
・楠木さんはかしこい人でもあるから、
私と同様、
村中夫人の大体のアウトラインを、
さぐりあてたとみえ、
さからわぬようにしている
「わたくしのほうは、
油画をはじめておりますの
前は日本画でしたが、
釈然といたしませんので、
五十五の年から油画にかえましたの」
「ほう、パンジークラブでも、
油画サークルがありますが、
展覧会に出品なすったらいかがですか」
「ふふん」
とまた村中夫人は強烈にいった
「わたくし、
まだまだ、人さまの前に出すには、
とてもとても、
というところですわ」
「いや、
パンジークラブは同好会ですから、
入選落選などという決まりはありませんよ」
「いいえ、
べつに他人の目で、
入選落選を決めて頂く必要は、
ないことですし、
ふふん」
このへんから、
私は村中夫人の言葉も耳障りになってきた
実に妙な女である
私は言葉を交わすのを控えていたが、
村中夫人は私の耳にも、
自分の意見をねじこみたいようであった
「人さまがおっしゃるんですけどね、
わたくしの鑑識眼は大変高いそうです
目が高い、っていうのは、
不幸でございますわねえ
自分自身の作品に対しても妥協できなくて、
とてもとてもこれでは・・・
ということになりますわ
まずは老後の楽しみ、
それにいささかの芸術志向によって、
手なぐさみしているというところでしょうか」
これは自慢ではないか
女の自慢はべたべたとまわりくどくて、
いやらしい
とても男の自慢のようにはいかない
早く西宮のホールへ着けばよい、
と思うのに道路は混んで、
ゆっくり走っている
村中夫人がなにごとも、
自信ありげにいうので、
私はこの人も教師をしていたのであろう、
と思った
何ごころもなく、
座つなぎのつもりで、
「何かお仕事をなさってましたの」
というと、
たちまち村中夫人は金切声で答えた
「わたくしは専業主婦です
胸を張ってそう申し上げます
専業主婦の仕事も、
なまなか出来ることじゃありませんわ
日常のことならともかく、
生涯の人生設計をたてるとなりますと、
信州の山荘に五か月、
白浜のマンションに二か月、
あと、京都・奈良・阪神間をめぐるという、
こういう遠大なプランを実現させるためには、
フツーのボーッとした専業主婦では、
出来ません!」
私はびっくりして口をつぐみ、
楠木さんはあわてて、
「ご尤もご尤も」
とうなずいた
「自分で申すのもナンですけれど」
村中夫人はうっとりした、
ひびきの声になり、
「こう見えてわたくしは、
若いころから、
何かしら才能があったのかもしれませんわ
女学生の頃には
『あなたのような女性が学問しなきゃ、
学問する女性はいない』
と進学をすすめられたり、
洋裁のアルバイトをすれば、
婦人雑誌の附録の先生に推薦したい、
といわれたり、
ちょっと地域の問題で運動すれば、
『あなたぐらい政治家に向いた、
女性はいない、ぜひ政治家に』
とすすめられたり・・・」
さすがの楠木さんも、
いまは黙って運転している
「ある社長は、
『あなたなら社長も出来る、惜しい』
とため息をつかれたりしました
自慢でいうんじゃありません
事実だから申しあげているんです
でも、わたくし、
そのどれも鄭重にお断りしましたの
そして教師の妻として三十年近く、
やっと晴れて信州の山荘に・・・」
どこを廻ろうと好き好きであるが、
自慢の臭みでまわりを疲れさせるのだけは、
やめてほしいものである
パンジークラブはみな、
大人の節度のある、
感じのいいシルバーエイジの、
人々ばかりであるのに、
なんでこんな風変わりな人が、
もぐりこんだものやら、
ことに私がカチンときたのは、
「いいトシをしてまで、
働くというのが、
人間の幸せとは思えませんわ」
というコトバである
悠々自適は働く人のうちにこそあるのだ
老先生でなければ、
という古い患者の脈を取り、
わずかばかりの習字教室へ、
せっせと顔を出し、
息子と電話で渡り合い、
嫁に自慢させて自信を取り戻させ・・・
そういう怱忙の人生の中に、
いうにいえぬ悠々自適の人生の閑雅が、
含まれているといわねばならぬ
「それはまあ、
とてもお幸せそうなお暮しですけれど」
私は笑いながらいった
「私ゃその、
定年になった大学の先生が、
私大へ行ったり、
あちこち夏期講座を東奔西走、
していらっしゃるというお暮しも、
ええやないかと思いますわ
楽しそうなんですもの
さぞ充実していらっしゃることでしょうねえ」
「だけど山荘へも、
殆ど来られない生活ですわよ、
どういうつもりか、
首をかしげてしまいますわよ」
村中夫人は、
私に答えるために、
わざわざふり返り、
勝気そうな吊目で私を一べつする
「わたくしどもは実をいうと、
笑っていますのよ
建てたきりで、
その大学の先生は一度も、
来ていらっしゃらないんですからね
そんな生活しなくてよかった!
と思いますわ
わたくし、
何が大学教授だと思ってますの
夫が大学教授だといって、
威張るおくさんにふふん、
という気ですわ」
そうか、
と私は思った
村中夫人はそのことに、
コンプレックスを持っているのでは、
なかろうか
私が一向感心しないので、
やっきになって、
シートベルトをはずし、
ほとんど半身うしろへ向けて、
私にいう
「わたしどもはね、
夏の五か月は信州の山荘、
蓼科ですわ
それから冬の二か月は白浜の、
リゾートマンション、
海が見えて、
毎日、温泉に浸かれるんですよ、
おわかり?
家の中に温泉ですわよ!」
「今は温泉の花、
というのを売ってますから、
どんなマンションだって、
すぐ草津温泉や白浜温泉に、
なってしまいますけど」



(次回へ)