goo blog サービス終了のお知らせ 

願榮寺 福峯だより ブログ版

真宗大谷派・願榮寺の情報をいち早くお伝えします。

8月の御文

2024年07月31日 | お寺のこと

 8月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 8月 拝読  「末代悪人 (まつだいあくにん)」 の御文 (第五帖 第十九通)

 【原 文】

 それ、末代(まつだい)の悪人・女人たらん輩(ともがら)は、みなみな心を一(ひとつ)にして、阿弥陀仏をふかくたのみたてまつるべし。そのほかには、いずれの法を信ずというとも、後生のたすかるという事ゆめゆめあるべからず。しかれば阿弥陀如来をばなにとようにたのみ、後生をばねがうべきぞというに、なにのわずらいもなく、ただ一心に阿弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまえとふかくたのみ申さん人をば、かならず御(おん)たすけあるべき事、さらさらうたがいあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

  さて、末の世に生きる悪人や女人は、みなこころを一つにして、阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げるべきです。そのほかにはどのような教えを信じたとしても、後生がたすかるということは決してありません。それでは、阿弥陀仏をどのようにおたのみして、後生を願うべきであるかといえば、何の心配もなく、ただ一心に阿弥陀如来をしっかりとたのみ、後生をおたすけくださいと深くおたのみ申し上げるのがよいでしょう。そのような人を必ずおたすけくださることは断じて疑いありません。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。


7月 同朋の集い開催のご案内

2024年07月23日 | お寺のこと

 7月の同朋の集いを下記のとおり開催します。

 どなたさまもお気軽にご参加ください。

          記

 ● 日時 : 7月27日(土) 午後1時30分から

 ● 場所 : 願栄寺本堂

 ● 内容 : 1.真宗宗歌斉唱

      2.勤行 正信偈同朋奉讃式

      3.視聴覚学習  ~ヒトとクマ~

      4.正信偈  ~ 親鸞聖人のお心を知る ~ 第18回

      5.唱歌を歌おう!

      6.お知らせ

      7.恩徳讃斉唱

 ※ LINE公式アカウントでポイントカードをお持ちの方には、1ポイント付与いたします。

      


福峯だより7月号発行

2024年07月03日 | お寺のこと

 願栄寺広報紙 「福峯だより」 7月号の発行準備が調いました。

 ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。

 


7月の御文

2024年06月28日 | お寺のこと

 7月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 7月 拝読  「当流聖人 (とうりゅうしょうにん)」 の御文 (第五帖 第十八通)

 【原 文】

 当流(とうりゅう)聖人のすすめまします安心(あんじん)というは、なにのようもなく、まず我身(わがみ)のあさましきつみのふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)のこころをさしおきて、一心に、阿弥陀如来後生(ごしょう)たすけたまえと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとえば十人は十人、百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまうべし。これさらにうたがうべからざるものなり。かようによくこころえたる人を、信心の行者というなり。さてこのうえには、なお我身の後生のたすからんことのうれしさを、おもいいださんときは、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

  当流親鸞聖人がお勧めになる安心(あんじん)というのは、何のはからいもなく、ともかくも我が身の浅ましく罪深いことに煩(わずら)わされずに、さまざまな雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)をたのみとするこころを打ち捨てて、一心に阿弥陀如来よ、後生をおたすけくださいと一念に深くおたのみ申し上げるならば、そのような者を、たとえば十人であれば十人ながら、百人であれば百人ながら、みな漏らすことなくおたすけくださるに違いないというものです。このことを決して疑ってはなりません。このようによく心得た人を信心の行者というのです。さてこのうえには、さらに我が身の後生がたすかることのうれしさを思い出すにつけても、寝てもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えるべきです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。


福峯だより6月号発行

2024年06月13日 | お寺のこと

願栄寺広報紙 「福峯だより」 6月号の発行準備が調いました。

ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。


6月の御文

2024年05月31日 | お寺のこと

 6月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 月 拝読  「一切聖教 (いっさいしょうぎょう)」 の御文 (第五帖 第九通)

 【原 文】

 当流の安心(あんじん)の一義というは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとえば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまえるこころなるがゆえに、南無の二字は帰命のこころなり。帰命というは、衆生の、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすてて、阿弥陀仏後生(ごしょう)たすけたまえと、一向にたのみまてまつるこころなるべし。このゆえに、衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめて、たすけましますこころなり。これによりて、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆえに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなわちわれら一切衆生の、平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるというも、これ、しかしながら、南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆえに、一切の聖教(しょうぎょう)というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を、信ぜしめんがためなりというこころなりと、おもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

  当流の安心についての教えというのは、ただ南無阿弥陀仏の六字の意味合いに極まります。つまりそれは、南無と帰命すれば、ただちに阿弥陀仏がおたすけくださるこころを表しているものです。ですから、南無の二字は帰命の意味であり、その帰命というのは、衆生がさまざまな雑行(ぞうぎょう)を捨てて、阿弥陀仏よ、後生(ごしょう)をおたすけくださいと一向におたのみ申し上げるこころを言うのです。そして阿弥陀仏の四字は、このたのむ衆生を漏らすことなく、阿弥陀仏がよくお知りになり、おたすけくださるこころをいいます。これによって、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏がおたすけくださる道理となるのですから、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなわちわれわれ一切衆生が必ず平等にたすかるというすがたなのだと知られるのです。それゆえ、他力の信心を得るというのも、そのまま南無阿弥陀仏の六字のほかありません。したがって、すべての聖教(しょうぎょう)というものも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせようとするためのものだと思うべきです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。


福峯だより5月号発行

2024年05月07日 | お寺のこと

願栄寺広報紙 「福峯だより」 5月号の発行準備が調いました。

ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。

 

 


5月の御文

2024年04月29日 | お寺のこと

 5月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 5月 拝読  「信心獲得 (しんじんぎゃくとく)」 の御文 (第五帖 第五通)

 【原 文】

 信心獲得(ぎゃくとく)すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆえに、南無と帰命する一念の処(ところ)に、発願回向(ほつがんえこう)のこころあるべし。これすなわち弥陀如来の、凡夫(ぼんぶ)に回向しましますこころなり。これを『大経』には「令諸衆生功徳成就(りょうしょしゅじょうくどくじょうじゅ)」ととけり。されば無始巳来(むしいらい)つくりとつくる悪業(あくごう)煩悩を、のこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)のくらいに住(じゅ)すとなり。これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃をうといえるは、このこころなり。此義(このぎ)は当流一途(いちず)の所談(しょだん)なるものなり。他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能々(よくよく)こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

  信心を得るというのは、弥陀の第十八願を心得ることをいいます。そして、この願を心得るというのは、南無阿弥陀仏の意味合いを心得ることをいいます。つまり、南無と帰命(きみょう)する一念のところに、発願回向(ほつがんえこう)のこころがあるのです。すなわちこれは、弥陀如来が凡夫に功徳を回向してくださるこころです。これを『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』には「令諸衆生功徳成就(りょうしょしゅじょうくどくじょうじゅ = 諸々の衆生に功徳を満足させる)」と説いています。そこで、はるか遠い昔よりつくってきたすべての悪業(あくごう)や煩悩を残すことなく、不思議なる願力のおはたらきによって消してくださる道理があることとなって、正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)の位(くらい)につくことができるのです。したがって、自らの力で煩悩を断じることなく涅槃(ねはん)を得るというのは、この意味合いをいうものなのです。この教えはただ当流において談ずるものです。他流の人に対して、これについてあれこれ論ずるべきではありません。よく心得てください。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。


福峯だより4月号発行

2024年03月31日 | お寺のこと

願栄寺広報紙 「福峯だより」 4月号の発行準備が調いました。

ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。

 


4月の御文

2024年03月28日 | お寺のこと

 4月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 月 拝読  「抑男子女人 (そもそもなんしにょにん)」 の御文 (第五帖 第四通)

 【原 文】

 抑(そもそも)、男子(なんし)も女人(にょにん)も、罪のふかからん輩(ともがら)は、諸仏の悲願をたのみても、いま  の時分(じぶん)は末代悪世なれば、諸仏の御(おん)ちからにては中々(なかなか)かなわざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申奉(もうしたてまつ)るは、諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人を、我たすけんという大願をおこしましまして、阿弥陀仏となり給えり。この仏をふかくたのみて、一念、御(おん)たすけ候えと申さん衆生を、我たすけずは正覚(しょうがく)ならじとちかいまします弥陀なれば、我等(われら)が極楽に往生せん事は、更(さら)にうたがいなし。このゆえに一心一向に、阿弥陀如来たすけ給えと、ふかく心にうたがいなく信じて、我身(わがみ)の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて、一念の信心さだまらん輩(ともがら)は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、更(さら)に、うたがいなし。このうえには、なおなお、とうとくおもい奉らんこころのおこらん時は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいわず、所をもきらわず、念仏申(もうす)べし。これをすなわち仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏と申(もうす)なり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

  さて、男性であれ女性であれ、罪の深い者は、諸仏の悲願をたのみとしても、今の時節は末代の悪世ですので、諸仏のお力ではなかなか容易に救われません。そういうわけで、阿弥陀如来と申し上げるお方は、諸仏に超え勝れて、十悪・五逆の罪人をわたくしがたすけようという大願を起こされて、阿弥陀仏となられたのです。この弥陀は、われを深くたのみとし、一念おたすけくださいと申す衆生をたすけないうちは、わたくしも成仏しまいとお誓いくださったのですから、わたくしたち衆生が極楽に往生することは決して間違いありません。ですから一心一向に、阿弥陀如来よ、おたすけくださいと深くこころに疑うことなく信じ、我が身の罪の深いことに煩(わずら)わされずに仏におまかせし、一念の信心を定めるような人は、十人ならば十人ながら、百人ならば百人ながらみな浄土に往生することは、断じて疑いのないことなのです。このうえに、さらに尊く思うこころが起こるときには、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時も所も選ぶことなく念仏申すのがよいでしょう。これをすなわち、仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏というのです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。