よんたまな日々

サッカーとゲームと本とおいしい食べ物

僕僕先生

2007年02月04日 | 読書
「もし古代中国にニートの青年がいたら...」
こういう設定で始まる小説です。
著者:仁木英之、扶桑社刊の単行本です。日本ファンタジーノベル大賞受賞作品です。

ニートと老荘思想というのは、実は同じ根ではないかという提起、非常に面白いです。つーか、学生時代、老子や荘子をそれなりに熱心に読んでいたのに、どうしてそこに気がつかなかったんだろうという自分の迂闊さに驚きました。

老荘思想は縮み志向なので、だんだん成長できなくなってくる現在日本にぴったりじゃないかというのは以前から思っていたのですが、実際に成長しない社会にいると、まあ息苦しいこと、結局、僕らから上の年代の老荘好きな人達ってのは、成長の時代における単なるアンチテーゼとして、そういのが好きなのじゃないかと勘繰りたくなりますね。って、話が大きく横道にそれたので、元に戻します。

で、ニートで物語を作ろうとする場合に、主人公が動きませんから、どうするのかっていうところに非常に興味があって、読み始めました。この手のやつで一番簡単なやり方は、結局ニートからの成長物語にしてしまうこと。脱ニートして万歳みたいな。

しかし、よく考えると、老荘思想の中には修行って話があまりないと記憶しているのですが、これが道教になってしまうと、不老長寿を求めて、思い切り努力(つーか修行)するんですよね。これって、結局、成長を目指しとるやんみたいな。
んで、やはり、そっちに行ってしまいました。
主人公がニートであるのは、結局、本物の仙人(それが僕僕先生)に会うところまで。そこから先は、多少従来の主人公よりやる気と戦略と能力に欠けるところがありますが、まー、普通に努力してしまいます。

ということで、途中から、ちょっと投げやりな感じで、でも最後まで読みました。
あまり苦痛でなく、最後まで読めたので、僕みたいに過剰な期待を込めずに読めば、きっと面白い作品なのでしょう。
きちんとハッピーエンドになったし。

うーん。脱ニートに行くのは、しょうがないにしても、何かもうちょっと苦味があってもいいんじゃないの、せっかくニートに目をつけたのだからと残念に思います。
この本を読み終えて思い出したのが、「千と千尋」です。これもビルディングスロマンと読めなくもないのですが、何かの雑誌で監督(もしくは制作サイドの人)が、「この映画の最初と最後で千尋は成長していません。」と主張していて、それはもちろんそう読むのが正しいと僕も感じましたが、口で説明する必要があるところがもう一つだなぁとも思いました。

老子はともかく、荘子は成長とか進歩とかに相当批判的だったと記憶しております。老子は熱心に道批判をするあまり、逆に成長へのこだわりを感じましたが。
だから、いろいろと修行方法を確立した道教は、随分老荘思想とは異なる方向へ行っているのでしょう。まあ、それは仏教やキリスト教が、宗教面で、教祖の思想と異なる展開をするのと同じ現象なので、しょうがないですが。

で、こちらは、やはりビルディングスロマンです。主人公は、結局、父親への憎悪(もしくは軽蔑)と、努力して無為に過ごすことの二つを破棄してしまいます。
ニートの方、この作品を読んで、どう思いましたか?
僕は、これは、ニート小説でなく、アンチニート小説だと思います。
むしろ、「千と千尋」のほうが圧倒的にニートの心情に近いでしょう。

そういう変なこだわりを捨てて、ちょっと現代的なパラダイムを並べた、神仙系娯楽小説として楽しむ分には、結構面白いと思いますよん。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿