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花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

上御霊神社辺り②

2008年11月04日 | 徘徊情報・洛中洛外
 怨霊という言葉が出てくると、一時期は例の梅原某が必ずしゃしゃり出てきましたが、その際、一般に知られているいわゆる怨霊は平安時代からであるが、自分は、これをさらに遡らせることができたと、遂に聖徳太子などを怨霊にしてしまいましたが、近年に至り「聖徳太子非実在説」等も唱えられるようになり、某クンは真っ青ですね。
 その平安時代からというのは、863年の神泉苑における御霊会を意識したものでしょうが、この御霊会でも奈良時代の人物が祀られていますから別に平安時代になって初めて御霊が意識された訳ではありません。また、御霊=怨霊と安易に捉えてよいものかどうかも難しいところだと思います。平安時代もぐっと下って、菅公や崇徳院などは、人々が明快に怨霊として意識したと思われますが、この上御霊神社の御祭神方はさほど明快に「呪ってやる。祟ってやる。」と現れた訳ではない。
 勿論、今や北野の森に鎮まります菅公なども本当に祟る気持ちを持っておられたのかどうかは不明で、北野社の元になったともいえる大宰府天満宮などでは、菅公が祟るという伝承は殆どないのではと思われます。それが京都に来ると凄まじい祟り神になられる。
 今現在の上御霊神社の御祭神は崇道天皇、他戸親王、井上大皇后、火雷神、藤原吉子、文屋宮田麿、橘逸勢、吉備大臣とされています。このうち、火雷神は菅公、吉備大臣は吉備真備とされていますが、他の7名が奈良時代から承和年間、9世紀半ばまでの人物であるのに対し、菅公だけは亡くなられたのが10世紀初めとぐっと下ります。
 古い順に見ると、先ずは井上内親王です。他戸親王はその子で、共に775年に現在の奈良県五條市で亡くなっています。母子同時に亡くなっていますから、或いは疫病かと考えられますが、まあ殺されたと考えるのが自然でしょう。井上内親王は聖武天皇の皇女で、その夫は天智系の白壁王、すなわち光仁天皇です。孝謙天皇は異母妹にあたり、同母妹には不破内親王がいます。
 奈良時代を通じて、天武系の諸皇子は徹底的に粛清され、孝謙(称徳)天皇の死後、夫の白壁王が皇位に就いたことが井上内親王にとって悲劇のきっかけとなりました。この白壁王という人は、天智天皇の孫で天武系の皇子ではないのですが、かなり慎重な性格だったようで、「目立つとやられる」という感じで若いときから酒に韜晦して「無害」を演じていた人物で、皇位に就いたとき既に60歳を過ぎていました。
 ということは、井上内親王もそれだけの春秋を共にしてきた訳で、別の人物が皇位に就いていれば、多少は緊張感を孕みながらも、まあまあの夫婦として人生を終えることができたと思われます。妹の不破内親王も夫の塩焼王(天武系皇子)を藤原仲麻呂の乱に連座して処刑され、息子の川継は後に乱を企てたとして伊豆に流され、この時内親王自身も淡路に流されて、そこで終わっています。
 この二人の内親王の同母弟に安積親王がおられるのですが、聖武天皇唯一人の皇子(藤原光明子の産んだ基王は夭折)でありながら、阿部内親王(孝謙天皇=母は光明子)が皇儲として立ち(ただこれは安積親王が幼すぎたというのもあるかも知れませんが)、その後に難波京から恭仁京に赴いたときに急死されています。
 話を井上内親王に戻しますと、夫白壁王が皇位に就いたことで内親王も皇后ということになりました。間に誕生した他戸親王は勿論皇太子です。そのままうまくいけば、天智系と天武系が目出度く一つとなり千秋万歳楽というところだったのですが、ここに山部親王(後の桓武天皇)が登場します。藤原氏が何を以て山部親王を強く贔屓したのかは不明ですが、白壁王を皇位に就けるために奔走した藤原百川の言辞では「山部親王こそ天子の器」ということになります。唯、これは文字通り受け取ることはできません。何れにしても、山部親王を立てたいという勢力が台頭し、他戸親王の排斥が進められることになります。
 帝王桓武とも称される人物で、英邁にして実行力に富むと表現される桓武天皇ですが、伝承ではどうも山部親王時代の姿がおとなしすぎるのです。後に、井上内親王と他戸親王の霊に最も恐怖を感じているのは、この桓武天皇その人ですから、山部親王の時代にも何か策動したと考えるのがよいかも知れません。ただ、逆に線の細い、気の弱い人物だったからこそ、あそこまで恐怖したのだとも考えられますから、ここはもう少し勉強しましょう。ということで、井上内親王のことも次回への宿題ということになります。

 写真は上御霊神社内の芭蕉句碑。


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