花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

山下城 戦国史散歩4

2012年05月11日 | 徘徊情報・摂津国
 本日は、というよりも本日も山城。兵庫県川西市の山下にある山下城祉を見に行きます。山下城はこの地方の国人領主であった塩川氏の居城、結果としては豊臣秀吉に滅ぼされましたが、我が三好長慶にも絡むし、隣接する能勢氏とは長い長い争闘を繰り広げました。

 本来は阪急電車宝塚線川西能勢口駅で降りて能勢電車に乗りかえなくてはなりませんが、寝穢く寝過ごして降りたところは一つ向こうの雲雀丘花屋敷駅、「まあいいや。釣鐘山が呼んでいるのかも知れない。釣鐘山を越えていこう。」と北上します。
 いつものことですが、今日も真っ直ぐに釣鐘山を目指せばいいものを自動車の通らぬ道をということで本来の道より3本ほど手前で北に向かいました。そうしたところ、未だ谷のこちら側だったので、結局は谷(といっても住宅地)を詰めてから道路に出ることになり、気が付いたらもう釣鐘山の頂上が近くに見えています。

  

 ところが道が無くなったので、工事現場から悪戦苦闘して頂上にたどり着きました。良い天気で気持ちのいい風が吹いていました。麓の慈光会講堂では花祭りの仏事が行われていると見えて、駐車場には車がイッパイ、こういうのは初めて見ました。

  
  頂上付近から

  
  守護塔

 釣鐘山からは松が丘という住宅地を経て、萩原の古い集落、さらに滝山町に向かいます。途中の八皇子神社、桜はほぼ満開です。花見客は乳母車を押す若い母親と子供だけ。

  

 滝山の半鐘、きちんと鐘がぶら下がっています。支那人に盗まれぬように気を付けなくてはいけません。見たところ、自由に上れるようです。小生が12歳のガキならば、絶対に上って鳴らしてみるのですが、もうそういうガキどもは、この辺りからも駆逐されてしまったようです。まあ、それを叱りつける爺さんも見あたりません。

  

 能勢電車滝山駅から電車に乗りました。山下駅まで20分ぐらいでしょうか。養老院と郷土館だけだった山下付近(何年前やねん)、随分と変わりました。車では時々通っていくのですが、電車で降りるのは随分と久しぶりです。駅からすぐの公園に東谷村道路元標、これはここに移されてきていると思いますが、工事のどさくさに紛れて埋め立て地に持っていかれたりするよりは遥かにいいことです。

  

 少し歩いて、平野神社にたどり着きました。地図を持たぬ(爆)身としては上出来です。神社の説明書きには塩川氏が源満国の子孫であること、1573年に荒木村重がこの辺り一帯に放火を行ったことが記されています。
 一般には塩川氏は藤原氏で、美女丸・幸寿丸伝説の藤原仲光の子孫と言われています。多田御家人の筆頭格ですが、多田御家人は承久の乱後は摂津源氏本家の支配を離れ、幕府に直属しています。塩川氏の出自、調べてから書けばいいのですが、また触れることもあるでしょうから、今はこのまま話を進めます。
 また、1573年の段階で荒木村重が北摂に攻め込んだという記録も無いように思われます。ただ、摂津一国の支配を織田信長によって任され、足利義昭が追放されたこの段階で、依然義昭に忠義を示す諸勢力を平定するということがあったかも知れません。となると村重もエライ悪役やなあ。この辺り一帯、全部焼き尽くしたとされていますから。

  

 平野神社の裏手に延びる山道、こいつは間違いなく城山への道だと決めつけてどんどんと登りました。本年初めての山ツツジにも出会いました。

  
  奥の院かな

  

  

 ところが長い長い尾根道をどんどんと進んでも一向に城跡らしきものに辿り着きません。「もう100メートル」という気持ちがつきまといますが、一旦撤収です。かなり下ったところで犬の散歩に来ていた人に会い、道を尋ねました。
 その方がいうには、この道をまっすぐに進んでも城山には行けるとのこと、ミッドウェイ海戦時の空母の甲板のような感じで、爆弾(一旦降りる)か魚雷か(戻ってきた道をまた進む)と迷いましたが、今後のこともあるのできちんとした登り口を確認しておこうと、結局はそのまま山を下りました。しきり直しです。

 城の大手門はこの辺りでしょうか。とすると塩川国満(長満かも)の首が埋められているはずです。今から考えるとお地蔵さんと六字名号碑がありましたから、それかも知れません。

  
  登り口

 登り口からすぐのところ、左手に2段の削平地。ただここはずっと田として使われてきたようです。

  

 どんどんと登っていくとお堂が2つ、先ほどの方が「かなり急ですよ」と言ってましたがその通りです。まあ、登りが永久に続く訳はなく、やがて広い削平地に出ました。今は桜の植樹が進められているようです。城跡を示す碑などは一切ありません。桜の植樹を進めるのは結構ですが、植えた桜に個人の名を付けさせている(例えばツヨシ君ならツヨシ桜という風に)のはアサマシイ感じです。そんなものは執着を生むだけ。

  

  
  愛宕さん

  

 この広さ、やはり塩川氏歴代の本拠だけに相当な建物が軒を連ねていたのだと想像されます。一段高くなったところが主郭と思われますが、これも相当に広い。

  

  

  
  184米の水準点?

 主郭の北は切り立つ斜面となっていて、「あれ、独立峰なのかな?堀切はいらんかな。」などと考えましたが、念のため下におりていくと、立派な堀切がありました。この堀切と土橋には板に中世城郭研究会という団体の説明書きが記してありました。

  

  
  これは分かりやすい

  
  土橋

 これは帰宅後に知ったのですが、城跡はここだけではなく、谷を挟んで向こうのところ、水準点178米から三角点まで続く尾根筋にもあるとのこと、結局今回はトバ口だけの見学に終わりました。

 山下城は、別名を一庫城、また鹽川城、龍尾城ともいうそうです。応仁の乱における東軍の主将は細川勝元、その子は政元、その養子が澄元、さらにその子が晴元です。晴元の人生は、その前半が父澄元の仇敵であった細川高国との戦い、後半は家臣であった三好長慶との戦いであったと言えます。
 細川高国が大物崩れによって切腹させられたのは享禄4年(1531)、しかしその後の晴元側の混乱もあり(重臣元長の自害、一向宗や法華宗との戦い等)、高国側の残党は各地で反晴元の戦いを続けました。山下城の塩川政年もその一人であったようです。大日本史料所引「厳助往年記」や「細川両家記」では、天文10年(1541)8月12日に「細川晴元、部將三好政長、同範長、波多野秀忠等をして、鹽川政年を攝津一庫城に攻めしむ、尋で、伊丹親興、三宅國村、政年を赴援し、木澤長政に援を請ふ。」とあり、10月2日には「三好範長、同政長、波多野秀忠等、鹽川政年を攝津一庫城に圍む、木澤長政、政年を援くるに依り、是日、範長、同國越水城に退き、政長、秀忠、丹波に奔る、尋で、長政の兵、越水城を圍む。」とあります。ここに言う三好範長が三好長慶です。
 この時は塩川氏は木沢長政の後援により、見事に城を守り抜きました。けれどもこれらの軍事行動は翌年の太平寺の戦いにつながり、木沢長政はこの戦いで戦死します。このブログでよく出てくる宇津氏も塩川氏を援護したかも知れません。翌年の4月に波多野秀忠と三好政長は宇津某を丹波宇津城に攻めています。が、この時も落とせなかった。宇津氏の行動が大胆になるのは、この時の籠城戦が自信になったためかも知れません。

  

 天文17年(1548)に至り、三好長慶は細川晴元や三好政長と袂を分かち、細川高国の養子である氏綱を擁するようになります。この時点までに塩川氏は晴元に帰属していますが、これは太平寺の戦い以後に許しを請うたものと考えられます。その後は三好政長が摂津多田の兵を率いて軍事行動をしていますから、晴元側の戦力の中心にもなったようです。晴元自身も一時期この城にいたみたいで、天文18年(1549)年の5月に晴元が一庫城を出て三宅城(茨木市)に赴いた記事があります。これは三好政長が戦死する江口の戦いの3週間前ですから、江口に陣する政長を後援する意味があったのでしょう。
 江口の戦いの後は晴元は葛川、小野郷、宇津へと流浪します。この時点でなお塩川氏が晴元側であったならば、何らかの記事がありそうなものですが、多分これまでに長慶側に付くことになったのでしょう。考えてみれば、塩川氏自身は多田(広い意味で山下を含む)で頑張っているのに、多田から離れたところでの「決戦」で味方が負けてしまう。いつも「何ぢゃいな」の気分だったでしょうね。そして、塩川氏の当主は政年から国満へ。

 塩川国満は織田信長の武将として活躍しました。天正7年(1579)の4月に信長から銀子100枚を与えられているのは丹波平定に対する国満の精進への褒賞でしょう。信長時代の塩川氏は、勿論酷使はされますが、まずまず安定した日々を送ったようです。
 豊能郡の能勢氏は、先祖は源頼光、室町時代には幕府奉公衆にも任じられ、まあ塩川氏に比べて格上でありました。けれども、織田信長の入京以後はその立場から逆に足利義昭への忠誠を疑われ、一応は明智光秀に属しながらも態度が不明瞭だったのでしょう、能勢頼道はこの山下城で塩川国満に謀殺されます。これは信長が「やれ!」と命じたのでしょうね。能勢氏はその後も明智に属したため、本能寺の変後は一時期領地を失いました。天正12年(1584)までには能勢氏は何らかの形で能勢に復帰していたようで、この時に塩川氏の多田の農民と能勢の農民の間に境界争いが起こります。
 この争いは塩川氏と能勢氏の戦いを引き起こしかけましたが、豊臣秀吉の仲介(実質的な命令)によって決着しました。その秀吉の命令とは双方10名ずつの農民を差し出し、交換処刑をせよという乱暴なものでしたが、まあハカが行くことを第一とする秀吉です。未だ天下も定まっていない時に足許で揉められては困るというところでしょう。この時に多田側の農民が処刑されたところが野間峠付近の心霊スポット「しおき場」だと言われています。
 天正14年(1586)、能勢氏が秀吉の九州征伐に従って出兵中に塩川国満は能勢氏の本拠を急襲してこれを陥落させます。が、それを聞いた秀吉が激怒し、山下城攻めを池田輝政等に命じます。逃れられぬと覚悟した国満が切腹、山下城は開城し塩川氏は滅亡しました。

 と、ここまで読んでいただき甚だ恐縮なのですが、塩川氏の滅亡について、能勢氏との争いがきっかけになったことは虚構である可能性もあります。明智光秀に与した能勢氏の復権は徳川氏の覇権が確立してからというのが一般的な理解であるからです。すると塩川氏は能勢氏の不在につけ込んで豊能郡の支配を狙って何らかの行動を起こした時点で、豊能郡の地侍たちと悶着を起こしたのかも知れません。新たな支配地を上手に治められぬ者への秀吉の態度は肥後国に於ける佐々成政を見れば分かるように峻烈です。結局は秀吉の不興をかって塩川氏滅亡ということになったのかも知れません。別の城山の話になるのですが、多田側には能勢氏の兵に攻められて落城、殿さんが金の鶏を抱いて井戸に飛び込む云々の話も伝わっています。背景には塩川氏の滅亡に「能勢」が関与しているという記憶があるのでしょう。実際のところは、豊臣政権による多田銀銅山接収のとばっちりを受けたというところかも知れません。

 話が長くなりました。好きなものでついつい(笑)。さて、城山から下りた後は川西市の郷土館に立ち寄ります。何か城山に関する著作でも置いていないかなと期待したのですが、郷土館はあくまで郷土館でした。多田銀銅山に関して銅の精錬を行っていた平安(ひらやす)家の旧居を中心に作業場の他、日本最初の工学博士平賀義美氏の邸宅が移築されています。

  

  

  

 多田銀銅山の歴史は古いのですが、この場所で平安家が精錬を行うようになったのは山下城廃城後でしょう。ちょうど城の登り口方面に向かって鉱滓を捨てる場所が設けられていますし、こんなところで精錬したら煙が全部城に向かう。

  
  背景は全て城山

  

  
  精錬所跡記念碑

 このただっ広い施設に見学者は小生一人、建物もさることながら、「池田炭」で知られる菊炭が実はこの地域で焼かれていたということを知ったのも、また別の意味での収穫でありました。

  

  

 どこの地域でも似たり寄ったりだと思いますが、この多田地域についての伝承も江戸時代のいわば「小説」を基にしたものが多くあります。そしてその小説を史料として歴史記述が行われることも往々にしてあります。時代を経るに従い、そういうフィクションが史実とされていきます。これに宗教などが絡むと、出来上がった史実を疑うことが不道徳であるように思われることもしばしばです。まあそれでも、何があったんやろうと酒をチビリチビリと呑みながら、いろんな文書や地図、書籍を手にして考えることは楽しいことではあります。  


6 コメント

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驚嘆の徘徊録です。 (道草)
2012-05-12 18:25:35
この膨大とも思える徘徊録は、桜が満開の頃となれば4月の中旬頃ですか。門外漢(トシのせいもありますが)の私には、右から左で申し訳ありません。細川の姓名を聞くとガラシャを思い浮かべますが、彼女は勝元とは無関係なのですか。確か、傍流の誰かの嫁だったか、と思うのですが。八木町とも少し縁があるので、名前だけは覚えております。不謹慎で申し訳ありません。
半鐘や釣鐘を〝石で鳴らす〟のは中々に面白いものです。智恵光院では寺守のお婆さんに追い掛けられました。宇津村の中地の半鐘は、高くて命中は難しかったものです。いずれも、幼稚園児(前)から小学生の時代です。今はしません。
それと質問ですが、地図を持参されないのは、わざと歩行数を増やすためですか?何にしましても、gunkanatagoさんも健康体を維持されて、これからも益々のご充足を祈っております。
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ガラシャ夫人 (徘徊堂)
2012-05-12 18:40:16
 道草様、コメントをありがとうございます。地図を持たない徘徊になるのは、無計画だからです(笑)。家を出てから、どこに行こうか考えるという悪い癖がついています。
 細川ガラシャ夫人は、細川氏傍流の忠興の妻です。傍流ではあるのですが、肥後一国の太守となりましたので、今では細川氏の宗家的存在になっていると考えていいのではと思います。明智光秀の娘「お玉ちゃん」ですね。
 半鐘に石を当てる悪さ、小生もやりました。それがために誰かに怒られた記憶はないのですが、子供のころは怒られるのが仕事みたいなものでしたから、怒られたのかも知れません。
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地図を広げてみています。 (ささ舟)
2012-05-13 12:14:30
こんにちは~
山下城領主の塩川氏は、「忘れてしまいました~」で有名な?元代議士の塩爺こと塩川清十郎氏と関係があるのでしょうか?何か良いところのお生まれと聞いたような・・・?
先日のテレビで、朝来市の天空の城竹田城の放映がありましたね。とにもかくも最近の大人気のスポットで、ものすごい観光客でした。以前から行きたいと思っていましたが、あの様子をみてもう少し熱がさめてからと云う気になりました。観光パンフレットには多田銅山も含まれていました。いずれにしても歴史が判ればさぞや楽しいきめ細かな散策ができるだろうにと、勉強苦手の我、いつも思うばかりです。
池田、川西、猪名川、能勢のこと、こちらのブログで少しづつ覚えられるようになり、地図を広げて位置を確かめるだけでも嬉しくてなりません。ありがとうございます♪








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摂丹 (mfujino)
2012-05-13 21:25:27
gunkanatagoさん、この城山、多田銀山のことが出てきましたので、地図を見て最初は銀山近くの城山404.7と勘違いし、えらい長距離を歩いたんやなあ~と感心していましたが、山下駅すぐそばだったんですね。すぐ裏が一庫ダムがある。
今回の話は私が知識では全く着いていけません。ただ丹波の山城にいろいろ興味を持ち始めておりますので、丹波のお隣摂津あたりも範囲に入ってくるのかなあ、、、
しかし地図を見ていますと団地が山を飲み込むように浸食している様に見えてきます。
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塩爺 (gunkanatago)
2012-05-14 13:25:25
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。そう、小生も一番最初に塩爺のことを考えました(笑)。どこかでつながっているのではと思うのですが、塩爺とこは河内の旧家でした。
 あこがれの丹波につながっていく北摂、今改めて「どこにも行ってなかったなあ」と反省しています。この山下城近辺も多田銀銅山の坑道が随所にあるようですが、江戸時代の鉱山の運営は現在の猪名川町が中心であったようですね。あの「まぶ」の中のひんやりとした空気を是非味わってもらいたいと思います。機会があれば、御案内しますね。
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全部つながって (gunkanatago)
2012-05-14 13:37:17
 mfujino様、コメントをありがとうございます。先日、高槻のふれ合い歴史館の永井直清(高槻藩初代藩主)展に行ったところ、高槻藩が多田銀銅山に関係する30ヶ村を幕府に献上、替え地として北桑田郡の土地を賜るという記述がありました。「おー、全部つながってるではないか!」と随分と感心しました。
 山城探索、楽しいですね。どんなところにも埋もれたドラマがあったはず。のめり込む(笑)機会を与えて下さったmfujino様には本当に感謝いたしております。そして、今は最初に「ここか」と思われた銀山近くの城山が気になっています。
 山下近辺は、ムチャクチャに変わりました。この城跡は本当に良く残ったなあと思います。
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