
釣鐘山は兵庫県の川西市と宝塚市にまたがる山です。遠い昔にその山頂で行者が入定したという伝説があり、久しく川西市の小戸集落が入会地として管理してきたようですが、現在は慈光会によって守られています。
山頂にいたる道として造られているのは感謝坂、懺悔坂、精進坂の三道ですが、立派な階段が整備されているのは感謝坂です。トップの写真は感謝坂の入り口になります。
慈光会は昭和初期に霊験を得て突如出家された空覚尼さんを中心にして、その信者さん達とともに創られたものですが、空覚さんが亡くなられて50年以上も経つ今も釣鐘山を守っておられます。空覚さんが宗教活動(この表現は何か軽薄な感じもしますが)を始められた時期は、ちょうど大本教が大弾圧を受けていた時期で、大本とは無縁であることを示すために曹洞宗の一分派として活動を始めたということです。
空覚さんの教えは、この世界の諸仏・諸神、人間、動物等々全てのものは大宇宙の「真源」から生み出されたものであるという考えが根底にありますから、排他性は全く無くて、養老院など社会福祉活動に尽力するキリスト者をも絶賛されて、川西市の山下にあった養老院には何度も足を運んでおられます。ですから、曹洞宗云々は方便であったのですが、それでも昭和の前半には曹洞宗の長老方も多数釣鐘山に足を運ばれたようです。

若菩塚
遡っていくと「テイチク」の創業者の一人といえる方で空覚さんの夫であった方の供養塔。妻が突然に霊能者(この言い方も軽薄ですが)として家を出た後、ものすごい葛藤を経て、やがて空覚さんの信者となっていった方です。空覚さん自らがこの間の事情を夫だった人は「嫁さんを空覚に取られ云々」と表現されています。
昭和の10年あたりからは実兄(雛山を名乗る)ともども慈光会の活動を経済的にも精神面でも支える立場に立たれたようで、自らを「若菩」と称して、事業からは完全に手を引かれたようです。若菩さんは終戦直後に亡くなられましたが、昭和15年の集まりの時に「私は、あと20年、空覚様を生かして下さいと祈りました。」と言っておられ、そして空覚さんが亡くなられたのが昭和35年というのは、本当に不思議です。

市街を望む
現在、釣鐘山に登ると多くの石仏や供養塔の全てに花が手向けられ、フッと良い香りが鼻をくすぐる時があります。以前に記しましたが、下の馬頭観音像は、その建立の経緯について小生が最も感動したところの仏さんです(軍馬・軍用犬・伝書鳩の供養のため)。

山頂近くには行者の供養塔があります。この塔は花屋敷荘園を開発された方が建立されたものです。行者は入定にあたり、盆にこの山頂で火を炊くと麓の田畑に干害無しと言い残し、その行事は小戸集落の人たちによって長らく実施されてきましたが、既に小戸集落の田畑は殆どが市街地となり、今は慈光会がそれを受けついでいます。

行者供養塔
供養塔から少し下ったところに白亜の空堂があります。昭和11年11月11日に落成し、空覚さんが住まわれたところですが、水道を引くまでは毎日水を持って上がったとのことです。その空堂には、池田市の呉服橋のたもとにあった寺の本尊であった釈迦如来像が祀られています。今は閉まっている状態が続いていますが、辺りの雰囲気は粛然としたものがあります(今回は写真無し)。
空堂から精進坂を一気に下れば、講堂。レコード会社の吹き込み所の跡に立てられました。この講堂が慈光会の平生の集いの場、正面には長い流浪を経て本尊として来られた観音菩薩立像が祀られています。

この日、前を通ったときに、山の仏像に花を手向けておられた方にペコリと挨拶をしました。すると、その方が「観音さんに参って行かれますか?」と言って下さったので、講堂に上げていただきました。何をどうしていいかも分からないので、ひとまず観音さんにもペコリとして、後ろを見れば、その方はまさしく五体投地の状態で礼拝されていて、こちらも慌てて、もう一度観音さんに手を合わせました。空覚さんが亡くなられて半世紀以上になりますが、その教えは粛々と受けつがれています。
ここからは、池田に出向いていつもの「たこ焼き」、途中に小戸神社の前を通ります。式内社ですが、往古は、ここよりももっと釣鐘山に近いところにあったと思われます。その旧社地については何の手がかりもありません。

小戸神社
呉服橋に近づくと五月山が迫ってきます。川を渡ると池田市、すぐにたこ焼きにありつくことができます。以前は、池田側のどこからでも釣鐘山を見ることができましたが、阪神高速や高層ビルの建設で、なかなかに見えない山になってしまいました。

山頂にいたる道として造られているのは感謝坂、懺悔坂、精進坂の三道ですが、立派な階段が整備されているのは感謝坂です。トップの写真は感謝坂の入り口になります。
慈光会は昭和初期に霊験を得て突如出家された空覚尼さんを中心にして、その信者さん達とともに創られたものですが、空覚さんが亡くなられて50年以上も経つ今も釣鐘山を守っておられます。空覚さんが宗教活動(この表現は何か軽薄な感じもしますが)を始められた時期は、ちょうど大本教が大弾圧を受けていた時期で、大本とは無縁であることを示すために曹洞宗の一分派として活動を始めたということです。
空覚さんの教えは、この世界の諸仏・諸神、人間、動物等々全てのものは大宇宙の「真源」から生み出されたものであるという考えが根底にありますから、排他性は全く無くて、養老院など社会福祉活動に尽力するキリスト者をも絶賛されて、川西市の山下にあった養老院には何度も足を運んでおられます。ですから、曹洞宗云々は方便であったのですが、それでも昭和の前半には曹洞宗の長老方も多数釣鐘山に足を運ばれたようです。

若菩塚
遡っていくと「テイチク」の創業者の一人といえる方で空覚さんの夫であった方の供養塔。妻が突然に霊能者(この言い方も軽薄ですが)として家を出た後、ものすごい葛藤を経て、やがて空覚さんの信者となっていった方です。空覚さん自らがこの間の事情を夫だった人は「嫁さんを空覚に取られ云々」と表現されています。
昭和の10年あたりからは実兄(雛山を名乗る)ともども慈光会の活動を経済的にも精神面でも支える立場に立たれたようで、自らを「若菩」と称して、事業からは完全に手を引かれたようです。若菩さんは終戦直後に亡くなられましたが、昭和15年の集まりの時に「私は、あと20年、空覚様を生かして下さいと祈りました。」と言っておられ、そして空覚さんが亡くなられたのが昭和35年というのは、本当に不思議です。

市街を望む
現在、釣鐘山に登ると多くの石仏や供養塔の全てに花が手向けられ、フッと良い香りが鼻をくすぐる時があります。以前に記しましたが、下の馬頭観音像は、その建立の経緯について小生が最も感動したところの仏さんです(軍馬・軍用犬・伝書鳩の供養のため)。

山頂近くには行者の供養塔があります。この塔は花屋敷荘園を開発された方が建立されたものです。行者は入定にあたり、盆にこの山頂で火を炊くと麓の田畑に干害無しと言い残し、その行事は小戸集落の人たちによって長らく実施されてきましたが、既に小戸集落の田畑は殆どが市街地となり、今は慈光会がそれを受けついでいます。

行者供養塔
供養塔から少し下ったところに白亜の空堂があります。昭和11年11月11日に落成し、空覚さんが住まわれたところですが、水道を引くまでは毎日水を持って上がったとのことです。その空堂には、池田市の呉服橋のたもとにあった寺の本尊であった釈迦如来像が祀られています。今は閉まっている状態が続いていますが、辺りの雰囲気は粛然としたものがあります(今回は写真無し)。
空堂から精進坂を一気に下れば、講堂。レコード会社の吹き込み所の跡に立てられました。この講堂が慈光会の平生の集いの場、正面には長い流浪を経て本尊として来られた観音菩薩立像が祀られています。

この日、前を通ったときに、山の仏像に花を手向けておられた方にペコリと挨拶をしました。すると、その方が「観音さんに参って行かれますか?」と言って下さったので、講堂に上げていただきました。何をどうしていいかも分からないので、ひとまず観音さんにもペコリとして、後ろを見れば、その方はまさしく五体投地の状態で礼拝されていて、こちらも慌てて、もう一度観音さんに手を合わせました。空覚さんが亡くなられて半世紀以上になりますが、その教えは粛々と受けつがれています。
ここからは、池田に出向いていつもの「たこ焼き」、途中に小戸神社の前を通ります。式内社ですが、往古は、ここよりももっと釣鐘山に近いところにあったと思われます。その旧社地については何の手がかりもありません。

小戸神社
呉服橋に近づくと五月山が迫ってきます。川を渡ると池田市、すぐにたこ焼きにありつくことができます。以前は、池田側のどこからでも釣鐘山を見ることができましたが、阪神高速や高層ビルの建設で、なかなかに見えない山になってしまいました。

家内が、花山天文台作成の〝専用眼鏡〟を入手したのですが、結構な値段でした。
小学生の頃に、下敷きで日食(多分、皆既日食か部分日食)を見た記憶がありますけど、あれで十分でした。
5月も後10日弱で終わろうとしています。緑はいよいよ濃く、gunkanatagoさんお気に入りの釣鐘山も、一年で最も美しく穏やかな時季を迎えることでしょう。
山頭火の日記で、確かこんな内容の記載がありました。私などは懺悔ばかりですが・・・。
>感謝、懺悔、精進への生活道は平凡ではあるがそれは確かに人の本道であるとつくづく思うと尋常である。
この三道は所詮一つだ。懺悔があればそこに感謝があり、精進があればそこに感謝がある。感謝の心で死んで行きたい。<
山頭火に感謝、懺悔、精進を教示したのは愛媛の大学の先生ですね。その先生の師匠が空覚さんです。先生の子孫の方とは現在なおつきあいがあるとのことです。
名前を出しておられないのでもしかしたら違うかも知れませんが、多分その先生、最初は大学の先生ということで大変横柄な感じだったそうです。そのことをビシッと指摘されて、たちまち態度を改めたというあたりは偉い人だったのだなと思います。
山頭火はこの後すぐに死んでいますから、死の直前に空覚さんの教えに触れたというところでしょうか。
金環日食の話が出ていますが、私は朝7時半頃ちゃんと下敷きで見せて貰いましたよ~。昼間のショーにしてくれなどと自然が自分の都合に合わせるべきだとは、、、これを聞いて空覚さんはどう反応されるでしょうね。「おほほ、、」と笑われたかも知れませんね。
話は一転、先日我がブログで紹介した墓マイラーさんが再度八坂神社の石造物の拓本取りに来られましたが、我が家の直ぐ近くも行者さんの修行の場だった様です。今は行者さんを偲ぶ小さな祠が残るのみですが、地元の事をもっと知らないとという気持ちにさせて頂きいたことです。
八坂神社の辺りも修行場だったのですね。時代が経つに連れて分かることと分からないこととでは、分からないことの方が多くなっていきますが、それでもたまにポロッと昔のことが顔を出しますね。その顔を出したのをグッと掴んで肩、胴、足と引きずり出したいのですが、なかなかうまくいきません。「ああ、あれはわからんねん。」というやつは本当に分かりませんね。
20年ほど前、主人が倒れて落ち込んでいる時、知人が川西花屋敷の美しい観音さんに会いに行きましょう、癒されるよ、と、一度だけ車で連れて行って下さいました。講堂には美しく着飾った大勢の方(信者さん)がお参りされていました。法話も聴いたように思うのですが、私の精神状態が最悪の時でしたので、内容はすっかり忘却の彼方へ。釣鐘山の山容、どうも見覚えがあるのですよ。数年前その方が遠くに行かれたから聞きようがありませんが。
花屋敷、観音さん、講堂と3つそろえば釣鐘山以外は考えられません。法話は多分空覚さんの息子さんがされたのだと思います。それにしても世間は狭いですね。ささ舟様を釣鐘山にお連れした方、釣鐘山とはどのような御縁だったのでしょうね。小生は最近釣鐘山に通うようになって子供のころからの謎が幾つかほぐれました。また、機会があれば山上にも御案内したいと思います。