京都府の南丹地域に濃密に残る貞任伝説、そのあらましは次の通りです。前九年の役で敗れた安倍貞任と宗任は京北(現在京都市右京区京北)の宇津に連れてこられ、切畑で処刑されます。陰陽師達の意見により、貞任の遺骸は八つ裂きにされてあちこちに埋められることとなりますが、その埋葬地の条件として川が東西南北に流れているところとして宇津の地が選ばれたということです。現状において史実とされているのは、貞任は衣川で戦死、弟の宗任は降伏後に命は助けられて伊予に配流、その子孫は中国四国・九州一円に広がっています。また、遺骸を寸断するという話は貞任にとどまらず、平将門や貞任の遥か先祖にあたるアテルイ、田村麻呂伝説に登場する悪路王など色々に見られます。これらの大本は「奥浄瑠璃」といわれる芸能にあるのではないかな等と検討を付けているのですが、未だ詳しいことについては勉強不足です。
従って、宇津で処刑云々という話は伝説に過ぎないのですが、それにしては話が具体的ですし、後日談もたくさん生まれています。既に何度か触れているかも知れませんが、八つ裂きにされた貞任の体が何度も何度も復活する、それを防ぐために勧請されたのが下宇津の八幡さんであることや埋められたところから青い光が飛ぶのを見たというような目撃談がそれにあたります。
遺骸を埋めた場所を訪ね歩く等と言うことはある意味「悪趣味」であるかも知れませんが、南丹地域の文化や地史を知る上では非常に有効な行為であると勝手に判断して「首」を埋めた貞任峠、「腰と両足」を埋めた人尾峠、さらに腕を埋めたという舩井神社、頭を埋めたという久留守神社などを今までに訪れました。北限の須知や南限の桑田神社などはまだ行けていませんが、今回は処刑地とされる切畑を訪ねてみました。
これまでにmfujino様のご教示により、この伝説の広がりは清和源氏が領家であったと考えられる「吉富荘」の存在が大きく関わっていることなどが何となく理解できるのですが、伝説そのものの持つ意味は何かということになると民俗学的な方法に全く疎い小生には「何も分からぬ」としかご報告のしようもないのですが、まあウロウロとするうちに分かってくることもあるだろうと考えています。
桂川にかかる「弓槻小橋」、これを左岸に渡ったところが弓槻の西の端の集落になります。橋のたもとのお地蔵さんは何やら「おしらさま」の様にも見え(トップの写真)、はやくも東北ムードが漂います。川は陰陽師の言うようにこの端の下手でほぼ直角に曲がっていきます。写真では山にぶつかって川が消えているように見えますね。
ここで誰かに会うということは全く期待していなかったのですが、左岸にあるものすごく立派な家の前に人が立っておられました。
「すみません、切畑というのはどのあたりですか?」と尋ねたところ、一瞬にやっと笑われて「何か、勉強したはんの?」、「そう貞任伝説!」という感じでツーカーです。
その方に、切畑というのはまさしくこの辺りであること、集落の西の端に切畑林道の入り口があることを教えていただきました。小生は最初全く見当違いの所を考えていましたから、これはラッキーでした。ここで尋ねなければ雪の中をウロウロすることになっていたに違いありません。
林道の入り口辺りから
林道を入ってすぐにお稲荷さんの祠、林道が出来る前の道端に立っていたようです。その祠を越えてすぐに林道は左右に分かれ、これを右にとって進むとまたまた左右に分かれ、さらにこれを右にとって進むとそのまま長野の方まで峠を越えることが出来そうです。けれども、そうなると切畑の範囲からは出てしまうので、最初の分岐まで戻ってきて今度は左に進みます。この道はなだらかな丘陵状の所を通っていますが、しばらく行くと行き止まりになります。
切畑の今ひとつのポイントは「足擦りさん」です。切畑の岡上の一本松の根元で河原で拾ってきた石を使って足の痛むところをさすり、その後にその石を根元において祈れば足の痛みがとれるという言い伝えが残っていたようです。
近年の松枯れにより、その一本松が残っていることは期待できませんが、そういう信仰があったのならば川原石がたくさん露出しているかも知れないと期待します。結果として、大きな松の切り株と、河原の小石ではないかと思われるものが切り株の近くにたくさんあるところを見つけましたが、ここがそうなのかどうかは分かりません。足擦りさん候補地第1号としておきます(笑)。
ここで、雪が降ってきたので退散です。いやらしいことに退散して車に戻ってくると雪がやむ。林道の行き着くところを見るという宿題が残りました。だれか人が出ておられたら足擦りさん候補地第1号について聞いてみたいのですが、誰もいません。「京北の昔語り」では、足擦りさんを貞任伝説と絡めていますから、大昔には足を埋めたという伝承があったのかも知れませんね。
切畑山
手足を埋めたという足手山は中地谷にあるということですから、下の写真の辺りでしょうか?人家に至る道はありますが、集落内には山に入っていく道がありません。集落の切れ目、明石川が桂川に流れ込む辺りから山に入ります。
集落の上にユリ道があり、進みますが特に何もありません。現在家々が建っているすぐ山側は杉林になっています。けれども、明らかに削平地であり、その昔には何か建物が建っていたと思われます。
これを上れば何かあるかな。
切畑でもそうでしたが、こういうことをしている時、「あと100メートル進めば何かあるかも。」といつも思います。進んでも九分九厘何もないのですが、もしかしたら一厘何か見つかる可能性も、と考えます。したがって撤退はいつも後ろ髪を引かれる思いになる。ここでも尾根まで登れば何かあるかも知れないと考えましたが、やはり雪が強くなってきたので撤退です。そして下りると雪が止む(笑)。
集落が背負う足手山
同じく
そのまま周山に向かいます。途中には魚ヶ渕と周山を分ける道標、大正年間に土地の人が還暦記念に建てたものです。エライ!
雪が小振りになったので憧れの高浜街道だということで、先ずはその起点の五本松。この道標もmfujino様にご教示いただいたものです。
本来ならば、ここから熊田、矢代中を通って明日ヶ谷そして佐々江へと歩まねばなりませんが、本日はこのまま雪がやんだら矢代中に車を停めて明日ヶ谷まで歩こうと思います。
が、矢代中に来てみると雪が強くなってきました。「あー、これは酒を飲めよということだな」と心得、そのまま退散します。途中にある熊田の農業組合の建物、前身は何なのでしょうか。なかなかに趣があります。今日は何か一日中、車から降りてゴソゴソすると雪が降り、車に乗ると雪がやむという感じです。
結局本日は、ちょっと山に入る、雪が強くなる、撤退するということの繰り返し。この近辺では、両肩と胴体を埋めたという高谷を探らねばなりません。須知と桑田神社も含めて、伝承地を全て回り終えたら改めてご報告いたします。また、高浜街道はいつか通して歩いてみたい道であります。アクセスを考えると「野宿」を覚悟しなくてはなりませんから、やっぱり夏ですね。
従って、宇津で処刑云々という話は伝説に過ぎないのですが、それにしては話が具体的ですし、後日談もたくさん生まれています。既に何度か触れているかも知れませんが、八つ裂きにされた貞任の体が何度も何度も復活する、それを防ぐために勧請されたのが下宇津の八幡さんであることや埋められたところから青い光が飛ぶのを見たというような目撃談がそれにあたります。
遺骸を埋めた場所を訪ね歩く等と言うことはある意味「悪趣味」であるかも知れませんが、南丹地域の文化や地史を知る上では非常に有効な行為であると勝手に判断して「首」を埋めた貞任峠、「腰と両足」を埋めた人尾峠、さらに腕を埋めたという舩井神社、頭を埋めたという久留守神社などを今までに訪れました。北限の須知や南限の桑田神社などはまだ行けていませんが、今回は処刑地とされる切畑を訪ねてみました。
これまでにmfujino様のご教示により、この伝説の広がりは清和源氏が領家であったと考えられる「吉富荘」の存在が大きく関わっていることなどが何となく理解できるのですが、伝説そのものの持つ意味は何かということになると民俗学的な方法に全く疎い小生には「何も分からぬ」としかご報告のしようもないのですが、まあウロウロとするうちに分かってくることもあるだろうと考えています。
桂川にかかる「弓槻小橋」、これを左岸に渡ったところが弓槻の西の端の集落になります。橋のたもとのお地蔵さんは何やら「おしらさま」の様にも見え(トップの写真)、はやくも東北ムードが漂います。川は陰陽師の言うようにこの端の下手でほぼ直角に曲がっていきます。写真では山にぶつかって川が消えているように見えますね。
ここで誰かに会うということは全く期待していなかったのですが、左岸にあるものすごく立派な家の前に人が立っておられました。
「すみません、切畑というのはどのあたりですか?」と尋ねたところ、一瞬にやっと笑われて「何か、勉強したはんの?」、「そう貞任伝説!」という感じでツーカーです。
その方に、切畑というのはまさしくこの辺りであること、集落の西の端に切畑林道の入り口があることを教えていただきました。小生は最初全く見当違いの所を考えていましたから、これはラッキーでした。ここで尋ねなければ雪の中をウロウロすることになっていたに違いありません。
林道の入り口辺りから
林道を入ってすぐにお稲荷さんの祠、林道が出来る前の道端に立っていたようです。その祠を越えてすぐに林道は左右に分かれ、これを右にとって進むとまたまた左右に分かれ、さらにこれを右にとって進むとそのまま長野の方まで峠を越えることが出来そうです。けれども、そうなると切畑の範囲からは出てしまうので、最初の分岐まで戻ってきて今度は左に進みます。この道はなだらかな丘陵状の所を通っていますが、しばらく行くと行き止まりになります。
切畑の今ひとつのポイントは「足擦りさん」です。切畑の岡上の一本松の根元で河原で拾ってきた石を使って足の痛むところをさすり、その後にその石を根元において祈れば足の痛みがとれるという言い伝えが残っていたようです。
近年の松枯れにより、その一本松が残っていることは期待できませんが、そういう信仰があったのならば川原石がたくさん露出しているかも知れないと期待します。結果として、大きな松の切り株と、河原の小石ではないかと思われるものが切り株の近くにたくさんあるところを見つけましたが、ここがそうなのかどうかは分かりません。足擦りさん候補地第1号としておきます(笑)。
ここで、雪が降ってきたので退散です。いやらしいことに退散して車に戻ってくると雪がやむ。林道の行き着くところを見るという宿題が残りました。だれか人が出ておられたら足擦りさん候補地第1号について聞いてみたいのですが、誰もいません。「京北の昔語り」では、足擦りさんを貞任伝説と絡めていますから、大昔には足を埋めたという伝承があったのかも知れませんね。
切畑山
手足を埋めたという足手山は中地谷にあるということですから、下の写真の辺りでしょうか?人家に至る道はありますが、集落内には山に入っていく道がありません。集落の切れ目、明石川が桂川に流れ込む辺りから山に入ります。
集落の上にユリ道があり、進みますが特に何もありません。現在家々が建っているすぐ山側は杉林になっています。けれども、明らかに削平地であり、その昔には何か建物が建っていたと思われます。
これを上れば何かあるかな。
切畑でもそうでしたが、こういうことをしている時、「あと100メートル進めば何かあるかも。」といつも思います。進んでも九分九厘何もないのですが、もしかしたら一厘何か見つかる可能性も、と考えます。したがって撤退はいつも後ろ髪を引かれる思いになる。ここでも尾根まで登れば何かあるかも知れないと考えましたが、やはり雪が強くなってきたので撤退です。そして下りると雪が止む(笑)。
集落が背負う足手山
同じく
そのまま周山に向かいます。途中には魚ヶ渕と周山を分ける道標、大正年間に土地の人が還暦記念に建てたものです。エライ!
雪が小振りになったので憧れの高浜街道だということで、先ずはその起点の五本松。この道標もmfujino様にご教示いただいたものです。
本来ならば、ここから熊田、矢代中を通って明日ヶ谷そして佐々江へと歩まねばなりませんが、本日はこのまま雪がやんだら矢代中に車を停めて明日ヶ谷まで歩こうと思います。
が、矢代中に来てみると雪が強くなってきました。「あー、これは酒を飲めよということだな」と心得、そのまま退散します。途中にある熊田の農業組合の建物、前身は何なのでしょうか。なかなかに趣があります。今日は何か一日中、車から降りてゴソゴソすると雪が降り、車に乗ると雪がやむという感じです。
結局本日は、ちょっと山に入る、雪が強くなる、撤退するということの繰り返し。この近辺では、両肩と胴体を埋めたという高谷を探らねばなりません。須知と桑田神社も含めて、伝承地を全て回り終えたら改めてご報告いたします。また、高浜街道はいつか通して歩いてみたい道であります。アクセスを考えると「野宿」を覚悟しなくてはなりませんから、やっぱり夏ですね。
「回り口」(正式には「回り渕」かも知れません)は、弓槻と栃本との境ですから、双方の在所の餓鬼んちょが釣り糸を垂れる場所でした。釣り場は、その日の気分によって選択しますので、「回り口」を選ぶのは5回に一度位でしたが。
切畑の麓には、栃本から碁石山の裾を経由して続く山道がありました。大水で栃本の木橋が流れると、山裾を経由して弓槻橋(当時は、この橋しかありませんでした。〝小橋〟と呼ばれる様になったのは上流にもう1本架橋されてからです)を渡って本道へ出て学校へ行きました。たまに弓槻橋が流れることもあり、そんな時は栃本の寺(玉林寺)で自習をしたものです。
私は切畑の松の所まで行ったことはありませんが、足擦りの伝説は聞いた気がします。「ふ~ん、そんなもんか」程度の反応でしたけど。
徘徊堂さんに林道を教えてくれた爺さんは、もしかして知っている(いた)人かも知れません。小橋畔の地蔵さんは、昔からあったのでしよう(多分)。毎日中学校へ通った道筋ですけど、まるで気にせずに通り過ぎておりました。
中地谷が話題になったことは、まるでありませんでした。当時の宇津村青年団の応援歌は「人尾峠貞任峠に雲乱れ」で始まります。「ひとのぉさだとぉに」と発音します。そして「大堰川(おおい)の川瀬に音激す~」と続きました。
宇津村は小さい在所でしたけど精鋭揃いで、山国や弓削の大集落を凌駕して毎年ほとんど優勝していました。もしかして、貞任のお陰かも。山国には、分限者の坊ちゃんが多かったのかも。
いずれにしましても、北桑田郡・南桑田・船井郡を跨る広範囲に貞任伝説は残っている訳で、それも遥かに闇の中なのですから、いつか、その伝説を解明する決め手が発見されるでしょうか。楽しみと申せば楽しみです。
それにしても、今回は雪(女)に大歓迎されたとの由。後の熱燗が最高だったことでしょう。次に貞任遺跡を徘徊される節は、一度お声を掛けてみて下さい。お供出来るかどうかは分かりませんが・・・。
「貞任を訪ねて熱燗なお美味し」道草。
弓槻小橋、謎が解けました。どうしてここに立派な橋が架かっているのだろうといつも不思議でしたが、いまの弓槻橋は峠からの道が出来て造られた橋だったのですね。こういうこともうかがわねば分かりません。
切畑山を教えてくれた人は、40歳くらいの人でした。お知り合いの息子さんかも知れませんね。弓槻小橋を渡ったところにある大きな家の人でした。
小橋のお地蔵さんは、どうみても普通の地蔵さんではありません。機会があれば、喫茶「遊月」に入って聞いてみたいなと思っています。
宇津の力自慢。それはもう貞任のおかげです。長野にもスーパーマンがいたようです。
足擦りさん候補地第1号の発見興味がそそられますね。
話が飛びますが、弓槻峠のぼた餅の大きさを真似て腹をパンクさせた話がありますね。
廻り口ですが、南へと流れてきた大堰川がここで西へと向かい、少し先で今度は北上しますね。さて陰陽師が言った川が東西南北に流れる地ですが、東流しているのは宇津峡公園の辺りまで下らないとありませんね。もう一つ世木ダム近くでのヘアピンカーブのところでも東流していますね。
切畑、足手山、貞任峠、人尾峠、船井神社、久留守神社(刑部の来栖宮)とこなしてこられたことになりますが凄いすごい。後残るは高間谷、桑田神社と須知ですが、この須知についてはあるブログで、左足は須知の深志野に、と書いてあるのですが、この深志野という地名が出てきません。曽根というあたりかも知れません。このブログの作者に聞いてみたらその出所を教えて貰えるのかもしれませんし、その辺りの神社をうろうろするのも手かもしれません、、。
高間谷に上っても何も無いと思いますが、こだわりのgunkanatagoさまは実際に足を運ばないと許せないことでしょう。見習わないといけないと言い聞かせています。
>「あと100メートル進めば何かあるかも。」といつも思います。進んでも九分九厘何もないのですが、もしかしたら一厘何か見つかる可能性も、と考えます。したがって撤退はいつも後ろ髪を引かれる思いになる。
と書かれていますが、これは全くの同感というか共感します。大栗尾峠で弘法大師の石碑を探し当てたときの嬉しさもありましたが、その時は近くの林道を全て突き当たりまで歩いて見つからず、もしかしてここにも道があったのではとの推測で進んだ結果でしたので喜びもひとしおでした。
その石碑についてですが、今回は京北交番裏の観音橋右岸脇にある石碑は見られなかったのですね。五本松の高浜街道の石碑、観音橋の、小栗尾峠の、大栗尾峠の、石碑は全て慈眼寺の和尚が建てたようです。これは縄野坂を通るルートの重要性も物語っていると思いますし、栗尾峠は江戸時代にはかなり使われていたという証になるでしょう。
明日が谷も是非訪れて下さい。以前触れました地蔵堂もお見逃しなく。節恵庵というのがありますので行かれたら戸を叩いてみてください。何かありますよ(^_・)古代米や蔓工芸、、いやこの位にしておきましょう。その先の佐々江の安楽寺にも立派な仏さんがいらっしゃいます。
朝日寺跡・荒倉寺跡も我が課題ですが、gunkanatagoさまの様な行動力がありませんので宿題が溜まっています(*_*)池上さんと京北古墳漫歩をしようかと話し合ったこともあるのですが、、、
外に向かっては、山國隊の東征ルートを辿るというのは我が大きな課題なのですが、果たして実現することやら。
長々と関係のないことまで書いてしまいましたが、これ全てgunkanatagoさまの探求力が震源でございます故お許しを。
>伝承地を全て回り終えたら改めてご報告いたします。を楽しみに待っています。
宇津は柚子が育たない、または植えたらあかん
などと子どもの頃から聞いていましたが、貞任の処刑に用いたことはつい 3、4年前まで知りませんでした。
余談ですが、中学のとき、明石から社会の先生が自転車で通勤されていました。夕方女子軍は村の別れまで先生を送って行き、「山女や雪女に出合ないように帰ってネ、バイバイ」と見送ったものです。八木駅からk村、中地、明石、熊田、五本松、周山と丹バスが通ってたのに、回数がなかったからかな?とおもいます。
今ひとつの道標、京北交番裏だったのですね。コメリの辺りを探していました(爆)。別に大きな理由はないのですが、高浜街道への憧憬というか、そのようなものが大きく育っています。明日ヶ谷という名も魅力的です。色々とご教示、ありがとうございます。高浜街道自体は神楽坂を越えるのかも知れませんが、海老坂、玉岩の地蔵堂に連れて行って頂いたことが高浜街道への憧れの根底にあるような気がしています。
上桂川の流れ、確かに東流は宇津峡公園まで行かねばなりませんが、まあ指呼の間ということでOKだと思います。
山國隊東征ルートの旅、大いに興味があります。暇になったら芭蕉の奥の細道を考えていましたが、そっちの方はもういいや!という感じで(笑)。山國隊には亀岡の馬路村の人も多く参加していたようなのですが、馬路には何か残っているのかなというのも考えています。前にブラブラした時は何も見つけられませんでしたが、また探ってみたいです。
明石から通っておられた先生、毎日が旅ですね。477から細野川に下りる道なんかは未だ人跡未踏のところがあるような感じもします。マムシも多いですし(爆)。転がり落ちたら、「ああ、先生きゃはれへんなー」で終わってしまいます。
山國隊には参加していません。馬路村は弓箭隊でございます。
そうですね、高浜街道は神楽坂峠を越えました。京への道は神楽坂でしたが、田原川の水運を利用できるお隣の海老坂は美山野々村荘の人にとっては経済的にはより大きな意味があったと思います。
神楽坂、海老坂、もうその名を聞いただけでウズウズとしてきます。また、遥かかなたに愛宕を見たいと思います。