よんたまな日々

サッカーとゲームと本とおいしい食べ物

Y君の思い出

2005年02月01日 | 日々徒然
ブログに昔のことをいろいろと書いていて、ずっと気になっていたことがある。この記事のタイトルにもあるY君のことだ。

Y君は、私と同期で入社し、同じ分野での仕事を希望し、研修を一緒に受けた仲である。残念ながら、最初の配属で、僕は事業部配属になり、彼は研究部門の配属になった。研修中の雑談で、趣味も結構合うことがわかったので、職場は違っても親しく付き合っていた。
寮の彼の部屋に遊びに行って、よく二人で徹夜でゲームをした。寮は寮生以外入館不可であったが、社員である僕が堂々と入っていけば、ちっともばれなかった。
「パトレイバー」や「銀河英雄伝」などのアニメ映画を二人で見に行ったりもした。二人で映画館から出てくるところを会社の先輩に目撃され、あの二人はできているなどと噂されたこともあった。

入社4年目ともなると、そろそろ一つの開発プロジェクトを任されるようになってくる。僕が2回目だか3回目だかのプロジェクトリーダーをやっているチームに彼が加わったのは、94年の夏であった。
その頃、僕は、仕事が順調で忙殺されており、また、もう28になっていたので、そろそろ結婚をしたいと思い始めて、母が持ってきた見合い話に乗ったりしていた。彼との付き合いは微妙に距離をとっており、彼が「最近、冷たいぜ。」とか言ってきているのを、母には、「見合い相手には惚れられないが、Y君にはまるで惚れられているようだ。」と笑いながら話していた。
「最近、疲れがとれなくて。二人で指宿温泉に行こうよ。」と、彼は何度か誘ってくれていた。

同期という心安さもあり、ずっと遊びの話も仕事の話もしてきた仲なので、互いの実力は知り合っている。僕は、プロジェクトメンバーの一員として、彼に相当厳しく要求した。彼は、「きつい。」と言いながらも、なるべく僕の期待に応えようとしてくれた。
ただ、残業時間は僕のほうが圧倒的に長かった。「君の力なら、もう少し残業すれば、もっと結果が出せるのに。」と、はっきり要求した。

ある日、二人とも仕事で一山越えたので、普段よりは早い時間に二人で退社した(それでも、夜8時を過ぎていたと思う。)。「おい、たまには一緒に飯食いに行こうぜ。」と彼は言った。「おいおい、いくら一山越えたと言っても、明日からまだまだやることはあるんだぜ。酒、呑んでる余裕なんかないぞ。」「つまんない男やなぁ。」そう言って、彼は寮へ向かう駅のホームへ消えて行った。
まさか、それが、生きている彼を見る最後の機会になるとは思っていなかった。

翌日、課の朝礼で、彼の緊急入院の知らせがあり、その日の午後には、彼の訃報が届いた。僕は全く信じなかった。昨日の夜、笑いながら帰っていった彼の姿を僕は見ていたのだ。

数日後、彼の故郷で、葬儀が営まれた。先輩が車を出してくれた。まだ、半信半疑の僕が「僕も行くんですか?」と聞いたら、「最大の親友である君が行かんで、誰が行くんや。」と言われた。
初めて見る彼の実家で、葬儀は営まれていた。彼の肉親や親戚達が、家の奥で嘆いているのを眺めながら、僕達は入り口で焼香し、ごった返す屋内を避け、外で葬儀が終わり出棺するのを待っていた。
とても遠くに彼はいた。夏の終わりなのに、強烈な陽射しが全てを白く嘘っぽく見せかけていた。
葬式から帰ってきて、彼の死が紛れもない真実だと初めて身に染みた。

僕がきつく言わなければ、指宿に一緒に行っていれば、あの日の夜一緒に飲みに行っていれば。いくら悔いても取り返せない後悔が僕を襲った。朝起きて、会社に来て、資料を広げるが、ふと油断すると、彼のことを考えて、視線が宙を彷徨っていた。
昼休みに誰もいない踊り場に出て、ずっと外を眺めていた。昼休みが終わったことに気が付かず、夕方まで、ずっとそこに座って、ぼーっと外を見ていることもあった。

職場の人には、僕の気持ちをぶつけられなかった。彼との思い出を共有している人間に向かって、彼のことを話すと、自分の中から凶暴な衝動が溢れそうで怖かった。僕は、誰かに、彼の死の責任を全て押し付けたかった。
内田樹が「死と身体論」で自責と悪霊という節で語っていたのは、まさにこのことだと後で思った。

彼の死で、もう一つ変わったことがあった。僕は、それまで自分の人生はずっと続くと思って生きていた。仕事ができる間は、自分の楽しみ、本当にやりたいことは担保としてとっておいて、一人前になって成功して余裕ができたところでそういうことをしようと考えていた。
しかし、僕は自身も常に死にさらされていることに気付いた。いや、知っていて目をそらしてきたものが、眼前に突きつけられた。

以前から興味を持っていたNifty に加入し、自分の趣味に合うフォーラムに参加した。最初は、趣味の話をしていたのだが、日々の雑談を話していて、そこで知り合った人達の優しさに慰められた。気が付くと、自分の心の傷について、長々と話していた。心から流れる血をそのまま書き込んだが、いつも真摯で温かい返答が待っていた。

『「電車男」...』で、ネットでのセラピーに対して批判的なことを書いたが、僕は当時のフォーラムの皆さんに救われたと思っている。そして、ネットだけでなく、実際にオフ会などで皆さんと会って、直接利害関係がない人との穏やかな付き合いというのがあることを知った。
そして、こちらの記事に書いた阪神大震災が起きる。

さらに、その後、結局この事件で、自分のプロジェクトを全部投げ出して、仕事から逃げていた僕に、東京異動の話があった。その当時の僕にとっては、まさに渡りに船であった。

そして、阪神大震災から10年目となるこの時期に、再び新潟で大きな震災があり、私は、職場の同僚を再度亡くした。彼が健康上の理由で長期休暇を取る前に、彼と飲む機会があった。ふと「死ぬなよ。」と言いたくなったが、僕はその不吉な言葉を彼の前に投げ出せなかった。
彼のことは大きな悲しみであるが、既に一度死と向かい合った僕にとっては、従容と受け取るしかないものであった。
いずれ、僕も死ぬ。人は全て死ぬものなのだ。だから、大切に生きねば。

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3 コメント

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TBありがとうございました (なべ)
2005-02-06 08:11:51
不治の病について友人と話しているときに

どうせ自分ら生まれた瞬間に余命100年未満って宣告されたようなもんなのだから病気も健康もないよねえ。と

現在進行形で病気や障害等に苦しんでいる方々には失礼な事で結論付けてしまってました。

でも早いか遅いか突然か覚悟の上かという違いはあっても死に向かって生きているっていうのはある意味事実だとも思ってます。

死んで土を育て草を育て動植物を育てぐるぐるぐるぐる回る命の輪っかを思うとものすごく不思議です。

平和で幸福でヒマしてる人間の妄想でありますが。
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いえいえ、こちらこそ (h_tutiya)
2005-02-08 19:18:56
何ともコメントが付けづらい記事に対してもコメントありがとうございます。

この記事の中でも触れていますが、内田樹の「死と身体」は面白いですよ。

自分の中のもやもやしたものが、これを読むとすっきりしたような気になります。
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人の死。 (まり姉)
2005-03-18 20:17:33
死ぬ時は死ぬし、死なない時は殺しても死なないものですよね、、。



そうわかってはいるんですが、、まだまだ私は弱いのでしょうか。



自分の「ウツの時期」に重い出来事が起こると本当に死にたくなる事がいまでもあります。



でも、、今はそれなりにもうひとりの自分が冷静にその状況を見ていて

「またまた、、落ち込んで、、いいかげんにしたら?」

そう言って気持ちを切り替えるキッカケをくれます。



内田樹の「死と身体」、探してみます。



活字中毒なもんで、、本は大好きです。
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