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花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

淀から楠葉へ(京街道3)

2013年09月18日 | 徘徊情報・山城国
 本日は、師匠の案内による京街道の3回目。備忘のために書き記しますが、中書島~淀の間は割愛しています。本日は淀から楠葉となります。
 福知山から京都市内にかけて大きな被害をもたらした台風18号の影響下、さすがに全く雨に遭わずとはいきませんでしたが、昼間歩いた道が夜は水没、まことに危ういタイミングの徘徊となりました。
 出発点は、京阪電車淀駅で本日も場外馬券売り場が開いています。駅が新しくなってから降りるのは初めてですが、実に広大な駅に変身しています。
 人々の列が競馬場に向かう中、人の利用が一番少ない北出口に集合、小生などは競馬場に向かう出口に出たために、その北出口とやらを探して徘徊前にだいぶとウロウロした感があります。
 師匠曰く「本日のテーマは『高低差』なり」と。NHKでときどきやっているブラタモリなる番組でよく使われている言葉です。小生がタモリなるおっさんを見直す契機となったものですが、同時に関西の徘徊番組の情けなさにも気付かされた番組です。閑話休題。
 先ずは京街道に入る前に納所(のうそ)の交差点に行きます。江戸時代までは川が流れていたところだそうです。唐人雁木旧祉は鳥羽街道(千本通)が旧一号に合流するところにありますが、時々車で通るときに「こんなところに雁木とは寝ぼけた石標だ」等と思っていたヤツです。





 寝ぼけていたのは小生で、この部分をまさに宇治川が通っていて、淀川から舟で遡ってきた朝鮮通信使は、このところで上陸し、鳥羽街道を京都に向けて北上したそうです。
 何十年も通った道についても実は何も知らぬことを痛感させられるとともに無限に広がる徘徊の可能性を感じさせられました。ちょっとオーバー(笑)。



 少しだけ、鳥羽街道を北に向かって納所村道路元標。今は陸続きになっていますが、淀と納所は川を隔てた対岸どうしでありました。



 淀の方に戻って淀小橋の跡、橋の幅から考えて決して「小橋」ではないのですが、木津川に架かっていた方が長かったので「小橋」と名付けられていたということです。この前の道が伏見へと向かう京街道だそうです。



 いわば宇治川の河床を歩いて淀に上陸する道、なるほど言われてみたら高低差があります。



 淀城の横におられるのが輿杼(淀)神社、式内社です。ですからこの表現は適切でない訳で、輿杼神社の隣に淀城があると言い直すべきでしょう。



 御祭神は豊玉姫等三神、九州と縁が深いお宮さんです。台座に蓮華門のある常夜燈や、鞠や子獅子を抱く狛犬なども興味深い感じです。狛犬・唐獅子の編年、そろそろ本格的に勉強せなあかんなあと思っていますが、なかなか始められません。







 さらに復活後の淀屋に絡む常夜燈、何か分からぬ神心石などもありました。ポチポチと雨も降り出し、先を急がねばなりませんでしたが、じっくり回ればまだまだ何かあるお宮さんです。





 この淀城は、譜代である稲葉氏の淀城で、淀殿が住んでいた城は今少し北になるとのことです。稲葉氏は春日局の縁で大名に引き立てられた家です。その春日局の「春日」が丹波の、あの黒井城のある春日だとはここで教えてもらうまでは全く知りませんでした。
 この淀城は1869年正月の鳥羽伏見の戦いで敗走する幕府軍の収容を断ったことで有名な城ですね。石垣がかためて補修されている一角に無数の穴がある石がありました。杯状穴と決めつけていいのかどうかは分かりませんが、柳田国男の言う「子供のイタズラ(関西ではゴンタという)」説を補強するような感じです。





 淀の城を後にして、街中に向かえば、伊勢向神社、享保年間の常夜燈がありました。



 八幡に向かう前に昼食です。ひなびたむかーしの感じの食堂です。一個小隊となると注文も覚えきれなかったようで、師匠には注文したものと違うものが出てきましたが、「善哉、善哉」と心の広さ。けど、間違って出てきたものが親子丼だったらどうだったかなー。師匠も小生と同じく鶏肉を食べない正義の人であります。



 淀を出て淀水(ややこしいどー)に向かいます。何となく昔の雰囲気が残っています。競馬場からは随分と離れましたが、まだ警備員が辻々に配置されています。競馬が如何に莫大な収益を上げているかということですね。と言うことは個人的には負けて当たり前だと言うことでもあります。小生も何度かスッテンテンになって帰ったことがあります。阪神競馬場で負けたときなんか帰りの電車賃もありませんでした。



 しばらく行って淀町の道路元標。元の木津川に架かっていた淀大橋の跡も実にはっきりと高低差がわかるところでしたが、肝心の写真を何ヶ所か取り忘れています。



 面白かったのは久御山町が宇治川のこちら側にも存在していることで、これなども河川の改修の結果、川底となってしまった農地の替え地を新たに干上がったところで与えたためにそういうことがおこったそうです。

 今は、宇治川の近くになっていますが、木田醤油の浜納屋はかつては木津川に面して造られていました。川岸をも「浜」ということは大阪のみならず、淀川水系では広く使われていたようですね。浜納屋から直接醤油を船積みできるようになっていたそうです。





 木田醤油は今や京都ではただ一軒の造り醤油屋さんです。表でワイワイ言っていたらご主人が出てこられて、浜納屋の鍵を開けて下さり、土産に醤油の小瓶をみんなにプレゼントして下さいました。雨の中を酔狂に歩いている御褒美だそうです。また、淀水の「ず・づ」は「津」であろうと明快に教えてもいただきました。ありがとうございました。


木田醤油浜納屋全景

 道は徐々に現在の宇治川と桂川の合流点へと向かいます。京阪電車の車窓から「風景はええが、何も無いで。」と決めつけていたところです。涼森神社の存在も全く知りませんでした。



 このお宮さんには白鬚大神を初めとして、たくさんの御祭神が祀られています。巨椋の池の干拓や河川の改修などで消え失せた多くのお社の神様が集まってきておられるようです。




守護不入

 このお宮さんは美豆城址でもあります。この城を築いた三方範忠なる人物は、山城守護代としてこの城を造ったようですが、後には若狭守護代にも任じられた人物です。ずっと下って1569年には本国寺にいる足利義昭を三好三人衆が攻めるときの拠点となった城だということです。



 なるほど以前から森だと遠望していたあそこには神社があったのだと改めて気付かされますね。



 分かりにくいのですが、向こうの緑の部分と手前の茶色い部分の間が京街道です。ここを通って御幸橋に着いてしまうと、しばらくの間京街道は川の底となってしまっています。



 今の三川合流地帯にある御幸橋に着きました。車ではよく通るところですが、歩いて渡るのは初めてです。天王山や男山が見えてなかなかよい景色です。雨が激しくなければ、極めてのんびりとした風景なのですが。


天王山


男山


宇治川


宇治川


木津川

 八幡では飛行神社などをウロウロし、久しぶりに門前の茶店で走井餅を食いました。八幡の街中、ついこの間歩いたばかりなのに全く道を覚えていません。それでも後村上天皇の行宮跡を見つけたのはラッキーでした。わが光厳上皇様が南朝に捕らえられて吉野へ拉致されたとき、すなわち1352年の正平の一統時の行宮跡ですね。南朝は、この後二度と京都を回復することはありませんでした。


飛行神社


後村上天皇行宮跡


淀屋辰五郎住居跡

 八幡町の道路元標は文字の前面に道路標識が建てられ、この町の文化というものへの考え方を露骨に示しています。昔国語の教科書に載っていた完璧な少年の言い方を真似れば「これで君が文化財をどのように扱っているかも知ることができたさ。」という感じ。




茶店で一服

 八幡から楠葉に向かいます。大きな木があるところで再び京街道が姿を現します。





 橋本の集落に入る前に幾つかの道標も見ることが出来ます。





 橋本駅の前に渡船場への道標。山崎の渡しです。その前の寺の敷地には楠葉砲台の弾薬庫が残っています。





 橋本の歌舞練場跡は今は集合住宅として利用されているようです。そういえば街中の遊郭の建物も随分と減ってしまいました。もはや遊郭の残骸でしかありません。少なくとも今から20年ぐらい前に何らかの手を打っておけば、世界遺産にも登録できたのに。




橋本記念碑(町名として「橋本」が残ったことを記念している)


メインストリート

 橋本の南端から楠葉方面に向かう久修園院の前の道は、農地が広がっていて京阪電車の走る姿を捉えることが出来るということで、テッチャンたちも多くいる所であると同時に、対岸の景色などもノンビリと楽しむことが出来るよいところだったのですが、いよいよ住宅地になってしまうようです。今回の農地の破壊でも何千万の生霊の命が奪われたことか。写真を撮るにはあまりに痛々しい景色となっていました。橋本遊郭と言い、ここと言い、失われるところばかりが続きました。

 最後は楠葉砲台跡。やはり鳥羽伏見の戦いの後、対岸の高浜砲台を管轄する藤堂藩が幕府を裏切って砲弾を撃ち込んできたところです。鳥羽・伏見で負けてからの幕府軍は本当に踏んだり蹴ったりだった訳です。この幕府軍に非常に親切にした話が枚方には残っていますが、これは次回の徘徊時にいうべきことですね。



 〆は楠葉の300円均一の飲み屋でした。ビール以外の酒はヤッパリ薄かったようですが、するめの天麩羅はまあ及第点です。
 飲み屋に着くころには雨も本格化し、この後の豪雨は大きな被害を各所にもたらしました。淀水から八幡への道などもどっぷりと浸かってしまったことでしょう。








 


 


11 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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お世話になりました (鎌倉街道)
2013-09-18 20:54:53
土砂降りの鎌倉から京都に着いたときは、雨が止んでいて「よかったー」と思ったのですが、台風には勝てませんでしたね。

靴の中に雨は、ゴアテックスの靴でも入ってくるものなのですね。 ホテルで靴下が脱げなくて濡れていることを知りました。 ザックの中身はビニールで濡れないようにしておいたつもりでしたが、つもりだけで、、、
徘徊堂さんは、風邪などひかれませんでしたか?

今回通った道は、田あり、川ありで、かなり緑が多かったように感じました。 三川が交わっているところを歩いてみることができたということはとてもうれしいことでした。 

フランス語を話されるお醤油屋さんでは、舟屋を拝見でき、お醤油まで頂戴し、なんと親切な方だったのでしょう。 しかも、大きな広い屋敷をお持ちで、手広くご商売をなさっておられたのでしょうか。
川筋でご商売をされていた方は、かっては繁栄されて居られたのでしょうね。

あちらの川をこちらに、と言うように考えることは出来ても、今のような重機が無かった時代、どのような作業がなされ、労働が課せられたのか、想像の範囲を超えます。

今回のような天候の時には、コーディネーターのお立場としては、随分とお気を使われたのではないですか。 お世話になりました。 しかも、翌日もお世話かけまして、申し訳ございませんでした。 いろいろ有難うございました。
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敗走する幕府軍・・ (浮舟)
2013-09-18 23:00:12
 台風通過直後の散策、醤油屋の主人ならずとも、見上げた精神と思います。私も経験がありますが、天気と相談していたら何事も埒があきません。断行するだけです。師匠も偉いが、ついてくる人も偉い。 

 淀周辺の京街道といえば、ご指摘にあるとおり、鳥羽伏見に敗れた幕府軍の敗走ですね。新撰組もそうです。藤堂藩の裏切りもありますが、彦根藩の裏切りも有名、井伊大老を出しただけに、大久保一蔵は苦笑したそうですね。手のひら返しの早さを思うより、世襲による腐りきった武士の不定見、破廉恥ぶりをおもいます。徳川時代の武士はこの程度かと・・。
この後、ケンカの仕方を知らない徳川慶喜のお坊ちゃん特有の愚策が、彼らを待っているんですね。

走井餅、一度食べてみたいですね。あんこ入りですか。それならなおさら。

印象の1枚の写真は、男山を遠くに見て橋をわたる傘の群れ。なんとなく敗走する幕府軍にみえます・・・
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お疲れ様でした。 (gunkanatago)
2013-09-19 16:27:09
 鎌倉街道様、コメントをありがとうございます。また当日は遠路遙々とお越しいただきありがとうございました。
 ゴアテックスの靴でも水が入ってきましたか?えげつなく降られたという記憶は無いのですが、かなり雨がきつかったようですね。小生の風邪の方は「ナンチャラは風邪をひかない」と言うヤツです(笑)。お気遣いいただきすみません。
 小生もあそこに現役の造り醤油屋さんがあるなどとは全く知りませんでした。この京街道沿いは宿場にしても運送業にしても醸造業にしても昔はかなり栄えたようですね。
 ものすごい台風を京都で迎えられたことになりますね。次の日が晴れてよかったです。 
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弛緩すると (gunkanatgo)
2013-09-19 16:35:21
 浮舟様、コメントをありがとうございます。当日も言っていたのですが、師匠とここに来ると必ず雨に降られます。
 鳥羽伏見の戦いは、太平に狎れて危機管理を怠った好例ですね。一隊でも山崎の方や山科から京都に向かえばどうなったかは分からなかったのにというところですが、大阪城で上層部が全部逃げてしまったのですから、まあ負けるべくして負けたという感じですね。
 走井餅は大津が発祥だと思うのですが、小生は大津のがどんなのだったか忘れてしまいました。同行の方が「大津のとはちょっと違うね。」と言っておられました。中味は粒あんです。
 雨が降っていると、どうしても敗残兵のようになりますね(笑)。
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まさに水を考えるいい機会でもありました。 (mfujino)
2013-09-19 20:13:35
gunkanatagoさん、当日はお世話になりありがとうございました。

まさに「高低差」がテーマはでしたね。思わず、 「大阪アースダイバー」中沢 新一、を発注しました。

師匠と歩いていると高低差がよく出てきますね。今回は木口醤油さんの浜納屋がそれを典型的に現していましたね。それと歩いた後を振り返って、今渡ったのが旧木津川、などと喋っていたのが楽しかったです。

千本通りまで出てきたのは驚きでした。帰ってから地図をいろいろ見ていると楽しくなります。宇治川と題して2枚写真を載せられていますが、その最初の方、宇治川に水門から水が流れ込んでいますね。師匠が、木津川の一部を流しているのかなあと呟いておられたので、損なことないでしょう、宇治川と木津川に囲まれた地に溜まったのを流しているのでは、なんて私見を述べてましたが、地図を見ると浄水場があるのを発見。それじゃないかと師匠に聞いてみて下さい。

我々が歩いた川底地帯、昔なら今回の大雨で完全に水の底でしたでしょう。しかし堤防がしっかりした現在は大丈夫だったのでしょう。昨日は師匠も参加頂いて黒井城に登ってきましたが、主郭で弁当を食べながら高橋成計さんも交え、昔の人の土木工事に対するのスケールの大きさに感心していたものです。例えば琵琶湖と若狭の海を結ぶ運河構想は平安時代にあったそうですし。篠山の八上から三田まで田松川という運河も開削されたと教えて貰いました。

淀川などはまさに水運の世界、それと街道との考察はめっちゃ興味があり、脳を刺激してくれました。翌16日は、我が家の直ぐ近くのお宅が土砂崩れで全壊したよ、お前んとこは大丈夫かとの早朝の電話で始まり、帰るにもあちこち通行止めになり京北へ帰るのに苦労しました。
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京都の造り醤油 (mfujino)
2013-09-20 09:49:22
gunkanatagoさん、

>木田醤油は今や京都ではただ一軒の造り醤油屋さんです。
と書かれてますが、鷹峯の松野醤油さんもあそこで造ったはると思いますけど...
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本当ですね。 (gunkanatago)
2013-09-20 18:08:07
 mfujino様、コメントをありがとうございます。丹波の黒井城訪問お疲れ様でした。何とマイクロバスの運転までされたとのこと大活躍ですね。京街道3の当日は、その黒井城のパンフをありがとうございました。波多野氏などでも全国的にはまだまだ知られていない感じですが、赤井氏(荻野氏)などももっと知られていいのではないかと思っています。
 醤油の件は、木田醤油でもらったパンフを見て書きましたが、松野醤油というところもしっかりと醤油を造っておられますね。1つの資料に依拠するときは確認せんとあかんですね。
 若狭は明治維新後しばらくの間は滋賀県だったようで、その後も滋賀県への復帰運動は根強かったようですね。北陸線が開通して初めて越前との一体感も出てきたようです。運河で琵琶湖と結ばれていたら今は滋賀県でしょうね。
 淀の辺り、今は桂川が一番近く、宇治川や木津川と言われたら何か不思議な感じがします。今の三川合流地のはるか上流で合流していたと言うことですね。
 教えていただいた、地図のページ、面白いです。
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若狭・高橋成計さん・今昔マップなど (mfujino)
2013-09-21 00:04:35
gunkanatagoさん、そうです、若狭は一時滋賀県でした。今でも若狭の人は越前とは違うという意識をもっておられます。以前書いたことがあるかと思いますが、高浜から県庁の福井市へ行くより京都市へ行く方が近くて早く行ける、京都府だったらと言っておられます。若狭は京都との関係が歴史的にも文化的にも深いですね。今の福井県の区割りはとても人為的です。もう一つ、越前は原発から離れているのにその補助金の恩恵の一部を教授しているという意識もあると思います。原発事故の影響では京都や滋賀の方がぐんと大きいですし。

琵琶湖と若狭を結ぶ運河、明治で言えば大津と小浜を結ぶ若江鉄道も計画されていました。要は京都へ目が向いていますね。

また琵琶湖や河川の水運は歴史を見るときに絶対に欠かせない視点ですね。山城研究家の高橋成計さん、山猿のように山を飛び歩いておられるばっかしと思いきや、街道や水運についてもめっちゃ詳しいです。一度山城調査に同行させて貰えたらという願望もありますが、何せ山道を走って下られるのでとてもとても付いて行けそうにありません。

今昔マップ、素敵でしょう。もっと古いのだと国会図書館から陸軍測地部の地図コピーを送って貰う方法などもありますが、直ぐに昔の地形図をみられるのが素晴らしい。巨椋池や昔の東海道線のルートもばっちし見られますね^o^ 三川合流の地点も少し上流だったこともわかりますし。惜しむらくはもっと広範囲をカバーして欲しい。

あ、そうそう、私はマイクロバスは運転出来ません。10人乗りのワゴン車を運転してそのフットワークを活かしてます。
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使えますね。 (gunkanatago)
2013-09-21 16:20:34
 mfujino様、今昔マップ、大変面白いですね。堀川が確認できましたし、中之島の東端は未だ天神橋に達していませんね。さらに活用できるようにじっくり見ていきたいです。
 高橋先生のあの長靴で斜面を駈け上る姿、なかなか追いかけるのは困難ですね。高橋先生の解説で黒井城では見えへんものが見えたと師匠も言っておられました。
 江若鉄道は上中への延伸も計画されたことがあるみたいですね。実現していれば文字通りの「江若」になりましたのにね。若狭もこれから原発以外のものに活路を見いだしていかなければならないだろうから大変ですね。おこられるかも知れませんが、この際越前は加賀と合併してかつての大石川県に、若狭は京都か滋賀と合併というのもゆくゆくは議論されるようになるのでは無いでしょうか。現状では行政区分の革新は先ず堺市の解体から始めようというところですか(笑)。
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行きたかったです。 (ささ舟)
2013-09-24 14:28:14
京街道の3回目、雨のなかを優雅に徘徊されている様子を拝見し、正直ちょっと嫉妬してしまいました!
前からここだけは何が何でも参加しょうと決めていましたから、、、京都の地図をながめ始めたころから、三川合流地帯をこの目で確かめたい思いがありました。
男山、天王山を見ながら橋を渡られる写真いいな~、、、
あ、そうそうお醤油醸造屋さんわが町にも慶応年間創業の老舗があります。ちょうど丹山酒造の近くで、突抜町に入ると「京むらさき」のいい香りが鼻をくすぐります。我が家もスーパーが出来るまで樽で買っていました。
また負けじと意地を張るようですが、春日局が住んでいた辺りに春日坂もあります(笑)春日局の母は光秀の妹?それとも姉でしたか?
話がそれすみません。

橋本の遊郭は知っていましたが、歌舞練場もあったのですね、初めて知りました。
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