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女工○史

貧乏女工ミミの、デムパでイタタでグダグダな"感性の備忘録"

晴れた日に○○が見える? : オペラ『アンドレア・シェニエ』&終辞

2006年05月04日 14時21分46秒 | 音楽鑑賞のーと

少し体調はしんどいものの、もう一夜睡眠をとれば、何とか回復しそうな状況のワスの風邪。

そんな状況なのに聴いてるのは『アンドレア・シェニエ』。更に体力を削りかねないこの曲を選んだ自分の蛮勇に乾杯。

ウンベルト・ジョルダーノ作曲。以前紹介した『道化師』と同じく、19世紀末から20世紀初頭にかけて流行した、

"ヴェリズモ・オペラ"というジャンルの傑作ですが、ワスとにかくこの作品にはガチで目が無くてねえ…

思い入れの強さではあの『椿姫』とタメ張るかも知れませんです。


革命直前のフランスのとある田舎、コワニー伯爵家の所領にある、当家の別邸のサロンから話は始まります。

サロンでのパーティーに招かれた若き詩人シェニエは、退屈していた同家の令嬢マッダレーナの、

暇つぶしついでの愛についての賭けに怒り、「貴女は愛を知らない」と風刺を織り交ぜて即興詩で彼女を諭す。

マッダレーナは感動して許しを請うが同時に同家の従僕で、アンシャン・レジーム(貴族階級中心のいわゆる‘旧体制’)

に強い不満をためていたジェラールがその詩に感化され、革命を唱えて屋敷から出て行く。

5年後のパリ。革命政府の要職についているジェラールと、今やお尋ね者となり、マッダレーナとの愛を、

危険を侵しながらの文通という形でしか確かめられないシェニエ。二人ともマッダレーナの事が忘れられない。

当の本人は革命騒ぎのなか零落して娼婦に身を堕とした侍女のベルシに匿われている。

そのベルシから尾行をまいて連絡を受けたシェニエは、ついにマッダレーナと再会!しかし程なく、

それはジェラールに見つかってしまう。短い決闘の後ジェラールは相手をシェニエと見極めると、

あのサロンでの事を思い出し、シェニエを逃がす事にする。

しかしジェラールは結局シェニエを捕らえる。マッダレーナに密かに恋心を抱いていた彼はシェニエに嫉妬していた。

令状を書きながらその事を痛感し、自嘲するジェラール。その時マッダレーナが現れてシェニエの助命嘆願。

ジェラールは彼女の体と引き換えという卑劣な条件を出す。愛するシェニエの為にとマッダレーナはそれを承諾。

愛を信じるマッダレーナの心に打たれてジェラールは助命を買って出るが、無情にもシェニエは死刑を宣告されてしまう。

獄中で辞世の詩を詠むシェニエ。その時女囚に化けたマッダレーナが他の革命犯罪人の身代わりとなって、

シェニエの死に殉じるために潜入する。夜明けとともに愛と死の永遠の誓いを高らかに歌い上げる二人。

そして手に手を取り合ってギロチンへと向かう馬車へ…


ざっと要約するとこんな話です。アタイだけかもしれませんが、あらすじを目にするだけでもこの作品の熱さが、

そこはかとなく伝わってくるような気が致しますです。所々唐突で話に破綻もあったりするんですがね…。

アタイも含めてですが、多分『ベルばら』、特にフェルゼン×アントワネットカプのお好きな方なら

(何人位いらっしゃるかは知りませぬが…)、この作品に魂抜かれそうなくらいに熱中できるんじゃないかなあ?

題材がフランス革命じゃっちゅーのは勿論やけど、それ以上にシェニエとマッダレーナのキャラ設定が、

『ベルばら』においてのフェルゼンとアントワネットのそれにソックリなんですよ。シェニエとフェルゼンには、

リリシズムを湛えた熱血漢としての共通項がありますし、それ以上にアントワネットとマッダレーナには、

愛によって目覚めた女、革命の嵐の中で心ならずも強さを身につけた女という強烈な一致点があります。

そして2人の描く愛というのは、(男の方が生き残ったか奏でないかという違いはあるものの)まさにそれこそ、

"死によって結ばれし愛"そのものだと言えるのではないでしょうか?乙女ですもの…この手の話に弱いのぅ(はあと)

あと、よくこの作品って典型的な"プリモ・ウォーモ・オペラ"(タイトルロールが男=男キャラが主役のオペラ)として、

専門の本等では取り上げられております。確かにシェニエには、全4幕どれにもアリアないしアリオーソ的な、

聴かせ所がちりばめられてますし、それが全ていかにも英雄といった風情の強い高音の求められるものなんで、

必然的にそうなるんでしょうが…でも巷間言われる程にはマッダレーナの存在感が薄いとは思えんのんすよ。

この作品ってアリアも勿論大事やけど、それ以上に偶数幕の大詰めに設けられた、

所謂"愛の二重唱"(特にオーラスの殺人的な高音続出の二重唱は凄絶!シェニエ役のテノールなんか、

ライヴだったら最後の高音は殆どの人が回避してる位やし)の方が音楽的にもドラマ的にも重要やと思うし、

何より3幕の『La mamma morta(亡くなった母を)』の存在感がとにかく大きいんですよアタイにとっては…。

もうこの曲の中にマッダレーナという女性の魅力の全てが詰まっているといっても過言ではない感動的なアリア。

まず曲の前半で革命によって全てを失い零落し、辛い境遇の中で喘ぐ姿が悲痛な語り口で浮き彫りにされたかと思うと、

突如、まるで別の人間が乗り移ったかのように歌の調子が替わり、全てを包み込むようなスケールの大きい情感と、

天にも昇るかのような高揚感でもって、まるで神の言葉を代弁する預言者の如く、愛の訪れをジェラールに語るのです!

そう、あの田舎の別邸でのシェニエの即興詩は、彼女の心にここまでの強い影響を、愛という名の下に残したのですねえ…。

この歌はそういった意味で"愛の信仰告白"以外の何者でもないです。あのシェニエとの出会いと悲惨な革命は、

彼女を愛の為に殉教する事をも厭わない、聖女の面差しをも備えた女性に変容させたのですねえ…。

そしてその愛を説く彼女の美しき歌声に、ただただ涙の体な乙女がここに1人…別にいいじゃないのよう(゜Д゜*)ゴルァ!!

今聴いてるのはGMから出てるマタチッチ指揮60年ウィーン・ライヴですが、この曲の中の一番のお気に入りのCDです。

コレッリ兄貴のシェニエ、レナータおばさんのマッダレーナ、どちらも素晴らしいの一言…。

特にレナータおばさんのマッダレーナは、アタイの理想であります。あの豊麗な美声とどこまでも広がる声の厚み、

強さを兼ね備えた優しさ、雅やかさ…この殉教者・聖女とでもいうべき女性を演じるに相応しいものです。

多分今はOpera D'oroから出てるのが某密林でも手に入ったと思うので、まだの方は是非(御馴染みの締め方)。



…さて、何故この曲を今日選んだかっつーと…

もう5月やしね、時流に合った、さわやかなお別れのできそうな曲を持ってきたかったってのがあるからなんです。

突然ですいませんが、本日を持ちましてこのブログ、ひとまず締めとさして頂けたらと思いまして…。

理由は色々あるのですが…


まず第一に、一念発起してある資格試験を受ける事を決意し、その為2,3週間程前から勉強を始めたのですが、
いざ始めてみるとそっちに手がかかりっきりになってしまい、唯でさえ非常に時間のかかるものになっている、
このブログの安定した更新が最早不可能になってきてしまっているという事。

第二に、ブログの一記事毎の慢性的な肥大化に伴い、そろそろこういったオペラやミュージカルの感想を記すには、
HPの方が相応しくなってるんじゃないかと自分自身本気で考えるに至り、一旦これでブログの更新を打ち切って、
HPへの移行に取り掛かるべきだという結論にたどり着いた事(元々このブログの記事にはそういったHP化した際の、
それぞれの作品や音盤の感想の下書き的な意味合いもあったんですよ…)。


大きな理由はこの2点ですね。その他にも色んな細かい理由を挙げたらキリないんですが(疲れた、801SS書きてえetc…)、

やっぱり同じ終わるなら発展的解消の方がええかなって気も致しますんでね。実際ブログのままやと、

思ったよりもそれぞれの感想が、その場限りの消費財(財?)的に扱われるもんやっちゅーんが分かりましたし

(その証拠に過去ログ遡ってレス書くなんてマンドクセー事、だれもしないでしょ?)。やっぱりHPの方が合ってるのかなあと。

一応資格試験が11月にありますんで、HPの方はそれから本格的に造り始めるだろうから…早くても来年1月位になりそうですが。

まあ言うだけ番長に終わりそうな気配も多少ですがありますんで、気長に待っていてくださいませ(待つ義理のある方が、

どれ位いて下さるかはともかく…)。ここは暫くの間放置しときますんで(多分暇が出来て全てのログを落としきるまで。

ここでの記事は何よりアタイにとって大切なもんです)、お暇な方がいらしたら、さわりだけでもいいんで過去ログの方も…。


それでは皆様方、8ヶ月間有難うございましたノシ





明るいだけがラテンや無いとはゆーけんども… :『カルメン・ミランダ サンバの女王』

2006年05月01日 20時10分41秒 | 音楽鑑賞のーと


気がついたらほぼ2週間ぶりの更新です。これについての弁解は後日ゆっくりと…。


さて、昨日までワス、博多に遊びに逝っとりました。GW驚異の9連休の幕開けです。

主目的は、いつも下半身のお世話になってるとある萌えサイトの管理人氏に会いに行く事でしたが、

音盤の方もそれなりに買い漁…ろうと思ったんやけど…なんか去年逝った時よりも、

全体的に目ぼしいCDの数がガクッと少なくなってるような気がしてなりませぬ。これじゃああかんよ…(´・ω・`)ショボーン

天神の塔や犬なんかもう足を運ぶだけムダ、駅前の新☆堂が多少まだいくつか残ってた位でしょうか?

結局そこで買い入れた52年エレーデ指揮メトライヴの『ボエーム』と、ライス・レコードなるインディーズのレーベルが、

数年前に発売した『カルメン・ミランダ サンバの女王』なるアルバム位かなあ収穫は。まあ今の会社に勤めだして、

急にドケチになってきてるアタイの消費者意識のしわさも、このような認識をより際立たせてるんでしょうが。

しっかし博多のこっち系の飲み屋ってどこもあんな遅くまでやってんのかいなあ…?土曜って事を考え合わせても、

幾らなんでも4時(16時ではなくね)に待ち合わせて…ってムリあるんちゃう?とヲモテたら、

入ってすぐはもう閉店かなって閑散っぷりやってのに、あれよあれよという間に客が増えだして…

それから6時半位まで、前述の萌えサイトの管理人氏と飲んでました。外に出ると太陽が眩しい…orz

なんか大して長い距離移動したわけやないのに同じところをぐるぐるぐるぐるぐるぐる回ってたせいか、

物凄いお疲れチャーンな旅で御座いました。オマケに帰りの乗り継ぎのバスの路線を間違えて、

山道込みの6km程の道のりを家に向かってバターン死の行進ばりに歩かされたんもあってもう疲労困憊。

家に帰ってシャワー浴びたらもう死んだように寝てしまい、翌朝起きると喉は痛く鼻はじゅるじゅる…風邪です。

なんかちょっと、勝ち負けでゆーと負けかなってカンジの博多の旅でありました…。


そんな訳で当地で買った『カルメン・ミランダ サンバの女王』を、喉の痛さと頭の重さに悩まされつつ、

聴きながら本日の記事を書いております。すっげえグッタリしとるんやけど頑張らなねえ…。

カルメン・ミランダ―――ブラジルを代表する"サンバの女王"であり、アメリカの映画でも活躍した大姉御様であります。

『Mama Eu Quero』やら『South American Way』といった、ハリウッドで活躍してた時代の曲はそれなりに有名ではありますが、

このCDは29年から40年まで、主としてブラジル時代に録音された曲(厳密にゆーとデビューした時の録音から、

ハリウッドデビューした翌年の凱旋記念の録音まで)をピックアップして収録してあります。

実はカルメン姐さんについてはは『ザッツエンタ~』シリーズでしかお目にかかったことが無いんですが

(そもそも国内盤の映像媒体が少ないったらありゃしねえ)、ド派手な色のデコラティブなターバンに、

バイアーナス調のゴテゴテしたフリルのついたラメラメのドレスといったいでたちで、

巻き舌を強調したアクの強い歌い回しでスクリーン狭しと歌い踊る…そんな第一印象をもっておりました。

ブラジルないしサンバのステロタイプなイメージを作った人ってゆー解釈が一般的かな。

『黒いオルフェ』や『ノバ・ボサ・ノバ』の項でもちみっと書いたように、そういったステロタイプなサンバのイメージって、

個人的にはかなり肌に合うところがありましたんで、かなり前からミランダ姐さんオンリーのアルバムはホスィかったんです。

しっかし改めてこうやって手に入れて通して聴いてみると…結構クールでモダンで洗練された曲ばっかなんすよね。

これがブラジルですよーって映像を見る時、リオのカルナバルが出てくるかと思ったらサンパウロのオフィス街が出てきたような。

でも違和感ってんじゃなくて、そーゆークールで柔らかいメロディーが非常に耳に心地良く、かえって耳にもたれることなく聴けて、

何だかヘビー・ローテーションになりそな気配です。曲の並びが年代順になっているせいか、初めギターメインの伴奏の、

シンプルな土着の民謡っぽいメロディーだったのが、段々と使用楽器が増えて、刻むメロディーも本格的になっていき、

テクニカルな面白さを伺える曲にサンバそのものが変貌していく様っつーのが感じてとれるようで興味深いです。

またカルメン姐さんの歌声も素敵で…甘くて軽い、清涼感のある美声で、しかもメロディーの裁き方が絶品!

アップテンポの入りの至難な曲を涼しげかつチャーミングに歌ってのける様がとてもしゅてき。酔える!

語り歌いっぽい歌い崩し方・アレンジの利かせ方も、全く嫌みがなくナチュラルで、颯爽としております。

こーゆー卓越した技量とキャラクテールの持ち主がジャンルの草創期に確かな足跡を刻んだからこそ、

サンバは所謂ラテン・ミュージックの中で、最もメジャーかつ王道的な位置づけに上り詰める事ができたんかなあ。

でも、その割には…アメリカの映画界に入って目覚しい活躍を遂げるカルメン姐さんに対する当時のブラジル人の目は、

非常に冷ややかなもので、「自分達の音楽を笑いものにする気か!」と、40年の凱旋公演は大変なブーイングで迎えられます。

姐さんは哀れ、レコーディング以外は逗留先のホテルに閉じこもり、程なくして逃げるようにアメリカに戻り、

そこで15年後に心臓発作で亡くなったんだそうです。それから暫くの間姐さんの存在はブラジルの音楽シーンでは、

まるで"なかったこと"のように扱われ、ずーっと下って没後40年を前後して作られたドキュメンタリー映画、

『カルメン・ミランダ バナナが商売』の公開を契機に漸く最近、再評価の動きが高まりつつあるんだそうですが…

ここまで姐さんが貶められたのは、USAのラテン・アメリカ諸国に対する"裏庭意識"への反発と、

元々このラテン・アメリカ諸国の人にDNAのレベルで深く深く刻み込まれていると言われている、

深い厭世観とルサンチマンをどこまでも逆なでする行為に、

姐さんの映画の中での振る舞いが認識された事が大きいんでしょうねえ。ぐぐって調べた事の受け売りですが。

確かに姐さんのハリウッドでの扱われ方は、カリカチュアナイズされた道化のようなコメディーリリーフないし、

ステロタイプの判で押したようなコミカルなショースターとしてのそれでした故、反発を覚えるのは当然かもですが…

それにしたって余りに酷すぎるようなカンジはせんでもありません。そしてカルメン姐さん自身もそれを大変嘆いていたようで、

この"歓迎されざる凱旋"の折に録音された曲には、そういった声に対する弁解や嘆きの声そのものといった面持ちの歌もあります。

特にこのアルバムの最後の曲、『Desseram Que Voleti Americanisada(アメリカかぶれしたと言われるけど)』などは、

まさにそれです。ややうらぶれたメロディーと少し物悲しい姐さんの歌い口が歌詞と相まって、聴いてて少し胸が痛みました。

一旗あげた事で祖国を追われ、異国の地で本当の自分・本当の自分の歌を、

見失って生き続けざるを得なかったカルメン姐さん…

ラテン・アメリカってものの根っこを考えると、こういった事象にぶち当たる事が多くて、少し鬱になります。

このアルバム自体は暫くお寝み前のヘビー・ローテーションになりそうなんですが…。



なりはガンマン心は女優、それは何? : ミュージカル『アニーよ銃をとれ』(1)

2006年04月15日 19時30分43秒 | 音楽鑑賞のーと

最近、会社の同僚から借りた『ウィザードリィ外伝 戦闘の監獄』にハマりまくってます。

いや~やっぱりWizはええわあ…ここんとこずっとこーゆーゲームやってなかったしなあ…。

とりあえずカラムの洞窟(最初のダンジョン)はクリアしたんですが、装備がまだちみっと心許ないんと、

なんかヌルゲーマーの本能としてまだレベルが足らんよな気がしたんとで、未だに最下層をさ迷ってます。

件のウサちゃん(ボーパルバニーというその筋じゃ有名なウサギ)が、油断してたらすぐ前歯でスッコーンと首落としてくれます。

でも結構敵のレベルの割にはええアイテムが手に入るような気がしますね。気のせいかもですが。

Wizって、戦闘の難易度の高さとそれに伴う緊張感とか、独特の難解な3Dマップとか、アイテムコレクションの楽しみとか、

そういった要素が人を惹きつける要因だとは思いますが、個人的には大掛かりなイベントやシナリオがない

(それ以外の面…アイテムそのものや戦闘そのものが魅力的な)分、忙しい合間にも少しの時間で気持ちを途切れさせず、

好きなようにコツコツやれる点が、会社勤めの身分となった今ではとても有難く感じられます。

…やから更新が最近週末だけってワケやないんですけどねえ…(´・ω・`)ショボーン

ちょっともうこーゆー風にここのブログの趣旨(オペラやミュージカル作品のぐだぐだした長文での語り倒し)が、

ハッキリと定まってしまうと、一つの記事を書くのに結構なエネルギーを使ってしまうよになってねえ…。

気が付いたら3、4時間もかけて一つの記事を書く(ネタの復習までやったら6時間以上もかかったりする…)始末です。

最近じゃあもうこうなったらHPに移行しよかしらん?扱った作品も結構増えてきたし…と考えてもおります。

Web小説(なあにただの801でさあ…)を書きたいなあとか思ったり、資格なんか取るための勉強しようかなあとか考えてもいますし。

GW中にちょっと真剣に検討してみましょう。色々と。


それをやりつつそんな事を考えつつのお供が、お馴染み『アニーを銃をとれ』のオリキャス盤やったわけですが、

そろそろこの作品についても腰を据えて語らなと思っていたところなんで、いっちょここは…まーそうはゆーても、

自分このオリキャス盤CDと映画版のDVDしか持ってないんで、いささか不十分なところもあるんですがね…。

とにかくよーでけたミュージカルです。ここまで全ての要素がパーフェクトに揃ったミュージカルっつーんも珍しい。

バックステージものかつボーイ・ミーツ・ガールものというミュージカルの王道二枚看板をベタにひっさげたプロット、

そこにアメリカの心の故里西部劇をエッセンスとして設け、アーヴィング・バーリンのキャッチーかつコンサバティブなナンバーで盛り上げる。

インディアン(この作品にはそぐわしくないので敢えてネイティヴ・アメリカンという言葉は使いません)の祭礼や、

スピード感溢れるガン・ショーといった派手なショーシーンもふんだんに取り入れ、これで主役であるアニーに人を得れば、

誰がどう考えてもハズレな要素なんぞどこにも無しな、天下無敵の"ミュージカル・オブ・ミュージカル"的作品。

…だからか、初演から半世紀経って21世紀を迎えても、この作品はBWを初めあっちゃこっちゃの国の劇場で、

今でも舞台にかけられております。"エバー・グリーン"なんて生易しいもんじゃない、ゾンビのような生命力(?)の作品です。

しかしこの西部劇っつージャンル、この作品の初演から更に3年遡ると、今度は『オクラホマ!』っつーもう一匹のゾンビがおりまして、

ミュージカル界ではこの2作品の圧倒的な後光の前に他の作品が形無しになっているというなんとまあ…な状況であったりします。

映画まで含めても『ハーヴェイ・ガールズ』とか『カラミティ・ジェーン』とか『デストリー・ライズ・アゲイン』とか

『ベンチャー・ワゴン』(舞台のオリジナルは名作だった…らしい)とか、色々忘れ去られるにゃ惜しい佳作もありますが、

それでも完全に食いきっているのはなしてなんでしょう?その生命力の謎をアタイは知りたい。そしたらアタイも若返…違うか。


個人的には、アニー・オークリー嬢というキャラの魅力に惹かれるところです。つーか正直アニーたん、健気杉。かわええ。

田舎で弟妹達と鳥を撃って気ままな暮らしをしていた、ボロを纏った無学でソバカスだらけのアニーたん。

BB一座の花形ガンマン、フランク・バトラーを見るなり ( ゜д゜)ポカーンと一目惚れ。デレデレ状態で話をするも、

話の中で自分がフランクのタイプの女やない事を知り(´・ω・`)ショボーン…途方に暮れつつガン撃ちの勝負に向かい、

そこでフランクとの勝負に勝って一座に誘われるアニーたん。半ば飼い殺し目的で助手にと誘うフランクに、

一緒に居れるのなら何だってやる!と誘いに飛びつく。自分にゃ見向きもしない彼の為にレモンで肌を磨いてソバカスを取り、

こざっぱりとした服を着て化粧や字を覚えようとひたむきな努力を…ええ娘やなあ…。・゜・( ノД`)・゜・。

磨かれて段々美人になっていくアニーたんに、いつしか少しづつ惹かれるフランク。ただ、そんな彼を喜ばせようと、

密かに特訓していた新技があかんやった!立ったまま馬に乗って走りながらライフルでクレーを次々に落としていく、

シルク・ドゥ・ソレイユもビクーリなその新技にフランクは嫉妬。寝首を掻かれたと思い怒ってライバルの一座に移籍。

彼が去った理由がわからず落ち込むアニーたん、こうなったら彼を見返そうと一座とヨーロッパ巡業の旅に出る。

巡業は興行的には成功したものの御前興行中心のスケジュールがたたり、BB一座は経済的に立ち行かなくなる。

そこに現われたライバル一座からの帰朝(ってアメリカの場合は言わんか)パーティーのお誘いの使者。

BBはライバル一座と合併して経営を立て直そうとするものの、そのライバル一座もまた経営が苦しい事を知る。

アニーたんは自分の勲章を提供して資金に換え、それで何とか資金繰りのメドは付けられると一同ホッとするものの…

アニーたんの事が矢張り忘れられずよりを戻そうとするフランクに、彼女は無邪気にもよりによって、

ヨーロッパで貰った勲章の数々を見せびらかすのです!これに再びプライドを刺激されたフランクと言い争いに。

2人は再度ガン撃ちの勝負を行います。このままじゃいかんからアニーたんにわざと負けさせ仲直りさそうと、

アニーたんの一座での父親代わりのインディアンの族長シッティング・ブルは彼女のガンに細工をさせます。

アニーたん、最初はそれに感づいたのかガンの調子を訝しがりますが、シッティング・ブルの忠告に最初に抱いた気持ち、

"鉄砲じゃ男は寄り付かない"と言う事を思い出し、わざとそのガンで的を外し続け、フランクに勝ちを譲ります。

かくて晴れて一座は無事合併、2人も何とか結ばれてでめたしでめたし……………………………………



納得いかんとヲモタ人、正直に手を上げて下さいノシ



…なんかさあ、男尊女卑、マチズモ的考えかたっつーのは、古今東西どこの世界でもあるもんや思いますが、

ここまでオールドファッションなものが根本的に罷り通っとる話っつーんも珍しいんじゃ?

フランクの女性に対する考え方、初めギャグの前フリかなーとも思ったんですが、それに周りが引きずられる様が甚だしく、

首を傾げざるを得ない所があります。第一さあ、フランクってこれまたこーゆーマチズモ的思想の持ち主にありがちな、

皮一枚ひっぺがせばかなり女々しい男なんですよねえ。メンタリティー的には一昔前の少女マンガのギョーカイ物に出てくる、

敵役的キャラのそれにモロ当てはまります。下心をもって先達として主人公をそのギョーカイに導いて、

自分の思い通りにその才能を利用して飼い殺しにしようとし、主人公が自分の手に余るようになると、

手のひらを返すように牙をむいて争いを始めるっつーのがよくあるパターンです。完全なミーイズムの塊。

こんな男のどこにアニーたんは…って、やっぱり歌声と顔かねえ?男に免疫がなかったんもいかんかったんかもね。

免疫がなさすぎて男の喜ぶ事をよく理解できず、肌を磨いて体の内外のオシャレを学んで文字通り垢抜けたんは正解やったけど、

ガンの腕まで磨いたんは余計やったと。でもまあ結局は"負けるが勝ち"ってな事を悟って一歩譲ったんでしょうが…

なんかそれだけやと、しおらし過ぎてなんだかなあと思ってしまうんですよ。

ここでもう一味、どっこい女の方もしたたかで…って所を見せてホスィなあってのが本音です。

そういったニーズに応えてか、舞台版の方は66年のリバイバルの為に新曲として、

『An Old-Fashioned Wedding』がフィナーレ間近に付け加わってますが、これがあるお陰でアニーたんの一枚上手な所が顕示され、

キチンとした落としどころが漸く設けられた訳です。昔ながらの素朴で貞淑な結婚式を望むフランクに、

思いっきり豪華で騒がしい結婚式がしたいとまくしたてるアニーたん。オマケに貞淑ではあるけど服従は嫌と、

ハッキリ応えてフランクをやり込めるかのようにデュエットに持ち込まれます。これは痛快!

個人的にはこれがある方がラストの印象は段違いにええ思うんですが、アニーたんの元々のパーソナリティーを考慮すると、

なかなかこれがまた一筋縄では行かん所もあり…う~ん…以下次回かねえ…。



I Wanna Be A…??????? : 映画『プロデューサーズ』(1)

2006年04月03日 23時02分22秒 | 音楽鑑賞のーと

職場の後輩の1人が退職するそうです。まだ入って半年も経ってないのに…。

なんか今年に入って遅刻が多くなったり、突然病気(?)で2日も3日も休んだりってのが続いたりしてたんですが…。

勤務態度の方も何だか著しく精彩を欠いていたようだし、休憩中とかの口数も思いっきり少なくなって。

後輩とはいっても自分よりも歳は6つか7つ位上の人だったんですけどね…

直接の原因は今回の雇用契約関係の変更がどうしても受け入れられなかった事だとなってますが、

ひょっとして鬱病やったんじゃないんかなあと、何となく振り返って考えてみるアタイ。

職場は一緒でもあんまり話する機会とかも無かったしねえ。こういう事って非常に難しい問題やし。

ただ、今回の事でまた身の回りが少し騒がしくなってるのも事実。当たり前のことかも知れませんが。

正直、ここの会社に未来が見出せんって言う意見も多く聞かれたりします。愚痴や与太話の類ですが。

でもそうは言っても、自分の身の回りの事を考えてみると…心配ですね。ガチで。

去年の上期の終わりをもって、ウチの職場、分社化されたんですよね。それでもって今までの殿様商売的雰囲気が、

どんどん職場の中から失せていっているようで…。よっぽど会社にとって必要な人間でないと、

今の職場では芽の出ない状態と言いますか。てゆーか芽が出るってゆーても果たしてどこまで出世できるものか…?

まあ出世がどうこう以前に(そんな言うほど興味もないし)、足場がこれだけ安定しないと、

安心して働けません。賃金的にも今はハッキリ言って質素な暮らしをしてるからそれなりに余裕はあるつもり

(でもこれも今度の変更事項によっちゃ…)だけど、将来ずっとこれで…なんて死んでもゴメンな状況ですし。

最悪の場合そんな事も充分に考えられるような、先の見えない状況なんですよねえ。今のアタイ。

やっぱり、ある程度今の状況をほり捨てる位の事を考えんといかんのかなあと、思ったりもします。


でも…何すんの?何ができんの?今のアータに。ここ辞めて…


そう問い詰められると何の答えも用意できない情けない自分もいます。大学時代の度を越した放蕩生活のせいで、

数え切れない位色んな物を失って、未だそれを取り戻す事も出来ず、半ば諦めの態のアタイ。

その事を後悔する気は毛頭無いけど、時々もしも10年前に、今よりもう少し道を誤ってなかったら…とかって、

厭な事を考えたりはします。そしてしばらくぶつくさ言っては溜息。やっぱり後悔してるね…(´A`)

そんな状況だから、当然やりたい事とかって考えても、ネガティブに諦めの気持ちが先立つばかり。

夢は叶えるもの…じゃなくて、とっくの昔に耽溺するためだけのものに成り下がってしまってる。

ただ、このままじゃいけないって気持ちだけは持っている。あと3ヶ月で戸籍の上では28歳になる身。

色んな意味で"身を立てる"為にはこれから30歳位までの間の人生設計が大きくものをいうとか、

そういう事をあっちゃこっちゃから吹き込まれます。身の回りに自分より1回り、2回り、3回り…年上の、

色んなタイプのうだつの上がらん人が跋扈している職場なんで、そういう人たちを見るにつれ、

ああはなりたくないと我が身を思う毎日。人のことは全然言えんのやけど…。

こうなったら、"やりたいこと"をあれこれ探す前に、先ずは"できそうなこと"をあれこれ模索して、

その為に自分を向上させていくのも一つの手かなと。お陰様で1年働いて、何とか食うだけは困らん位の環境は、

整うようにはなったし、大幅に切り崩したとはいえ貯金も少しは出来るようになってはいます。

RPGなんかと同じですわいなあ。オゼゼ貯めてレベル上げてスキル身に付けてシナリオを進めていく。

ただ自分の場合はどこまでもマイナスからのスタートで、漸くゼロ、本当のスタートラインにたどり着けたっつーだけの事。

そう思えば少しは気も楽になってくるってもんです。とりあえずはこのGWまでに、計画を練りませう。

何とかダイエットの方も順調にいっておりますし、今度こそ生まれ変わってやるわチキショーヽ(`Д´)ノ!!


…以上、今週末の映画版公開にあわせて予習の為に買った『プロデューサーズ』のオリキャス盤CDを聴きつつ、

頭の中に去来した事で御座います。ポジティブなんかネガティブなんかよーわーらんけど、こんなカンジ。

多分レオたんも、こんな気持ちで毎日過ごしとったんやろうなあ…それがちょっとしたキッカケで、

あの山師根性の塊のようなマックスに誘われるがままに、心の中にずっと秘めていた夢を呼び起こされて、

目が回るような波乱万丈の物語の末、"身を立てる"事に成功する訳で…。この作品全体を通せば、

どう考えてもマックス視点なんやろうけど、レオたんのおかしなおかしなシンデレラ・ストーリーという見方も、

勿論出来ないわけじゃない。映画版はそういったレオたん寄りの視点をより強調しているようなんで、

それを考えるとより映画版の公開が楽しみになって参ります。こーゆー考え方は邪道臭くてすげえ嫌なんやけど、

何だか元気を貰えそうで…いや、そーゆー毛色の作品やない臭い事は百も承知なんやけどさあ。

ああ…でもこうやって聴いてるだけでも、アタイ的にはかなりジャストフィットな作品やと思われますなあ。

耳に据わりがすげえええんですよ。ええ意味でオールドファッションな曲調のナンバーばっかで。

Overtureからして、古い時代のBWミュージカルの文法に忠実やし、『Opening Night』のいかにもな、

2拍子のリズムの刻み方。続きましての『The King Of Broadway』の、聴いた瞬間思わずおや?と思わされる、

何だかまるで元ネタの作品のマックス役のゼロ・モステルへのオマージュかすぃらん?ってカンジの、

『屋根の上のヴァイオリン弾き』風のメロディー(テヴィエはモステルの最大の当たり役ですのよ)。

他にもレヴュー・ナンバー調の『I Wanna Be A Producer』やら、一幕ラスの思いっきりショウ・アップされた

アンサンヴル・フィナーレの『Along Came Bialy』やら…中でも拘置所のシーンでマックスが歌う、

『Betrayed』の凄まじさときたひにゃ…恐らく通常だったら何人もの人間でコンチェルタート風に裁いていくだろう、

様々なモティーフのリプライズを、まるで何かへのあてつけみたいに(何とは申しませんが…)

物凄い早口で捲し立てていく様は聴いてるだけでも鬼気迫ります。ああ、こんな事がでける人がこの役を演じたから、

あれだけの賞賛を得るだけの舞台になったのねえ…と1人で納得。このテの超人が今のBWでも居るのねえ…。

21世紀にもなってこんだけオールド・ファッションなナンバーのミュージカルが、あれだけウケたっつーのも、

素晴らしい事やと思うんですよねえ。これも所謂"お上りさん効果"のお陰なんれしょーか?

でもそれを差し引いてもこれってやっぱり、まだまだ自分みたいな耳の古い人間でもBWの新作に、

全面的に期待が持てるって事の一種の証明なのかも知れませんし。BWのリアルなムードなんて、

知る由も無い境遇のアタイなんで、完全に憶測で書いておりますが…フォローおながいします。誰とは言わんけど。



「(この騒音は)ケンカの音で、私のわがままの音ではない。私の泣き声、悲鳴。」 : オペラ『愛の妙薬』

2006年03月25日 14時54分32秒 | 音楽鑑賞のーと

非常に困った事になりました…。

4月20日を以て会社内でのアタイの身分が変わり(別に出世したとかそーゆー事やなく)、

色々と身辺に大きな変化がこれから起こる事になりそうです。待遇面とか福利厚生の面とか…

なり"そうです"っつーのは、要するに"身分が変わる"って事だけの簡単な説明が会社側からあり、

具体的なことが殆ど決まってないからなんですよねえ。これから社員1人1人と面談を行って、

そういった事を摺り合わせていくやうですが…お願いします早くしてくだちゃい。

ただ、ハッキリ判ってるのは…今住んでる所のこと。

今住んでる所は身分が変わる前の会社からの紹介で入居してる訳で、これが一旦、解約となるそうです。

そうなるとどうなるか…継続して住むなら、もう一度敷金・礼金を払い直して、てめえの契約で更新せなならない。

一応住宅補助は継続されるそうなんですが、それでも今住んでるところの場合、敷金2・礼金1と、

あと一か月分の家賃が前払いで必要なんで、合計16万円を自腹で払わんといかんのやそうです。

あのボロアパートにそんなに高い金が払えるか(゜Д゜#)ゴルァ!!

…そんなら…



   ∩ _ _   ≡=-
   ミ(゜∀゜ ) ≡=-ひっこーしー ひっこーしー
    ミ⊃ ⊃    ≡=-
     (⌒ __)っ   ≡=-
     し'´≡=-
  -=≡    _ _ ∩
 -=≡   ( ゜∀゜)彡  さっさーと ひっこーしー
-=≡   ⊂  ⊂彡
 -=≡   ( ⌒)
  -=≡  c し'



…ええ、しますともさ。このGWに。仕方がないから。

まあ同じ市内での移動、せいぜい隣の市に引っ越す位の事じゃああるんすけどね。勤め先は同じやし。

オマケに家電の一部がリースで会社持ちやったから、そーゆーのも全部自腹で買いなおさんとあかんし…。

ああ…オゼゼ幾らあったら足りるんやろ…(´A`)ウツダ

折角このGWは大阪行こうとヲモタんに、どうやら金銭面と時間面、両方の意味でムリになりそうです。

これから手続きとか物件探りとかで更に更新頻度が落ちそうやし…唯でさえ最近更新でけてねえのに…(´・ω・`)

とりあえずこの次の通院日に定期解約してえ…あ~あ…。

こうなったらもう、ちょっと浪費しちゃおっかなあ…。どーせ1,2マソ位ならたかが知れてるし…。


なんか悲しくなってきたので、ほっこりする音楽を聴きたくなってきました。

選んだのは『愛の妙薬』。ドニゼッティの傑作ブッファであると同時に、18世紀前半のペルゴレージ作『奥様女中』以降、

100年にわたって続いたオペラ・ブッファの名作群の一番最後に名を連ねるべき作品であります。

舞台は曲の制作年代と同時代のスペイン・バスクの小さな村。ちょっとオツムのゆるい村の農夫ネモリーノは、

頭が良くてキレイな地主の娘アディーナが好きだけど言い出せない。村に駐屯してきた兵団の軍曹ベルコーレの、

傍若無人なアディーナへの求婚にも、指をくわえて見ているのみ。何とかしなきゃと縋ったのが、

同じ頃村にやってきたインチキ薬売りのドゥルカマーラ。ネモリーノはアディーナが読んでいた、

『トリスタンとイゾルデ』の話にヒントを得て、高い金を出して彼に惚れ薬(と偽った単なる安ワイン)

を売って貰います。そして自信満々にそれをアディーナの前でグイグイやるものの、アディーナから見たら、

当然単に自分をほっといてええ心持ちになってるようにしか見えない。ついに業を煮やして、

ベルコーレとの結婚を宣言するアディーナ。惚れ薬の効き目がまだ現われてないと思ったネモリーノは、

量を足そうとドゥルカマーラに頼むものの、ブツは高価で金は無く、さてどうするか…続きは聴いてのお楽しみ。


…って勿体ぶらんでもあらすじはネット上にゴロゴロしてるんすけどね…。


さて、モーツァルトやロッシーニの時代をある種頂点にして盛り上がりを見せてきたこのブッファというジャンルが、

何故廃れてきたかというのには色々と理由があるのですが、文化的潮流としての"ロマン主義"の台頭が、

最も大きな理由の一を占めるのだろうと思われます。フランス革命の全ヨーロッパ的波及をを一つのバックボーンとして、

このブッファというジャンルを定着させてきた"人間性の自由"というものと、それを喧伝するための、

才気走ったアイロニーやカリカチュア…これらのものはしかし、ナポレオンの失脚と新たにしかれた『会議は踊る』…

ウィーン体制による王政復古の波により瞬く間に消えうせ、ハイ・ウエストで古典的な軽みのあるエンパイア・スタイルのドレスが、

鳥籠のような形状にスカートを膨らませ、腰を思いっきり締め付けるクリノリン・スタイルのドレスに取って代わるのと同じくして、

文学や音楽の潮流も、情熱・感動・陶酔のロマン派一色に塗り替えられていく事になります。

最早コロラトゥーラは才長けた女中や箱入り娘が自分の赤裸々な気持ちを早口で表現するための物ではなく、

理不尽な運命に翻弄される姫君が悲劇の余りに発狂する、その叫喚の様を表す為の手段となり、

同時にテノールという音域が、情熱的な英雄・王子様として、これまで以上にクローズアップされ、

陶酔的なアリアをもってそれら姫君の心を愛の名のもとに陥落させるようになるのです。

このような潮流の中ではブッファの出る幕などなくなるのは時間の問題。そしてそういったものの只中に産まれたこの作品は、

この矛盾する2つのキーワード、"ロマン派"と"ブッファ"という要素を併せ持つ、ウルトラC的な奇跡の作品だったりもするのです。

その為主役2人、ネモリーノとアディーナに要求される声の要素は多岐に渡り、最早ブッファの類型の枠を逸脱しております。

ネモリーノにはロマン派テノールのスタイルとしての端正さと情熱性、役のイメージとしてのナイーヴさ、

そしてブッファのテノールとしての明るいイタリアチックな声の力を高水準で兼ね備える事を必要とされ、

対するアディーナもスーブレット(コロラトゥーラの技巧を必要とする軽い女中役)の硬質な才気と、

ロマン派的かつ女性的なリリカルさ、まろやかな響きを同時に追い求めないといけなくなるのです。

更に与えられるアリアもブッファをベースにロマン派志向の物が入り混じります。特に有名な2幕の『人知れぬ涙』は、

どことなく哀切で幻想的なメロディーの、これまでのブッファでは明らかに見られなかった曲です。

どことなくベッリーニの『夢遊病の女』などにも繋がるような、農村を舞台にした牧歌劇仕立てのシナリオも、

18世紀的な都市生活や、宮廷・貴族社会を主に舞台にしてきたこれまでのブッファとは一線を画すもので、

ここにはさらに"アルカディアの希求"といった、別のロマン派ならではのキーワードが出てきます。

もうここまで来ると、一概にブッファと言い切れなくなる位、定型の破壊は進んでしまっていますが、

だからかなあ、フツーのブッファよりもこっちの方が数段耳に馴染みやすく、面白いと感じてしまうんですよねえ。

特にネモリーノが大好きで、実はオペラのテノールのロールの中で一番萌えるんですこの子が!!!

あーゆーオツムゆるゆるで純粋そうなヘタレ君って、かわえくないっすか?

自ジャンルのカプの攻の子が調度こーゆー性格で…ってそれはさておき…でも(;´Д`)ハアハア

他の萌えキャラ、トリスタンやシェニエも確かにステキなんやけど、こーゆーカンジの萌えとはまた違うんよなあ…。


今聴いてるのはNAXOSから出てるアントニチェッリ指揮の49年メトライヴです。手元のディスコグラフィーでは、

この作品の一番古い全曲録音となっております(こればっかりやアタイのCD棚。所詮ヒスヲタ)。

が、ここでのタリアヴィーニのネモリーノとバッカローニのドゥルカマーラが素晴らしい!

前者の、前述の3つの要素を完璧に満たした、ネモリーノそのものといった風情の歌い口、

後者のやりたい放題自由自在の語り歌いの巧みさ・快活さは空前絶後クラスです。

やや類型的に過ぎ、古色蒼然と言った感の否めない所が物足りないサヤンのアディーナや、

歌いまわしの鈍重さが鼻につき、伊達男の端麗さが歌から現われてこないヴァルデンゴのベルコーレと、

失点はあるのですが、それを補って余りある前者2人の大活躍!言う事ないです。これだけで。


…さて、一段落付いたしお掃除でもしよ…。



題は『のんきなくれえんさん』でどや? : 『バートン・クレーン作品集』

2006年03月11日 16時04分05秒 | 音楽鑑賞のーと

昨日はひょんな事から、いつもは出来ない居残り仕事。

工程管理用の記録書についての事務のオバハンへの問い合わせ待ちをしながら資料探し。

その間更にこちらの項でとりあげた上司に、仕事上の悩み相談などをしつつ。

これで根本的な解決になるかどうかは何とも言えんトコやけど、だ~いぶすっきりしたわあ。

今晩飲みにいくのようすす。酒なんて金かかるモン人に寄生せな飲めたもんじゃねえし。


それに前回の記事のコメント欄でも書きましたとおり、最近そんなウトゥなあたくしの元に、

ステキなサルヴァトーレ様が表れましたのよ。その名もバートン・クレーン!

トラバしてるピカリン氏の記事を読んで、電話越しでちみっと聴かせてもろてからかなり気になってまして、

密林で注文して一昨日届いたんですが…これ良過ぎやわ。もう朝起きてから夜寝る前までエンドレスで聴いてます。

アコースティックな音のせいもあって耳にものすご据わりが良くて、黙って聴いてるだけでα波ダダ漏れ。

ええ意味でポンコツなオケに出来のいい新聞四コマの中の世界のよなヤヴァイ位ナンセンスなリリック、

唱歌とジャズが絶妙のバランスで融合したかのよな語調と歯切れのいいメロディーライン、

そして何より歌ってる"くれえんさん"(CDの中での呼ばれ方的に平仮名の方がしっくり)の、

何とも言えん歌うスタンスののんきなC調具合が素晴らしいです。てゆーか聴いててアタイ、

こんな"和風ジャズ"バリバリな歌い方のくれえんさんの正体は実は日本人じゃないんかいなと思わず疑いを…。

アメ公の感覚じゃねえ。でもあちゃらのしとが唱歌を歌ったらこんなカンジになるんかなあ?

流暢だけど所々混じる子音の怪しさとか長音節への不適応感とかがいかにも、

正体不明の怪しいガイジンってカンジでステキやし。そんなくれえんさんの明るくのんびりとした日本散歩ってノリが、

どの曲からも漂ってきてて聴いててこっちまで気持ちが明るく晴れやかになりますです。


このCD買う決定的な決め手になったんは、8番目に収録されてる『コンスタンチノープル』っつー曲。

このCDについての情報を集めようとぐぐって調べてたら、"カールトン作曲"とあり、

ピカリン氏によるとアルファベットで"C-O-N-S-T-A-N-T-I-N-O-P-L-E"って読ます所があり…


これやっぱし『おお寶塚』(敢えて旧字体)の原曲やんけ!


『おお寶塚』っつーのは、あの『すみれの花咲く頃』を作詞(原曲はフランツ・デーレ作曲の『白いフリーダの花の咲く頃』)した、

ヅカの大功労者の一人白井鐡造センセの作詞による、ヅカマンセーソングの中のヅカマンセーソングです

(実はこの2つ両方、白井センセ演出の名作『パリゼット』の中のナンバーです。どんだけ濃い作品やったんや…)。

ぶっちゃけこんな歌(あのCD持ってる非ヅカヲタの方は、『コンスタンチノープル』のメロディーでお歌い下さい)。



小さな湯の町宝塚に 生まれたその昔は
知る人もなき少女歌劇 それが今では
青い袴と共に 誰でも皆知ってる

おお宝塚 T-A-K-A-R-A-Z-U-K-A
おお宝塚 我が憧れの美の郷
幼き日の甘き夢の国 歌の思い出も懐かしき
おお宝塚 T-A-K-A-R-A-Z-U-K-A



こんな歌を臆面もなく自分トコの作品内で採り上げて自画自賛するヅカってのも、

ええ加減恐ろしいトコですが(多いですよこんな曲。山のようにあります。詳しくはこちらをご覧下さい)、この曲のイメージから想像するに、

『コンスタンチノープル』っつーのもいちいちアヤ・ソフィアやらシュレイマニエ・モスクやらトゥプカピ・サライやら、

コンスタンチノープルの名所旧跡をご紹介しつつ賛美してしまいましょうとかってノリの曲かと思えば…



英語の学問致しましょう 皆さんお出でなさい
太郎は一番の阿呆ですよ ABCも解らない
先生は太郎を呼んで 問題を出しました

コンスタンチノープル C-O-N-S-T-A-N-T-I-N-O-P-L-E
コンスタンチノープル どう綴るかやって御覧なさい
C-O-N-S-T-A-N-T-I-N-O-P-L-E サアサ一緒に歌ってみましょう
コンスタンチノープル C-O-N-S-T-A-N-T-I-N-O-P-L-E




ちょwwwwwwwおまwwwwwww



なんじゃこのリリックはあ(あのCD持ってないヅカヲタの方は『おお寶塚』のメロディーでお歌い下さい)(゜Д゜)!!

抜けてるースゲエ抜けてるーwww特に"太郎は一番の阿呆ですよ"っつー所がなんか (・∀・)イイ!!

しかも原語のリリックもこんな風に先生が生徒に綴方を教えるっつーノリのもんなんですと。

これがあんなあから様なヅカマンセーソングに化けるなんて…白井センセ…おそろしい子!!!


一例として↑を挙げてみましたが、他にもこういった奇想天外なナンセンスソングばっかなんですよ。

特に好きなんが『ニッポン娘さん』(大阪を小さいから見逃すくれえんさん。締め方もかわええ)、

天野喜久代嬢との小芝居付きの『夜中の銀ブラ』(お葬式の様子がサイケでウケる。くれえんさんの飄々とした受け答えがアゲ)、

ファム・ファタル賛美ソング『雪ちゃんは魔物だ』(話の完成度が素晴らしい。オトナの童話ね)、

ブルースの女王・淡谷"たいした、たまげた"のり子様とのデュエット『よういわんわ』

(くれえんさん例が突飛過ぎ。クジラてあーた…淡谷様の声プリチー。チャールストン風の曲の締めが好き)、

ラストの『バナナは如何』(ラヂオキャスターなくれえんさん。放送を投げてる姿勢が清々しいです。バナナ一山五十円の時代なのね…)。

あと『威張って歩け』は、今の自分の気分にダイレクトにハマりました!

マーチ調のメロディーに脱力系ポジティブな歌詞(脱力系ってトコがミソ)。スローガンにしたい位。

借金は二度とゴメンですけどねえ。

全体的に単純な割りにセンス溢れるドラマの浮き上がり易いメロディーやリリックのものばかりで、

流石コミックソングの原点と言われるだけのことはあります。いっその事これを編集して、

くれえんさんを主人公にしたストーリー仕立てのボードヴィル・ショウでも作ってどっかで演ってホスィ位です。

なんて事ないくれえんさんの東京での一日を物語として構成して、ヒロインもホスィなあ。

淡谷様をモデルにした、言動身なり全てモダーンやけど芯の所で意外に古風な内面を持った美人さん。

別に恋仲にならんでもええから。ただでもくれえんさん、演れる人がいるかどうか…(´・ω・`)


でも、これ聴いてて…そういったナンセンスさ、へっぽこさの奥にある粋とエレガントの気風に、

あたしゃかなり羨ましさも感じたりもしますねえ。今の日本の音楽シーンじゃ無くなってしまったもの。

世界中探してもあるかどうか。今日本じゃスローライフやスローフードなんかの流行と共に、

スローミュージックってのも提唱されてるようですが(どうもこの手のムーブメントはサヨ臭くて嫌いだけど)、

環境音楽や民族音楽、ヒーリングミュージックばっかじゃなく、こういった戦前日本の粋とエレガントにも、

目を向けてホスィなあなんて思った次第です。青い鳥じゃあないけど、本当に大切なものは、

結構すぐ近くにあるもんなんだなあと、これ聴いて少しだけハッとさせられました。



お嬢さん、お豆腐ですよお豆腐(もんた風に)!! : オペラ『マノン・レスコー』

2006年03月05日 15時06分41秒 | 音楽鑑賞のーと

流石にサボり過ぎました。愛読者の方(思い込みケテーイ)申し訳無いです。

特に仕事が忙しい訳でもないのに、なんか書く意欲が沸かなくて。ネタ切れなのかもねえ。

まあでも元々ネタの有無に拘らず、てめえの為に書くことのみを主たる目的に始めたブログですもの。

これからものんびりおっとりゆんゆんにやっていきませう。ああ何て自分勝手な言い聞かせ…(´・ω・`)


文章書きの意欲に乏しくなっている割にはダイエットの方は順調なんですけどねえ。

昨日は一日粗食で過ごしましたです。口にしたものといえば、朝(10時頃やけど)にご飯茶碗一杯と味噌汁一杯に豆腐一丁。

3時頃に間食でダイエットビスケット6枚に魚肉ソーセージ(細)一本と、砂糖を入れずに豆乳で作ったココアを、

大き目のマグカップに一杯ほど。夕食を少し早め(5時半頃)に頂き、今度は同じくご飯茶碗一杯と味噌汁一杯に、

豆腐を半丁に減らして替わりに魚肉ソーセージ(細)一本。夜11時位にダイエットビスケット6枚とヨーグルト一個食った位か。

夜9時過ぎてから腹に物を入れたのがちょっとヤヴァい位で、今年で一番の粗食です。少し頑張りました。

何より豆腐の腹持ちの良さに助けられた感が強いですねえ。安い上に量もあって、これは良いものだ。

そういえば前回の大ダイエット時にも豆腐にはとにかく助けられましたものねえ…基本に戻る事も大切って事か。

んでしかも部屋の掃除やって2回に分けての大洗濯もやって、その上朝食で尽きた味噌汁も、

夕食前にキチンと鍋一杯作ったし、髪も切りに行ったし、休みなのにいつもよりテキパキ動いてました(`・ω・´) シャキーン


しかも夜8時位に、家から片道6km程の所にある海浜公園内の温泉に、歩いて出かけて行きました。

地図で一応場所は確認したのですがまさかここまで遠いとは思わず、目的の建物かと思ったらラブホだったり、

最後にゃ蜃気楼に悩まされつつ砂漠を旅するキャラバン状態で散々の態でたどり着きました…ら、

既に閉館まであと40分程っつー有様で、湯にゆっくり浸かる暇もサウナで思いっきり汗を流す余裕も無く、

閉館15分位前から容赦なく流れ出す『蛍の光』に追われるように館内を後に致しました。チキショー(゜Д゜#)!!

オマケに8年も四国は某熟田津の地に住んぢょりましたアタイ、並みのスパリゾートでは満足でける筈も無く…

浴場内は思ったより狭かったし、風呂の内容も乏しく、バイブラバスやジェット風呂の湯の勢いが、

なんかヌルかったのにガカーリ。手すりに捕まってないと問答無用で体が浮いて飛ばされる位やないと…。

サウナもねえ…ここのウリはトロン浴素を使った50℃位の低温サウナやそうですが…温度低っ!!!

マジ50℃もないやろゆーような室内。服さえ着んかったら一日中でも過ごせそうなヌルい空気。

座ってて汗はでるけどじんわりってカンジやし、何より体が温まらない。サウナちゅーもんは、

やっぱもっと頭の中が沸騰しそうな位熱くないと入ってる意味が無いような気がするんで、

こーゆーんはアタイパスやわ。全体的に500円でこれなら長時間いるんだったらまあそこそこには、

楽しめるような気はするものの…こんな遠いんやったらもう行く事はないでしょう。せめて近所にあれば…orz

ああ、JRの駅前に平気で西日本最大級のスーパー銭湯のあるM山がなつかすぃ…。・゜・( ノД`)・゜・。

オマケにボウリング場とパチ屋とカラオケボックスと雀荘とゲーセンとマクドまでセットなのよう、そこ。

当時住んでたトコから徒歩10分位の所にあったから、よく行ってますた。あそこはえがっだ…。

なんかこんな事書いてたら行きたくなってきたなあ。それだけの為に行くのもなんかシャクやけど。


まあでもお陰様で、あと1kg程度で人生で一番痩せていた時期(23歳前後)に戻れますわ。

ちなみに人生で一番太っていた時期は大学入試前後で、この時から換算すると余裕で20kgは痩せてます

あの頃の写真(卒業写真とか)見てると、本人の目からしてもどこの北朝鮮の高官かいなと驚くばかり。

何とかもう一頑張りして、まずは身長-(体重+100)≧0を目指すわ…。


話は変わって本日お供にしとります曲は、オペラ『マノン』のプッチーニの方の作品で御座います。

『マノン』っつえばマスネの作曲したもう一つの名作オペラが御座いますが、アタイは断然コッチ派。

元々ヴェリズモ作品と肌が合う耳ってのも理由の一つなんですが、マスネの作品のリリカルなアンニュイさ、

脆い夢のような味わいが、巧みではあるもののどうもこの作品を表現するには十全とは言えん気がしまして。

プッチーニの方では、そういったリリシズムは後退しており、特に1幕と2幕前半は話的にも弱い上、

原作全体から通してみればシナリオのブツ切り感がどうにも拭えず、違和感も出てくる所なんですが…

フルスロットルで身を持ち崩してゆくマノンとデ・グリューの感情表現がとにかくリアルでインパクトが強く、

2幕のこの2人の2重唱以降俄然精彩を帯びてゆくドラマは、ひたすら鬱々とした良い意味での棘があり、

絶望に満ちた明日無き道行きの情景が活写されております。取り分け3幕の間奏曲と、そのフィナーレに設けられた、

囚人点呼の大コンチェルタートと更にそれに続くデ・グリューの短いアリアの音楽的な出来は素晴らしく、

この部分だけでもマスネの方よりもどうしても評価が上になってしまうんですよねえ。

今聴いてるのはヴェルニッツィ指揮65年アムスでの放送録音です。『トゥーランドット』の項でもご紹介した、

マグダ・オリヴェーロ様がタイトルロールを演ってます。これがまた絶品でねえ…。縮緬声の悪声なんですが、

ポルタメントを多用し音の緩急強弱の輪郭が非常にハッキリした的確かつ自在な体当たりの歌い回しが、

何とも腹にしみます。2幕のデ・グリューとの2重唱の、非常に息の長い『Non m'ami piu?』という一句、

そして4幕大詰めのアリアの『Tutto e'finita!』と地声で吐き捨てるように叫ぶ一声といった、

キメの一声の誦し方が神レベルの上手さなんですよねえ。マスネの方が大好きな某氏に聴かせたら、

「(゜Д゜) ハア?変な声。ドップラー効果?」と一笑に伏されてしまいましたが、あれは電話越しだったからよね…?


まあこの曲についてもその内折を見つけてダラダラダラと語って行きたいものではありますわあ。

最近原作読んでないから久々に読み返さないといけないわねえ…ただ過去のトラウマ抉られまくりの話やから、

そーとー心の強い時や無いとなかなか読めんのがなあ…話自体は好きなんやけど…(´A`)

オペラでタイムリーな話題が書けるって珍しいねえ… : オペラ『トゥーランドット』

2006年02月24日 23時59分10秒 | 音楽鑑賞のーと

荒川静香嬢が金メダルとったそうですね。あたしゃ職場の同僚に聞いて初めて知りましたよ。

とにかく今回のトリノオリンピックはメダルがとれないったらありゃしないってカンジで、しかもこんなことなんぞもあって、

なんかヒジョーにムカついてもうトリノの話題は自分の周囲から完全にシャットアウトじゃヽ(`Д´)ノウワアアン!!と思っていた矢先…


キタワァー.*:.。.:*・゜(n‘∀‘)η゜・*:.。.:*!!


えがっだねえ、マジでえがっだ…。開催直前にマオたん出場問題ですったもんだあって、メダル有力でありながらも、

なんか色々と暗雲が立ち込めておりましたが、終わりよければ全てよしとはこの事でしょうなあ。

しっかし、静香嬢ですかあ…。こりゃ今年は老け顔が来るな…と、勝手に予想を立ててみるあてくし。


さて、その荒川嬢が今回の本番のフリーの演技で使用した曲っつーのが、プッチーニの絶筆作品となりました、

『トゥーランドット』(勿論全曲じゃないけど)です。ホントはもっと夏向きの作品なカンジもするんですが

(『アイーダ』と並ぶアレーナ・ディ・ヴェローナの定番レパやし)、ま、タイムリーなんで、ちみっと語ってみよかな。

舞台は遠い昔(まあ大抵衣裳やセットの様子のイメージ的には、明の万暦時代が一番近いような気がしますが)の北京。


王女トゥーランドットは絶世の美女であるものの冷酷で残忍。その美貌ゆえ様々な公達が求婚をしてくるが、

彼女はそれら公達に「わらわと結婚したいのならこの謎を解いてみやれ」とばかりに難解な謎をかけ、

解けないとみるやさっさと首をはねる始末。今日も今日とて城門の前でペルシアの王子が公開処刑にかけられる事に。

その場に偶然行き当たったのが今や祖国を喪い流浪の身である、元タタールの王子カラフ。

彼もまた高楼で処刑の様子の高みの見物を決め込むトゥーランドットの花のかんばせの虜となり、

父ティムールや、カラフにひそかに思いを寄せる元家奴のリューとの再会の喜びもそこそこに、

ドラを鳴らして姫への新たな求婚者に名乗りを上げる。見事姫の3つの謎全てを答え上げるカラフ。

尚も悪あがきの態の姫に、今度は自分の方から謎をかけ返す。問いは身を隠して放浪を続ける彼自身の名前。

日の出までに答えられればカラフの首が飛び、答えられねば今度こそトゥーランドットはカラフのものに…。

トゥーランドットは都中の者に寝ずに問いの答えを考える事を求め、配下のピン・ポン・パンを、

カラフに近づけ財宝や美女で誘惑して口を割らせようとするが適わず、ついにはリューを責め立て、

名前を吐かせようとする。リューは責め苦に屈する前にトゥーランドットに自分の真情を訴え自害。

次第に動揺してゆくトゥーランドット。最後にはカラフの接吻により彼女の氷の心も融け、

彼の愛を受け入れる。夜明けが来て、トゥーランドットは皇帝の前で彼の名は"愛"と答え、

民衆の喝采に包まれて二人は終に結ばれるのであった…。


何の事やらよーわーらん話ですが、よーするにこれ、おとぎ話的な要素のかなり強い話なんですよねえ。

カルロ・ゴッツィの書いた原作戯曲自体、『パリアッチ』の項でとりあげたイタリアの古典的な道化芝居、

コンメディア・デラルテの要素を多く採り入れた全くの寓話劇なわけで、プッチーニはさらにそれから登場人物を刈り込み、

寓意的なモティーフを最大限に活かして筋を単純化させ、上記のような形の物語にあいなったわけです。

青白い月、氷の美貌、陵辱された祖先の王女ロウリン、三つの問いの答え"希望・血潮・トゥーランドット"、

そして接吻・初めての涙…これら作中に散りばめられたキーワードの意味するものとして連想されるものは、

"処女性の神秘とその喪失"、もしくは"女が女として目覚める事の意味"辺りなんでしょうかねえ?

かなりベタではあるんですが…。何故か聖書の昔から、処女というものは崇拝される対象であると共に、

男の頭では計り知れない冷酷さを持った恐怖の存在として描かれる事が多かったりしますけど、

これってなしてなんでしょうか?処女の人間的な不完全性をあげつらった女性蔑視と言ってしまえば、

それまでなのかも知れないけれど…まあそうやってあれこれ考えるよりも、彼女のぶっ飛んだ宇宙的な感覚に、

脳みそをシェイキングされて軽いトリップ感を味わってしまうんですが。また実際歌い演じてる人が、

イタオペでは普通考えられへんよーな超ドラマティコな歌手が多いんで、そーゆー意味でも耳から脳に過剰な刺激が…。

だからか当然お相手のカラフさんの方でも、そーいった宇宙的なトゥーランドットさんを余すところ無く受け入れられる、

キティ…ごほげふ…広~い懐デム…ごほげふ…熱~い情熱を示さんとあかんくなる訳なんですなあ。

一幕でチラッと遠くから、大抵はベールやら仮面やらに包まれたトゥーランドットさんを拝見しただけでもう、

「ワスあなたしか目に入らん、他の女の人しらん」な状態になってしまうわ、接吻一つでトゥーランドットさんの、

人間を超越した意識の次元をフツーの女性の感覚にまで一瞬のうちに引き下げておしまいになるわ、

ぱっぱらぱあのクセにエスパーの如き特殊能力を至る所で発揮する物凄い男はんです。

このパンピーの意識の範疇とはかけ離れた2人が、この話の寓意的な部分の殆どを担っている訳なんですが、

この意識次元のカッ飛んだ両者、さらには両者と観る側の感覚をうま~くとりもっているのがリューだったり。

思慮深く、血の通った温かみのある女性的な見識をもって、2台の暴走機関車を背後から牽引する、

いかにもプッチーニ的なリリシズムの世界を背負った女性であります。実際プッチーニ自身もこの役に、

最も強い思い入れがあったようで(彼の愛したメイドのドーリアがモデルであると言われております)、

この2人の浮世離れした謎かけ対決が、彼女の死を賭した仲介によって初めて人間的な愛の告白に繋がるわけです。

ある意味トゥーランドットよりも重要な、裏ヒロインとして以上の重みのある役柄でしょうね。


てな訳でこの3者の水準の高い録音・映像が、先ずこれを聴くに当たっては選ばれる訳ですが、アタイ的に特筆したいのは3つ。


最初に挙げるのはNAXOSから出てるギオーネ指揮RAIトリノ放送録音。36年収録とこの作品の録音中、

最も古いものなんですが、何より珍しいオリジナル・イタリア(産まれはフランスやけど)のトゥーランドットである、

ジーナ・チーニャが素晴らしい!声の鋭さは後述のニルソン姐さんに若干譲るものの、そのサーチライトのように伸びのある、

高音のスケールはピカイチです!加えてリューの死以降の女性的な表現の必要とされる箇所も、

やわらかさと温かみの感じられる中音域の響きでクリア。最初から最後まで穴がありません。

フランチェスコ・メルリのカラフも重い声ながらもフットワークがあり、逞しい高音は聴きもの。

2幕の"謎解きの場"のクライマックスで高い方のメロディーを歌わさせてもらってないのが残念ですが

(出ん筈がないのに何故?)、それでも高水準なのには変わりなし。更には演技力抜群のまだデビュー間もない、

マグダ・オリヴェーロ様(大ファンです)のリューがこれに加わります。声は決して美声ではないですが、

3幕の死の場面の哀切極まりない絶唱が素晴らしいです。古いからって敬遠しては勿体無い超名盤です!


お次はストコフスキー指揮の61年メトライヴ。あのパラマウントの大立者、セシル・B・デミルの演出だったそうですが、

残念ながら録音しかないようです。しかしながらニルソン姐さん&コレッリ兄貴の火花散る大決戦は、

耳だけでも充分満足できる事請け合い!絵に描いたような"氷の美声"を波動砲の如く響き渡らせる、

ニルソン姐さんのトゥーランドット。対するコレッリ兄貴の粘度の高い熱のこもった高音の響きのカラフ。

"謎解きの場"の迫力でこの盤に敵うものはそうそうないです。アンナ・モッフォ姐さんの冷静な大人のリューも、

この盤のええアクセント。しっかしこの盤、オペラ界でも屈指の美貌のモッフォ姐さんが見向きもされず、

熊殺し的容貌のニルソン姐さんにカラフはお熱なんですよねえ…実際の舞台、どんなんやったんやろ( ´,_ゝ`)プッ


幾らなんでももっと新しいのんはねーのか(゜Д゜#)ゴルァ!! って向きの方には、DECCAのメータ盤なんかいかが?

音質は極上。サザランドのトゥーランドットは声の響きはマイルドですがスケールはなかなか。

発音の曖昧さがここではええ方に活きて、底知れぬ不気味さを醸し出してます。カラフを演じるのは、

例のトリノオリンピックの開会式で『誰も寝てはならぬ』を歌ったパヴァロッティ。実際役柄からすると、

やや声は軽めなんですが、まだ若かった頃なだけに高音の響きは確か。薄味でとっつき易くはあります。

特筆すべきはモンセラ・カバリエおばのリュー!あの極上のピアニッシモの美しさが、ここでは最大限に活きてます。

1幕のアリア、『Signore ascolta!』の締めだけでももう聴いてる方は夢心地。これだけの為に買っても惜しくは無いです。


他にも色々名盤はあるんで(名盤の振りした駄盤もあるけど…DGのK盤とか…)、まあご参考までに。

それにしてもこんなダラダラ書いた割にはあんまり聴けてねえなあ…orz



ミュージカル版『だめんず・うぉ~か~』 : ミュージカル『スウィート・チャリティ』

2006年02月22日 23時37分29秒 | 音楽鑑賞のーと

先週末にゆわした腰がまた痛み出して、暫く更新お休みしちょりました。すみません。

2週間前から始めたチョコレートダイエット、そこそこ好調ではあります。

明らかに間食する量が減りましたし、心なしか胃が小さくなったような気がしますです

(元々気合が入ってないときはそんな食わんのんですが、"別腹"が異様に大きくて…orz)。

体重を量ってみたら、1.5kg程痩せておりました。結構嬉しかった小市民なあてくし。

でもまあこっからですわ。それとなく意気込みの発露を形にしようとExcelで体重等の増減表を作ってみたり。

どうやら5月頭にはまたまとまり杉な位まとまった休みがありそうなんで、その時に大阪にでも行こうかなって、

考えてたりしておりますです。予定は未定ですが。その時に流石に見苦しいあんなんやこんなんなままじゃあ、

あかん思いますんでねえ。少しは…ねえ。これもおんなごころよう…うすす。

まあ心当たりな方には首洗って待っとってもらうとして…。


んで今日は、ドラクエしながら『スウィート・チャリティ』のオリキャス盤のCDなんぞを聴いてました。

丁度ネタフリのような文章があちらにありましたしねえ…なんか書きたくなっちゃってこれについて。

ドラクエは止めましたが(だってクリアしたし)、『スィチャリ』はまだかかっております。

ご存知フォッシーたん演出、このしとの姉さんニョーボ(でも3人目)のグウェン・ヴァードンたん主演で、

フェデリコ・フェリーニの名作『カビリアの夜』を下敷きに、戦後アメリカ最高ののコメディー作家の一人、

ニール・サイモンの脚本と、『スウィング・タイム』や『アニーよ銃をとれ』で知られる戦前からの大ベテラン、

ドロシー・フィールズの詞に、本作の他にも『バーナム』やら『シティ・オブ・エンジェルス』なんぞで知られてる、

サイ・コールマンの曲。映画の方では今度はシャーリー・マクレーンたんが主役をやってたり…っつー、

なんとも豪華っちゅーかものものしい布陣で作られた作品なんですが、とにかく底抜けに明るく楽しく…

それだけやなく、人生の苦さのようなものまで内包した、愛すべき名作でございますのよ。

特に主役であるチャリティたんがもう魅力的で魅力的で…。パチモン臭い赤毛にペナペナのタイトなミニスカート、

網タイツにスリッパと見まごうハイヒール、安っぽいハンドバックに紐を結びつけてビンボ臭くショルダーバッグ風に肩に提げ、

その肩にはガラの悪い船乗りのにーちゃんさながらの彼氏への操立てのハートマークの刺青というとんでもない格好。

それにも相まって、その"チャリティ・ホープ・バレンタイン"っつー名前に恥じないその"だめんず・うぉ~か~"振りに、

もう目が離せません!始まっていきなり、その刺青の操立ての相手であるチャーリーに騙され、

下ろし立ての貯金を持ち逃げされた挙句川に突き落とされるチャリティたんΣ(T□T)ガーン

他にも恋人とケンカした映画スターのヴィットリオ(映画版のこのしとはリカルド・モンタルバン…らしい。

劣化し杉や(゜Д゜#)ゴルァ!! )に口説かれるも恋人が戻ってくるとロッカーに押し込められた挙句お払い箱になったり、

保険関係のお仕事をやってらっさるオスカーとのエレベーターでの運命の出逢いも、上手く行くかと思いきや…

チャリティたんの職場で催された結婚式での乱痴気騒ぎで自分との住む世界の違いを認識されてもーて、

職まで捨てて身一つで彼の奥さんになろうとまでしているチャリティたんは哀れ婚姻届提出のその場で振られ…

と、あまりにもあんまりな男遍歴がこの作品の中で繰り広げられて行く訳です。聞くも涙語るも涙…。・゜・( ノД`)・゜・。ウワアアン!!

でもチャリティたん、とにかく明るく健気。あっけらかんといっつも陽気。振られたその時は、

もう端で見てても痛々しい位落ち込んで泣いてたりするけど、何かのきっかけですぐに元の自分を取り戻して、

その明るく逞しい笑顔を見せてくれるんです。その落ち込み→立ち直りの落差の激しさがまたテラモエス。

オリキャスのグウェンたんも、映画版のマクレーンたんも、もっとゆーと元になった『カビリアの夜』の主演の、

ジュリエッタ・マシーナたんも、みんな決して美人とは言えへん顔なんやけど、笑った顔が、

三者三様にみんな可愛らしい (・∀・)イイ!!笑顔なんよなあ。それこそチャリティたんのチャリティたんである所以っつーか。

だってもう、憧れの映画スターとお近づきになれた事がとにかく嬉しくてその余り家の調度で散々遊んじゃう、

『If My Friends Could See Me Now』とか、完全に自分の事が理解され、オマケにプロポーズまでしてもらえた嬉しさで、

ニューヨーク中をブンチャカ言わせて歌い踊っちゃう勢いの『I'm A Brass Band』とか…体中で嬉しさ表現してるもんねえ。

でもそれが程なくぬか喜びで終わってしまう所がもう…映画版の『I'm A Brass Band』、締めの部分で、

どんどんバンドの音が遠ざかっていく中を、マクレーンたん扮するチャリティたんが小躍りしながら、

通りの奥に消えていくんですよ…。そのウキウキした後姿が…却ってとっても切なくてねえ…(´A`)

その健気なかわええ女な所が、きっと男にとっては"都合のいい女"に見られるんだろうなあ。

とにかく好きになった男には尽くすし、自分が男に不釣合いやと思ったらキチンと身を引くし、

遊ばれたって結局は文句も言わなきゃ金品だって要求しない。思い出だけで幸せってタイプ。

ピュアでナイーブなんは悪い事じゃあないけど、もうちょっと自分を大事にしなきゃって思う時も観ててままあり。

身一つで生き馬の目を抜くニューヨークに生きてきた割には、余りに生き方が不器用で、純粋なんよなあ…。

すっげえ不遜な事言わせてもろたら…なんかすげえ、自分に似てるなあって…ごめんなさい(´・ω・`)


正直自分もだめんずうぉ~か~度には自信がありまして(;^ω^A…結構色々ありましたのよ。

今までで一番ヤヴァかったのは空き巣の常習犯と(勿論知らずに)同棲したことかなあ…もう6年位前の話やけど。

40前後やったけど田中健似のなかなかステキなしとで、飲み屋で知り合ってその日の内にヤる事やって、

お持ち帰りして…しばらく経って家掃除してて奥から高そうな焼き物の揃いが出てきて、

その飲み屋でママさんと話したらそれがそこの常連さんの家の家宝やっちゅー事が分かってさあ大変!

なんか怖くなってソッコー追い出して、後でそのママさんに話を聞いてみると、どうやら最近まで空き巣で捕まってて、

ムショ帰りで転がり込む先を物色してたらしいとの話があたいがその男を追い出してちょっとして、

判明したんですのよ…あのまま一緒に住んでたら何されてたか…((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル


まあ昔の話やからええんですけどね(ええんかい!)。そんなこんなあったもんで、ついつい余計な感情移入して、

観てしまうんですよこれ。あたいももっと男に狡すっ辛かったら、騙されずに済んだのかすぃらとか…(´;ω;`)

まあそれでも強く生きてるから今のあたいがいるんですけどね(゜Д゜)!!


それにしてもグウェンたんの歌声、ええわあ。チャニングおば程やないにしてもこの人も悪声なんやけど、

そのハスキーでちょっとチープな場末臭い響きが、なんかすげえ臨場感あるの。歌の表情も多彩やし。

特にファンダンゴ調の『Charity's Soliloquy』がお気に入り。セキララな心の歌よね。

なんか愚痴が混ざりましたが、あたいもチャリティたんに負けないように(?)頑張ってもっとええ女になるわ!


『There's Gotta Be Something Better Than This』よっ!!



ひさびさにオペラ。 : オペラ『パリアッチ(道化師)』

2006年02月18日 18時17分38秒 | 音楽鑑賞のーと

寒いねえ…陽はそこそこ差してるのに…。

遅いブランチ(サンマの塩焼きとご飯とやけに具沢山の味噌汁、デザートはリンゴ一個)を済ませて、

布団のシーツを洗濯して、落ち着いて一服しつつPCの前に向かってるいつもの週末主婦のアタイ。

よー考えたら最近ずっとミュージカルばっか聴いてたんで、たまにはオペラも全曲通しで聴かんと…。

軽く耳のリハビリのつもりで短めのもの、『パリアッチ』なぞにしようかねえ。

…ってな所で今丁度聴きつつ書き込んでおりますのよ。


レオンカヴァッロ作曲による19世紀末から20世紀初頭のイタリア・オペラのメインの潮流だったヴェリズモ(現実主義)系作品の、

狭義的な矯矢にして最高傑作といわれる作品であります。1時間10分強程の、オペラにしちゃ短めの作品ですが、

話の筋立ては一切の無駄を省いたシンプルかつ濃厚なもので、独特のフレキシブルな和声によるコーラスの裁き方等、

ヴェリズモ系作曲家の傾向を、最もハッキリとした形で捉える事の出来る名作であります。

個人的には同傾向のマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』と比べると叙情的な場面の押しが弱く、

『衣裳をつけろ』や終幕の修羅場等、ピンポイント的な聴かせどころの印象が際立って強い為

(最初と真ん中と最後だけ集中して聴いときゃええなんてゆー暴言を言う人もいる位ですしねえ…)、

全体的な曲のバランスといった点でやや不満が残る点がありますが、それだけ劇的な部分のドラマの密度が、

際立って濃いということの裏返しでもあるので、一概に劣るとは言い切れない部分でもあります。


何よりシナリオがねえ…ええ意味でも悪い意味でもイタリアチックで、多血質でギラギラとした陰惨さが漂うんですよ。

旅回りのコンメディア・デラルテ(イタリアの古典的道化芝居)の一座の間の痴情沙汰が、殺人劇に発展するという、

ヴェリズモならではのお話。加害者は主役であり一座のお頭のカニオ。被害者はその妻で一応ヒロインのネッダ。

ネッダはカニオの妻である事に嫌気が差していました。男好きのする女で、座員であるせむしのトニオにも、

しつこく言い寄られており、それがまた我慢ならない癪の種。巡業先のある村で、ネッダは村の男シルヴィオと恋に落ちます。

しかしそれを自分のプロポーズに答えてくれない事に腹を立てたトニオが、カニオにばらしてしまいます。

逢引きの現場を押さえるカニオ。シルヴィオに逃げられた為、復讐は夜の芝居の舞台に持ち越され、そして…


こうやって骨子だけ取り出して文章にすると、非常にゲスくて単純で野暮ったい話なんですがねえ…

一番自分が感じたのは、この道化芝居の一座の、救いようの無い閉鎖性ですね。

旅回りの一座って、この曲を聴くまでは地域のぼっちゃんじょーちゃんとふれあったりなんかしたりして、

もっと解放的な人生を送る人たちの集まりのようなもんなんかなあと、これを聴くまでは思ってたのですが、

考えてみればそんな刹那の出逢いなんて繰り返せば繰り返す程に記憶に残る物などではなく、

いつも同じメンバーで顔を付き合わせるのが現実。そしてそれが本作でのそれのように、どっか心や体に、

著しい欠損を持った者の集まりだったとしたら一体どんな心地がするものでしょう?

一座の頭のカニオは、暴君とも言える絶対的な権力をもって、これに君臨しております。何かと言えば暴力と恫喝の野卑な男。

どうもこのオッサンの恋愛観には、多分にコレクター的過度の独占欲とマッチョ的マゾヒズムが同居していて、

かなり屈折した目でネッダをがんじがらめにしている様が見て取れます。拾い上げた孤児の娘ネッダを、

自分の意のままの女になるように、まるで人形を愛玩するかのごとく育て上げ、いに染まぬ行動をとる事は、

決して許さない…。しかしその裏では、想像以上に美しく成長したネッダに対する肥大化した妄想が、

そのまま自分の老いを隠しえない惨めな姿と否応無く比較され、自分はこの女とは釣り合わないのではないかと、

劣等感に苛まれる。そしてそれを跳ね除けるかのように全てを虚勢で覆い隠して、必要以上の威圧的な態度をもって、

ネッダをはじめとする座員たちを支配していくわけなんですよねえ…。そりゃあネッダとしちゃ耐えられませんわ。

自我を否定され、愛する自由を奪われ、こんな陰鬱な醜い心の男との関係を強要されるわけですから。

そして違う方を向きゃ今度はグロテスクな執着心を肉体のグロテスクさにそのまま反映させたかのような、

"コブラのような男"トニオが、ネッダに執拗に迫ってくるのです。まるでフリークスの饗宴の如き中に、

このネッダという女は囲い込まれて日々を生きているわけなんですねえ…。そりゃあ逃れたいって普通。

不倫は確かにいけない事なんでしょうが(どの口が言うか的今更なカマトト風修辞)彼女の場合、

そもそもその前提となる結婚(してるのか?)自体が、理不尽かつ不可抗力的なものであったのだろうから、

"マトモな男とマトモな恋をして、マトモでない男たちの世界から自由になりたい"

…という思いを抱き行動するのは、ごく自然な事だとも考えられます。しかしその行為はどこまでも、

その"マトモでない男たち"のプライドをズタボロのギッタンギッタンに傷つけてしまい、

ひいてはこの旅回りの一座という"マトモでない男たち"の王国の歪な安寧を、著しく揺るがす事になるのです。

そしてその見返りが結局、あのやるせない終幕へと結びつくと…。


でもなあ…こうやってネッダの側を弁護しつつ文章をつらつらと書いていったみたわけですが、

そりゃあカニオはどっからどう見ても、肥大化したエゴと過剰な自意識、そして凶暴性を持った、

救いようの無い男な訳ですが、多かれ少なかれこうした欲求ってのは、男って持っているものでしょうし、

またこうした男をこうした男と知りながら黙って後を追う女というのも、この時代は多かったのでしょう。

更に言うとネッダでさえ、このような"マトモでない男たち"の魔の手から逃れる手段として、

他の男の情けに縋るという受動的なものしか選択し得なかったわけですし…。シルヴィオだって、

(キャラとしての描き込みが類型的で薄い分)存外男としての"マトモさ"といった部分を比べれば、

あの一座の"フリークスたち"と大差ないものだったりするかも知れませんしねえ…。

過去にはゴッビのように、トニオとシルヴィオ、両方の役を得意としていた歌い手さんもおりましたし。


カニオの方の苦悩だって、性格的な歪みの部分を除いてストレートに見ていけば、それなりに誰でも、

心の中に抱えているようなものですし。ただその苦悩のバックボーンにあるものの言いようの無い暗さが、

そのまんま『衣裳をつけろ』のあの黒々しい劇唱に繋がっていくんだとも考えられます。

そうした愛し方、そうやって振舞わなければ生きていけなかった今までの人生、

それを全て、自分が今まで掌中の珠のように可愛がってきた女に否定されてしまった今、自分は一体どうなってしまったのか…?

「Bah, sei tu forse un non?(ああ、それでもお前は人間か?)」という、

どこまでも自嘲的な自問は、苦悩も涙も隠しておどけなければいけない道化師としてのそれと共に、

最も恐れていた"寝取られ男"という立場に堕とされる事で、「王様は裸だ!」と全てを否定された男が、

結局たどり着いた痛々しい自虐の境地の吐露でもある訳なんですよねえ。

だからある意味、終幕のカニオによるネッダとシルヴィオへの舞台上での刃傷沙汰というのは、

こうした"否定された世界の裸の王様"の防衛本能から出た、相打ちを狙った最後の一撃ともとれるわけです。

結局どんなにあがいても、誰も出ることの出来ない、"一座"という世界で構築された不気味な檻のようなものが、

どんよりと頭の中に浮かんでくる、そんな作品だったりする訳です。


聴いてたのは一番スタンダードな名盤の一つである、DECCAのモリナーリ・プラデッリ盤です。

モナコ兄さんのカニオを聴く為の盤です。狂気一歩手前の苦悩の表現はライブ盤ほど強烈ではないですが、

強靭なスピントの声によるギラギラとした野卑さの放出感には、唸らされるものがありますねえ。

健康的な美声のトゥッチのネッダ。もう少し刺々しいカンジが歌に欲しいですが若さのミスマッチ感が良。

ネッダはもっとオバハン風に歌う人もいるんですけど、これも聴き手の受け取り方次第でしょう。

マックニールのトニオは声の力は強烈なものの、黒々しさに不足していて余り面白みの無い歌唱です。

『トニオの口上』が単に美声披露のアリアに終わってしまったかのような感があってやや残念。

モリナーリ・プラデッリの切れ味のいい指揮はいつもながら。ちょっと何振っても…感がある人ですが、

ここではドラマ的にも良く合ってます。何よりこの盤は他のDECCAのステレオ盤と比べても、

オケより歌の方がよく音が拾えてるのがええですなあ。ヴェリズモ・オペラ入門にはうってつけの盤ですね。


…よっしゃ久し振りに本格的にデムパな作品解説がでけたぞお!…って喜ぶトコやないがなorz