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人生の迷子。

書くことの悩みと向かい合っている今

2020-10-29 05:20:25 | 日記_2020
書くことを迷ったり書くことがしんどかったりするようになったのはいつのころからか。
たぶん日本に帰って来てからだ。
10年ぐらい前になるか。
そのぐらいからなんとなく、言葉の暴力が目に付くようになってかつて居心地のよかった場所が苦痛に変わるようになった。
書くことがつらくて言葉が出なくなることもある。
今も書いた言葉が暴力性を呼ぶのではないかと背筋がぞっとすることがある。
そうなると自分の腹のうちにある言葉の多くを飲み込み、消化不良を起こすことになる。

たぶん、ずっと、10年近く、消化不良だ。
のどの奥から出てこない言葉が腹の奥底にたまり続ける。
外に吐き出すことに恐れを感じてからずっとそうだ。
今もなお、恐怖とともに言葉を飲み込む。
その恐れを背負いながらもそれ以上の好奇心と言葉を外に送り出したい情熱を見てから、ますます悩んでいる。
どこにも、かつての情熱が見えない。
かつて、私も20代だった。
そのころの言葉を発することへの情熱はどこへ行ってしまったのか。
自分がどんどん干からびていくのを感じつつも自分の心の受け皿にたまっていた言葉が古い記憶から徐々に昇華されているのを感じた。
若い言葉を見るにつけ、その感情は時間が必ず消化するものだと、肌で覚えてしまった。
自分の言葉の一つ一つも、若かりし自分が抱えた苦悩も、すべて時間が解決する。
時間を経て見る景色が、経験とともに変わりゆくことを受け入れる。
同じものを見ているのに、すべてが違う色に見えるようになる。
「経験」というフィルターは景色を色あせて見せるのではなく、コントラストを強く、輪郭をシャープにする。
より正確に、解像度は高く、表現される色の数も若い時よりもはるかに多くなる。
正確に細かく、よりはっきりと見えることで言葉や感覚はより鋭利になり、鋭くしなやかになる。
鋭利な感覚をそのまま外に発すると鋭さゆえの攻撃力で不必要ないさかいが起きることになる。
それを避けるために人はブラー効果(ぼかし)をかけ、柔らかに見えるよう言葉を選ぶ。
鋭利な言葉をぼかし、表現を和らげることで真意は見えにくくなり正確な表現が薄れ、言葉の真意に含まれたエネルギーは霧散する。
霧散したエネルギーを回収するほど、若くはない。
散り散りになった感情も言葉も情熱も、もう必要がないから消えていくのだ。

興味を失ったわけではないけれど、書くことへの情熱は昔ほどない。
昔ほどない情熱を、どうやって言葉にしていくのかに苦悩する。
言葉にする必要などないのか。
そういうことなのだろうか。

朝から何言ってるんだ、と思うでしょう。(更新時間は5:20)
書いたのは夜中です。
満月前の揺らぎが原因だと思います。

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