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グッピーのブックレポート

ネイリストグッピーの日記とブックレポート♪
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黄色いフライパン

2009年07月09日 | グッピーエッセイ
グッピーは昨日、黄色いフライパンを買いました。

理由はとってもお安かったので

でも本当の理由は、最近・・いや最近といってもここ1年くらい

フライパンが焦げつきやすくなっいて、

「いつか買い換えなきゃ。」

と、思っていました。その「いつか」が昨日だったわけです。


家に帰るとキッチンにはいつも使っている青いフライパンが見えます。

早速新品の黄色いフライパンを取り出して見比べてみました。

きれいに使っていたのでさほど変わらないだろうと思っていたら

びっくりするほど痛んでいました

青いフライパンも、初めは黄色いフライパンのように

ツルッツルのテフロン加工で覆われていたからです。

私より青いフライパンのほうが驚いたかもしれません。

突然新しいフライパンがやってきたので、少し寂しそうにも見えました。


一人暮らしをはじめてから2年と3ヶ月。ずっーと一緒だったフライパン。

フライパンの傷に刻み込まれた日々が今の自分を生んでいると思うと、胸がいっぱいになります。

ほぼ毎日青いフライパンでご飯を作って、辛い日も嬉しい日も、

このフライパンが私に元気の源を支えてくれました。

フライパンなのにまるで家族のようで、共に過ごした日々がなんだか懐かしいです。

フライパンに対してこんなに思い入れが深いなんて、今まで少しも気が付きませんでした。

手放すときに気が付くなんてせつないですね。


今は卵がこばりついてまともに焼けないですけれど

大好きなパスタの麺は湯がけるので、捨てずにもう少し使おうと思います。


ところで、さっき明日のお弁当に黄色いフライパンで卵焼きを焼いてみました。

とーーーーってもきれいに焼けてちょっと嬉しかったです

これからは黄色いフライパンも仲間入り。

2年後にも黄色いフライパンを使っていれるように大切に使おうと思います


コンサートと会場と建築

2009年06月19日 | グッピーエッセイ
東京交響楽団の定期演奏会に行ってきました。

友達のピアノのコンサートに行ったのをきっかけに

これからはもっと積極的にコンサートに行ってみようと思って

オークションでチケットを入手したのです

曲目は

ハイドン:交響曲第13番

モーツアルト:ピアノ協奏曲第20番

ハイドン:交響曲第103番「太鼓連打」

です。

ピアノ協奏曲は聴いたことある方も多いと思います。

旋律をとても美しく演奏していて

夢の世界に引き込まれそうでした

交響曲第103番も良かったです。

コンサートマスターがヴァイオリンの独奏する部分で

とてもとても上手な人がいました。

それは細くて細くてプツッと切れてしまいそうな

糸のような音が、切れずに続いて最後に消えて空気になるのです。

そしてその独奏していた方は、またオーケストラになって演奏を続けるのです。

一瞬、「演奏は生きている」と思いました。

今思えば、人間の演奏なのだから当たり前のことかも知れないですけど

今回一つだけ残念だったのは、4階席で天井に近かったために

音の響きが少なかったことです。

たまにしか行かないからこそ、

前もって良い席を(値が張っても)取るべきだなと思いました。



ところで、今回の会場はグッピーが大好きな建築の一つ

「東京都文化会館」でした。

ル・コルビジェの弟子、前川國男の作品です。

5階まで階段のみという点以外は

何回行っても新たな良さを発見できて、心がときめく場所です。

休憩中のホワイエをくるくる歩きながら

お客さんの様子と空間を見ていると、

開放的な広いホワイエの一部にいい空間を見つけました。

ホワイエの端でホールに入るすぐ手前に

ホワイエから数段下がったバーカウンターがあるところです。

視界の上のほうに入る位の高さの壁に

1m位の四角い穴が、3つ程開いています。

その穴の向こう側は上階のお客さんの通路になっているようで

休憩中の方々がホワイエを見下ろしていました。

穴から見ているお客さんとは位置としては遠いけれど

距離が近くて、行ってみたいと思わせる

ちょっと不思議な距離感です。

この近い距離感で壁の穴から人々が楽しそうにこちらを見下ろしているので

ワインやコーヒーを片手に話し込む人で混雑したホワイエが

より一層賑わっているように見えました。

きっとホール入り口前の階段が味噌なんだと思います。

ちゃんと目線や休憩の状況などヒューマンスケールを想像して

設計に活かしていらしたのだろうなぁと思います。

前川國男の巧みが伝わって来るような気がしました。


人が魅力的に見える壁の穴。



人が感銘を受けるということは、

音楽においても建築においても

人が魅力的に見えているということなんだ、と

強く感じ、肝に銘ぜられた、そんな気がしました。



期待する

2009年06月14日 | グッピーエッセイ
「人は、他人との関わりの中で自分を見出している」
と言うことをどこかで聞いたことがあります。

以前、このブログで「断ることと受け入れることの考察」をしました。
結果、断ることとも受け入れることも自己形成に関与していて
どちらも欠くことの出来ない価値観なのだろうと思います。
この考察は、
「他人とどう関わるか」が最大のテーマであって、
それによって自分の性格や個性を決定しているんだと思うのです。


先日、ふとしたことがきっかけとなって
人間が他人との関わりの中で面白い行動をとることに気が付きました。
それは「期待する」ということです。

期待外れのとき感じることは
残念とか、悲しいとか、絶望を感じるかも知れません。
私の場合は
「期待して応援していた自分は一体何だったのだろう・・・」
と一瞬自分を見失って、
考えがポジティブになるまで虚無感を背負うこともあります。

人間は何故このショックを知っていながら
期待という大きな賭けに出るのでしょうか。
期待をしなければ期待外れというお邪魔虫に
自分の生活を引っかき回されずに済むし
ショックに苛まされる必要もありません。
それでも期待するのは
期待に応えてくれたときに、
ただただ嬉しいからかもしれません。
とっても満足するからかもしれません。
でもただそれだけではない、何か別の理由がある気がします。

私はこの「期待する」という行動が
とても不思議な行動だと思ったのです。
そしてここ数日、このことについて考えてみました。


よく見かける光景に、スポーツ選手やチームへの熱狂的な応援があります。
私もオリンピック等ではTVに張り付いてはしゃぎながら応援しています。
そこに理由もはなくてただ好きな選手だから、
日本だから、と応援していました。
でもよくよく考えると、自分には出来ないことや
やる勇気のない夢のまた夢の様なことを
自分の代わりに彼らが達成してくれる。
なので面識のない彼らのことも応援できるんだろうと思います。

勝利したとき、「よかったぁ」と
まるで自分のことのように感じる嬉しさは、
無意識のうちに応援した自分を認めていて、
何かを応援したこと自体が
自分の価値観や個性を現しているのだと思うのです。
たとえ期待外れでショックを受けても
応援したという事実が自分を肯定してくれる。
期待することは、自分をつくることでもあるのかもしれないです。
なので人間は期待外れの可能性があっても、
一心不乱に応援して一喜一憂するのでしょう。

今まで私は期待したいけれどショックから逃れるために
期待しないことがありました。
でも心のどこかでなんとなく虚しい様な、寂しい気がしていました。
その寂しさはきっと、意識下の自己否定が生んだ感情だったのでしょうね。
期待外れは、期待しないより良いことかもしれないと思います。



他人との関わりで自分を見出す行為として
「期待する」という行為が、世代が代わって行っても受け継がれていって
自由の少ない環境に住む世界の人々にも
広まって行きますように

隈研吾の講演会

2009年05月25日 | グッピーエッセイ
先日、日本を代表する建築家の一人として欠かせない
隈研吾の講演会に行ってきました。
建築関係の方はご存知かと思いますが
有名な建築は東京ミッドタウンの中のサントリー美術館です。
他に栃木県の広重美術館、石の美術館などがあります。

この講演会では「光と孔」がテーマでした。
人間が自然を感じるとき、それは光によって感じているとおっしゃっていました。
木漏れ日や水面を想像するとわかりやすいです。
そして隈研吾は、
「孔に光がどのように差し込むのか」
と言うことを一番の問題にしているようです。
それが建築の内部にどう影響を与えているのか
そのイメージを過去の自作例やイメージ画によって説明してくださいました。

ここでは「孔」というのはおそらく
最終的に物が行き来できるように貫通していなくてもよくて
光を通さないものに一部ガラスなどがはめ込まれて
光だけが透過するような状態のことも含んでいます。

例えば石の美術館には、石積みの壁でできていて
積むときに石を薄くスライスしたものも混ぜて積んでいます。
内部に入ると薄くスライスした石の部分から光が透過して
その石はまるで障子の様な光を解き放つのです。
この建物は、実際に栃木県まで見に行ったことがあるのですが
この透過はかなり綺麗ですよ。石であることに誰もが驚くと思います。

他には、銀座のティファニーの外壁が面白かったです。
ハニカムパネルというものを、
一枚一枚角度を変えながら壁に取り付けるので、
光が乱反射して独特な表情のある外壁なのです。
実はこのパネル、飛行機の羽の中に使う部品だそうで
全てが蜂の巣のように六角形の穴の連続で出来ているので
遠目には光が反射して見えますが、
孔を透過して内部にも光が差し込むのようなのです。

孔とは別に「自然」と「光」の関係として
羽毛をつめたガラスの壁の例などもありました。



孔や自然素材を通して光がどう見えるか、
我々は、そういった光も含めどのように自然を感じられるのか。
建築を媒体として自然と人間をつなぐ鍵は
「孔」と「自然素材」を『透過する光』に在りそうです。

断ることと受け入れることの考察

2009年05月07日 | グッピーエッセイ
先日『断る力』勝間和代/著 を読んでから、断ることについて実践を通して深く考えるようになりました


「断ること」は、自分の中で曖昧な部分を明確にし、限定してゆきます。

きっと自己の全体像も鮮明に、よりはっきりしてきます。


それに対して、物事を「受け入れること」は自己を肥大化させてゆきます。

これは様々な人の価値観、考え、人柄等、少しずつ枠を広げ

多様な価値観を自分の周りにどんどん付加させて広がってゆきます。

どんなに鮮明な価値観の集まりでも大きくなりすぎて

自己の全体がぼやけて把握しにくくなると思います。




この「断ること」と「受け入れること」は彫刻に例えることが出来ると思います。

彫刻には直方体の木の荒削から次第に掘り込んで一つの作品を「削りだす」手法と

大まかな土台に粘土などを付け足して「付加する」手法があって

「断ること」は木などを削りだす手法に

「受け入れること」は粘土などを付加する手法に似ています。

これらはどちらの手法を使って作っても、完成した一つの作品を生み出すことが出来て、

人間の場合も同じだと思うのです。


周囲の環境や人間を「受け入れること」で人間は自己を形成し、

人間関係も円滑に進みます。

一方で、『断る力』を読んで、「断ること」による自己の形成はもちろん

人間関係が円滑に進む場合も多くあるのだということも強く感じています。

違いは自己が肥大してゆくかどうかです。

受け入れる態勢の人は全体像が曖昧になりやすいですが、そこに可能性と包容力を感じます。

断る態勢人は限定してゆくので狭い視野になりやすいですが、性格が鮮明に分かり安心感が生まれます。



様々な価値観を受け入れて自己を成長させることと、

自己を明確に限定してゆるぎない意思を持ち続けることの

どちらを軸として生きてもよいと思います。

しかし、様々考えた結果この相反する性格は

両方備えた方が便利なのだろうと思います。

受け入れる態勢が強い人は、態勢自体を断る態勢に変えるのではなくて

受け入れる態勢の中で自己をより明確にするための価値観「断る力」を持つことが

何よりも大切なことなのかもしれません。

逆に断る態勢の人はそれ以外の価値観を受け入れるポケットを持つことで

包容力をも備えることが可能になるでしょう。


いずれも人間の生活にとって大切な力なので

どちらも使いこなせるようになりたいものです。