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女工○史

貧乏女工ミミの、デムパでイタタでグダグダな"感性の備忘録"

作劇上のカメラワークってもんでしょうか…敗因は…。 : ミュージカル『ミス・サイゴン』(1)

2005年11月26日 18時57分24秒 | 音楽鑑賞のーと

さてさて…お約束通り、『ミス・サイゴン』の感想です。

マジ今更ながらの戯言でしょうが、初心者(ミューヲタですが、基本的に60年代後半以降のミュージカルで、

映画との関連性の無いものは全くと言っていい程無知です)の未熟な視点からのものですのでお許しを。

一応日本初演版のCDから、今回聴き始めてみました。


…結論から言います。

ドラマの流れについていけんかったとです…orz


特にラスト。なんですかあの唐突さは。

えらいショウ・アップされた『アメリカン・ドリーム』が終わって、なんかいきなりキムが出てきたと思ったら、

前後の脈絡すっ飛ばして突然タムに別れを告げてy=ー( ゜д゜)・∵.ターンだし。

あれホントに舞台完全収録なんすか?ほんとはあの間にナンバー幾つか省略してんじゃないですかと小一時間…。

せめて間にタムの取り扱いと自分の身の振り方に対するキムの葛藤と決意を描いたナンバーと、

自殺する前にクリス達とのまとまった遣り取りが欲しかったですねえ…。

舞台上の動きまで含めたら場の流れ的には蛇足になるかも知れませんが、

あの『アメリカン・ドリーム』からいきなりこれってのは、どうも場の流れが掴みにくいような感じが…

翻って更に暴言かまさせて頂くと、エンジニア邪魔じゃね?

この作品の性格、もっと言うとミュージカルというもの自体の性質を考えると、

確かに場面的にある程度のショウ・アップされたシーンは欲しいし、

ベトナムというものの"悲劇の構造"というものを端的に観客に示す為には必要な人物なんでしょうが、

できれば聴いてて"キムの物語"から目を離したくなかったので…流れから浮いてるナンバー多いし。


…こういう事を気にして聴くのって、きっと頭に『蝶々夫人』のイメージが強く染み付き過ぎだからなんだろうなあ。

ご存知の通り、この作品って『蝶々夫人』が下敷きにあると言われているせいもあり、

どうしても意識せざるをえないんですよ。気を取られすぎちゃいけないんでしょうけど…

なにせ録音・映像併せて12、3種位全曲観聴きして、耳コピ完璧で口三味線で最初から最後まで歌える位です。

頭から取り除けろと言われる方がムリです。

今回『ミス・サイゴン』聴いてても、ナンバーやキャラを『蝶々夫人』ならこれに当たるのね…と、

自然に頭の中で置き換えてしまっている自分がいたり…orz

んでその『蝶々夫人』と『ミス・サイゴン』の、一番の大きな違いは、

自分に言わせたら"作劇上のカメラ・ワーク"なんですよね。

つまり誰をクローズアップしてドラマを動かすか、ドラマを動かすアングルが幾つあるかと言う事なんです。

前者はこれがたった一つ、蝶々さんのみの定点観測なんですよ。

詳細に性格描写されるのはただただ主役の蝶々さんのみで、あとの役は飾りに近い。

その代わり蝶々さんの喜怒哀楽、葛藤などはこれでもかと言う位しつこく描かれる。

特に二幕はあの90分以上の長丁場が、完全に蝶々さんの蝶々さんによる蝶々さんの為の作品になってるし。

だからわき目も振らず蝶々さんの苦悩やルサンチマンに共感できる人は聴いてて入り込めるけど、

そうでない人や、ピンカートンやらシャープレスやらスズキやらに必要以上に目移りしちゃう人にとっては、

なんだコリャ?な作品になってしまう。

逆に『ミス・サイゴン』の方は、キムとクリスの間の関係性も丁寧に描かれてるし、

ピンカートンに対するケイトであるエレンの描写、それに連動してのクリスとエレンの関係性や、

クリス自身の性格描写まで非常に分かり易く追えるし。

トゥイの存在を描く事でキムを取り巻く状況もキチンと説明付けがされている。

ただその代わり、肝心のキムの内面が…ブツ切りにされて見えにくくなっているような気がするんですが…。

個人的にはそれが一番重要だったんですけどねえ…(´・ω・`)

まだ織り込むものが上記のキャラの視点までならキムというキャラの肉付けにもなるし、

良いとは思うんですが、エンジニアやジョンまでくると…流石に過積載だとしか…。

『ブイ・ドイ』や『アメリカン・ドリーム』のようなショーストップ的なナンバーが、

悉くジャマだったり浮いてるように感じた自分って、向いてないんかなあ…?この作品に。

『命をあげよう』は言わずもがなだし、『今も信じてるわ』やトゥイ射殺シーン、

キムとエレンの対決やタムの扱いを巡る言い争いのシーンのようなドラマチックな場面は、

大変お気に入りなんですが。てゆーか曲自体は良かったんですよ。非常に。

『世界が終わる夜のように』(バブル期の日本のロックバラードみたいで何だか陳腐に感じたの…)以外は。

う~ん…とりあえず誰かのお叱りの言葉を待とう…。


早起きは3文の得。

2005年11月13日 16時47分15秒 | 音楽鑑賞のーと

昨日は土曜日にしちゃ早めに寝た(12時半頃就寝)ので、久しぶりに8時台にキチンと目が覚めました。

ついでなら『題名のない音楽会』を久々に観ようと思い、チャンネル合わせたら…

「プリキュアED変わってる~!」(←すみませんねえ…)と思ったのもつかの間、

直前予告で"追悼 本田美奈子.さん永遠に"の文字…

せ、せやった!ここがこのタイミングでこれやらんワケなかったんや!!!

とるものもとりあえず近場にあったビデオテープ引っつかんで標準録画。

いや~えがったえがった(最近こればっかりや…)間に合って。


番組はイントロの後、『つばさ』から始まり、『もみじ』、『私のお父さん』、『Time to Say Goodbye』と続き、

いよいよ生前最後のご出演の再放送に…。

信じられない位にやつれてるのが、見た目からでもすぐに分かるほど痛々しい姿なんですが、

歌の力はそれと反比例するかのように増しているかのようで、

身を削って歌うって…ガチで言えばこういうことなんやなあ…と、

画面に釘付けになって、まばたきもせずにひたすら聴い入ってました。

一番のお目当ては『ミス・サイゴン』の『命をあげよう』。

ゆうに10年以上も遅れての初体験(しかも曲のし…orz)に備え、今のうちに耳に叩き込んでおこうと。


歌詞とweb上で斜め読みしたあらすじ上でのイメージだけで判じて申し訳無いんですが、

この歌、『蝶々夫人』でいうところの『Che tua madre dovra…(坊やの母さんは)』に対応してるんかな?

でも曲調は全然違いますなあ。オペラとミュージカルというジャンルの違い以前の相違。

後者はどちらかというと、坊やへの語りかけという形で混血児の母という立場を借りて、

置き去りにされたラシャメンのルサンチマン、さらには諦念を覆い隠す虚勢のベールの下の本音が、

生皮を剥がされるかのように剥き出しになった悲嘆のようなもの、そしてその瞬間を活写した歌なのに対し、

前者は同じ状況を描いた歌なのに、えらく肝の据わった、悲嘆や諦念というものを超えた、

ある種の信念に基づいた希望のようなものまで感じられる歌になってる気がします。


この子には与えられるものは全部与えよう。

自分のつかめない世界を、つかんで欲しいから…


…という、純粋且つ盲目的な母の思いが、極限状態で研ぎ澄まされ、更に純化されたかのような。

後者が"死・闇・怨念"をイメージさせるのに対し、前者は"生・光・希望"のイメージ。

前者が話の筋書きの上で歌い手がどこまでを見据えた歌なのかというのが余り見えない今の状態で、

短絡的に判断する事は本来してはいけないんでしょうが、まあ初心者様の安直な脊髄反射的読解ですもの。

玄人様方(そこのディスプレイの向こうの…分かるでしょうすす)のご意見をおねだりするのが目的の、

誘い受なのよ今日の記事は。わかったらとっととレス汁!

…つーか、マジお願いします。どなたかこの哀れな初心者に分かり易く、この意見が外してないか、

こっそり暖かくご教示下さりませ…おねげえしますだ…。


それにしても、たった一曲でここまで作品世界への期待感を煽ってくれるんですもの。

本田キムっちゅーのはやぱし凄かったんやろーな…と思ってしまいました。

ああ、せめてもう10年早く生まれるか、東京もしくはその近くで生まれてたら…(´・ω・`)

当時ミュージカルといえばヅカしか知らなかった自分がにくいぃぃぃぃぃ!!!


なんかカブキチックと思った歌舞伎を良く知らないワス : オペラ『オテロ』(2)

2005年11月12日 23時53分07秒 | 音楽鑑賞のーと

本田美奈子嬢追悼の記事へのレスに書いておりました、『ミス・サイゴン』の日本初演盤についてですが、

もっぺん念の為、日を置いて某密林をちみちみと調べておりましたら…

シレッと在庫が復活してました。

勿論怪しいプレミア等もついておらず、しかもご親切にもロンドンオリキャス盤と抱合せ販売も。

そりゃ当然一括買いしかないでしょう…っつー事で速攻両方ご注文。

いやーえがっだえがっだ。これで少しは美奈子嬢の世界に、今更ながら入り込んでいけそう…。


さてさて、いろいろあってずっと棚上げになってた、38年メトの『オテロ』の感想の続きざます。

歌手について…ですが、矢張り演唱自体の古さは隠せない所があるのですが、

スケールの大きい声を持った名歌手ががっぷり四つに組んでて、大変聴き応えがあります。


細かく見ていく。ジョヴァンニ・マルティネッリのタイトルロール。

前持ってたM&A盤では、出の「Esultate!」の余りに腰の入ってないノンシャランとした発声に、

椅子からズリ落ちた覚えがあったんですが、

どうやらそれは音質の悪さ(とにかく遠くの声が拾えてなくてねえ…)もあったようで、

改めて聴いてみると、声はよく響いてるし、充分な大音声。ただこの人の場合どうも聴いてて、

声の響きが一点に集中する事無く、ぼわっと広く拡散して響くように聴こえる(オマケにやや一本調子)ので、

確かに将軍としての貫禄は不足無いのですが、ピンポイント的な怒りの表現にやや物足りない所がアリ。

3幕の『オテロの朗詠』やオーラスの『オテロの死』なんか聴いても、古典的な見得切り風の歌い方。

アタック感には少々欠けるけど、まああんだけスケールがデカけりゃあ、文句の付け様は無いです。


エリザベート・レトベルクのデズデーモナもそれに負けじと、物凄く健康的で貫禄たっぷりの歌いっぷりです。

とっかかりの『愛の2重唱』からして、もうビャンビャン声を響かせてオテロに対抗するように歌い迫るし。

個人的には、デズデーモナはもっとこう、『源氏物語』でいうなら女三の宮的な、

生硬い嫋々とした風情の中に不健康なエロスを感じさせるものが欲しいんで、

スケールの大きい美声で押すならもう少し若さと控えめさがいる(DECCAのエレーデ盤のテバルディみたく)なあ。

リートの名手としても知られているだけに、『柳の歌~アヴェ・マリア』の上手さは流石に、

唸らされるものがありました。特に『アヴェ・マリア』は、表面だけサラッとキレーに流し易い歌ですが、

やや振りかぶった歌い口が功を奏してか、かなり本気度の高い祈りの歌になってます。


ローレンス・ティベットのイヤーゴ(写真はこの人がこの役を演じたときのもの)。

『椿姫』のジェルパパとか聴いて、とにかく立派な声のバリトンやなあというイメージがあるんですが、

ここでは余り彼のイメージには(自分的には)なかったソット・ヴォーチェを駆使して、

二面性を持つ狡猾な悪党というイメージを現出させてます。

特に2幕ラストの『夢の歌』での最初から最後まで下手丸出しでボソボソと耳打ちするような歌い方から、

オテロと復讐を誓う段で彼を煽り立てるように猛々しい調子にコロッと変わって歌い継ぐ様、

3幕ラストのオテロを踏みつけにする段での胆力に溢れた重厚な黒々しいキメっぷり。

変幻自在でバリトンのオペラとしてのこの作品の一側面を余す所無く聴かせます。

ゴッビのような効果重視の緻密な劇唱ともまた違う、歌自体が柄の大きな演技になっているような、

そんな印象を持ちました。


全体的に非常に大らかな、当時のメトらしい声の饗宴です。

個人的にはもう少しヴェリズモ(一応"広義のヴェリズモ"としての祖だしね)的な苛烈さのようなものが、

歌い手さんの声から感じられればええかなとも思ったんですが、これだけ立派な声が揃うのなら、

もう何をかいわんやですわ。劇的緊張感は指揮がキチッとフォローしてるし。

こーゆー声重視の極彩色の『オテロ』って、今の時代じゃなかなか聴けなさげだし、

正直とても聴いてて面白い録音やと思うんですがいかがでしょうか?

静かに音楽に聴き浸りたい時には、ちょっと敬遠したいですがね…。



気がのらねえなあ…。

2005年11月09日 23時01分20秒 | 音楽鑑賞のーと

最近、大きな事件が身の回りで多くて、気持ちの切り替えが出来辛いです。

その上仕事場も新入りが入ってきて、忙しいのに拍車がかかってきてるし…。

同じ仕事場の人がみんなワスに仕事押し付けてくるから…そりゃワスの方が持ち場が広い分だけ、

行動範囲が広いのは確かやけどさあ…。少しは細かい用事も自分で片付けるようにしてくれんかなあ?

上司も事務のオバハンも物頼むゆーたら絶対まずワスからやし…助けてえええ…(´・ω・`)


やからかなんか精査して音楽を聴いたり映画を観たりするって行為に、気持ちが行かない近頃。

精神力がついていかないの。頭も感性もフル稼働させんとあかんから。

こーゆー時は軽く聴き流して楽しめる、馴染みの歌い手さんの歌を、静かに聴くに限ります。

そんな訳で今聴いてるのは、ワスのディーヴァの一人、ジュディ・ガーランドたんの、

ポルトガル製3枚組のバリバリ海賊盤のアルバムだったりします。みかん食いもってキー叩きながら。

これ面白いのは、CDの中にリブレットなんつーもんが影も形も無い上、箱書き等にも曲名しかなく、

更には録音が恐らく年代順に並んでない為、CDの曲順が、まるでシャッフル再生してるような感じなんですよ。

ただジュディたんの録音を単純に順不同に詰め込んだだけのチープな造り。まあやから安かったんやけど。

初心者さんはこんなん絶対手出しちゃいけませんが、

ある程度ジュディたんの歌を聴いてる人には、意外な曲が意外なアレンジで歌われてたり、

映画のナンバーが晩年のリサイタルの声で歌われてたり、そんなサプライズがあって非常に楽しいです。

勿論普通に聴いててもステキなんですが。

自分は何となく勝手に、「この声質なら~年頃の録音やな?」ってのを当てっこしたりして遊んでます。

答えは何処にも無いんですが。でも晩年のちょっとしゃがれかかった声で歌われる、

初期の名曲『You Made Me Love You』とか、とっても新鮮味があっていいです。

何てったってリア厨位の年頃から晩年までの録音が、耳で聴いた感じだと幅広く取り揃ってるんで、

通しで聴いてると全く別人みたいに聴こえる時もあるし、非常にオモロイ。

あと人様の持ち歌をライヴで歌ってる録音もちょこちょこあって、これがまた楽しい。

アステア御大の名曲『They Can't Take That Away From Me』を、男声コーラス付きで、

スイングのキツいビッグバンド・ジャズ風に歌ってたりして聴いてる方もノリノリに。

選曲自体は比較的ベタですが、有名なバージョンの録音が信じられん位少ないから、

コアなジュディたんファンには非常にオススメです。

ワゴンセールって、こんな掘り出し物もあるんですねえ…侮り難し。


最後の最後に、ロジャハマの名作『カルーセル』の、『You'll Never Walk Alone(独り行く道)』が入ってますが、

比較的軽いノリのナンバーが続く中で、これは本当に、心に染み入る歌になってます。

一点に、声が天に向かって集中するかのような、切々とした歌い口が何とも…。

個人的には一番このアルバムの中でのお気に入り。

自分も今聴いてて、正直ストンと癒されたような気分です。

なんかここ見てる全ての人に届けたいねえ…あと、恐らくは天国のあの人にも。


…さて、もっぺん聴こ。



オペラにおける神の指揮といえば… : オペラ『オテロ』(1)

2005年11月07日 23時02分56秒 | 音楽鑑賞のーと

本田美奈子嬢の死の余韻が、未だ消えません…。

2ちゃんとかブログとかあちこち覗いてレスしたりして、すっかりヴァーチャル弔問客。

だけど、心を鬼にして、本当は昨日書く事にしてた話題を…。


さてさて、先週の広島旅行で買ったCDですが、早速まじ~めに聴いております。

今回話題にあげるのはNAXOSからついに出た、38年メトライヴの『オテロ』!

実は数年前にM&Aっつーアメリカのレーベル(だったよな…)から出たものを持ってたんですが、

なんと言ってもNAXOSのヒストリカルシリーズには、リマスタリングの神様、

ウォード・マーストン大先生(もう一人、マーク・オーバート・ソーン大先生という方もお忘れなく)

の神業音盤復刻があります。買い換えるなという方がムリな話です。

正直、ノイズに音が埋もれているような所も若干あったし…。


実際買い替えは大成功でした!

ノイズは残すなってのが度台ムリな話なんですが、それでもかなりマイルドになってるし。

3幕冒頭からしばらく延々聴こえるすりこぎの音みたいなしつこいヤツも、

遥かに歌やオケの音の方が良く響くようになっているので気になりません。

高温張り上げると音が拾いにくくなる点も十二分に改善されてましたし。

いやーえがったえがった。これで万人に薦められる(←ムリ?)。


それにしても、パニッツァ様(指揮者ね)のオケ運びの巧い事巧い事!

これだけ、オペラのドラマをドラマとして聴き手の耳に叩き込める人って、そうはいません。

基本的に音の輪郭のハッキリした、速めのオケ運びなんですが、たっぷりと歌わせる所はたっぷりと。

寧ろそのテンポの緩急のとり幅が異様に広く、しかもギアチェンジが急速な所がポイントです。

間のとり方が絶妙なんで、それでいて自然なのがまた素晴らしいのですが…。

人によっちゃもしかしたら、テンポ揺らし過ぎとか、オケのメリハリがドギツくて効果を狙いすぎているとか、

そういう風に感じる人もいるかもしれませんが、ライヴならやっぱりどこまでも舞台上のドラマと呼吸を合わせて、

さらに自分が先を行って煽り立てるような指揮をしてくれる人の方が好きです。

オペラは話のテンポが遅いようで、実は曲や詞の細かいニュアンスによって、刻々と状況は変化していってます。

それを的確に捉えて行く嗅覚がないとオペラの指揮者なんて勤まらんだろうし。

それでいて歌手ものびのびと歌わせられる手綱さばきの出来る人なら完璧ですねえ。

例えばヴェルディのオペラでそれを完璧にこなした人というと、

自分とってはまずこのパニッツァ様の名前が出てくる所であります。

そのパニッツァ様の魔術の粋こそ、この38年メトでの『オテロ』なんです。

歌手ならそんなに数は多くないながらも何度か理想の演唱には出会ってるんですが、

オケ・指揮者となると…ここまで完全に自分の理想にそっているものって殆ど無いです。

特に1幕の嵐の音楽から始まって強打に次ぐ強打で、ゴリゴリに煽り立てていたオケが、

愛の二重唱に差し掛かると途端にまろやかな音に変わり、たっぷりと歌わせていく様。

4幕の『アヴェ・マリア』直後の、寝室にオテロが現れる不気味な間奏部分の、

聴いてるだけでもオテロが蝋燭を消した瞬間が分かるかのような絶妙の緩急。

本当に例をあげていくとキリがない位なんですけれども、とにかく全編息をもつかせぬダイナミックな仕上がり。

ああ…実際に舞台で観たかったなあ…。


…なんか指揮者の事しか語ってませんが、流れを変えるため今日はこの辺で。



某ピカリン氏も「オードリーそっくりやね」と…。 : ミュージカル『紳士は金髪がお好き』(1)

2005年11月02日 23時52分48秒 | 音楽鑑賞のーと

↑いきなりすいません。こんなゴッツイんのっけて…。

魔よけになるかなー…って思って…。

気絶した人とかいたらどうしよう…出来心でやった事だけど効果の大きさに自分でも驚き。

写真の人物、キャロル・チャニングといいます。

日本じゃ余り知名度はないですが、BWじゃあ色んな意味で"伝説の女優"様です。

『ハロー・ドーリー!』のオリジナル・ドーリー、

あるいは『モダン・ミリー』のイッちゃってる資産家未亡人役の人…といえば、少しは分かる方もいらっしゃるかなあ…

…などとここの常連さんの一部の方以外の為にサラッと説明してみましたが…

要するに、人肉パイ中毒の解毒の為に、更に強い毒を持って来ちまったワケです(w


昨日は明日から魅惑の5連休っつー事もあって、遅くまで上司と飲んでてそのままバタン・グー。

起き抜けの重い頭を引きずって、枕元でずーっと、『紳士は金髪がお好き』のオリキャス盤を聴いてました。

本朝ではとにかく映画でのマリリン・モンロー嬢のイメージの強いこの作品ですが、

オリジナルの舞台では、モンロー嬢の演ってたローレライは、このチャニングおばさんが演ってたんです。

ワスも勿論映画の方から入ったんで、あのセクシーで男を引っ掛けて宝石を貰う事以外には、

てんでオツムの働かないカワイイ小悪魔さんを、↑でどうやって演じるのかと…。

ヘタすりゃ宝石ごとパパさんを丸呑みにするんじゃあないかと。

イメージ的にはこれじゃあどう考えたって『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』です。


…んでまあざあっと聴いてみるとねえ…別モンでした。映画版とは。

あの有名な『ダイヤは女の一番の友』も、かなり『ラ・マルセイエーズ』からのアレンジ起こし色が強く、

一見するとまるでマーチのようです。対して映画版はくだけたジャジーな調子。

いかに映画版のそれがマリリンのイメージに合わせてアレンジされたものかが分かりますね。

それにしても…チャニングおばさん、顔もですがまたその声も物凄い!

アヒル声とかダミ声とかそーゆー次元じゃあない、何とも奇妙な声です。

喚声点での声のギア・チェンジが物凄く、時々所々別人が歌っているのでは?と思ったりもしますし。

かなり通りにくい声だし、ワザと歌いにくそうに歌ってんのか?と疑わざるを得ない歌いまわしの鈍さもネック。

ハッキリ言って、上手い下手でザーッと二分すると、明らかに"下手な歌"の部類に入る歌唱力です。

ワス自身、歌の好みとして"声の力"と"歌いまわしの巧みさ"を重視する人間で、

このどっちにも恵まれていない歌手を"ダメ歌手"と烙印を押す傾向があるんすよね。

このどちらか、あるいは両方に秀でていて、更に"得難い個性"のある歌手を名歌手認定するんですよ。

ちなみに"声の美しさ"は二の次、三の次で…。

チャニングおばさん、確かに物凄い個性派(一度聴いたら死ぬまで忘れん…ちなみにワスマネも上手いよ)ですが、

声の力は並、歌いまわしは×、ついでに美声とは全く対極の声…

だからか、最初のうちはちょっと期待外れでガッカリ…だったんですけど、

聴く→やっぱり歌い回しが鈍いような…→リプレイ→やっぱり歌い回しが(ry→リプレイ→やっぱり(ry…

……ハマってました。

なんでかなあ?苦手な部類の歌手なんだろうに…

もうあの声は一度聴いたら全てを凌駕して人々の耳に残り続けるのか?

理屈じゃねえ。あのオバハンの歌だけは理屈じゃねえよ!!!


…結論。チャニングだけはガチ。

誰かあのオバハンの歌の魅力を、ワスにハッキリ理解でけるよに説明してくだちゃい。

BWの奥の深さに、今ワス、初めてカベにぶち当たってます…orz



てゆーかよー考えたらミートパイ自体食った事ねーや : ミュージカル『スウィーニィ・トッド』(1)

2005年10月29日 22時38分57秒 | 音楽鑑賞のーと

土曜日はいつもあたくし、主婦になりますの。

家の掃除して、洗濯して…

んで一通りの家事が終わって、今日は予てからの計画通り、

『スウィーニィ・トッド』のオリキャス盤を、ピカリン氏に教えてもろたサイト内のこちらのあらすじを元に、

みかん食いもってまじーめに聴いてみましたのよ。


…全体聴いてヲモタけど、ワス的観点ではこれオペラやわ。ミュージカルとして捉え難い。

前にも書いたけど、音楽の構成が非常にクラシック寄り。どちらかというと弦の強い、編成も本格的なオケに、

シュプレッヒゲザング・ヴェリズモ両方の形式の影響を強く受けつつより現代風にライトにしたようなナンバーの朗詠、

それ自体は短めのモティーフが、話が進むに連れ入れ子状態に折り重なっていく曲構成、

どれもがなんか…高等。少なくとも、ミュージカルと同じ目線では楽しめない。

初めなんか『八仙飯店之人肉饅頭』(←ググり禁止w。これはB級ではないかも)を観る時のような、

キワモノをキワモノとして楽しむB級モノ好きのイヤな子の視点もちったああったんですが、

本気で聴いてると段々顔が険しくなってきて、物語どころか曲自体の神クラスの構成力の深みにハマってって…。


ただオペラと大きく違う所は、場面毎の間っつーかなあ、各場面毎の音楽的なウエイトが、

(個人的な耳の経験と照らし合わせて考えてみて)オペラ程重くは無く、

これだけ濃厚にオペラ臭を漂わせながらも、ストーリーが非常にサクサク進む点なんすよね。

これフツーにオペラとして作ったら上演時間は倍はかかるぞみたいな。

ワーグナーやR.シュトラウスも大好きっ子なあたいにとっては、もうちょっと歌い浸って欲しいなーと思う場面も、

中にはあるにはあるんですが(てかフツーに考えたらそればっかりにさえ感じられる筈なのに…

アンソニーとジョアンナの駆け落ちの相談の件なんかはその最たるものか?

あと『Final Sequence』でのモティーフ単位でブツ切りにされた個々のナンバーは、

それぞれがもっと単品として再構成して愁嘆場等にしても成り立つ位ミがつまってる。

例外的にそこそこタップリ聴けたと思うのは『Not While I'm Around』位か?

ただこれだって間にロヴェット夫人にチャチャ入れさすことで決して情緒過多にはしてない。

更にこれについては後の『Searching』のシーンでロヴェット夫人が猫なで声でトビーを呼ぶ時に、

全く茶化したような歌い方とメロディーラインでリフレインさせてるところが凄い。

どこまで安易に情緒に訴えかける事を拒否る気かすぃら?ソンドハイム…おそろしい子!)、

いい意味でムダがない、悪い意味で遊びの少ない、機能的かつドラマティックなものになってます

(『Final Sequence』と並んで2幕の最初の『Johanna』なんかその最たる例かな?

殺人散髪→人肉ミンチのメカニズムが、アンソニーとトッドの2つの場違いなジョアンナへの思慕の歌に乗せて、

まるで何かの処理工程の如く淡々と進行していく、常軌を逸した冷淡な情景!

ついでに女乞食に一騒ぎさせて話のフォローと次への場つなぎもも忘れない巧妙さ!)

「お涙頂戴も血沸き肉踊るスペクタクルも必要ないんじゃ!

ワシにゃあ!わーったらだーって聴いとれ!」っつー、

ソンドハイム大先生のお叱りがスコアの行間から滲み出てきそうです。その位クールでシニカルでストイック。

ALWなんかと較べると、取っ掛かりは似てるのに、音楽作りに対する姿勢は真反対なのね…。

ウェバーはんののキラキラゴテゴテもええけど、本気度じゃあソンドハイム大先生の方が断然上なような…。

だからかホントに、音楽として単純に聴き浸ろうとすると火傷するぜってカンジの切れ味の鋭さが伺えます。

曲自体が既にトッドのカミソリ並です。寒気がしそうな位鋭い。

こーゆー理詰めの音楽って、今までは肌に合わなかった筈なのに…。

ポーターやバーリンやロジャハマやラーナー&ロウといった、

音楽のエンタメ性や萌えに文句なしに陥落させられるてめえ的にホームグラウンドな作品はともかく、

ALWにせよ『エリザ』にせよ、どっか情緒的な穴やツボがあって、そこにつけこんで好きになるってパターンが、

今までの自分の乏しいミュージカル鑑賞遍歴のパターンやったのに、

ストーリーと音楽のバランスって面だけを考えたなら、やや自分の肌合いよりクール過ぎかもだから、

当然肩透かしと判断してもおかしくないこの作品に、

なんだかドップリハマりそうになってる自分が怖いわ…。


あ、そうそう。このCDだと所々省略されてて分かりにくかった所があるんですが…

ジョアンナが精神病院に入れられた理由は?教えてエロい人!

もっと書きたいことは色々ありまくりなんですがとりあえずここまで!



しもたなあ、ブラッディ・メアリーの事とか書ききれんかったわ。 : ミュージカル『南太平洋』(2)

2005年10月25日 21時20分59秒 | 音楽鑑賞のーと

さて約束通り、『南太平洋』のオリキャス盤と映画の音楽を、小姑臭く比較していきませう…。

まあ比較していきませうゆーても、ぶっちゃけテンポの違いとかってなんかかなり感じられるんすよね。

例えば『ご婦人が一番』なんか、オケの厚さとかから伝わるもの(映画の方が軽いよね)なんかもあるんやけど、

明らかに映画のそれの方がオリキャス盤よりも曲の流れがサクサクしてて、

へーたいさんらのやりとりのテンポも良いし。『ハニー・バン』やら『用心深い話(教えられて)』なんかもかな?

ある程度古い新しいってのもあるのかなあ?体験したのが映画の方が前やから、映画の方が耳に馴染むなあ。

これで話自体のテンポもよかったらゆーことなしなんやけど。


…個々のキャストの歌についてもちみちみと。

前者がオリキャス盤、後者が映画のキャストです。


ネリー:メアリー・マーティンVSミッツィ・ゲイナー

 かたや『ピーターパン』やら『サウンド・オブ・ミュージック』やらの初演者としても知られるBWの大スター、

 かたや主にハリウッドで活躍したキュートな健康美と踊りの上手さで人気だったアイドル。

 さて軍配は?

 声自体はマーティンおばの方が美声やね。でも、役柄にはミッツィたんの方が遥かに合ってる。

 マーティンおば、どうも声の響きがこの役にしちゃ過剰になまめかしい感があるからか、
 
 実際のネリーよりも数段大人びて感じてしまうのよう。ミッツィたんの方が声に余裕無くても

 あの生硬な感じがいかにもネリーってカンジよね。『ワンダフル・ガイ』なんかよく聴くと、

 ちょっといっぱいいっぱいぽい所もあるけど、そんな勢い任せ感が好きさ。

 『あの人を洗い流そう』や『ハニー・バン』はもうカッコの萌え指数の高さも去る事ながら、

 ハツラツとしてていかにも若いおねーさんってカンジだし。前者はマーティンおばも、

 パンチを適度に利かせてジャジーに歌ってて、それはそれでステキやけど。

 どうしても素のキャラ>歌の上手さって評価になんのは萌えだけで考察してるから?
 
 余談ですが、ここでのミッツィたんの歌は、幾つかのものの本やサイトで吹き替えとなってますが、

 『ショウほどステキな商売は無い』やら他何本かの作品を観たけど、基本的には同じ声やったし、

 ひょっとして専属の吹き替えさんが付いてたっちゅー事なんかしらん?なんかどうも中の人は、

 いないような気がするんですけど…。


エミール:エツィオ・ピンツァVSジョルジョ・トッツィ(ロッサノ・ブラッツィの中の人)

 新旧メトのトップバス対決ですが、並べて聴いてみると、役の解釈の違いのようなものが感じられます。

 特にネリーに対するスタンスが。ピンツァ御大の方は父性的な面をより強く出してるのに対し、

 トッツイは"年甲斐も無く娘のような年の女に恋した男"そのままの、

 ストレートなエミール像を歌いこんでるようです。

 その為か、ナンバーによって適不適の差が激しいんですよね。

 例えば、『二つの告白~魅惑の宵』だと、ピンツァ御大の歌は若干好々爺的過ぎて、あんまり真剣に、

 ラブ・ソングとして捕らえ難くなる点があるんですが、トッツィの方は押さえ気味の入り方やサビの熱の込め方等、

 確かにエミールの情熱というものが手に取るように感じられてステキです。

 反対に『側にいたのに(殆ど私のもの)』になると、今度はピンツァ御大の歌の方が声のスケールの大きさのせいか、

 さりげない包容力のようなものが滲み出て、歌の世界により浸れるんですが、トッツィの場合は逆に、

 泣きがくどくなって未練がましいオッサンやのーと、歌のイメージがマイナスになる危険が出てくるんですよね。

 全曲通せばどっちが良い悪いとは一概に言えないんですが、自分が前者より後者のナンバーの方が好きなのと、

 個人的にピンツァ御大のファンなのとで(w、どちらか一方を選べといわれればそりゃ…


ケーブル:ウィリアム・タバートVSジョン・カー(中の人いたような…)

 較べるまでも無い。前者がテノールのキーで後者がバリトンのキーっつー大きな違いはあるけど、

 タバートさんよー、そんなつっころばし臭いのっぺりした声でケーブル演っちゃーいかんよ!

 幾ら典型的なWASP的メンタリティーのおぼっちゃんやからって、ノンキ過ぎます歌い回しが。

 一応真剣に恋に悩むし、口説き方だって情熱的。それに運命の暗い影の付き纏う男なんやからケーブルは!

 もうちょい考えて!以上!!!


 …なんか中途半端ですが、オーバーフローなんでこの辺で。

 続きをご希望の方はコメント欄でどーぞ。いるのかどうかはともかく。



曲で萌えて話で萎えるミュージカル…ですなあ。 :ミュージカル『南太平洋』(1)

2005年10月23日 17時52分57秒 | 音楽鑑賞のーと

なんかめっきり寒くなってきましたなあ…。

皆様お変わりないでしょうか?ワスは朝起きると決まって鼻水ジュルジュルで…。

年のせいか粘膜も弱っとんのかすぃらん…って、これは生まれつきか。


こう寒くなるとついつい暖かい日の光が恋しくなるのと、

どうも甘い愛の囁きから遠ざかっている自分にカツを入れる為か、

最近また『南太平洋』にハマっております。


この作品、言わずと知れたロジャース&ハマースタインのコンビによるものですが、

個人的にはこのコンビの作品の中で、最も全体的な楽曲の出来が良い物と思ってます。

その分非常に話が陳腐かつ冗長なのがなんともはやなのですが…

それを補ってあまりあるものがありますです。

まあ話についてはこちらのあらすじを読んで頂ければ、大体の感じはつかめるとは思いますが、

なんつーか、非常に直截的かつノータリン臭い人種差別描写(唐突で描かれ方もうやむや)と、

何とも暢気な戦争の描かれ方(改めて書くまでも無いでしょうが、この作品の登場人物が敵として対峙してるのは、

我が大日本帝国なのであります!)、そして作品自体の長さとつりあいのイマイチとれていない、

シナリオの薄さ(序曲まで入れて映画版換算で2時間40分も有るのにそう感じられない…)が、

この作品にともすれば、「所詮半世紀以上も前のもんやけえなー…」というイメージを与え、

時代の風化に堪えられぬアナクロ作品というレッテルをも伴いがちになるのでしょう。

まあ戦争描写についてはただシリアスにすりゃあええってもんじゃあないですし、難しい所ではありますが、

せめてネリー&エミールの組み合わせに対する、ケーブル&リアットの組み合わせの描き方を、

もっと緻密にすればよかったんじゃあないかなーと。特にリアットはナンバーはおろかマトモなセリフすらなく、

現地のオンナ云々以前に何だか白痴にも見えてきかねません。

ここだけでも改善の余地は充分にあるような気がするんですがねえ…。

そういった各キャラ間のウエイトの偏りを改善し、ナンバー中心に2時間前後程度に纏めれば、

テーマ的には古くても時代の風化などものともしない作品になったのでは?


…まあシナリオ的な部分にはこうやって幾らでもイチャモンを付けたくなりますが、

反して楽曲については、もう賞賛の言葉しか浮かんできません。

何よりも特筆すべきは各キャラ(とはゆーてもネリー、エミール、ケーブルの3人だけですが)の個性に合わせた、

R&Hの他作品と較べても非常に出色の、色彩豊かなラブ・ソング群でしょう。

溌剌とした喜び溢れるネリーの『ワンダフル・ガイ』、

夢のように甘く情熱的なケーブルの『春よりも若く』、

寂寥感と辛苦が静かに滲み出るエミールの『側にいたのに(殆ど私のもの)』、

等々、愛だの恋だのという次元を通り越して、命の輝きのようなものまで伝わってきそうです(大ゲサ?)。

そりゃあ例えば『王様と私』の『Hello,Young Lovers』や『木陰の口づけ』とか、

『サウンド・オブ・ミュージック』の『何かいいこと』等、他作品にも素敵なラブ・ソングは腐る程ありますが、

R&Hでラブ・ソングに浸りたきゃまずはこの作品一本で充分という位、密度も精度も群を抜いてます。

勿論ラブ・ソングだけでなく、『ご婦人が一番』や『ハニー・バン』のようなコミカルなナンバーや、

ブラッディ・メアリーの『バリ・ハイ』『ハッピー・トーク』等エキゾチックかつメルヘンチックなナンバー、

等々多士済々で印象に残らない捨てナンバーが一つも無いのが素晴らしい!

まあこんな事長々と語らなくても、『春よりも若く』(まあこれについては前後の設定を深く突き詰めると、

何だかフェミナチ系のオバハンに怒られそうで(+д+)マズーなんですが…)や『ハッピー・トーク』辺りは、

シチュエーションだけで乙女心を直撃される事請け合いですし(ワスも萌え…(;´Д`)ハアハア)。

どこぞのバカップル(当人方の名誉の為に名前は伏せさせて頂きます)もこれでごっこ遊びとかやってるらしいし…。


とにかくまだの方は是非。

まずは映画版のビデオなりDVDなりで、ナンバーだけ抜粋して観てみるのが宜しいでしょう。

次回映画とオリキャス盤の楽曲的な比較などとゆー何ともムダ臭い事もやってみようと思いますんでご参考に。

…またオーバーフローなんで…(´・ω・`)ショボーン



文が巧く表示されねー。 : オペラ『椿姫』(3)

2005年10月22日 23時38分20秒 | 音楽鑑賞のーと
なんかもう前回書いた事が遠い昔のように感じられますなあ…。

どこまでだったっけ?ああ、1幕ラスの大アリアの辺りまでかあ…。



『椿姫』の伊語の原題は『La Traviata(道を踏み外した女)』であるという事は、前にも書いた通りですが、

では、果たしてヴィオレッタは、どのような道を踏み外したか…これには、互いに重複する3つの答えがあります。


一つは、人間的な恋愛の道など望むべくも無い高級娼婦としての宿世そのもの。

もう一つは、その高級娼婦としての分を忘れ、地位も財産も無い若い男との純愛に走った事。

さらに今一つは、一度はその純愛を選んでおきながら、実社会というものの目と声の前に、自らを偽り愛を捨てた事。


どれも不可抗力的であり、互いに連鎖しあっております。

そしてこれらは全て1幕ラストの大アリアまでで既に提示され、2幕でもって実際の対話となって展開されるのです。

対話の相手はジョルジョ・ジェルモン。

アルフレードの父親であり、"昼間の社会"…倫理秩序の優先する実社会の欺瞞を、

具現化した存在でもありましょうか。

実直かつ物分りのよい老紳士の顔をしたこの男は、どこかで聴いたような悪魔の囁きをもって、

ヴィオレッタの心に再び黄泉路の運命を示します。

娘の為にアルフレードとの恋を諦めてくれ―理由なんてものは後付けでどうにでもなります。

卑しいお前が縋って生きるには、愛など余りに不確かなもの。全てを忘れ、諦める事こそお前の運命…

ジェルモン氏の姿を借り、不遜な"昼間の世界"は、こう、ヴィオレッタに言い放つのです。

哀れな心を鏡で映し出したかのような、

無残で破廉恥な対話としかいいようがありません!

ヴィオレッタの方も最初は「死んだ方がマシ!」と叫び嘆きますが、いつか通る道と、覚悟は出来ていたのでしょう。

心に血の涙を秘めながらも、結局はこの問いかけに誘われるまま、頭を垂れるのです。

もう一つの心の声が用意した結論が実際化し、ヴィオレッタは自らの運命に敗北します。

後にはアルフレードへの、(例え自分と離れても)自分が彼を愛しているのと同じ位、自分を愛してくれという懇願が、

まるで熾火のように、仄かに哀しく燃え残るのみ…。


更にこうして全ての罪が形となった事への報いであるかのように、彼女は過酷な罰の追い討ちを受けます。

偽れる心を隠し、全てを忘れた振りをして元の享楽の世界に避難してきたヴィオレッタに、

裏切られたと信じきっているアルフレードが、"金による愛の弁済"という非常に無慈悲かつ、

彼女の生業にとっては何とも合理的な形をもって、公衆の面前で彼女を断罪したのです!

短絡的な考えのアルフレードにとって、何よりも裏切られたという事実こそが、

彼女を断罪するに足るだけのものだったのでしょう。

真実の涙を伴った最後の心の拠り所である懇願も、こうして見事に踏みにじられたヴィオレッタは、

生ける屍となったかのようにその場に崩れ落ち、呪詛の如く抑揚の無い声で、

押さえてきた未練を訥々と口にするのです…彼女の心は殺されました。


あとはもう、ただひたすら、医師と僧侶の他には訪れる者とて無い暗い病室の中で、

自閉と悔悟の中、残された肉体が死に行く様が延々と描かれます。

ジェルモン氏の手紙を読み返し、鏡で変わり果てた姿を眺め、自らの過ちを振り返って、

悲嘆と怨念に首まで浸りきって窒息してゆくヴィオレッタ。

その死の床にジェルモン父子は何とも予定調和なタイミングで駆けつけてくるのですが、

自分にはこのアルフレードは、まるで外のカーニバルの喧騒が連れてきた、都合の良い幻にしか見えません。

繰り広げられる二重唱の響きは余りに空虚で中身が無く、聴いてて違和感しか感じとれませんし…。

そしてヴィオレッタはそんなアルフレードに、肖像の入ったメダルを渡し、尚も彼の心に座を遺そうとします。

そのいじましい行為が更に彼女の敗北の中での死を印象付け、聴いてて胸が締め付けられます。

こうして彼女は、その命を奪った"実社会の欺瞞"に看取られて、何とも皮肉な最期を遂げるのです…。


彼女を悲惨な運命に追い立てたものは、一体何だったんでしょうか?

実社会の欺瞞?三重に道を踏み外したその生き方?あるいはその身に背負った宿業そのもの…?

答えは未だに分かりません。

ただ、自分がこの作品に強く魅かれる理由は、きっとヴィオレッタのこうした運命と葛藤が、

あがけどもあがけどもどうにもならず色んな物を失ってきた自分の生きてきた道と、

何だか少しだけダブるように感じられるからなのかなあ…とか、

最後の駄目押しにデムパを撒き散らしてこの文を締めさせていただきます。かしこ。