判決に影響されたからですが,期待権と編集権のせめぎ合いは,別の観点から見どころです.
表現の自由への危うさ含む「期待権」 NHK訴訟判決(2007年01月29日22時58分)
最後に「水からの伝言」に関しては,やはり「これを信奉する人は善意の人だ」という話が(経験知としてですが)出ました.この状況について数年前の「つくる会」成立過程を個人的には想起しますので,これは科学をめぐるというよりも「教育」にシフトせざるを得ない問題だろうと思います.
まとめると(菊池さんも示唆しておられましたが),ニセ科学,擬似科学も深刻度や問題の所在はさまざまで,それにより対応策は個別に求められるということです.まぁわかりきったことですが...
で,最後に爆弾発言・第三弾ですが...「ニセ科学の文章をどのように見分けるか」というスライドに関する菊池さんの説明には若干,失望しました.例えると「福袋医療を信じろ」という,これまでの熱弁をまるっきり覆すような,まったく論理的じゃない答えのように思いました.国家の無謬性を信じられない<のと同様に,科学の無謬性を信じられない⇒きくちさんの指摘により削除予定>人間(ワタシ)には,何の説得力もありませんでした.
これが唯一,当日の質問の中で,本質的であるとワタシが感じた質問を向けた質問者(法学研究科から参加された方で,「遺伝子組み換え食品に関するリスク評価」の話を質問されました)に対する答えでしたから,本音をぶっちゃけるとホトホト疲れました.
しかしまぁ,菊池さんも「ニセ科学バスター」はボランティアでされているとのことですし,時間も大幅にオーバーして切羽詰っておられたのだろうから...と思います...おつかれさまでございました
「あるある」捏造にしたって,「どーせ関テレの商業番組やろ」くらいにしか思ってませんでしたので,かるーくスルーしていました.まして納豆の場合は,「ホンマかウソかわからんけど,毎日のおかずを選ぶのも大変やし,テレビでやせる言うてるし,ふだん1個しか買わんとこ2個買うたろ」と思ったのではないでしょうかね.
むしろ,テレビ見て,平日にスーパーで納豆買える人たちは生活時間に余裕がある人たちという目で見ますが...
そんないい加減なこと書かれて,研究者が今までは黙っとったいうのがもっと信じられんと思いますが,そこはみなさん触れないんですよね.
まぁ菊池さんは,最後の質問の遺伝子組み換えについて「だからこれも非科学的だ」とまでは言わなかったし,むしろ「リスク評価は確立されていない」と言明されたんですが,それもまた専門外ゆえの(←おそらくですが)無責任だと思うわけで.
で「(ニセ科学に騙される不安のある人は)専門家の言うこと聞いといたらよろしい」みたいな,大雑把なまとめ方をされるのは,もう納得いかんかったですね.
↓
最後の質問の遺伝子組み換えについて「だから,遺伝子組み換えを怖がるのは非科学的だ」とまでは言わなかったし
「研究者はゴミをゴミだとわざわざ指摘しない」と仰った方がおられました。でも,そうすると
「研究者が今までは黙っとったいうのがもっと信じられんと思いますが・・・」
専門的に隙がないように論破すれば,
「どーせ関テレの商業番組やろ,専門家がなにむきになってんの」
と言われたりもするでしょう。
二人のお言葉をお借りしてしまいましたが,実際にダブル・バインドが存在しませんか。多分その狭間で迷いますよ。研究者も人間ですから。で,多分コストや本業に手を抜く暇がない状況を考えて,何もしないという結論に至ります。ついでに申し上げるとこういうのは,武術界,音楽界,どのような専門分野にもあると思いますが,いかがでしょうか?
確かにどの世界にも贋作がありますよね.問題は研究界もそう見られていいのかということだと思います.
また別の視点から言うと,挙げられた中で武術界には勝敗が付き物だろうし(八百長疑惑はありますが),音楽界でも(「のだめ」を信じれば)才能の有無は明らかのようですが,研究界は相対的に言うと,市民にとって,より不透明なんだろうと思います.
序列をはっきりさせるのが良いのかどうかというのは置いておいても,研究界に足りないものは,第三者的な批評家だとワタシは思っています.「サイエンスライター」が少ないと嘆かれる方は多いわけですが,第三者的な批評機関がないものかと思う今日この頃です.
文芸批評,美術批評,音楽批評,映画批評などと一緒にしちゃだめかもしれませんが,そういった批評への信頼度は,かなりの程度,高くなると思います.なぜなら八百長的な批評家は読者から支持されませんから.立花隆とかもうダメダメでしょ.
私の師が,中国の老師に,日本の「あれ」は,名前も実態も歴史もでたらめです。目障りなのでつぶせませんか? と言われて,師が「いやあれは世界に1000万人以上の競技人口を持つ組織なので,無理です」と説明したら,びっくりされていたという話があります。日本は,コピーと母屋乗っ取りでアニメまで苦しめられておりますが,逆もやっているのです。だからといって,真贋は簡単ではありませんし,証明するため殺し合いをしたりしません。
第三者機関は,私もあっても良いと思いますが,どのような方がやるのでしょうか。美術批評,音楽批評の場合,金銭的価値という,市場による外的基準があるので,なんとか落ち着きさきがあると思います。また,絵画でも表現という部分があるので,真贋だけの世界ではありません。科学の場合,表現の自由というのとちょっと違いますね。
応用科学・工学の特許的価値は別にして,自然科学的真理は直接一般市民の損得には直接的には結びつかないので,真贋を見抜くために正当な知識を得て眼を磨くということを多くの方はされないでしょう。骨董品だって半端な知識で騙される方はおられます。でも自分の価値判断で専門家の評価をひっくり返したり無視したりしません。偽物だと鑑定されたら,された方が相当なことをやらないと本物と証明できませんが,科学では,偽物だという方がエネルギーをかけなければなりません。もちろん,市場が求めたことからレンブラント工房みたいなタブーもあります。偽物でもTVソースや水ビジネスのように金を生み出すなら,本物じゃなくても困らないと考える人たちがたくさんいるからです。
科学者にとってわかりきった結論になるのは当然です。わかりきったことを言わなくてはならない現状が問題であるという認識であり、問題提起であるわけです。
「ニセ科学の文章と普通の科学の文章を見分けられるか」という例題についての質問に対しては、「一見したところでは専門家でなければ見分けられないかもしれないが、実は全体の外枠に着目すれば、怪しいことくらいはわかる」と答えたと思います。この部分は特に遺伝子組み換えとは関係ない話ではなかったでしょうか。
ここでは「科学側の文章は正しい」という話はしていないわけです。こちらについては、きちんと科学的に検証されればよし、検証で否定されれば正しくなかったことになりますが、それは別に「ニセ科学」ではなくて単なる間違いです。「福袋医療」という言葉は寡聞にして知りませんでした(今も理解していませんが)。
遺伝子組み換えについて「十把一絡げ」に言えることはあまりないです。「十把一絡げ」には言えない、という趣旨の答をしたと思います。「遺伝子組み換え」は安全だから信じろとも危険だからやめろとも言っていないと思いますが、それではだめでしたか。詳しくご批判いただければ、今後の参考にします。もっとも、普段は「遺伝子組み換え」の話をしないのですけどね。
僕の話の主眼はむしろ、血液型だとか「あるある」だとかの問題を「軽視するな」ということですので、立場はかなり違うかもしれません。「そんなことはくだらない」と考えるかたがおられることは理解していますし、それもまた当然ですから。単に僕はそれをくだらないこととは考えていないということです。その問題提起が伝わらなかったということでしたら、僕のしゃべりかたが悪かったのでしょう
僕は一般向けの科学講演もときどきします(たぶん、サイエンスカフェというものと内容的には近いのではないかと思います)。「科学を語る」ことと「ニセ科学を語る」ことは現時点でどちらも必要であろうと僕個人は考えています。しかし、最後に話したように、どちらが楽しいかといえば、もちろん「科学を語る」ほうが楽しいわけです
次の機会があれば、ぜひ最初から聞いてください。「遺伝子組み換え」が当日の最も本質的な問題であったと思われては困りますので。
「科学の無謬性」などと僕はひとことも言っていませんし、実際それは僕の主張とはまったく逆です。
もちろん、科学は無謬でも万能でもありません。まともな科学者なら、当然そう考えているはずです。
当日も「科学に間違いはつきものであり、むしろ科学は間違いによって進歩するものだ」という趣旨のスライドを見せました。これは講演の後半ですので、見ておられるのではないですか?
そろそろ寝ようと思っていたので,少なめに.必要ならまた改めて追加をしますが.
「科学の無謬性」について.たしかに「科学に間違いはつきもの」という話はされていましたね.言いたかったのは「権威主義批判」ですので,その文脈で捉えていただければと思います.科学というより学術全般なのかも...訂正しなければいけませんね.
「ニセ科学の文章と普通の科学の文章を見分けられるか」という例題のまとめを聞いて,このエントリーを書くべし!とワタシは思ったのですが,あれの真贋を判断するのが,一方が某機内で読んだ広報誌の文章で,一方が学術論文(?)といった結論になるぐらいなら,特に出す必要があったのかと思います.むしろ非常に興味があるのですが,何であれをほぼ最後の方で出したのでしょうか.「見分けられませんけど教えてください」という人が出てくることは予想されましたか.
もちろん、もしそれがうまく伝わっていないのだとすれば、話し方が悪かったのでしょう。
さて、あの文章は「我々はこのような社会に生きているのだ」という例として見せています。
一見科学的な言葉を並べていて、おそらく「科学的に意味のある文章と区別がつかないもの」が氾濫しているわけです。
あのふたつの違いを文章だけから「見分けろ」という意味ではないんですよ。文章だけで「おかしい」と思うためには、それなりの物理学の基礎知識が必要です。だから、どこがおかしいかわからなくてもしかたがないし、実際、わざわざそういう文例を探してきたわけです。「一方はでたらめで一方は科学的に意味のある記述だと言われるが、読んでも区別がつかない」と思っていただくための文例です
だから、「違いがわからないのだが」という質問に対する答は、まず「文章を読んだだけで区別はつかないと思う」なわけです。そう答えたと思います。そこが最も重要なのです。
その上で、手っ取り早く判断するひとつの見かたとしては、文章そのものではなく、その外枠に注目するという手があるという話をしたわけです。先日の文章はその手法が使えて、「なんの宣伝か」とか「言っている人は誰か」とかでおおよその判断がつくものです(あれはアメリカのなんとか博士の言葉ですが、調べてみれば彼の専門は宗教学であることがわかります)。少なくとも「疑う」ための材料にはなるでしょう。
もちろん、それでは済まないやっかいな例もいくらでも見つけられます。
ちなみに、一般の人に対してはそういう趣旨なのですが、科学コミュニケーションを専門にしようとしているかたがたを相手にするとき(CoStepでも話しました)は、「これらの違いを一般の人に説明できなくてはならないが、それって大変だよね」という問題提起として見せています。
「科学」のほうの文章も論文ではなくてウェブ上の解説記事です。実はこれも一般向けの解説としては、「魔法っぽい記述」という意味でいささか問題があります。科学コミュニケーションの問題としては、「科学側の記述」も含めていろいろ考えて欲しいという問題提起です
いずれにしても、僕が解決策を持ち合わせているわけではありません。あれが最後に出てくるのは、繰り返しになりますが、問題提起であるということです。
なんとなくわかった。「(ニセ科学に騙される不安のある人は)専門家の言うこと聞いといたらよろしい」というまとめはしていないわけですが、そう聞こえたということですね
まず、重要なこととして、「科学は、あらゆるものに白黒はっきりつけてくれる・・・ようなものではない」というのが一点、だからこそ「科学の結果に飛びつくだけではだめで、そこにいたる思考のプロセスを大切にしなければならない」というのが一点、それから(これは田崎晴明氏の受け売りですが)「科学は独立したトリビアの集合体ではない」というのがもう一点。
そういう話をしたわけだから、どうしてそこから「専門家の話を聞いといたらよろしい」という結論になるのか、ちょっと理解に苦しみます。「専門家が言ってるのだから、間違いない」なんていう話にはならないはずなんですが。
ただし、意志決定や判断のための材料を提供できるのは専門家であるわけ。だから、問題があるときに、それにふさわしい専門家を探してきて意見を聞くのは重要。問題はバランス感覚。
神戸のサイエンス・カフェがどのように行われているか知らないのですが、僕は「科学を伝える」という場面で「結果だけを"わかりやすく"伝えてしまうことの危険性」を繰り返し指摘しています。
たしか、当日、別のかたの質問に対しても「詳しい原理を話すのは無理であるとしても、現象の裏にはきちんとした原理や論理が"ある"ということだけでも伝えるべき」という答をした記憶があります。
「専門家の言うこと聞いといたらよろしい」なら、結果だけ伝えれば充分なわけです。
理解していただきたいのですが,あの例題のまとめが「これまでの熱弁をまるっきり覆すような,まったく論理的じゃない答え」だと感じられた=「専門家の言うことを聞いといたらよろしい」と言っているように感じられた=権威主義に感じられた,ということです.
しかし,あの例題を提示されたことにそういった意図はなく,問題提起だったとのこと.
残念ながら,それは成功していなかったように思います.当日は「こちらは広報誌の文章,こちらは専門家が書いた文章,というわけです」ぐらいの,大雑把なまとめ方だったと記憶します.時間がなかったのだろうと思いますが,問題提起だったのであれば,もう少し熱を込めてもいいと思いました.少なくとも私には伝わりませんでした.
むろん最初から参加しておらず,あの「空気感」に馴染めなかったことも影響しているでしょう.ともかく丁寧にご説明いただいたこと,感謝します.
また,それまでのお話の内容は非常に常識的であり,参考になるお話だったと思います.私の悪いところですが,習うことに慣れてしまい,魔法のような解決策を示してくれるかもと期待をしたのがいけなかったのでしょう.
ただ,科学者でも科学コミュニケーターでもなく,一般人として聞く場合(研究者でも分野外ならば),かなりストレスフルな講演と感じるのではないのかということを一方で思います.
それは解決策の提示がないということだけでなく,「ニセ科学」という事例の,「薄暗さ」がもたらすものです.誰もが「騙されているバカなやつ」とは決して思われたくないのですから.
僕がいろいろなところで話しているのは、結局のところ、問題提起です。
ニセ科学があることはわかっている。個々のものがどういう意味でニセなのか、説明しろと言われればできる。なぜ受け入れられるのかも、だいたい理解できそうである。重要な問題として、科学の本質が誤解されているということもたぶん言える。
それだけ言えて、なぜ解決策が言えないのか、ということになるわけですが、即座に解決できるくらいなら敢えて話す必要もないわけです。
これは科学者だけが考えるべき問題ではないし、科学者だけで解決できる問題でもない。どうしたらいいのかは、いろんな人に考えて貰いたいと思っています。そういう意味の問題提起です。
特に「科学コミュニケーション」に関わる人たちには、この問題を真剣に考えてほしいと考えています。実際、その問題意識を理解していただけているから、CoStepなどから声がかかったのだろうと思います。
「ニセ科学」は本質的に「騙される」こととつながっています。それを「薄暗い」と表現されることは、おそらく的を射ているのでしょう。しかし、「だから話題にしない」というわけにはいかないのですね。さりとて、あまり深刻に話してもしょうがない部分は多い。ケーススタディをしないとなにがなんだかわからない。難しいところです。
ケーススタディについては極力、「信じている人」に対して揶揄的にならないようには気をつけています。「個人的体験」や「善意の動機」まで否定してはならないのだと明言してもいます。むしろ、そのあたりが「魔法の解決」を妨げる一因でもあるのですが、しかし、それは僕が譲れない部分なのでしかたがないわけです。
一方、提唱者やニセ科学の片棒をかついでいる科学者については、かなり強く批判することが多いです。
もし、そのあたりでストレスを感じられるとすれば、そもそもこの題材自体が誰にとってもストレスフルなものなのだ、とご理解ください。僕自身にとっても、極めてストレスフルな題材であるわけです。
最後に身もふたもないですが...ニセ科学について「これは科学者だけが考えるべき問題ではない」という点にツッコませていただきます.「べき論」だとそうなるかもしれませんが,現実は残念ながら「科学者だけが気にする問題」だと思います.もうひとつの「科学者だけで解決できる問題でもない」のはその通りだと思います.だからこそ(一般の人が乗ってこないからこそ),厄介な問題であると認識しています.
一方,遺伝子組み換えや温暖化などの例は,真贋の境目のゆらぎにおいてセンシティブに立ち上がってくる問題群であるでしょう.無謬性という言葉を都合良く使いすぎだと思われるかもしれませんが,科学の,どんなに間違っても信頼を得られ続けてきたことの脅威と責務を,思わずにはおれません.
また機会がありましたら,コメントなりツッコミなりをいただければ幸いです
もちろん、何を優先問題と考えるかは人それぞれですから、ニセ科学を最優先にしろとは言いません。
ただ、何度か強調したように、僕はニセ科学問題の本質を単に「ニセ科学」だけのものとは捉えていません。答だけを求めて思考プロセスを軽視する風潮や二分法指向は、社会のさまざまな問題に影を落としていると考えているからです。
温暖化も遺伝子組み換えも、科学として言うべき(あるいは言える)ことと「意志決定」とが絡み合った問題です。「真偽が完全にわかったこと」だけを基に議論するわけにはいかない。確実なことだけ言っていればいいのであれば、科学者にとっても気が楽ですが、そうもいかない。「不確実なデータや理論」を集めてきて、それを基にどこかで線を引くことになります。その線を引くのは科学者だけの仕事ではありません。「科学は不確実であるが、他に拠り所とすべきものはない」という事実にみんなが耐えて、考えていかなくてはならないわけです。その際に必要となるのは、合理的な思考のプロセスである、というのが僕の意見です。
「その線を引くのは科学者だけの仕事ではありません」と言うのは容易いですが,実際にかなりの困難を要します.ただ,これらの考えの延長に「ニセ科学バスター」があるのならば,ワタシも「ニセ科学バスター」応援団になれると思います.今後ともよろしくお願いします.
でも、困難だからといって科学者だけの手に委ねてしまうなら、まさに「専門家の意見を聞いとれ」になっちゃうわけです。もちろん、逆に、科学者の意見を聞かずに感情的な議論に終始してもだめなのですけどね。
僕は「バスター」ではなくて、単にみんなにもっといろいろ考えてほしいだけなんです。
僕もいろいろ勉強になりました。ありがとうございました
医療の世界に比べて、科学はまだ一般の人にとっては権威ですし、企業も科学を売りにして商売を行うことも多いと思います。消費者は、特定健康保険食品だとか、プロバイオティクスとか、そういうラベル(レッテル)によって品定めをするわけです。
科学の世界でも、ある程度、どのメーカーの測定装置だから、まあ、信頼できるだろうと言う感じで、必ずしも、信頼につながる権威主義は悪い事ではないと思います。
ただ、吉岡英介氏やゲーム脳の森昭雄氏など、科学を権威主義として利用することで、逆に、科学全体の信頼を裏切る行為は断じて許されざるべきではないと思います。
信頼を裏切る捏造行為や疑似科学は、科学の現場でも、入り込む余地はたぶんにあります。とくに、最近では、予算を取るために、少し大風呂敷を広げたようなことをいう機会も増えているのではないかと思います。
企業との共同研究も、背に腹は変えられないという感じで、なあなあでやっているようなところもあるかと思います。最終的には、日本学術会議の声明にあるように科学者一人一人に高い倫理観が求められると言う時代になってきていると強く感じています。
例えば、具体的には
オノ・ヨーコからのクリスマス・メッセージ
http://www.dreampower-jp.com/peace/xmas_messege.html
については「科学にはなりようもないものを科学として紹介している」という点では明らかに批判されて然るべきでしょう。
しかし、必ずしも『考えることを放棄するように勧めている』と読める文章でなく、そのような批判は当たらないと私は強く思います。ですから、そこまで踏み込んで批判しているかのような印象を与える書き方は避けた方がいい、という主旨です。
つまり、『水伝について肯定的に書いていれば(…略…)である』と断定的に主張したり、考えたりすべきではないのではなかろうか、と私は思う訳です。豊富なご経験に基づいて「水伝について肯定的に書いていれば、(…略…)である場合が多い」という確率的な推察を否定するのものではありませんが…。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1171275645#CID1172140829
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>「ニセ科学」と呼ぶのは、文脈によっては「疑似科学」という言葉が褒め言葉になるからである。
>具体的にはSF小説やファンタジー小説の批評などで”よくできた疑似科学的説明”などという
>表現が使われる。「疑似」という言葉には価値判断が含まれないということであろう。「ニセ」と
>いう言葉は否定的な意味合いを強く含む
同じ非科学の中で、ニセ科学(真っ黒)と疑似科学(真っ白)の間には、
『グレーゾーン』が広がっている、ということも、もっと強調されていい
ように思っています
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1137495527#CID1172144165