花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

上御霊神社辺り①

2008年10月24日 | 徘徊情報・洛中洛外
 生憎の雨となりましたが、10月22日(水)には、時代祭と鞍馬の火祭が行われました。温暖化の影響でしょうか、京都の紅葉のピークは毎年毎年遅くなっていて、もはや10月には色づかない。下手をすると色づかぬままに茶色くなって終わってしまう場合もあるのですが、昨年は稍持ちなおしたところがあって艶やかな景色が楽しめましたから、今年も期待することに致しましょう。
 けれども、紅葉のシーズンということになると、それはもう何処に行っても凄まじい人の数でありますから、観光京都という観点からは慶すべきことでありましょうが、個人的には大変疲れる季節でもあります。高雄・嵐山・鞍馬・永観堂・東福寺・光明寺等々、何れ何処も人だらけという訳で、この嵐の前の静かな時期に金閣や清水寺の如き常時人で溢れかえっているところに赴くのは賢明ではありません。
 上御霊神社は、御所を少し北に上がったところに鎮座していますが、此の地は平安京以前の名が「出雲路橋」に残る出雲郷の地であり、祭神のこと、また応仁の乱のことなど、人麻呂風に言えば「こころもしのにいにしへおもほゆ」るに便なるところです。祭神は、奈良・平安期に朝廷を震撼させた怨霊なのですが、長い時を経て恨みの心を慈悲の心に変えてこられたのか、境内は何ともいえぬ穏やかな雰囲気に包まれています。有名スポットの狂気からは程遠いムードで、静かに京都を楽しむには、もってこいのところと言えます。
 この神社の辺りで畠山政長の軍勢と畠山義就の軍勢が衝突したのが応仁の乱の始まりで、神社の入り口には碑も建っています。

        

 乱の始まりは1467年、畠山政長が管領の細川政元の裏切りによって河内で自決するのが1493年、義就は既にその2年前に病死していますが、応仁の乱終結後も続いた長い長い戦いの幕開けは此の地でありました(乱全体とはまた別に『畠山戦記』の如きものが書けたら面白いのですが、ちょっと今のところは手に余ります。また両者の争いは応仁の乱以前から始まっています。)。
 この時の戦いは、最初から畠山政長には不利なものでありました。将軍足利義政によって突然に畠山家督を義就とするとの命令、明け渡しを迫られた自宅を焼いての上御霊社への布陣、細川勝元に援軍を要請したのに断られ、そこへ山名持豊の後援によって準備万端整えた義就が攻めてきたものですから、散々な敗北をして戦場を離脱します。
 感心なのは、この時期の武将、潔く腹を切ろうなどとは思わぬことで、この政長も無事に生き延びて管領として復活しています。相手方の義就も同じで、どのような不利な立場に追い込まれても「I shall return !」とマッカーサ顔負けのひつこさで戻ってくるのです。「堅忍不抜」とは、彼らのためにある言葉のように思えます。話は飛びますが、本能寺の変の折に織田信忠にこの精神が備わっていたら豊臣の天下も徳川の天下もなかっただろうと思われますが、あっさりとパパの後を追ってしまいましたね。
 その政長が、平野の正覚寺城では自決してしまうのですから、この時にはもう右を見ても左を見ても逃げられぬ状況だったのでしょう。しかし、息子の尚順(ひさよし)は生き延びて、義就の息子を攻め滅ぼしています。この一旦没落しても必ず息を吹き返すということは、言うは易く行うは難しで、尾羽うち枯らして落ち延びてきた者を実際に支えた人々というのはどのような人たちだったのでしょうか。おもちゃの兵隊ではあるまいに、どうして直ぐに軍勢を整えることができたのでしょうか。何れにしても自殺者の一向に減らぬ今の日本で最も手本とすべき者たちであろうと思われます。等と言っているうちに怨霊に触れる時間がなくなりました。
 


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