
聖武天皇の皇女にして、光仁天皇の皇后であった井上内親王は、その子他戸親王と共に皇后・皇太子であることを廃され、775年に同時に亡くなりました。水鏡には、この内親王の生前の行儀が悪かったこととして光仁天皇との博打に勝った皇后が、かけものとしての若い男を求めたこと、光仁天皇は山部親王(桓武天皇)を内親王に差し出したこと、内親王が寵愛する8名の召使いが皇后の寵を笠に着て暴虐な振る舞いが目立ったために、これらを捕らえて処刑したこと、この処刑に対して内親王がひどい言葉で天皇をなじったこと等が記されています。
そうしてついには天皇を呪うようになり、それがために皇后・皇太子たるを廃されてしまうのですが、これらのこと全てに藤原百川が深く関わっていたとしています。その後は続日本紀の記述を受けてでしょうが、775年4月25日にお二方とも亡くなったこと、776年9月に夜な夜な瓦や石や土塊が降ってきて、それが20日ほど続いたこと、777年の冬にひどい干魃があり、宇治川の水が干上がったこと、その12月に百川、山部親王、光仁天皇が怪しげな夢を見たことなどが記され、これが井上内親王と他戸親王の祟りと意識され、諸国の国分寺で金剛般若経を読ませたということです。
怨霊の出現としては、実に曖昧なもので何もそうビビラなくてもよいではないかと思われるのですが、779年に百川が僅か38歳で亡くなったことが決定打になったようで、この後すぐに光仁天皇は桓武天皇に位を譲るのですが、百川の死に際して桓武天皇は容貌が変わるほど嘆かれたということです。
今日風に考えますと、博打の件といい、巫覡をして天皇を呪わせたことといい、それだけのことをしているなら仕方がないやんけというところですが、その後のことを水鏡など、別段矛盾無くそら化けて出ることもあるやろなという筆致で記している。一つの考え方としては、このように執念深い悪女なればこそ怨霊化したのだとも言えるでしょうが、やはり自然に考えると井上内親王と他戸親王は純然たる政争の犠牲者としたほうがよいのではと思えます。従って、井上内親王が失脚した理由を示す話は、他戸親王が皇太子の時に山部親王(桓武天皇)を随分と虐めていたという話などと共々に説話風に井上内親王の失脚を説明するための手段であって、その部分は眉につばをつけて聞いた方がよいと思います。これは次に取り上げる早良親王なども皇太子時代は随分と無礼で驕慢な人であったとされているのに通じるところがあり、勝者の側の自分勝手な創作が随分とあるように思われるのです。
さて、政争の犠牲者なら奈良時代にはわんさかいる。天武系の諸王など殆ど皆殺しの感もありますが、だれも怨霊にならない。淳仁天皇(淡路廃帝)など、配所を逃れ出ようとした日に急死されていて、明らかに殺害されているのですが、怖い話がない。聖武天皇の大仏建立の背景に長屋王の祟りを言う人もいますが、少なくとも表面的にはそれを意識していた感じはない。家臣でも殺害・処刑された者のうち、怨霊とされているのは藤原広嗣ぐらいです。しかるに井上内親王に至って何をあのように怖れたのか。桓武天皇は、若かりしころは内親王の怨霊に悩まされ、壮年以後は実弟の早良親王の怨霊に恐怖しています。
井上内親王が、怨霊化した背景には聖武天皇の皇女であるということがあるのではないかとも思われるのですが、これは単なる思いつきです。けれども繊弱で意志が弱く光明子の尻に敷かれるかよわい天皇という聖武像は近年修正されつつあります。聖武天皇は明確に強い意志を持って仏国土を出現させようとした人物であるとする説です。光仁天皇の即位自体、藤原百川等のクーデターによるものなのですが、今にして思うと天武・聖武という二人の大帝の血の否定という結果になっているのです。
写真は、上御霊神社拝殿。
そうしてついには天皇を呪うようになり、それがために皇后・皇太子たるを廃されてしまうのですが、これらのこと全てに藤原百川が深く関わっていたとしています。その後は続日本紀の記述を受けてでしょうが、775年4月25日にお二方とも亡くなったこと、776年9月に夜な夜な瓦や石や土塊が降ってきて、それが20日ほど続いたこと、777年の冬にひどい干魃があり、宇治川の水が干上がったこと、その12月に百川、山部親王、光仁天皇が怪しげな夢を見たことなどが記され、これが井上内親王と他戸親王の祟りと意識され、諸国の国分寺で金剛般若経を読ませたということです。
怨霊の出現としては、実に曖昧なもので何もそうビビラなくてもよいではないかと思われるのですが、779年に百川が僅か38歳で亡くなったことが決定打になったようで、この後すぐに光仁天皇は桓武天皇に位を譲るのですが、百川の死に際して桓武天皇は容貌が変わるほど嘆かれたということです。
今日風に考えますと、博打の件といい、巫覡をして天皇を呪わせたことといい、それだけのことをしているなら仕方がないやんけというところですが、その後のことを水鏡など、別段矛盾無くそら化けて出ることもあるやろなという筆致で記している。一つの考え方としては、このように執念深い悪女なればこそ怨霊化したのだとも言えるでしょうが、やはり自然に考えると井上内親王と他戸親王は純然たる政争の犠牲者としたほうがよいのではと思えます。従って、井上内親王が失脚した理由を示す話は、他戸親王が皇太子の時に山部親王(桓武天皇)を随分と虐めていたという話などと共々に説話風に井上内親王の失脚を説明するための手段であって、その部分は眉につばをつけて聞いた方がよいと思います。これは次に取り上げる早良親王なども皇太子時代は随分と無礼で驕慢な人であったとされているのに通じるところがあり、勝者の側の自分勝手な創作が随分とあるように思われるのです。
さて、政争の犠牲者なら奈良時代にはわんさかいる。天武系の諸王など殆ど皆殺しの感もありますが、だれも怨霊にならない。淳仁天皇(淡路廃帝)など、配所を逃れ出ようとした日に急死されていて、明らかに殺害されているのですが、怖い話がない。聖武天皇の大仏建立の背景に長屋王の祟りを言う人もいますが、少なくとも表面的にはそれを意識していた感じはない。家臣でも殺害・処刑された者のうち、怨霊とされているのは藤原広嗣ぐらいです。しかるに井上内親王に至って何をあのように怖れたのか。桓武天皇は、若かりしころは内親王の怨霊に悩まされ、壮年以後は実弟の早良親王の怨霊に恐怖しています。
井上内親王が、怨霊化した背景には聖武天皇の皇女であるということがあるのではないかとも思われるのですが、これは単なる思いつきです。けれども繊弱で意志が弱く光明子の尻に敷かれるかよわい天皇という聖武像は近年修正されつつあります。聖武天皇は明確に強い意志を持って仏国土を出現させようとした人物であるとする説です。光仁天皇の即位自体、藤原百川等のクーデターによるものなのですが、今にして思うと天武・聖武という二人の大帝の血の否定という結果になっているのです。
写真は、上御霊神社拝殿。