むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「1」 ⑩

2024年08月29日 07時47分06秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・私はいつまでも慣れない
子供の愛らしさに

吉祥の「うまうま」や、
小隼が熱心に紙を破っている時の、
無心な真剣さに
心おどらされ、ときめく

乳母のいうように、
吉祥は二、三ヶ月経つと、
這うようになった

私はまた、
ちょっとした子供の病気に、
世界がつぶれるかと思うほど、
心をいためた

「大丈夫でございますよ
熱もないようですし
ちょっとした風邪でしょう
風邪のときに、
赤いぶつぶつの出る子も、
おりますよ」

と浅茅はいい、
私のようにあわてふためいては、
いなかった

子供の可愛らしさに敏感な私は、
また子供の憎らしさにも、
神経質な未熟なおとなであった

おとなの話に口を出してくる、
小鷹や小隼に、
本気で怒りを感じた

そういう時の子供は、
さかしらで可愛げなく、
要するに私は、
愛執と嫌悪との間で、
極端に揺れた

「いちいち本気になるな
お前のほうが疲れちまうよ」

則光は、
子供に口答えしている、
私に注意した

子供が私に口答えするのではなく、
私が子供に口答えしているのだった

子供たちが来てから、
日のたつのは早くなった

則光はいつも、上機嫌だった
あの頃は・・・

何も不足をいうことが、
ないらしかった

昇進の遅いのをのぞいては

私は嵐にもまれ、
無我夢中で暮らしていた

たまに子供たちが、
乳母とその夫に連れられて、
田舎へ遊びにゆくことがあった

そんな日、
邸は物忘れしたように、
静かになる

しんと静まりかえる

そして容易に私は、
私を取り戻した

子供たちの品、
竹馬とか独楽とか、
着物、幼い字の手習い草紙など、
見ても格別心は動かされなかった

一晩でも手もとから離すと、
恋しくて焦がれるという、
母親の心持はなかった

私にあるのは、
久しぶりの信じられないような、
静寂に虚脱する無気力な心である

私はゆっくり髪を洗い、
化粧をした

ああ、こんな心ときめきは、
何年ぶりかしら・・・

子供を厭わしい、
というのではないが、
子供がいると私は、
自分を手の中からとり落とす

自分をとり戻すのは、
子供のいない世界である

私は筆を取る

心は華やいで抑えようもなく、
想いはひろがってゆく

私はその辺の紙に、
書きつけた

「心ときめきするもの

・雀の子

・乳飲み子を遊ばせているところの
前を通るの

・唐の鏡の、
少し暗いのをのぞきこむの」

私は鏡をとごうと、
胸ときめかしているのではない

やや曇りがちの、
暗い鏡を見入る時、
そこにいつもの私より、
美しい私が映るからだ

くまなく、
けざやかに映す、
明るい鏡ではなくて、
難点や欠点はおぼろ隈にかくれた、
ぼうと美しい、
私があらわれるからだ

それゆえに、
この唐鏡のおおいを取る時、
私はときめくのだ

「心ときめきするもの

・身分高い男
美しい公達が車をとどめて、
従者に取り次ぎをさせているの

・よい香をくゆらせ、
ひとり臥しているの

・待つ人のある夜

・雨のあし

・風の音
格子戸をたたくそれらに、
はっとする私」

私は興に乗って書き続けていた

「・春はあけぼの
次第に白んでゆく山ぎわ、
少し明るくなり、
紫がかった雲が、
細くたなびいている美しさ

・夏は夜
月はまして
闇もなお
蛍が飛びちがうさまの風情
夏の夜の雨もまたいい

・秋は夕暮れ
夕日花やかにさし、
山ぎわに近く鳥の二つ三つと、
飛びゆくさえしみじみとする
まして雁のつらなりが、
小さく見えるあわれさ
日が入ってのちは、
風の音にも虫の音も

・冬は早朝
雪の降っている情趣の、
たとえなきそのよさ
霜が白くおいたりして
また雪霜はなくても、
寒気のきびしい朝、
火などおこして炭火を持ってゆく、
その風趣も身にしむ」

私はそれらの書き捨てた反古を、
いつとはなし手もとの筥に、
ためていた

それが世に洩れ散ろうとは、
夢にも思わずに・・・

ましてそれが機縁になって、
宮仕えすることになろうとは、
思いもそめぬことであった






          


(了)

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