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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

20,姥鴉 ④

2025年06月02日 08時18分22秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作











・滝本氏は、

(みな性に合わんですなあ
人間、性に合わんことは、
やったらあきまへん)

とにこにこしつついう

滝本氏の趣味は何かというと、
猫の額ほどの畠を耕すこと、
テレビを見ること、
本を読むこと、
魚釣り、
赤提灯の店で一杯やること、
などだそうである

ちょうどクラブの幹事をしている、
老医師の楠木さん、
それに芦屋の女子大の教授、
藤井さんも魚釣りが趣味であるところから、

(仲間に入って下さいよ、
どうせみな、
ひまつぶしにやっているのですから)

と滝本氏を誘いこんだのであった

滝本さんは、
無趣味だといいながら、
古典講座にもちょいちょい来て、
耳を傾けている

私もだんだん、
滝本氏が好もしくなり、

(世の中には、
亡夫みたいな男ばかりではないらしい
自然体で気取らない、
ほどのいい男もいるものらしい)

とこの年になって開眼したのだった

また、女子大教授の藤井先生、
もとは国立大の先生であったが、
定年後、女子大で先生になったという、
品のよいインテリ紳士

この人は七十三歳であるが、

(トシとって、
女子大のセンセするのよろしで
美しい娘はんらが、
階段登るのん手ひいてくれたり、
後ろから押し上げてくれたり、
優しいにしてくれる
お嬢さん学校やよって、
すれっからしの子はいてませんしな)

とおっとりいったりして、
インテリの無邪気さというのがよい

インテリ男は、
トシ取るとどうしようもなく、
インテリ臭にみちみち、
偉そうにしてつきあいにくいものであるが、
インテリもうまくトシを取ると、
ほどよく無邪気になるという、
見本のような先生である

そうしてクラブの中では、
「センセ」といわれるのを嫌がり、

「藤井さんと呼んで下さい」

というような人である

この人もやもめで、
息子夫婦と同居している

私がただいま充実して、
夢うつつの人生を過ごしているのは、
女の友人たちもさりながら、
こういう、ほどのいい男の友人が、
出来たからである

独り身の残世に虹が立つのは、
こんな気持ちのいい男たちと、
知り合えたからである

「この前お約束しました魚釣りですが」

と滝本さんはいう

「はいはい」

と私も心はずんで受け答えする

「日曜は混みますよって、
水曜に予約しときました、
釣舟を」

「あら、嬉しいこと」

「藤井さんと三人で行きますか
楠木さんはその日、
具合わるい、いうて、
残念がっておられました」

「海釣りなんて初めてですわ」

「海は、
淡路や和歌山も面白いんですが、
ま、追い追いに」

この度は垂水の沖へ船を出してもらう

魚釣りの心得など全くない私は、
わくわくしてしまう

滝本さんは注意した

「ご婦人は舟に乗られると、
トイレに難儀されます
その点は前もって覚悟して頂きたいです」

「あ、なるほど
私は船酔いせえへんから大丈夫、
思てましたけど、
そっちの心配がありますわねえ」

「前もって、
おしっこはしっかり、
すませて下さいということですな」

「お天気になればよろしいわねえ・・・」

私は電話を切って、
朝もやの晴れかかる海を眺める

見よ、これこそ女の虹ではないか

いやみのない、
ほどよい男と、
遊山の打ち合わせをする、
このときの心はずみほど、
夢うつつなものがあろうか

長生きした・・・
と来しかたをふり返るひまもないではないか

ここまで来るのに、
人間、七十八年もかかっているのだ

秋の海は一分一分と明るくなる

一番電車で垂水へ着き、
すぐ舟に乗り込んだのであるが、
もう魚釣り舟が沖には無数に散っている

私は白いピケの帽子にジーンズ、
日焼けを心配して長そでのトレーナーを着ている

滝本さんは麦わら帽子に作業着、
という恰好

腰にタオルをぶら下げ、
はだしにゴム草履という釣り人の風体

船頭の爺さんは手を出して、
私を舟に引っ張り込んでくれる

細い踏み板を踏んで、
ひやひやと舟へ乗り込むのも、
中々よろしいものである

「いまはキス、青ベラなんかですな
アジも釣れます」

という滝本さんは、
船頭の爺さんと心安いらしく、
潮流や魚のことを話題にする

爺さんはエンジンをかけて早速、
舟を走らせる

風に逆らって舟は沖へすべり出し、
心も浮き立つ潮の匂いが鼻を」」うつ

都会の盛り場を、
綺麗にお化粧して歩くのが好きな私、
ではあるけれど、
こういう大自然に囲まれて、
海風に髪を吹かれているのも好きである

「藤井さんは残念でしたわね、
急用ですか?」

と私はいった

「そうらしいですな
ゆうべ、私のところへ電話があって、
残念がっておられました
またいくらでも機会はありますよってと、
いうてなぐさめました」

「そうですわ、
また今度は淡路へも和歌山へも、
参りましょう」

と私はいうが、
私ぐらいのトシになれば、
その機会は二度ともう、
来ないかもしれないのだ

それを滝本さんも藤井さんも、
たぶんようく知っていることであろう

でも、それをようく知っていながら、
「いくらでも機会はある」
というところが私たち世代の、
おとなのたしなみである






          


(次回へ)



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